揮発
時折、夢を見る。
別れたはずの彼女と、
なぜか楽しく旅行へ行く夢だ。
どこへ向かっているのかも、
分からないまま、
ただ、となりで笑っている。
目が覚めると、
枕がすこし濡れている。
それも、朝の支度のあいだに、
いつのまにか乾いていく。
そうして今日も、
俺の小さな喪失は、
日常の流れに溶けて、消える。
世界は、
そんな俺のことなど露知らず、
今日も話題に事欠かない。
政治、戦争、AI、株価。
犯罪、不倫、浮気、結婚、不祥事。
誰かへの憧れ、誰かへの嫉妬。
みんな、
目まぐるしく流れていく世間に、
飽きもせず、興味津々でいる。
先日、なんとなく、
孤独についての解説を眺めていた。
ひとくちに孤独と言っても、
どうやら三つあるらしい。
人との接触そのものが少ない、
社会的な孤立。
人に囲まれていても、
分かってもらえないと感じる、
孤独感。
そして、
自分で選んで手にする、
ひとりの時間。
世間が
あれだけ賑やかに流れているのに、
人の抱える孤独感のほうは、
むしろ逆流するように、
増している気がする。
昔読んだ
『暇と退屈の倫理学』という本を、
ふと思い出した。
おかしなものだ。
人は、他人のことなら、
自分のこと以上に知りたがる。
なのに、肝心の自分のことは、
思っているほど分かっていない。
そのくせ、
他人から踏み込まれるのは、
もう御免だという人が、増えている。
たぶん、
自分と向き合うだけの、
あの間延びした時間が、
いつからか、手のひらの中に
吸い込まれてしまったのだ。
退屈の潰し方を、みんな忘れた。
手持ち無沙汰になると、
反射でスマホを撫でている。
——俺も、その一人だ。
そしてこれから、
AIが、それをもっと滑らかにしてくれる。
考える前に、答えが差し出される。
迷う前に、最適が並べられる。
便利なはずだ。
ありがたいはずだ。
道具を作る側にいる
俺が言うのだから、世話はない。
それでも、夜になると、
こんな戯言がよぎる。
技術が進むほど、人間は少しずつ、
自分で自分を持て余す力を、
手放していくんじゃないか。
進歩の裏側で、
音もなく崩れていく何かが、
あるんじゃないか、と。
人の記憶も、たぶん、
AIのログと変わらない。
容量が足りなくなれば、
古いものから、
順に消されていく。
あの旅行の夢だって、
いつまで見られるか分からない。
彼女の笑い方も、
声の高さも、
少しずつ揮発して、
そのうち、
なぜ枕が濡れていたのかさえ、
思い出せなくなる。
もう、過去には戻れない。
それでも今夜、
俺はまた、
あの夢を見たいと思っている。
すっかり乾いて、
消えてしまう前に、
もう一度だけ。
たぶんそれだけが、
俺がまだ人間でいられる、
細い証だから。
