【初午詣の日】“お稲荷さん”の総本社・伏見稲荷大社のルーツとは(京都市伏見区)
本日2026年2月1日は、伏見稲荷大社の初午詣の日。和銅4(711)年2月初午の日に、稲荷山の三ヶ峰に稲荷大神が初めて鎮座したことにちなむ大祭です。初午の参拝は「福詣り」とも呼ばれ、商売繁昌、家内安全を願う方々が多く訪れます。全国の“お稲荷さん”の総本社・伏見稲荷の意外なルーツをご紹介します。この記事は、『京都古社に隠された歴史の謎』(古川順弘著、ウェッジ刊)から一部を抜粋したものです。

稲荷山の三峰が元宮
赤い鳥居と狐像がトレードマークの稲荷神社は、日本全国にくまなく鎮座する。その数は小祠や邸内社をも含めると数万にのぼるとも言われるが、これら「お稲荷さん」の総本社が、京都の伏見に鎮座する伏見稲荷大社(以下、伏見社)だ。

伏見社の祭神名は、歴史的にみると諸説があってはっきりしない面があるのだが、現在の祭神は、下社(本殿の中央座)が宇迦之御魂大神、中社(北座)が佐田彦大神、上社(南座)が大宮能売大神となっている。下社・中社・上社というのは本殿の背後にそびえる神奈備である稲荷山の三ノ峰・二ノ峰・一ノ峰に対応していて、言わばこれらの峰が元宮、麓の本殿が里宮である。標高の順で言えば一ノ峰=上社が筆頭に来るべきなのだが、逆になっているのは、三ノ峰=下社、二ノ峰=中社、一ノ峰=上社の順で祀られたからだという(『十五箇條口授伝之和解』)。
さらに本殿には、古くから下社摂社の田中大神と中社摂社の四大神が合祀されており、そのため現在の伏見社では、この2神に先の3神を加えたものを稲荷五社または稲荷大神と総称している。
これらの祭神は、記紀神話に登場する食物(穀霊)の神である宇迦之御魂神以外はあまりプロフィールがはっきりしない。摂社の2神はとくに不詳である。しかし『延喜式』「神名帳」は伏見社の祭神を3座としており、かなり古くから伏見社が3座で、「お山」とも呼ばれる稲荷山の3峰が神社の起源にかかわる重要な神蹟であったことは間違いない。
秦氏が登場する『山城国風土記』逸文の創祀縁起
伏見社の創祀にも、やはり渡来系氏族の秦氏が関わっていた。そのことを記すのは『山城国風土記』逸文の伊奈利社条である。
この条は『延喜式神名帳頭註』(1503年)に「風土記に云ふ」という形で引用されているテキストが根本史料となっている。内容は比較的よく知られているものだが、しかし、テキストの校訂をめぐっては議論があり、文意が不分明な箇所もあり、またのちほど記すように、奈良時代編纂の言わゆる「古風土記」の逸文ではないとする説が有力となっているなど、とかく問題が多い。
ともあれ、ここではひとまず一般的な解釈にしたがって、その内容を4つに分けて要約してみることにする。
「①秦中家らの遠祖、秦伊侶具は穀物を積んで富み栄えていたが、②あるとき餅を弓の的にして遊んだところ、餅が白鳥となって飛翔し、③山の峰に降りて稲が生じたので、社の名(イナリ)とした。④その子孫が先祖のあやまちを悔い、社の木を根ごと抜いて家に植え、祈り祀った」
次に①~④それぞれを簡単に解説してみよう。
①:「秦中家」は、伏見社に伝わる系図(『稲荷社神主家大西氏系図』)によると、嘉祥3年(850)に同社禰宜に補された人物である。もしこれが正しければ、この逸文自体は同年以降に書かれたものであり、奈良時代編纂の古風土記の逸文ではありえないということになる。次に、中家の遠祖だという「秦伊侶具」だが、名前は正しくは「伊侶巨」で、訓みはイロコだとする説がある。前掲系図によれば、中家の8代前の人物で、和銅4年(711)に稲荷明神が鎮座したとき、すなわち伏見社が創祀されたときに禰宜となり、天平神護元年(765)に没したという(伏見社創祀年代の問題については後述する)。彼は「穀物を積んで富み栄えていた」というので、元来は稲作を営む富農であったと想定することができよう。
②:「的になった餅が白鳥に変じて飛び去った」という説話は、『豊後国風土記』速見郡田野条などにもみえる。餅から変じた白鳥は稲や穀物の精霊の化身であり、こうした説話は穀霊信仰の反映と言われている。
③:餅から変じた白鳥が降り立った山とは、現在の稲荷山のことだ。その山頂に稲が生じたので、そこを神座として伊侶具は穀霊を祀ったのであり、これが伏見稲荷大社のオリジンにあたるのだろう。そしてこの穀霊は、現在の伏見社の主祭神宇迦之御魂神に相当しよう。「(山頂に)稲が生じたので、社の名(イナリ)とした」という箇所は、一般的な校訂訓読文では「伊祢奈利生ふ。遂に社の名と為す」となっていて、「イネがなり生う」がイナリ(稲荷)という社名に転じたという解釈をとっている。イナリとは稲生の意であるということだ。しかしこの部分のテキストは「子を生めり。遂に社と為す」が正しく、「山頂で神の化身である白鳥が子を生み、その誕生地が聖地に定められた」と解すべきだとする傾聴すべき説もある(菟田俊彦「稲荷伝説の原形」、山折哲雄編『稲荷信仰事典』所収)。ここは正しい解釈が難しいところだ。
④:「先祖のあやまち」とは、伊侶具がおごって神の化身である餅を的として矢を射たことをさしているのだろうか。伊侶具の子孫──おそらく中家のことをさすのだろう──が山上の木を自邸に移植して祈り祀ったというのは、稲荷山の山頂の神座に立てられていた神籬を麓に遷し、丁重に祀り直したことを言い表しているのではないだろうか。そしてその際、小規模ながら、社殿が建てられたのではないだろうか。

