類型化
自分としては納得のいっていない言葉があって、しかもその言葉を使う人が多い──という事態は、職業作家としてそれなりにストレスが生じたりもするのだが、こういう場所に「小説」を見つけるための手がかりが隠されていることも多い。
生成AIを活用して「〜〜おじさん」と類型化するような試みについて、私はあまり“面白い”とは思えない。だけど、そういった試みを“面白い”と思う人は確かに存在しているわけで。小川の言葉を借りるならば、そのギャップをもとに世論を捉えるうえでの“手がかり”が見つかるかもしれない。
ただまあ、世論を捉える必要性がいまの私にはそれほど必要なくて、局所的な界隈においてそこそこにトレンドをキャッチしていればいい状態になっているのが正直なところ。だから、小川のいうような“手がかり”など欲していないのだけど、まあしかし、これだけXに類型化の画像が流れてきたら、それはもう不快とか滑稽だとかいう気持ちを超えて、“彼ら”が類型化する意図について多少なりとも興味が湧いてくるのであった。
いや、興味なんて、ない。
だって、別に彼らとて、特段類型化したいと思ってやっていることではないからだ。それっぽい画像をこしらえて、Xでそこそこの反応を得て、しめしめと溜飲を下げているだけではないだろうか。
そこにMECEのような論理性は皆無で、ただただ“それっぽい”状態であればもう満足なのだ。あらゆる物事はそんなに簡単に類型化できないはずだが、たとえ低いレベルの分類であっても、そこで嘲りを含む笑いが起こればそれで良くて、昨今、その場にいないタレントの悪口を垂れ流したバラエティ番組とわりと構図は同じであろう。その場にいない“誰か”が、その“類型化”した画像の中に潜んでいて、「あいつ、イタイよな」とひそかに笑うのだ。実際、その類型化において、頭に浮かぶ“あいつ”のことをチラリとでも敬意は払えているか、いや、払えない。
私は3年前くらいに初めてMBTI的なものを受けて、「うーん、これって自分に当てはまるんだろうか」と真剣に首を傾げてしまった。周りは、「いや、堀さんって、○○タイプだと思いますよ」と口を揃えて言っていたけれど、あまり良い気分にはならなかった。(その人たちに対するネガティブな感想ではなく、あくまで自分自身の心持ちの問題である)
おれは、周りが思っている以上に、おれ自身のことを複雑な人間だと信じているんだろう。外交的な部分もあれば、内向的な部分もある。論理も直感も信じているし、無謀な冒険もしたいし、でも時にはしっかりと石橋を叩いて渡るような慎重さも持ち合わせている。そんな人間なはずで、そして、たぶん多くの人たちが自分自身のことをそのように評価しているのではないだろうか。そんなことないのか。自分をMBTIの16種類の中で規定して、その通りに思考も行動も進めるようにしているのだろうか。分からないな、分からないし、分かりたくもないね。
類型化は嫌いではなくて、むしろサイエンスにおいては絶対に必要なことだ。だが、雑で粗悪な類型化は何の意味もないと思っているから、Xにおける生成AI画像の氾濫はちょっと食傷気味に感じてしまうのだ。しばらくこのムーブメントは続きそうなので、今後は見つけ次第ポストをミュートしたいと思います。おれは、おれの生き方を貫くぜ。なんてね。
いいなと思ったら応援しよう!
記事をお読みいただき、ありがとうございます。
サポートいただくのも嬉しいですが、noteを感想付きでシェアいただけるのも感激してしまいます。