明滅
祖母の家に帰った。
大層な田舎で、
コンビニまで歩けば三十分はかかる。
真夏日と呼ぶのも生ぬるい気温で、
外に出る気力は早々に失せた。
諦めて、一日じゅう家にいることにする。
その家に、
親族が十五人ほど集まっていた。
いとこたちは、
俺と同じ二十代の後半から三十代。
そのいとこが結婚して、
子どもを連れてきている。
畳の上を、小さいのが二人、
意味もなく這い回っていた。
正直に書くが、
俺は子どもが得意ではない。
怒られるかもしれないが、
あまり欲しいとも思っていない。
それなのに、目の前のその光景から、
どうしても目を逸らすことができなかった。
そこには、
疑いようのない「幸せ」の形があった。
形式的だ、と言ってしまえばそれまでだ。
けれど形式というものは、
理由があるから形式になる。
幸せの形はそれぞれ、とよく言う。
たぶん、本当なのだろう。
ただ、それを手にしていない側から眺めると、
あの言葉は、少しばかり眩しすぎる。
田舎の家はそこそこ大きいが、
十五人も入ればさすがに狭い。
肩と肩が触れるほどの距離に、全員がいる。
なのに俺だけが、
どこか遠い場所に立っている気がした。
数学に、位相という考え方があるらしい。
俺は数学科の人間ではないから、
詳しいことは何も言えない。
ただ、聞きかじった話が、
ずっと引っかかっている。
位相というのは、
ものさしを使わずに「近さ」を扱う考え方だ。
何センチ離れているかではなく、
どこと、どうつながっているか。
距離を測らなくても、
近い遠いは決まってしまう。
それなら、あの居間の説明がつく。
俺といとこのあいだは、
数十センチしかなかった。
それでも俺たちは、たぶん、近くはなかった。
もうひとつ、面白い話がある。
位相の世界では、切ったり貼ったりせずに、
伸ばしたり曲げたりして重ねられるものを、
「同じ形」として扱うらしい。
だからマグカップとドーナツは、
同じものになる。
どちらにも、穴がひとつだけ空いているから。
では、
いとこの手にした幸せと、俺のひとりの生活は、
うまく引き延ばせば、いつか重なるのだろうか。
たぶん、重ならない。
穴の数が違うものは、
どれだけ丁寧に伸ばしても、
決して同じにはならないと決まっている。
重ねたいなら、どこかを切って、
どこかを貼るしかない。
俺には、穴がひとつ多いのか、
ひとつ足りないのか。
それさえ分からないまま、
畳を這う子どもを、
ぼんやり眺めていた。
切って、貼れば、
あの形になれるのかもしれない。
なれるのかもしれないが、
そこまでして重なりたいのか、
と聞かれると、言葉に詰まる。
夕方、祖母が当たり前の顔で、
人数分の茶を配っていた。
結婚したのも、しないのも、
子どものいるのも、いないのも、
狭い居間に、全部そのまま並んでいる。
誰の形も、切られていない。
俺の形は、この先もきっと、
あの輪と重ならない。
それでも今日、この家は、
重ならないままの俺を、
ちゃんと一人分、置いてくれていた。
帰りの車で、
窓の外を流れる田んぼを見ていた。
べつに要らない、という気持ちと、
それでも眩しかった、という気持ちが、
さっきから交互に、点いては消える。
どちらかに決まってしまえば、
いくらか楽なのだろう。
たぶんこの明滅は、当分おさまらない。
俺は自分の穴の数を、まだ数えている。

