ドライアイの私ですけど
モノカキングダムのテーマが「あい」だと発表されて、私の瞼は重く、充血した瞳は光すら拒んだ。
正直に言うわ。
すぐに頭に浮かんだのは、壮大な「愛」の物語ではなく、何十年、私を苛む「ドライアイ」

愛というテーマは、何か感動的なエピソードを添えるのが礼儀らしい。
でも、あえて一つも挿入しないことにした。
湿った物語を語るには、私の瞳があまりにも乾きすぎている。
世の中の「あい」は、高級クリームのように潤いを求めている。親子の温かい涙、恋人たちの熱い視線、推しへの溢れんばかりの情熱……。
どれもこれも、水分と感情で満ちている。
しかしドライアイの私にとって、この世の潤いは時に拷問よ。
涙は目を洗うはずが、乾いた目にはただの刺激物となる。
過剰な感情や、SNSで流れてくる長すぎる「愛の告白」は、目に塩を塗られているかのように痛い。世間が押し付けてくる共感や繋がりの圧力は、直に風が当たる暖房ような、瞳をさらに乾燥させていく。
愛とは、本当にそんなにもベタつくものなのだろうか。
私はウェットな愛への執着を、きっぱりとやめることにした。そして、ドライな関係性の中に疲弊しない本当の「あい」があるのではないかと考えるようになった。
ドライな愛とは、決して冷たい無関心ではない。それは清潔で、互いを尊重する距離感のことよ。
ドライだから視界はクリアになる。
世の中には「それを愛と呼べるのか」という感情が多すぎるわ。
相手を縛る愛、不安を埋める愛。「あなたのため」と見せかけた支配欲。
湿った感情まで全部まとめて愛にされるから、私はますます目がしみる。
例えば、長年の友人との関係。
お互い連絡を取らない。
何年も会わなくても気まずくもない。
「元気?」と聞かない優しさ。
相手が自分の人生を自分でハンドリングできていると信頼している証拠。そこに過剰な心配という名の水分(別名: お節介)を差し挟む必要はないよ。
仕事のプロフェッショナルな関係もそう。
感情論を抜きにし、淡々と、互いの役割を遂行する。
そこに生まれるのは、依存しない相互信頼という、極めて純度の高い「あい」
人に較べて取るに足らない小粒の「あい」で、ごめんよ。
感情的な泥沼に足を取られることなく、目標に向かって進む視界は、常にクリアで気持ちがいい。
過剰な潤いは目を腫らし、視界を曇らす。それと同じく過剰な愛は、関係性を重くし自由を奪う。
もうさ、もうね。
壮大でウェットな「愛」を諦めたの。
これも運命で、一つくらい幸せがなくとも生きていけるもん。
誰にも選ばれない、可哀想な人間だよ。
そのぶん、誰かを失望させる回数も少ない。
そんな私にとっての「あい」は、ドライアイ用の目薬のようなものだと定義する。
必要な時だけ、必要な分、ひっそり注ぐもの。
差しすぎれば溢れ、刺激になる。だから、相手の目が「今、乾いているな」と感じたとき、わずかな気遣いや細やかな共感を一滴だけ注ぐ。
それが私のたどり着いた、疲れない「あい」の形。
「あい」を最も感じられるときは、もしかしたらアイコンのように互いの存在を認めているだけの、寡黙な間かもしれない。
過剰な情報、感情、期待で目が霞む現代社会で、互いに干渉せず、すっと距離を保つ優しさ。
一見冷たいようでいて最も相手を尊重したドライな態度は、目をこすりながら生きる私たちに必要な「あい」だと信じている。
……信じさせて、お願い。
そんなことを書いていると、誰かが呟いた気がした。
「どれだけアイロニカルなんだよ」
