書くとは選び、削り、余白を残す
日本庭園に足を踏み入れる前、離れたところにある東屋の檜が鼻をくすぐる。
わたしの中から「おかえり」と声がするような、凛とした懐かしい香りが迎えてくれる。
入場門を潜れば、そこはパノラマの絵画。
陽を弾く青々とした芝生の向こうに、紅葉は際に広がる錦織の絨毯。景色を際立たせている。
通路の端に溜まった落ち葉までもが静謐の構図をつくり、わずかな風に揺れるたび、音のない音楽を奏でている。
ここにあるのは自然だけど、人の手によって整えられたもの。
だが不思議と、人工と自然の境界を問う気持ちは起きない。ただ、美は美なのだと、矛盾にさえ寛容になれる。それがアートなのだと納得する。
日陰に入れば、肌寒さに鼻先を動かす土の匂いが濃くなる。
苔は湿り気を帯び、庭全体を静かに呼吸させているようだ。湧水が音も立てずに池へと流れ込み、その水面には風に散った紅葉が揺れながら浮かんでいる。
池には半円を描いた太鼓橋がかかり、季節の移ろいを黙って見守る。
襖ほどの大きさの石から、人の背丈ほどもある石までが無造作に置かれ、両腕を伸ばしたような松の枝が、訪れる者を包み込むように傘を広げる。
その無造作もまた、計算の中にある。
余白を残すからこそ、苔や落ち葉、雨粒や風といった偶然が生きてくる。
アートとは、制御と偶然のあわいに立ち現れるものなのだと、この庭が語りかける。
秋という季節は、もの悲しい。
春や夏が芽吹きや繁りを謳歌するのに対して、秋は散りゆく・枯れていく・静まっていく。
自然の衰退を美しいと感じる感性こそ、日本庭園と深く通じ合っている。失われていくものを美に変える。
それが秋のアートなのかもしれない。
そして、創作もまた同じだと思う。
言葉を選び・削り・残した余白に読者の想像が入り込む。
書ききれなかった部分、消してしまった言葉さえ、作品の一部として息づいていく。
だから、書くことは秋の庭園に似ている。
完成を求めすぎず、欠けや空白を抱えたまま美を含み持つ。
庭に立ち尽くすと、ひとひらの葉が風にさらわれ、水面に落ちて小さな波紋を描いた。
刹那の落葉を見届けるわたしもまた、この風景の一部なのだろう。
その狭間、わたしは確かにアートを見ていた。




