火遊びウサギは笑わない 10
episode 2
「会ったら、すぐ分かるから。大丈夫、いい人そうだし」
私はそう自分に言い聞かせ、スマホを握りしめて家を出た。
マッチングアプリで知り合った男との初対面に向かう道すがら、夕暮れの駅前の雑踏がざわめく。待ち合わせ場所は、駅から少し外れたファミレス。
土曜の夕方、人の流れは多いけれど、雑多な賑わいがどこか他人事のようで、誰にも見つからない安心感があった。
ファミレスのガラス窓には、色褪せた「本日のケーキ」ポスターが貼られ、店内からはコーヒーの苦い香りと、隣のテーブルのカップルのおしゃべりが漏れ聞こえる。
男はプロフィール通りだった。
いや、写真より少し老けていて、髪が薄くなり始めた頭頂部が鈍く光る。
でも、「まあこんなもんでしょ」と自分を納得させた。清潔感はそこそこ、年収800万、商社勤め。(昔の私と一緒だね)なんて、心の中で呟きながら、どこか部外者のように笑えた。
テーブルの上のアイスコーヒーのグラスに、氷が音を立てて崩れる。期待と諦めが層になり、なんだか虚無に襲われる。
彼はよく喋った。
「マッチングアプリって、ほんと魔境だよね」
「最近の子、みんな顔と加工だけで勝負してくるし」「でも瑠璃ちゃん、そういうのと違って落ち着いてるっていうか、ちゃんとしてる感じある」
褒め言葉のつもりかもしれないけど、「ちゃんとしてる」って言葉が、なんかザラッと引っ掻いた。
私、ちゃんとしてる? どこが?
東京での商社生活、裏切られた恋、逃げるように地元に戻った自分。
どれが「ちゃんとしてる」って?
グラスの氷をストローで転がし、「そっかぁ」とだけ呟いた。彼が冗談っぽく手を握ってきたとき、受け入れてしまった自分に何も感じなかった。心のどこかで、冷めた自分が「どうでもいい」と囁いていた。
次の週も、そのまた次の週も、彼と会った。
映画館の暗闇、ショッピングモールの雑踏、ホテルの無機質なシーツ。
何かを埋めようとしていたはずなのに、毎回終わると虚しさで人恋しくなった。
家に帰れば、母はもう私に興味を失ったようにテレビを見つめ、父は来週また転院するらしい。
誰も「また落ちぶれたの?」なんて言わない。それが楽だと思った。安優香のあの軽さ、刹那的な生き方に、ちょっとだけ近づけた気がした。カフェの窓に映る自分の顔が、どんどん知らない女になっていく。
「なんか、重くなってきたかも。ごめん、やっぱもう会うのやめようか」
LINEの通知がスマホに光り、心臓がビリッと破れた。
部屋は間接照明だけにして、ソファで丸くなる。深夜の静けさが妙に痛い。
その夜、久しぶりに泣いた。
どこが悲しかったのか分からない。
ただ、「私が誰にも必要とされてない」という感覚が、ぬるま湯のように全身を包んだ。
涙が頬を伝い、クッションに染みを作る。何かを埋めるために冒険したのに、空洞は前より深くなっていた。
気づけば、深夜2時。
スマホを手に取り、震える指で連絡先をスクロールした。母でもなく、元同僚でもない。なぜか頭に浮かんだのはたった一人の名前。安優香。
「今、話してもいい?」
送信ボタンを押すまで、30秒かかった。心臓がドクドクと鳴り、諦めが寄せ返す。
返事が来たのは、1分後。着信が鳴る。
「いいよ。眠れなかったから」
安優香の声の向こうで、ライターの金属音がカチッと鳴り、ふぅと吐く息が聞こえた。彼女は私が話すまで黙っている。
タバコの煙が漂う彼女の部屋を想像し、なぜかあの駐車場の薄暗い光景が頭をよぎる。何か話さなきゃと焦るのに、どこから始めていいのかわからない。
起承転結で説明する気力もなく、ただ、彼の「重いんだって」という言葉が頭の中でリフレインし、口元が歪む。イケメンでもないのに、悔しい。
「瑠璃ちゃん、男関係?」
安優香の声は渡し船のように静かに滑り込んできた。彼女の一言に、ダムが決壊したみたいに涙が溢れた。
「私、重いんだって」
鼻水が口に入り、嗚咽が止まらない。恥ずかしいのに、声を抑えられない。
「そっか、痛いね」
安優香の声は落ち着いて、どこか優しかった。彼女のあの挑発的な顔やピンクのネイルが頭をよぎるのに、なぜか今、彼女の声が唯一の救いだった。
私の空っぽな心が、安優香の言葉にすがりついていた。
