説明できない隣家(昨日の続き)
大人になってから知った。
隣家は特別な病気の一家ではなかったらしい。
私は勝手に何か理由があるのだと思っていた。
あれほどの怒鳴り声。
割れるガラス。飛んでくる家具。死んだチワワ。
頻繁に来る警察や救急車。
だから、何か説明できる事情があるのだろうと。
しかし現実は違った。
隣家の子ども達は成長し、新卒で入社した会社に今も勤めているという。
私がうつ病になり、実家へ戻った時期がある。
父の介護をしながら、療養していた。
隣家は昔のように、二階から家財道具を投げたりはしなかったが、一階の台所やリビングからは派手な物が壊れる音と怒号が聞こえて、庭はゴミ屋敷のように破壊された品々が渦高く積まれていた。
「今って、救急車と消防車がワンセットで来るんだなぁ」と知ったのも、その頃。
だけど、朝になると、とても綺麗な顔立ちをした子ども達が涼しい顔をして出勤していた。
昨夜の暴力がなかったかのように。
人格が入れ替わったような。
私は少し驚いた。
人間は、こちらが思うほど単純ではないみたい。
最近は、誰かの問題行動を見ると、すぐに病名を探す風潮がある。
「あの人は発達障害だ」
「あの人は人格障害だ」
名前がつけば安心するのだろう。
理由が分かった気になるからかもしれない。
けれど、私が子どもの頃に見ていた光景は、そんな簡単なものではなかった。
近所には自閉症のかたがいた。
あの怒鳴り声や騒ぎが続く中で体調を崩し、施設へ通えなくなったと聞いている。
複数台、監視カメラをつけた高齢者の家は、プライバシーの侵害として自治会から注意がきた。
近所は生活に支障が出ても、それは自己責任、ご近所ガチャに外れたということなのか。
当時の私には難しい話だった。
でも、ひとつだけ分かる。
誰かが苦しんでいたということ。
後になって聞いた話では、隣家のお母さんは
「私たちをキチガイ扱いした連中を訴える」と息巻いていたらしい。
私には返す言葉がなかった。
確かに傷ついたのかもしれない。理不尽な目に遭ったこともあったのかもしれない。
因果があれば、それなりの冷遇を想像する。
けれど、その家の外側にも人がいた。
怯えながら暮らした人がいて、眠れなかった人がいた。そこには影響を受けた人がいた。
隣家と関わりたくないと距離を置いた人もいた。
けれど、隣家から見れば、その人達こそ加害者だったのかなと思う。
人は自分が受けた傷には敏感だ。
しかし、自分が他人につけた傷には案外気づけない。病名をつければ納得できるほど、人間は単純ではない。
私は今でも、あの家をうまく説明できない。
そして、「被害者」と「加害者」も、時として綺麗に分かれるものではないと思う。
