〈自動販売機〉
「おかあしゃん……。ごめん」
熱中症の危険が「厳重警戒」とされた、真夏のある日。
息子たちと国立科学博物館へ行き、上野公園の日陰で休んでいました。水筒の水を飲ませながら青い空を眺めていると、息子の申し訳なさそうな声がしました。
見ると、気恥ずかしそうな顔で立っています。股のあたりから太ももにかけて、ぐっしょりと濡れていました。
「あれ? さっきトイレに行ったばかりなのに。出ちゃった?」
「ちがうの……。全部、こぼしちゃったの……」
どうやら、水筒の中の水をすべて、自分の股の上にこぼしてしまったようでした。
「ああ……。じゃあ、しょうがないね。自動販売機で水を買って、水筒に入れよう」
「どこにあるかな?」
息子は張り切って探しはじめました。
けれど、見回しても、近くにはなさそうでした。
「えっ!? じゃあ、ふうくん、どうしたらいいの?」
彼は、絶望した顔で立ち尽くしていました。
その横で、双子の相方は涼しい顔をして、
「ぼくは、ちょっと水分補給……」
と、自分の水筒の水をゴクゴク飲みました。
「じゃあ、自動販売機を探しに行こうか」
そう言って、私たちは歩き出しました。

木々の向こうに噴水広場が見えました。中央には白いテントが並び、何かのイベントをしているようです。
ああいう場所なら、きっと自動販売機がある気がする。
けれど、道の交わるあたりにあったのは、
「使用できません」
と貼り紙をされ、口を閉じられたゴミ箱だけでした。
白いテントに近づくと、「台湾フェスティバル」の看板が掲げられていました。入場料は800円。
ペットボトル一本の水のために入場する気にはなれず、私たちは先へ進みました。
大きな通りに出ると、木を多く使った平屋のカフェがありました。テラスのある、やわらかな印象の建物です。
水がほしいだけだけれど、これ以上歩いて、子どもたちの喉が渇くのも困る。
そう思ってメニューを見ると、
オレンジジュース、930円。
りんごジュース、850円。
すこし迷って、
「喉、渇いたよね。ここでジュースを飲む?」
息子に聞くと、
「自動販売機で水が買いたい」
とはっきり返事がありました。
そこで、もう少し先まで探すことにしました。
もう一人の息子は、また、
「ちょっと待って。けいちゃん、水分補給するから」
と、水筒の水をゴクリ。
そして、
「あっ! あれ、なんだろう?」
と、《地獄の門》へ近づいていきました。
「地獄の門の横には、ぜーーーったい自動販売機ないってば! ふうくん、もう歩けなくなるよ!」
喉の渇いたふうくんが叫びましたが、けいちゃんは、すでに門の前でじっと眺めています。
「これが、地獄の門か……。なんで、天国の門じゃないんだろうね」
「この門をつくる400年前に天国の門って呼ばれる扉がつくられて、ロダンさんはその天国の門を調べたあと地獄の門をつくったらしいよ」
けいちゃんが門を眺めているあいだ、ふうくんは、その扉にいる人たちのひとりになったように、喉が渇いてもう耐えられない、という身ぶりをしていました。
私たちが、つい、
「この門をくぐる人は、希望を置いていけって書いてあるよ」
「置いていかれた希望は、どうなるの?」
「いま生きている人たちに、残されるんじゃない?」
「じゃあ、いいね」
そんなふうに門を楽しんでいると、ふうくんがしびれを切らしました。
「もう! 先に進むよ!! きっと、こっちだ!」

ふうくんの直感に従って階段を下りると、弁天池のほとりにたどり着きました。
ピンク色の蓮の花の前には、たくさんの屋台が並び、風鈴が鳴っていました。汗だくの大人たちが、肉料理を頬張り、クラフトビールを飲んでいます。
かき氷も売られていました。
「かき氷を買ってみるのは、どう?」
「甘いものを飲んだら、また喉が渇くでしょ!! ぼくは、水が飲みたいの!!」
と、叱られました。
どうやら、水は売っていないようでした。
「暑すぎる……。ふうくん、もうダメかもしれない……」
そうつぶやいた息子の後ろ、小さな階段の先に、一台の自動販売機があるのを見つけました。
「あっ! 自動販売機だ!!」
階段に近づくと、その脇には、白地にピンクの縁取り文字で、
「ハイスペお姉さん 無防備な花園」
と書かれた看板が立っていました。
この階段を、五歳の男の子たちと一緒に上ってよいものか。
一瞬迷いましたが、いま必要なのは水です。
自動販売機は、ピンク映画館の、
「べっぴん教師」
と書かれた看板の前にありました。
もう、映画館のことは気にしないことにしよう。
さっさと水を買おう。
そう決めて、タッチ決済で素早く水を一本買いました。
水を渡すと、息子はすぐに、
ゴクゴク、ゴクゴク。
と飲み、
「あーっ! なんか、すごく元気になった!」
と叫びました。
けれど、あらためて見ると、肌色の多い官能的な看板の前で、五歳児が
「きせきてきに復活したぞ!ここは天国みたい!」
と、瞳を輝かせています。
「続きは、公園に戻ってから飲もうか」
そう促して、私たちは階段を下りました。
結局、公園の中では、自動販売機を一台も見つけられませんでした。
「きれいなお姉さんの写真の前で、この水を買ったね」
息子は、そう言って笑っていました。
「公園の自動販売機なくなっちゃったのかな」
もうひとりの息子は、心配していました。
公園には、テラス付きのカフェも、にぎやかなイベントも、すばらしい展示やアートもありました。
それでも、あの日、私たちに一本の水を残してくれたのは、公園の裏側にある古いピンク映画館でした。
