センスがないんじゃない、迎合がかったるいだけ
noteを休会してみて、読む書くの視点に変化が起きたなと、自画自賛する。
読み手として、書き手との距離を取るから、以前ほど共感しながら読まなくなった。
書き手へは祝福するし、悲しみにも労う気持ちが沸き起これど、それだけ。
出来事として受け取って、
「まあ、こんな時もあるんじゃないの」と、立ち去る冷たい人。
そして、読めば読むほど、わたしは他者との感性のズレを覚えていく。
人と視点が違って、
「これじゃ、書くスキルを磨いていても、一生、なんらかの受賞は無理だな」って。
たとえば、クリスマス。
ハロウィンは馴染みがないから、クリスマスね。
クリスマスをテーマにしたときよ。
人は、クリスマスにちなんだキュンキュンを描いていくじゃない?
過去や現在の恋模様や家族との関係性へ想いを馳せて「アタシって嬉しいの、悲しいの」と感情を消費して人と分かち合うでしょ。
今のnoteの主流はそうなんよ。
日テレの24時間テレビが、noteでは365日発信されている。
note運営やコンテストの主催者自体がこういう傾向を好んでいるのね。
少し前の、コロナ禍のnoteはドライで、
「私はね、モヤモヤが吐きたいんだよ」
自分は書きたい熱が高くて、読まれまいがいい。
誰でも書ける、共感を呼ぶ文章ではなくて、自分にしか書けない、時代の欺瞞を暴く文章が主流だったんだよ。
これって、現代SNS文化に対する批評になるかもしれないけど、審査で好まれるのは感情の批評より感情の表現な。
つまりは泣きたい!キュンキュンしたい!側を
作品として美しく書く方が評価されやすい。
「あなたが旅行に行こうが、手帳を買おうが、どこで何を食べようが、うちには関係ありません」を排除していってるの。
みんなで『サライ』や『負けないで』を歌わないヤツは要らないと。
だから、クリスマスがテーマだとしたら、そこには山下達郎がガンガン鳴り響いて
「私の恋って、どうなるの?」
喜び、切なさ、思い出が闊歩する。
泣きたい!キュンキュンしたい!と叫びながら。
ところが、わたしにはどうでもよくて
「なんだよ、主たる宗教観もないのに、思考停止さんは消費資本主義に流されちゃって」
軽蔑を込めて、皮肉の一つでも言いたくなる。
このズレがね、致命傷だなって。
わたし、人の気持ちなんか分からないし。
ある程度は想像しても、人に踏み込んで真実を聞きたいなど思わない。
それでも、人の、自分が書いた記事を誰かに届けたいと思う気持ちはほんの少し、理解できる。
何が言いたいかといえば、不条理を観察する眼差しの奥にも、たぶん、小さな願いや祈りはあるのだと思う。
