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前提が違うだけで、人は独善に見える

 ごめん、今からめっちゃ熱く語るね。

 今の日本で深刻な問題となっている、「クマの出没」の、議論を読んでいると共通の危機に対する認識のズレが、いかに独善的な主張を生むかを分かりやすい。

 
 人と話が噛み合わない、話を整理しろ、
「あなたが言っていることは、本気で分からない」と相手に匙を投げられやすい人、必見。
 
 SNSや日常会話で感じる違和感。
話が通じないとき、相手が感情的すぎると決めつけてしまう。
でも、もしかすると前提が違うだけかもしれないと思い直し、書いている。

 議論って、結局はどこから話してるかが肝だと思う。
 同じテーマを語っていても立っている場所が違えば、見えている景色も違う。
 その出発点をすり合わせずに話し始めると、たちまち泥沼になる。

 たとえば。
相手は感情の共有を目的に話しているのに、こちらは論理の整合性で応答してしまうとき。
 
 AI風に分かりやすく話すと、
(思考は、ももまろうめこね)

⚫︎ 前提1:『クマ』という言葉の定義のズレ

Aさん
→クマ=絶滅危惧種のニホンツキノワグマだと前提し、感情的に「保護しろ!」と叫ぶ。

Bさん
→クマ=人を襲う危険な獣だと前提し、感情的に「駆除しろ!」と叫ぶ。

 この二人は、目の前の動物が何を意味する存在かという認識がズレているため、議論は永遠に保護か駆除かの感情論にしかならない。

⚫︎ 前提2:議論の目的地のズレ

Cさん
→クマの駆除費用の話をしている

Dさん
→クマを駆除する倫理の話を始める

 これは、
お金をどうするか(手段)と
殺していいか(道徳)という
議論の目的地(論点)がズレている。

⚫︎ 結果

CさんはDさんを現実を知らない独善的な人と見なし、
DさんはCさんを命を軽視する冷たい独善的な人と見なしてしまう。

 以前の論壇の美学は、まず目の前のクマが何を意味し、どこまでの危険度があり、何を目指して話すのかという前提を厳密に確認しようとする知的努力だった。
 
 しかし、今はその努力が「メンドクセー」見なされ、ただ感情を叫び合うだけの、独善的な人ばかりに見える光景が広がっている。

 相手から見れば、論理的な人を
「冷たい人」「上から目線」「話を聞かない人」に見える。

 でもこちらからすれば、感情論の人を
「お気持ち表明」「感情だけで押してくる」
「理屈が通じない」と感じている。

 どちらも悪気なんてない。
ただ、前提条件が違うだけよ。

 けれどそのズレは思った以上に深刻で。

・ わたしは正しいことを言っているのに、なぜか嫌われる
・ 相手は話が通じないのに、なぜか味方が多い

 そんな違和感が生まれるのも、大体この図。

 前提条件がズレた議論では、言葉の温度が合わない。こちらの論理は相手の痛みに届かず、相手の感情はこちらの思考の精度に干渉できない。

 結果として、
冷静に話している人ほど独善的に見え、感情をぶつける人ほど人間味があると見られる。
それはもう、勝負の土俵が違うだけなのに。

 だからわたしは、できるだけ早く相手の前提を探るようにしている。
「この人は、いま納得を求めているのか、共感を求めているのか」何々何?ってね。
 どちらを軸にしているのかが分かるだけで、世界の見え方が変わる。

 前提条件を合わせることは、相手を支配することじゃない。
 対話の翻訳作業を始めることなの。
だから「前提条件を揃えよう」と言われたら、ケンカを吹っかけているのではなく、話し合いがしたいという意味なんよ。

 余談だけど、負けず嫌いや勝ち負けを重視した価値観の人は前提条件が整いにくい。
 前提条件を合わせようと提案しているだけで、
「自分は負ける」と自己防衛に走り、謎の被害妄想を生んでいる。
 
 そして本当に対話ができる人って、この翻訳を幾度でも根気よくやってくれる人なんだと思うの。