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蘇生前夜

#エッセイ

茹だるような暑さから逃げるように、
自室でゴーヤチャンプルーを食べていた。

冷房の効いた部屋で、
汗をかいたグラスを置いて、
スマホで新しい趣味を探していた。

何か始めたいというより、
何も始めていないことに、
そろそろ言い訳が要る気がしていたのだと思う。

仕事はぼちぼち充実している。
課題は山積みだが、不満はない。

ただ、気づけば仕事と家の往復で、
家にいても仕事に使えそうなAIを、
試したり調べたりしていて、
結局あれも仕事だ。

ボカロの制作は、遅々として進んでいない。
前に作りかけた曲が、
開かれないまま置いてある。

先日、ニュースで大きな出来事を知った。
速報の画面を、しばらく黙って見ていた。

誰かの身に起きたことを、
自分の話に引き寄せて書くのは、
正直、気が引ける。

それでも書くのは、
あのとき自分の中に浮かんだ考えが、
あまりに身勝手で、あまりに正直だったからだ。

このまま死んだら、
俺は満足なんだろうか。
そう思った。

取りたいと思っていた資格は取れていない。
やりたいと思っていた趣味は始められていない。
行こうと思っていた旅行にも行っていない。
あるのは仕事だけだ。

昔から、生活の充実感みたいなものは薄かった。
予定があっても、忙しくても、
たいして変わらない。

将来へのなんとなくの不安だけがあって、
その裏返しみたいに、
いつ死んでもまぁいいか、と思っていた。

若い頃は、早くに亡くなった音楽家たちに、
かっこよさのようなものまで感じていた。

いま思えば、ずいぶん幼い憧れだ。
あの人たちが遺したのは作品のほうで、
早く終わったことではない。

だいたい、俺と彼らの決定的な違いは、
俺が何も残していないということである。
残すものがある人間の終わり方を、
何も持っていない人間が羨むのは、
筋が通らない。

それでも今回は、違うことを思った。
本当になんとなくなのだが、
このまま死んだら、つまらないな、
と思ったのだ。

満足でもなく、悔しいでもなく、つまらない。
我ながら、
ずいぶん軽い言葉が出てきたものだと思う。
でも、いちばん正確だった。

noteを始めたときも、
初めてボカロの曲を公開したときも、
初めてWebアプリを世に出したときも、
たぶん俺は「何か残したい」と思っていた。

もっと正直に言えば、
誰かに見てもらいたかった。
褒めてもらいたかった。
あの漠然とした自己顕示欲の正体を、
最近になってようやく言葉にできた気がする。

つまり俺は、俺を評価していない。
そして、俺を満足させる方法を知らない。

だから外に出すのだ。
自分では判断できないから、
誰かの反応を借りに行く。

スキの数を見て、
ようやく「あれは悪くなかったのかもしれない」と思う。
他人の目盛りでしか、自分を測れない。

そう考えると、ランディーという、
休みの日にやることを1枚だけ渡すアプリを作ったのも、
同じことだったのかもしれない。

あれは人の休日を助ける顔をしているが、
たぶん俺は、
俺自身の楽しませ方を知りたかったのだ。

決められない人間が、決めてくれる道具を作る。
自分で自分を満足させられない人間が、
満足の仕方を配ろうとする。
滑稽な話である。

人はいつか死ぬ。
それは当たり前のことで、
いまさら言うことでもない。

ただ、あれから考えているのは、
心臓が止まることだけが死ではないだろう、
ということだ。

何も感じなくなること。
何を見ても、
そういうものかと思うだけになること。
生活が、こなすものだけになること。

感情の死、感性の死。そっちのほうが先に来る。
そして、そっちのほうがずっと長く続く。

俺はたぶん、
もう何年か、その状態のふちを歩いていた。
息はしているが、生きているかと言われると、
返事に詰まる。

それを「落ち着いた」とか
「大人になった」とか呼んで、
うまくやり過ごしていた。

だから、やってみたいと思ったことを、
とにかくやってみることにした。

時間はない。
でも、時間は作るものだと、あちこちで聞く。
最初の一歩にためらいがあるのも本当だ。
ただ、死ぬことに比べたら、
申し込みのボタンを押すくらいは、
たぶん簡単だ。

何も失わないし、誰も困らない。
それなのに、俺は何年もそれをしなかった。

そういうわけで、
体験レッスンをふたつ申し込んだ。

続くかどうかは知らない。
二回で辞めるかもしれない。
ただ、行かなかった俺よりは、
行った俺のほうが、まだ面白い。

生き返ったわけではない。申し込んだだけだ。

それでも来週、俺は出かける。

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