海軍
日航機事件と海軍のつながり
①機長
機長(CAP):高濱雅己(たかはま まさみ、49歳 宮崎県出身)・運航部門指導教官
JAL入社年月日:1966年(昭和41年)12月1日
海上自衛隊(担当操縦教官は3等海佐・杉野計雄(元・帝国海軍飛行兵曹長)から富士航空・日本国内航空を経てJALに入社
②墜落現場、群馬県上野村村長
生年月日 1913年12月23日
出生地 日本 群馬県多野郡上野村
没年月日 2011年12月22日(97歳没)
死没地 日本 群馬県富岡市
出身校 海軍兵学校
前職 海軍軍人
所属政党 無所属
称号 正五位 旭日重光章
ちなみに、墜落現場を「御巣鷹の尾根」と命名したのは、この黒沢村長で、本来の地名は、高天原(たかまがはら)山。
高天原山(たかまがはらやま)は群馬県と長野県の県境にある標高1,978.6mの山である。高天原とは神話における天の世界のことで、別名、蟻ヶ峰・ショナミの頭。
当山の北東、群馬県側の尾根には、1985年8月12日に発生した日本航空123便墜落事故の墜落現場(北緯36度0分5秒 東経138度41分38秒、標高1,565m)がある。事故当時の報道では、「御巣鷹山に墜落」と伝えられていたが、正確には「高天原山に属する尾根」である。
その後、墜落地点である高天原山の尾根は、当時の上野村村長であった黒沢丈夫により「御巣鷹の尾根」と命名されている。
つまり、穿った見方をすれば、「高天原山」という名前をあえて出さないようにした、ともいえる?
③事故当時の総理大臣
生年月日 1918年5月27日
出生地 日本 群馬県高崎市末広町
没年月日 2019年11月29日(101歳没)
死没地 日本 東京都
出身校 東京帝国大学法学部政治学科卒業
前職 海軍主計少佐
内務省官僚
拓殖大学総長・理事長・名誉総長
世界平和研究所会長
群馬県出身かつ海軍出身。村長とふたつおそろい。
④海上自衛隊の捜索
墜落翌日の8月13日18時10分、相模湾で海上公試中だった海上自衛隊のはつゆき型護衛艦「まつゆき」が機体尾部の一部を偶然にも発見し、19時までに回収した。
1985年(昭和60年)11月1日から11月20日まで海上保安庁の測量船「海洋」と、海洋科学技術センターの海中作業実験船「かいよう」による残骸の海底捜索を行った。
偶然にも発見。なるほど。
123便事件を追っている方々は、陸軍や満州ではなく、「海軍、幕府、九州、三河(愛知、静岡)、京都(御所や京アニ)、気象庁」に関心を向けていることが多い。それがずっと気になっていました。
日本軍は
— Shinya 19❂86 (@takion_s) November 21, 2021
なぜ あのようなインフラの整っていない時期に
膨大な数の戦艦や大型船を
建造できたのか?
ですねー
アメリカやイギリスの海軍よりも
遥かに技術的に精度の高い軍艦を
多数造船しています。
いったいどこからそのような技術や船自体を造る資源を調達出来たのか?…ですねー😐
本工場(長崎造船所)は、1857年(安政4年)に日本初の艦船修理工場「長崎鎔鉄所」として誕生し、江戸幕府から明治政府に管理が移った後、1887年(明治20年)三菱に払い下げ、以後民営の造船所として多数の艦船を建造した。戦艦「武蔵」を建造したことでも有名である。
現在は民間船舶の他海上自衛隊の護衛艦も多数建造している。1950年代には後甲板の傾斜に特徴的な設計を持つ護衛艦を多く建造し、護衛艦における「オランダ坂」の名前の由来となった。
官営期コーナー
1857年(安政4年)飽の浦に長崎鎔鉄所の建設が着手され、1861年(文久元年)落成した。建設にあたっては時の長崎海軍伝習所取締役永井玄藩頭尚志の建議に端を発し、オランダの協力を得て進められた。特に主任技師オランダ海軍機関将校ハルデスは、工場建設に必要なレンガ作りから指導するなど、さまざまな困難を克服し、わが国では初の本格的な洋式工場を完成した。これが長崎造船所の起源であり、わが国重工業の発祥である。
史料館展示物のご案内(官営期コーナー)
旧日本海軍艦船の沈没位置 ➖
— rin (@oW5yTkUe8Eg2AF4) December 1, 2021
画像はお借りしました🙏 pic.twitter.com/4wdN7QFKHL
rin さん(@oW5yTkUe8Eg2AF4)のこのスレッド、すごいですね。
全部は拾いきれないけれど、いくつか気になったものを。
1876年(明治9年)3月21日に海軍省の外郭団体として創設された日本海軍将校の親睦・研究団体である。名称の由来は『荘子』の「君子之交淡若水」から採用命名された。総裁は海軍将官の現役皇族、社長は現任海軍大臣の兼務であった。
水交社本部ビル
山本五十六の葬儀は麻布飯倉町の水交社で行なわれた。1943年(昭和18年)6月に行われた山本五十六元帥の国葬の列は、麻布飯倉町2丁目交差点近くの「水交社本部ビル」から出発した。
敗戦後の水交社解散後に、空襲から焼け残り空家となった、大きな白い建物であった「水交社本部ビル」は米軍に接収され、米軍関係者のサロンや宿舎に使用された。後に米軍は日本政府へ、「旧日本海軍の水交社を返還する」と通告した。しかし、「水交社本部ビル」が使われなくなっても返還されず、その代わり、占領軍のフリーメイソンによって占拠され、入り口には「メソニック・ビル」の表示が掲げられた。
島田実験所
Z兵器
太平洋戦争当時の大日本帝国海軍は、電波を利用したエネルギー兵器の実用化を試みていた。この「Z兵器」は、通信や探知(レーダー)など間接兵器として使用されている電波を直接攻撃兵器として運用できないか……という発想からスタートした。パラボラミラーによって電波を照射し、飛行機や自動車を焼損破壊しようという企図であった。B-29型超重爆による日本本土空襲が始まると、従来の高射砲や防空戦闘機(局地戦闘機)を凌駕する対空兵器としてZ兵器の開発を急いだ。静岡県島田に大型パラボラミラーや反射鏡が設置され、基礎実験をおこなう段階になっていたという。
島田理化工業島田工場(島田製作所)(旧島田分室、島田実験所、島田実験会)において、同所長水間正一郎、海軍技術大尉伊藤庸二の下、旧東北帝国大学教授渡辺寧らによって真空管マグネトロンを用いた57種類の高出力殺人光線「Z」が計画・開発実験され、戦後GHQ科学情報調査団(コンプトン調査団)デイビット・T・クリッグス博士によって査察を受け接収された事が、島田製作所元職員八木春尚、牛込恵子(水間正一郎の娘)と水間の遺された日誌、島田実験所元海軍技術大尉矢波雅夫の証言、アメリカ国立公文書館に保管されたアメリカ陸軍諜報部門が作成した文書簡(1945年10月23日)およびワシントンポスト(1946年4月22日付)、米海軍訪日技術使節団(1945-1946年にグライムス海軍大尉作成)文書簡への取材を元に解明され、このことが2014年7月26日にTBSの報道特集において放映された(TBS報道特集「殺人光線「Z」 秘密実験所の深層 (2014/7/26 放送)」)。この分室では渡辺寧、宮島龍興、菊池正士、小谷正雄、渡瀬譲、小田稔などが研究していた。島田実験所は1943年「強力極超短波」の兵器利用の研究のために設立されたものである。真空管とマグネトロンについてここで工学者と物理学者の間で研究が行われた。
戦中にこんな研究してたなら、5G光線くらい簡単そうだな(個人の感想です)
幕府海軍(ばくふかいぐん)は、江戸幕府が設置した、海上戦闘を任務とした西洋式軍備の海軍である。長州征討などで活動し、慶応3年(1867年)10月14日の大政奉還で幕府が消滅し、明治元年(1868年)4月11日の江戸開城後も戊辰戦争において榎本武揚に率いられ戦闘を続けた。
江戸幕府には、もともと、戦国大名時代に徳川氏の傘下に入った海賊衆を起源として、船手頭に率いられた水軍が設置されていた。
嘉永6年(1853年)の黒船来航直後より、急激な海軍力の整備が開始された。
オランダ海軍から派遣されたライケン大尉以下22名を教官として、長崎海軍伝習所が開設された。
慶応2年(1866年)6月の第二次長州征討では海軍も投入された。
また幕府海軍で経験を積んだ人員や、建設された造修施設は、後の大日本帝国海軍の土台となった
なるほど。
造船技術は、江戸幕府→明治政府→三菱(長崎造船所)と移管された。
日本の海軍は、幕府海軍→大日本帝国海軍→海上自衛隊 と引き継がれた。
そして幕府に肩入れしたフランス。トリコロールがここにつながる、と。
薩長はイギリスの息がかかってますもんね。
あと満州では三井の名前をちらほら見かけかましたが、三菱はこちら側ということでしたか。
今まで、「関ケ原西軍/長州/明治政府/大日本帝国陸軍/満州/清和会」のラインにずっと注目してきましたが、この「関ケ原東軍/徳川幕府/大日本帝国海軍」が日本DSの三層目にある、もうひとつの勢力なのかもしれませんね。
この記事を書いたときにはいっしょくたにしてましたが、陸軍/海軍というわかりやすい区分けだけでなく、なんかもっと細かくいろいろあって、複雑に絡み合っているような気がとってもします。
政治と宗教の癒着として、創価学会、統一教会ときてますが、まだ大本教は表に出てきていないように、まだ知らないことたくさんあるんだろうな。
仮にこの墜落事故に海軍が関わっていたとして、「海軍が起こした事件」なのか、または「海軍を嵌めるための事件」なのかは、簡単には判断できないように感じます。
