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【京都・御蔭祭】下鴨神社のもうひとつの聖地で神を迎える日

京都の初夏を彩る「葵祭(賀茂祭)」に先立ち、毎年5月12日に行われる「御蔭祭みかげまつり」。平安遷都以前の信仰を今に伝える、下鴨神社最古の重要な儀式です。 なぜ、下鴨神社から5kmも離れた、比叡山西麓の地が「もうひとつの聖地」とされるのか。下鴨神社のルーツを紐解きます。
この記事は、前記事「なぜ、京都・賀茂神社は2つに分かれているのか?」に引き続き『京都古社に隠された歴史の謎』(古川順弘著、ウェッジ刊)から一部を抜粋したものです。


文=古川順弘(文筆家)

摂社三井神社は下鴨神社の前身か

 ここまで、下鴨神社の成立を8世紀前半とする見方を解説してきた。

 しかし、矛盾するようだが、視野を広げるならば、下鴨神社の歴史はこれよりももっとさかのぼり、そのルーツの古さは上賀茂神社に決して引けをとらない、と述べることもできる。

 どういうことか、説明してみよう。

 『山城国風土記』逸文の賀茂社条は、火雷命が乙訓の神社に鎮座したことに触れたあと、こう続いている。

可茂建角身命かもたけつぬみのみことなり、丹波たには伊加古夜日売いかこやひめなり、玉依日売なり、三柱みはしらの神は、蓼倉里たでくらのさと三井みゐやしろに坐す」

『山城国風土記』逸文の賀茂社条はここで終わっている。

 長旅を終えた賀茂建角身命とその妻伊加古夜日売、2人の娘玉依日売は、最後は「蓼倉里の三井みいの社」に祀られたという。

「蓼倉里の三井の社」という神社はどこにあったのか。

 どうやら、現在の下鴨神社の境内、もしくはその周辺にあったらしい。

 蓼倉は古地名で、古代における正確な場所はよくわかっていない。しかし、おおむね現在の下鴨神社の北方にあたるとみられ、現在も下鴨神社の北東の隣地に「下鴨蓼倉町」という地名が残っている。下鴨神社の現境内を含む広域の地名であった可能性もある。

 次に「三井の社」だが、これは下鴨神社の摂社三井神社のことと考えられている。現在は下鴨神社本社の西に鎮座し、賀茂建角身命・伊賀古夜日売命(伊加古夜日売)・玉依媛命(玉依日売)の3神を祀っている。『山城国風土記』逸文の三井社条(『釈日本紀』巻九「頭八咫烏」所引)によれば、「三井」は元々は「三身」と書かれ、この3柱のことをさすらしい。

 なお、現下鴨神社境内の南端近くに「三井社」と呼ばれる小社があるが、こちらは下鴨神社摂社河合神社の末社で、別名を三塚社とも言って、『風土記』に載る「三井の社」=三井神社とは別個の神社である。

三井神社 寛永6年(1629)の式年遷宮の際に造替された

『山城国風土記』が賀茂建角身命らが鎮まった地とする「三井の社」=三井神社(以下、三井神社)が、当初から現在地(下鴨神社本社の西)にあったのではなく、旧地はやや北方の地であり、そここそが蓼倉の里なのだと解することもできようが、大まかには、三井神社の本源地を下鴨神社の現境内地付近に求めることができよう。

 そして、この三井神社の地に後年、下鴨神社が誕生したのだから、三井神社は下鴨神社の前身であり、元宮であるとも言える。

 では次に、三井神社が創祀されたのはいつ頃だろうか。

 賀茂建角身命と玉依日売が賀茂別雷神を慕って上賀茂神社を創祀したとする『賀茂旧記』の説話があるが、この説話を踏まえるならば、賀茂建角身命・玉依日売たちを祀る神社がつくられたのは、上賀茂神社を創祀した彼らが神去かむさった後と考えるのが合理的だろう。だとすれば、三井神社は、上賀茂神社の成立からさほど歳月を隔てずに誕生したと考えてもよいのではないだろうか。それは当初は上賀茂神社の摂社のような位置づけだったのだろう。上賀茂神社の成立は5世紀頃と考えられるが、三井神社の成立もおおむねその頃となろう。

