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妄想できても、想像しない人たち

 平和という言葉は便利だ。
使う人の立場を問わないから。
『平和』という言葉は同じでも、それを使う前提は個々で異なる。

 たとえば。
気が合う仲間同士、こじんまりしたいウサギと、
「この原っぱは自分達だけが使いたい」オオカミがいて、どちらも平和を願っている。

 だが、平和の定義が一致することはほとんどない。

 棲み分けをして、皆、仲良く暮らせばいいというウサギに、
「ぴょんぴょん跳ねるヤツは目障り」のオオカミは相入れない。

 指を組んで平和を祈ったところで、平和が訪れない理由は、こんな感じ。

「好きの反対は無関心」という言葉がある。
個人間の関係においては、これは有効な処世術。
嫌いな相手に執着せず、関わらない。
衝突を避けるという点では、合理的で良い選択だと思う。

 実際、嫌いな人間がいないわけではないが、
批判もしないし、悪口も言わない、という人がいる。

 理由は単純で、
「近寄らないし、視野に入れない」だけ。
感情を消すのではなく、争いの回路に乗らない。
無関心というより、参加拒否に近い。

 しかし、無関心は常に平和をもたらすわけではない。

 戦争では無関心は成立しない。
武力で攻撃された側が「相手にしない」という態度を取れば、それは敗北や壊滅に直結する。
生存が関わる局面では、無関心は選択肢から外れる。

 同じ構造は学校や会社のいじめにも存在する。
力関係が固定された場では、無関心は中立ではない。

 多くの場合、それはいじめを黙認する態度として機能する。
集団は安心のために異物を排除し、
その排除は空気や正しさという言葉で正当化される。

 無関心は万能ではないよ。
対等な関係においてのみ、摩擦を減らす。
力が偏った場所では無関心は平和ではなく、放置になる。

 平和とは、優しい態度のことではないね。
また排除の言い換えでもないよ。

 無関心でいられる場所と、無関心が暴力になる場所がある。
その区別を誤った社会は、平和という言葉を口実に排除を行う。

 無関心でいられる場所と、
無関心が暴力になる場所がある。

それでも、人はそれを『平和』と呼ぶんだ。

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