【世界史】とりあえず 声さえ出せば 鬼が聞く
エカチェリーナ先生はこの日も絶好調で、封建社会の崩壊について教えてくれているのだが、余りの速さに我が脳細胞のほうが先に崩壊しつつある。
1666年にノルマンディー公ウィリアムがフランスより侵入征服、ノルマン朝開始との事だが、フランスに帰ればノルマンディー公、イギリスでは国王というのは、一体どういう立場なのか。仏社の部長が、同社のグループ会社でも何でも無い英社の社長を兼務するイメージなのだろうけど、仏社の社長はそれを黙認せざるを得なかったのだろうか。まあ、商法(現会社法)上も違反行為では無いのだけど、17歳だった嘗ての私は違和感に阻まれて理解が追い付かない。
ジョン王って人は、リチャード1世の息子・アーサーが居るにも拘らず王に就いたため、正統の王位継承を巡り仏王フィリップ2世と争った結果、ギエンヌ地方を除くフランス所領を失ったとの事。また、カンタベリー大司教の叙任権を巡って教皇インノケンティウス3世と争った結果、破門され、自分の国を全て献上すると言って謝罪したとの事。これだけの大喧嘩を続けていると疲れないだろうか。生まれ変わっても王様だけには成りたくないものだ。彼が母国に貢献した事と云えば、皮肉にも自らの悪政が引き金で貴族達に団結され、1215年にマグナ・カルタ(大憲章)に署名した事だろう。イギリス憲法の原点だ。でも、幾ら法による支配を明文化したところで、法は法を破る輩まで支配出来る程万能なのかという疑問が高校2年の私に襲い掛かったその矢先、待っていましたとばかりに先生は、ヘンリー3世って人がマグナ・カルタを無視した結果、貴族の首領シモン・ド・モンフォールに反乱を起こされ、議会が召集される様になったとの答えを呉れた。
率直に私は反乱を起こす人の気力と体力に脱帽する。ワットタイラーは農民を率い、これにロンドン市民が合流し、農奴制の廃止や商取引の自由を掲げるも、交渉中に殺された。それでも聖職者ジョン・ボールが登場し、「アダムが耕し、イブが紡いでいる時、誰が貴族だったか」と説いて、農奴達に平等の概念を植え付けた。今こうして日本の平々凡々たる一般庶民のバカ息子がのうのうと世界史を学べるという事実にも、こういう方々の重ねてきた努力が多かれ少なかれ絡んでいるのだろう。然様に私は受け止めた。
反乱には、普段自分から声を発しないタイプの人、会議や打合せの席でも大人しくて意見を出さないタイプの人も加わっていたことだろう。この人達は、議論に参加する姿勢が見られないから怠慢だとか、何を考えているのか分からないから腹黒いとか、とりわけディスカッションを何かと礼賛する風潮の中では低く評価されがちだけど、今はコレを話すタイミングで無いとか、私見が定まらないから取り敢えず定まっている他人の話を聴いてみようとか、実は頭の中の整理に時間を要しているが故に無言なのかも知れない。勝手な想像に過ぎないけれど、斯様なる無言の意思をも気付かぬ内に味方へと巻き込んでしまう様なパワーの持ち主が、良くも悪くも民衆を統制するのだが、それも器の大きさというか精神的耐性の強さというか、人間としての幅広さや奥行きの為せる業である事は間違い無いのだから、やはりその点においては敬服する。
「嘘も本気で言えば真実になる」といった思考は、大体悪い意味を含んでいるが、必ずしもそうでない場面はあると思う。私の同級生で挙げれば、野球部のキャプテンだった奴の言葉が忘れられない。「自分の人生は、他人に対して自分らしくない自分を演じることで豊かになるじゃないかな。試合が劣勢の時、仲間の気分が塞いでいる時、態とでも何でもいいから取り敢えず大声張り上げてチームを鼓舞するでしょ。ありゃ嘘と謂われれば嘘さ。だって、例えば5点差で9回裏ツーアウトだったら、仮に満塁でも本気で逆転出来るなんて思えないもん。それでも諦めないフリをしている内に、その偽りの自分が本来の自分であるかの様に憑依して、マジで諦めの気持ちが消えていってさ、段々その心理状態が楽しくなっていくもんなんだぜ。やってみろよ。」……そういえば、会社のベル先輩も「ちっともやる気の出えへん仕事でもな、敢えて上司に向かって情熱的に取り組むフリをしてまうねん。ほんで評価が上がったら儲けもんやし、モチベーションも上がるやろ。ほんなら次の仕事は演技せんでも自ずとやる気が出るやんか。」と豪語していた。迫真の演技は、不器用な人生を補うツールなのである。という訳で、この日の私も「世界史が世界一好き」と己に言い聞かせて授業に臨んでいた。でも、当時の私が世界一好きなのは世界史では無くて千春さんだった。
人は偉くなると神をも牛耳りたくなるのか、否、宗教の世俗化が鼻に付くのか、日本史でも信長の比叡山焼き討ちとか、秀吉の高野山攻めとか、諸々あるが、フランスでもフィリップ4世って人が、教皇ボニファティウス8世って人と争ったらしい。国防費を名目に新税を設け、聖職者免税の特権を無視して教会や修道院に課税した事に教皇が抗議。それでも第一身分の聖職者、第二身分の貴族、第三身分の都市代表者によって構成される三部会が開催され、新税が承認される。教皇はフィリップ4世を破門するが、彼は動じないどころか、教皇をアナーニに幽閉し、憤死に至らしめる。そして、所謂「バビロン捕囚」つまり南フランスのアヴィニョンに教皇庁が移され仏王の干渉を受ける時代へと突入する。