 往古、賀茂川沿いの地に定着した賀茂一族は、まず上流の地に農耕神である雷神を祀ったのち、次に彼らをこの地まで導いてきた偉大な先祖の霊を下流の地に祀ったのではないだろうか。当時の彼らの目には、川に挟まれた下鴨の深い森は、神まつりの場には理想的な浄域として映っていたことだろう。

下鴨神社の最古層が宿る御蔭神社

 糺の森からは離れたところにある、下鴨神社のもうひとつの聖地についても触れておこう。

 比叡山ひえいざん四明岳しめいだけ)の西麓に御蔭山みかげやまという標高150メートルほどの小山がある。北側の裾野には高野川が流れていて、下流方向に5キロほど川沿いに歩いてゆけば、下鴨神社に着く。

 この御蔭山は、賀茂建角身命が降臨したところとも、また玉依日売が賀茂別雷神を生んだところとも伝えられていて、下鴨神社の神体山・神奈備山のような位置づけになっている。山名の由来については古くからいろいろと説があるようだが、古語としてのミカゲには神霊の意がある。

 山の中腹には賀茂建角身命と玉依日売を祀る御蔭みかげ神社が鎮座していて、下鴨神社の境外摂社となっている(京都市左京区上高野東山)。ちょうど、京都盆地が尽きて川筋に狭隘きょうあいな山峡が延びはじめるあたりである。

御蔭神社 現在の本殿と拝殿は江戸中期の再建

 5月12日の日中、ここ御蔭神社で、賀茂祭における下鴨神社の神事として御蔭祭みかげまつりが行われる。本社から進行してきた神職ら一行が御蔭山に顕現した賀茂建角身命と玉依日売の荒魂あらみたまを迎えて依り代(榊)に遷し、これを納めたひつを奉戴して糺の森へ戻り、本社祭神の和魂にぎみたまを再生させるというもので、下鴨神社で最も重要な神事とされている。

 山上にミアレ(=顕現)した神を迎える祭りであり、また御蔭山が一名を御生みあれ山と言うことからか、明治までは「ミアレ神事」「ミアレまつり」などとも呼ばれていた。そのため、同日の夜に行われる上賀茂神社の御阿礼神事と混同されることもあるが、神事としては全く異なる。それに、上賀茂神社の御阿礼神事は非公開の秘儀だが、下鴨神社の御蔭祭は氏子なども参加でき、オープンな行事となっている。

 御蔭神社の現社地は天保てんぽう6年(1835)以降のもので、それ以前はやや西方の地にあったという。社地が移転したのは、高野川の氾濫や地震による山崩れで社殿が埋没してしまったためである。御蔭山もこの自然災害によってかなり地形が変わってしまったらしい。

 現在の景観からは想像しにくいが、かつての御蔭山は、小規模ながらも川に囲まれた独立峰になっていたという。神霊のミアレにふさわしい地として聖域視されていたのだろう。熊野川のほとりに鎮座する紀伊の熊野本宮ほんぐう大社は、明治に大洪水の被害に遭うまでは大斎原おおゆのはらと呼ばれる中州を社地としたが、これに通じるものが感じられる。

御蔭神社での御蔭祭の様子(江戸後期) 『拾遺都名所図会』より

 御蔭祭が中世には行われていたことは史料からわかっているが、起源がいつかはよくわかっていない。しかしその神事には上賀茂神社の御阿礼神事にも通じる古態が留められている。しかも、御蔭山は賀茂建角身命の降臨地だという。

 御蔭神社こそが下鴨神社、そして賀茂神社のオリジンであるのかもしれない。

──本記事で紹介した京都の古社については、『京都古社に隠された歴史の謎』(古川順弘著、ウェッジ刊)の中で詳しく触れています。

<本書の目次>
第1章 京都の地主神をめぐる
 宇治上神社、貴船神社、石座神社 他
第2章 賀茂神の軌跡をたどる
 岡田鴨神社、久我神社、賀茂御祖神社 他
第3章 古都を育んだ渡来人の信仰
 松尾大社、大酒神社、八坂神社 他
第4章 神話・伝説の舞台を訪ねる
 葛野坐月読神社、籠神社、浦嶋神社 他

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