掌編: ホストが本名へ戻る夜
夢を見る源氏名が神宮寺凌なら、現実を直視する本名は田村亮。ハタチまでは田村亮だけで生きて、よくお笑い芸人と同姓同名だと指摘された。
親父は俳優の田村亮のような凛々しく知性派の男になってほしい願いを込めたそうだ。
三葉亭八起くんの手紙へは俺の近況は知らせず、ただ返信のみへ特化した。
あまり人へ本名の自分を話したくなかった。
創作は12月の頭に全部仕上げて仕事のみへ集中させようとした矢先。
「亮、元気ですか。母さん、交差点で軽自動車に跳ねられちゃった。すぐに所長さんが病院へ運んでくれたんだけど、家に帰ったら歩けなくなった」
ホストになった俺と親子の縁を切る、帰ってくるなと言った過去をすっかり忘れたメール。
文字を追い、今更ながら母ひとり子ひとりになった境遇を実感した。
「母さん、大丈夫?」まで返信を書き、スマホが鳴り「亮?母さん。この1時間で熱が39度から37.5度まで繰り返すんだけど、朝には治るかな?」
悠長なことを言う母さんの呂律が回ってなく、痛い痛いと細切れに聞こえる。
「広島にも深夜外来があるじゃんか!早よ行けよ」
接客中の俺は
「姫、ちょっと待ってね」
微笑みながら裏に回りスマホを握りしめた。
店のBGMは変わらず流れ、俺の横では後輩がシャンパンを用意している。ホストクラブの華やかさと電話越しは母さんの掠れた声。
俺は今、どこにいるんだろう。
「母さん、病院嫌いだもん」
「好きとか嫌いじゃないだろう?死んだらどうするんだよ」
弱々しい声は「様子を見るね」と一方的に通話を終えた。
出勤前に本屋へ寄り、平積みになったベストセラーへ手を伸ばしたとき。スマホが震え、知らない番号だが、明らかに電話番号の頭は広島からだ。
「田村亮さんの携帯ですか?
こちらは市立大学病院の看護師、中島と申します。
お母さまが西広島中央病院から意識不明で搬送されて手術の必要があります。今からこちらに来ていただけませんか。書類へ亮さんのサインが必要になります」
おいおい、看護師さん。俺が今どこだか知って言ってるのか。新宿の紀伊國屋だよ。
23時の広島駅は東京より冷えて閑散としている。
俺が知っている広島駅は姿を変え、俺自身の20年と地元の20年とのギャップを感じた。
駅前の古びたダイエーやパチンコ屋がなく、区画整理で並んだビルなどの垢抜けした様相は広島らしさが消えていた。
大学病院までの道のりは高校時代に自転車で駆け抜けたままが残っており、ようやく地元へ帰った気色がする。ラーメンを食いに遠回りした道は俺の青春だったんだと愛しさへ変わる。
この道ではなく、比治山を通り、もう少しタクシーを走らせれば母校が見えてくるのにとさえ思う。同級生は到底追いつけないエリートコースを歩み、ホストをやっているのは俺ぐらいなんだろう。
母さんの手術は既に始まっており、俺は人気のないロビーでこれまでの39年間をスクリーンがない映画を観るかのように眼の中へ映し出された。
ホストの世界では『過去は忘れろ』が合言葉だ。客の名前と好みを覚え、店の中では演じ続ける。
今、目の前に流れるのは作られた記憶じゃない。母さんの小言、親父の遺影、高校の帰り道。
本当は俺、全部覚えてたんだな。
親父が死去した後、母さんは高校生だった俺をどうやって育てようか。近場の大学へ進学させて、地場産業の有名どころに就職させたらいいなどを描いたのかもしれない。
俺の幸せと母さんができる折り合いが着く進路へ。
ホストをやってると、どこまでが本当の俺か分からなくなる。酒の席での甘い言葉も、演出された顔もどこかで役割になっていた。
でも母さんの前では、せめて『田村亮』でいたい。母さんに夢を見せてやりたい。
ファッションで入れたはずのタトゥーを、マフラーでぐるぐる巻きにする。
