ラベリング社会への違和感
やたらと目にする言葉がある。
「承認欲求」と「自己肯定感」
SNSでも、YouTubeでも、書店の自己啓発コーナーでも、魔法のキーワードのように使われている。
なにかモヤモヤしたものがあれば、
「それは承認欲求だね」と片付けられ、
落ち込んだり人と比べたりすると、
「自己肯定感が低いから」と言われる。
なんでもかんでも、その言葉で説明される。
綺麗だなと心が動いた風景を人と共有したいだけなのに「承認欲求が強い」
仕事で失敗したトラウマがあると
「自己肯定感が低い」
あなたはそうでも、わたしは違うの。
わたしは創作をしている。
それは好きでやっていることで、誰に褒められたいわけでもなく、自己肯定感を満たすためでもない。誰かに認められたいから書いているのではなく、自分の中にある何かを言葉にしたくて形にしているだけ。
創作だけじゃない。家事もそうだ。
毎日の洗濯、掃除、食事の支度。
家族に「すごいね」と言ってもらわなくても、
当然のようにやっている。
別に「自己肯定感が高いから続けられる」なんて思ったこともない。
だけど今の世の中では、そういう自然な営みまでもが承認欲求や自己肯定感の文脈に巻き取られてしまう。
あらゆる感情や行動が、カタカナの心理ワードでラベリングされて、
「はい、あなたはこういう人間」とカテゴライズされる。
人の心をシール帳に分類するみたい。
言葉は本来、人間の複雑さを引き受けるもののはず。
嬉しさと寂しさが混ざった気持ち、やりがいと疲れが同時にある日々、自分でも説明できない衝動。そういうものを丁寧に掬い上げるために、言葉がある。
それなのに、今の風潮では逆に分かりやすさのために多くが切り捨てられている。
人間の心理を数語の流行ワードに押し込めるのは簡単だ。でも、安易にそうしてしまうと奥にあったはずの本音や背景を、誰も見ようとしなくなる。
わたしは小説モドキを通して問い続けたい。
「本当にその言葉で語り尽くせるのか」と。
ラベリングされた自分ではなく、ラベリングを超えた誰かを描きたいと思う。
心理は、
もっと自由で、
もっと複雑で、
もっと言葉にならないものであるはずだからさ。