創祀は奈良時代のはじめか
いずれにしても、あるとき、穀霊の化身である白鳥が稲荷山に降り立ち、何らかの奇瑞をみせたことが、稲作を営む秦氏による伏見社の創祀と奉斎につながったということになろう。
では、その創祀は具体的にはいつのことなのか。『山城国風土記』逸文は具体的な年代は記さないが、それが秦伊侶具の時代であったことは示している。
天暦3年(949)5月23日の奥書をもつ『天暦三年神祇官勘文』という文書には、伏見社の神官たちの申状によるとして、同社の創祀について、「和銅年中、始めて伊奈利山三箇の岑の平かなる処に顕れ坐す」とする説が記載されている。和銅は西暦では708~715年にあたる。このときに稲荷神が降臨したという「伊奈利山三箇の岑の平かなる処」とは、3峰からなる稲荷山の山上のことだろう。鎌倉時代初期の成立かという儀式書『年中行事秘抄』にも、これとほぼ同じ内容の文章が引用されている。
16世紀中頃の成立とされる『二十二社註式』では、稲荷神の山上鎮座を「和銅4年」と特定する。『山城国風土記』逸文・伊奈利社条の出典になっている、先に紹介した『延喜式神名帳頭註』も、和銅4年としている。そして前掲『稲荷社神主家大西氏系図』や伏見社の古記『十五箇條口授伝之和解』も和銅4年としている。
このような所伝にもとづき、現在では、「伏見社は和銅4年(711)に秦伊侶具によって創建された」というのが、伏見社の公式見解のようなものとなっている。
伏見周辺もまた秦氏の定住地だった
ところで、秦氏は桂川沿いを中心とした山城国葛野郡を開拓して本拠地とした。その彼らが、なぜ葛野郡からは離れた伏見の地に神社を祀ることになったのだろうか。
じつは、伏見もまた秦氏とは非常にゆかりの深い土地であった。
伏見という地名は古くからあったらしく、『日本書紀』雄略天皇17年条に見出すことができるが、このあたりは古代律令制下では山城国紀伊郡深草郷にあたる。ここにもかなり早くから秦氏が住み着いていた。『日本書紀』の欽明天皇の章に次のようなエピソードが記されているからだ。
「天皇がまだ即位前の幼少時、ある人に『秦大津父という者を寵愛なされば、成人になると、必ず天下を治めることになるでしょう』と告げられる夢を見た。そこで、目が覚めると、使者を使わせて大津父なる人物を捜し求めさせたところ、山城国紀伊郡深草里で見つけ出した。
すると、大津父は(即位前の)天皇にこう語った。
『伊勢で商いをした帰途、2匹の狼が嚙み合って血を流しているのに遭遇しましたが、「あなた方は尊い神なのだから」と言って逃がしてやりました』
大津父の話を聞き終えた天皇は『きっと良い報いがあるだろう』と述べた。
そして大津父を仕えさせ、厚遇して裕福にさせ、天皇に即位すると朝廷の大蔵を管理・出納する職に任じた」(欽明天皇即位前紀)
欽明天皇は6世紀に実在したと考えられている天皇である。したがって、6世紀には紀伊郡深草つまり伏見の地もまた渡来人秦氏の拠点のひとつになっていて、当地におけるリーダー的人物が大津父だったと考えることができよう。秦氏はまず大和方面から北上して深草を開拓し、彼らの中の野心的な一団がさらに北上して葛野をめざしたと考えることもできようか。
そして、天皇に寵愛された大津父は大いに富み栄えたというのだが、この大津父を、伏見社を創建した豪農の秦伊侶具の先祖と考えることもできよう。
また『日本書紀』には、大津父が狼を「尊い神」とみなして逃がしたという話がいわくありげに挿入されていて気にかかるが、この狼とはすなわち大神で、稲荷山の神の化身であろうとか、この挿話に登場する狼は稲荷神社の神使としての狐とどこかで結びついているのではないのか、といった見方もある。

在地の民がもうひとつの祭司一族
もっとも、稲荷信仰の本源である深草の里は、秦氏が一から切り拓いた土地ではなかった。稲荷山の西麓付近に、弥生時代の集落跡である深草遺跡が見つかっているからである。この遺跡は出土遺物などから初期農耕集落であったことは明らかで、渡来人が入植する以前、深草一帯には大規模な農耕集落が存在していたと推測されている。
したがって、こんなふうに想像することができよう。
「深草=伏見には弥生時代から人が住んで農耕が行われていた。4~5世紀頃になると渡来人の秦氏が入植してきて、最新の灌漑技術などを用いてさらに農耕を盛んにさせた」
この見方を裏づけようとするのは、伏見社を奉斎してきた氏族には、秦氏だけではなく、荷田氏という在地の氏族もあったという事実だ。
秦氏と並んで伏見社の神職を継承してきた荷田氏は、室町時代に備後国出身の羽倉氏に乗っ取られたとも言われているが、荷田氏そのもののルーツは古く、秦氏よりも先に伏見に住み着いた民とも言われ、雄略天皇皇子の裔とする伝承もある。
農業だけではなく狩猟採集も生業としていた彼らは、きっと稲荷山をごく素朴に山の神として、地主神として崇めていたのだろう。ところが、秦氏が入植してきて、本格的な農耕をはじめると、稲荷山の神を稲作の神として祀るようになり、やがて神社が創祀される。伏見稲荷大社の起こりである。

渡来人の穀霊信仰と土着民の山神信仰の融合
つまり、伏見社を本源とする稲荷信仰とは、土着民の山神信仰に渡来人の穀霊信仰が接ぎ木されて生じたものと言えるのではないだろうか。
平安遷都後、稲荷信仰はこのような信仰を中核としつつも、仏教や民俗信仰などとも習合しながら独特の発展を続け、全国各地に伝播してゆく。特筆すべきは弘法大師空海との結びつきで、中世には「空海が稲荷神の化身である稲を担いだ老翁を京都の東寺に招いて供養し、東寺の鎮守としてこの神を祀った。これが伏見社の起源である」という伝説が広まった。ちなみに、イナリを稲荷と書くのは、この伝説にみられるように、この神が稲を背負って(つまり、荷なって)いたからだと言われ、文献上の初見は『類聚国史』の天長4年(827)正月19日条である。
稲荷神社は現代の日本人にとってもごく身近なものだが、そのルーツには渡来人秦氏の信仰が深く関与していた。神社や神道というと日本固有の信仰と思われがちだが、その古層に渡来文化が横たわっていることは、知っておくべきだろう。
文=古川順弘(文筆家)
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<本書の目次>
第1章 京都の地主神をめぐる
宇治上神社、貴船神社、石座神社 他
第2章 賀茂神の軌跡をたどる
岡田鴨神社、久我神社、賀茂御祖神社 他
第3章 古都を育んだ渡来人の信仰
松尾大社、大酒神社、八坂神社 他
第4章 神話・伝説の舞台を訪ねる
葛野坐月読神社、籠神社、浦嶋神社 他
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