文章で迷走する、ももまろの図
友達からのアドバイスで
「面白い文章を書きたいなら、面白くない文章を書く練習をして」と言われて実践している。
面白くない文章は冗長で長文になる。
投稿する前に「面白くないな」と読み返すのもだるいと思ってしまう。
これも訓練だと、暇さえあれば書き続けている。
面白くない理由の一つに、掴みが弱い。
そして展開が予測できるので、書いている自分がつまらない。
目次を付けて、読みやすくする工夫をしているが、何番煎じの文章なんだろうと、我ながら情けない独自性のなさ。
センスがない、絶望的にない。
勉強しても偏差値が上がらない受験生の気分。
だったら、面白い文章はなんだよって。
ドジっ子の話なのか、身近な話題なのか、
なんなのかってね、思考している。
面白い文章って受け取る人の体験や文脈によるところが大きいんだよね。
ドジっ子が好きな人にとっては、ドジっ子の話は面白いし、身近な話題が好きな人にとっては、共感できる小さなネタが面白い。
だけど、そこに「なんか面白い」っていう普遍的な感覚を持たせるには、解像度とか意外性とか余地が必要だったりする。
例えば、ドジっ子の話でも、
お金を落として拾おうとしたら頭をぶつけて、
ぶつけた頭をさすろうとして、もう一度お金を落として、最後は知らないおばちゃんに
「大丈夫?」って声かけられて泣きそうになる。
……みたいなところまで描くと、ただのドジが生きてる人間の悲哀や優しさに変わる。
わたしが面白くない文章を書き続けていると面白い文章が書けなくなるという感覚は、きっと、型や予定調和やこうすればウケるだろうという既製品の考え方に寄りかかってしまった時の感覚なんだと思う。
「これ、つまんねぇな」って、大体そう。
なんとなく、
「読者はこういうの好きだよね?」に頼った文章。
恋愛ものを書くとき
「雨の中で傘を差し出す男の子、好きだよね?」という思いでシーンを作るけど、わたしとしては
「なんでこの男の子、傘を出したんだっけ?」
「この後、この子たちは何を話すんだろう?」って深掘りできてないのよ。
書きやすいパターンに依存しているから、
お決まりの展開とか、よくあるストーリー、
たとえば「好きな人が自分を裏切っていた」を、
無意識に「これなら話が転がりそうだから」って使ってしまう。
でも、わたしはそんな恋愛してないもん。
雨が降ったら
「いいじゃん、濡れても駅まで走ろうよ」
好きな人に裏切られた経験はないが、万が一、そうであれば、ハサミを持って追いかけまわすわよ。
わたしを誰だと思ってんのさ。
自分が奇怪で奇特だから、物語がスマートな話は全然面白くない。
「こんなのを書きたいんじゃないのよ」
わたしの生きた感触がないと目から滑り落ちて、
薄っぺらい文章を惰性で投稿してしまう。
そういう意味では誹謗中傷の文章は、なんでも読ませる名文かもしれないわ。
誹謗中傷って、言葉としては汚いとされるけど、人の感情を強烈に引っ張る力を持っているんだよね。
SNSで炎上する文章とか、ヤフコメの過激な意見とか、あるいはゴシップ記事の辛辣な見出しとか、
ああいうものが妙に「読ませる力」を持つのは、
人間の本能に訴えかけるエッジの鋭さや、
「ここに火種があるぞ」という煽りの強さがあるからだよ。多分ね、多分よ。
誹謗中傷=面白い文章ではないけど、
面白い文章には、引きが強くて読み終わった後に残るものがあり、アタシだから書けるが滲んでいる。
面白い文章の条件に揃うと、ただ強いだけじゃなく、面白い作品として心の中に残るのに。
分かっちゃいるけど……今は迷走している。
