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火遊びウサギは笑わない 13

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「私ね……
『あんたのことなんて、産まなきゃよかった』
それを言われたの、中学二年のとき。夜の台所だった」

 受話器の向こうから、安優香の声が沈んで聞こえる。冷蔵庫のモーター音や、子どものいない静かな夜の空気が、耳の奥で反響するようだった。

「初潮が来たんだけど、血液を見るのが無理だと思って、医学部にはいきませんって言ったらさ」

「産まなきゃよかったと?」

「そう。
それ言われたとき、冷えた鍋の中の味噌汁を見下ろしながら、『うん』って答えた」

 そのときの光景が、言葉と一緒に頭へ浮かぶ。無機質な音の冷蔵庫のモーターと深夜のキッチン。冷めた味噌汁の鍋。その真上を、子どもの目線がじっと見下ろす。湯気はもう立っていない。鍋の縁に、皮膜が張っている。

「それ……安優香さん、しんどいよ」

 喉から声を絞り出したら、少し涙がにじんだ。

「やっぱり、そうだよね。
このあと、心理的ホメオスタシスが働いたのかな?自我が崩れないようにやってんだよ、無意識に」

 空気が重く沈む。それでも、互いに話すことをやめなかった。

「愚痴の張り合いになるかもですけど……。うちは、『男にチヤホヤされるうちは女の価値があるの』って繰り返し言われてて。だから、マチアプも、とにかく私にイイネしてくれた人には全部返信して、会ってたんです」

 抑え気味に笑いながらも、私の声には、どこか凍えるような鋭さがあった。

「ほんと言うと、元彼と別れたとき、二十八のときかな……『私は無価値になった』って思った。人生詰んだ!って思いました」

「あるよね、母親の呪いって」

「ありますね」

 静かな肯定のあと、しばらく沈黙が流れた。

「……もしまた私が、ちび太と暮らし始めたら、たぶん、母と同じことすると思う。止めたくても、手が出るかもしれない」

 私は受話器を握り直した。胸に鈍痛がする。

「その時は、私が安優香さんを止めに行く。
でも……私も、自制できないかもしれない」

 電話の向こうで、安優香が嗚咽を漏らし始めた。
それは泣き声というより、魂の底から漏れるような音だった。

 親にされたことが人格に影を落としていると知っている。それでも自分が誰かを傷つけてしまうとき、それを「親のせい」にできない年齢になってしまった。
 そのことが恐ろしい。認めることも、許すこともできず、誰にも頼れない。

 親に傷つけられた安優香が、子どもを傷つけ始めたときに、母親のせいの免罪符は剥がれる。

 母親にされたことが辛くて、そのまま自分が誰かに手をあげてしまう。親から否定され続けて、それを恋人や子どもにぶつけてしまう。

 このとき、「でも私は母に傷つけられたから……」が通じるのはカウンセリングの場だけ。
現実では、傷つけた事実が先に扱われてしまう。

 何歳でも親のせいにしていいかもしれない。
だけどそれで自分が楽になるかどうかが、全て。

 悲しみを誰かにぶつけたり、卑屈になり、
「どうせ私なんか」と生きる言い訳にしてると、人生は前に進まない。

 人のせいにして、自己憐憫に浸るのは楽だ。

 けれど親のせいにするかどうかは問題じゃない。
「自分の人生を取り戻したいかどうか」が、いつも分かれ目なんだと思う。

 今、私たちはこうして泣いている。
誰かのせいじゃなく、自分のために泣ける日が来たら、たぶんもう、安優香も私もその痛みを越えてるってことなのかもしれない。

 私は、ただじっと耳を傾ける。夜の帳が、私たちの会話を覆っていく。

「こんなダメな私でも……ダメじゃないと愛されたかったな」
 しゃくりあげながら、安優香がそう言った。

 その言葉は胸に突き刺さる杭だった。喉元が熱くなった。

「安優香さんには、牛津さんがいるじゃないですか」
 軽く話題を変えようとしたが、返ってきたのは思いがけない答えだった。

「大輝くん? ああ、別れたよ」

「えっ、ウソ。なんで?」

「なんでと言われたら……大輝くんは顔だけ要員。
今はね、前に付き合っていた人とよりを戻したよ。
元カレがね、ずっと私を忘れられないって」

 思わず吹き出した。
「イヤだ〜、本音が出ましたね」
 私の声に驚きも呆れもなかった。むしろ、その愛されていた物語を安優香が自分のものにしたことに、少しだけ安心した。

「じゃあ、どうして安優香さんは私と友達になりたいと思ったんですか?私のことも顔?」

「ははは!友達を顔で選ばないよ。
瑠璃ちゃんはね、バーベキューのとき、気配りが上手かったから。率先してゴミ拾いをしてたし、私みたいに浮いてる存在へも声をかけてくれたのが嬉しかったんだ」

 バーベキューの日。誰も私のことなんか見てないと思ったのに、会社や取引先、家族も誰も気づいてくれなかったことを安優香だけは見て、認めてくれた。

 笑った拍子に涙が一粒、頬をつたった。
笑っているのに泣いている。
そんな夜も、たしかにあると思えた。



 遮光カーテンの隙間から白くて強い陽が射してきた。寝落ちした傍らにあるスマホは通話中だ。

「安優香さん、今なにしてるの?」

「ん?寝てた。……いや、泣いてた、かも」

「なんだ、私も、です」
 少しの沈黙のあと、ふたりで小さく笑った。
 
 電話の向こうの安優香から鼻をすする音が聞こえる。だけど、もうしゃくりはしていない。
 私の瞼のじんわりした痛みも、さっきより和らいでいた。

 「バカだよね」

 「うん、ほんとバカ」

 でも、そのバカさに救われてるのかもしれない。
夜が終わるのが、ちょっとだけ惜しかった。
電話はまだ切れていない。

「瑠璃ちゃん、提案があるんだけど」
私はベッドから半身を起こし、姿勢を整えた。