フィリップ4世の死後、カペー朝は直系男子が相次いで早世し断絶。これが教皇の祟りだったのか否かが気になったが、無論そんな事はお構い無しにエカチェリーナは続くヴァロア朝の歴代王の名を容赦無く私に叩き込もうとする。フィリップ6世、ジャン2世、シャルル5世、シャルル6世、シャルル7世、ルイ11世、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世、アンリ2世。どうせ「○世」って名乗るなら、ずっと「フィリップ」の儘でいいじゃないか。この数字が憶え辛さに拍車を掛けている。おい、オメエさん、こいつぁ何とかなんねえのかい。五代目古今亭志ん生とか、三代目桂米朝とか、落語家の襲名ですら、余程の名人で無けりゃ何代目なんざ気に掛けた事も無え。
先生は「全員が無理なら、せめてシャルル7世って名前だけでも憶えて下さいな」と高座から客に呼び掛けた。というのも、このシャルル7世のランスにおける戴冠を成し遂げ、百年戦争の終結に寄与したのが、救国の少女・ジャンヌダルクなのである。この戦争は当初、国王や諸侯が主役の戦いであったが、後に国民の間に愛国心が芽生え、民衆が参集する展開となった。国土の荒廃は酷かったが、勝利に伴い国民的統一が完成し、また多くの諸侯の戦死が王権の強化を齎したという解説がなされた。
千春さんは私にとってのジャンヌダルク、則ち我が高校生活に不可欠のカリスマであり、英雄であり、支柱であった。私はこの人をお守りするためなら死をも厭わない。この人と共にパリ奪回を目指す。気分はすっかり勇敢な戦士みたいだったが、彼女のほうはというと、私がその涼しく聡明な瞳に吸い込まれている数分の隙に、オットー1世、同2世、同3世、ハインリヒ2世、コンラート2世、ハインリヒ3世……フリードリヒ1世、ハインリヒ6世、ヴェルフ家のオットー4世、フリードリヒ2世といった具合で、神聖ローマ帝国ことドイツのエリアまで丸暗記を済ませてしまっているご様子であった。因みにフリードリヒ2世の後は大空位時代と相成るのだが、千春さんの彼氏の座が空位だというのに、それを狙う勇敢さに欠けた私にはそもそも戦士の資格が無いな、と情けなく思い直す始末であった。尚また加えると、Mr.Childrenが「シーソーゲーム~勇敢な恋の歌~」を歌うのは、この2年後の事である。そういえば、あの歌にもアダムとイブが御出座しであったな。ジョン・ボールも草葉の陰で嘸かしお悦びのことだろう。
シーソーゲームから更に10年も経った頃だろうか、大学を卒業し、上州と信州の営業を経て、京都の本社へと転勤した私は、深夜のテレビ番組に出演していた。「チャンスの神様は一度だけ」とか何とかいうタイトルで、若手芸人に混じり、大喜利の真似事が始まる。大喜利といっても座布団の上から話芸のみで笑わせるのでは無く、ロケ地で体を張るのだ。この日のお題は、コンビニで或る物を買い、レジで何か一言、面白い事を云う、というものだった。実際のコンビニの駐車場でカメラが回り、出来た者から手を挙げ、指名されたら店内に入っていく。審査員も実際のレジ打ちのバイトさんだ。
こういうのは事前に台本が配られるものだと勝手に思い込んでいたけれど、予想に反してのぶっつけ本番。私は戸惑って何も言えず、リアクションすら尻込みする一方であった。これはマズい。これじゃ、まさに「会議や打合せの席でも大人しくて意見を出さないタイプの人」ではないか。見るに見兼ねた売れっ子の司会者から「オイっ、オマエ、何しに来たんや。お地蔵さんか。黙秘権行使か。もうエエわ。罰ゲーム決定!」とツッコミを入れられると、その瞬間、背後でトラックいっぱいのビールケースが除幕される。アシスタントの説明によれば、この函を積み上げて階段を作り、私がその階段を昇り、無事にコンビニの屋上に辿り着いたら、敗者復活として次回の大喜利にも出られるという内容の罰ゲームだった。平屋建てだが、屋上までは4メートルを超える高さ。こんなにも危険に満ちた軽挙妄動をよくもまあ局が許可したものである。私は半泣きで函を積み上げる。漸く階段がそれなりの形に仕上がって来たところで、周囲の若手芸人達がそれを乱暴に崩してしまい、また一からやり直す。半永久的にこの地獄が繰り返される。「ダ~ハッハッ、解ったか、お地蔵さん。これがホンマの賽の河原ゆうヤツやで。」とこの上なく陰湿な視線が私に向けられる。地蔵菩薩はこの私をお救いになるお役目では無かったのか。「自分の身は自分の芸で助けるのみ。どや? それとも、この王様に反乱でも起こすか?」と嗤いながら畳み掛ける司会者。嗚呼、こういう場面こそ「やる気の出えへん仕事でもな、敢えて上司に向かって情熱的に取り組むフリをしてまう」べきではないか。どうした、オレ。さあ、司会者に懸命さをアピールするんだ、早く! 意識が朦朧としていく中、一体どうしてサラリーマンの私がこんな公開処刑の憂き目に遭わねばならぬのか、と己が恨めしき境遇を不可思議に感じていると、そこに一筋の光が差し込んで……嗚呼、遂に本物のお地蔵様か……と思いきや、眼前に広がる世界は悪夢の後の朝ぼらけ。
橋田壽賀子先生の仰せの通り、「渡る世間は鬼ばかり」。思い起こせば、その鬼に囲まれた世間で物事の道理を追究しようと試みたのは、18歳になったばかりの季節の事だったろうか。寝汗に濡れた枕を震える両手で抱えつつ、私の脳内は現代文の鬼教師による読書感想文の宿題、高校3年生の1作目へとタイムスリップしているのだった・・・つづく
