見出し画像

【弥生の国々④】邪馬台国への道~九州(下) 金印「漢委奴國王」の地

 続けて、北部九州の伊都国から東へ、現在の福岡市方面へ。


漢より金印を賜った奴國

福岡県春日市の「奴国の丘」。敷地内に奴国王墓もある(2020年11月4日撮影)

 魏志・倭人伝によると「伊都國から東南の国(福岡県春日市、福岡市)まで百里。官を兕馬觚しまこといい、副官を卑奴母離ひなもりという。二万余戸ある」。記述はこれだけ。伊都國の一万戸を上回る大国ですが、詳述はなし。むしろ「後漢書・東夷伝」の方がエピソードとしては詳述されていて、日本史で必ず習う箇所ですね。

「奴國の丘」に設置された同国中心地と思われる須玖岡本遺跡の案内絵図(同日撮影)

 春日市の須玖岡本遺跡の辺りに「奴国の丘歴史資料館」があります。奴国の丘の名前が示す通り、ここが奴國の中心地と考えられています。北西200mほどの場所で単独の墳丘墓が見つかり、大きな上石の下の甕棺墓から、鏡30枚のほか銅剣、銅矛、勾玉といった豪華な副葬品が見つかりました。王の墓と思われるとのことです。

上下とも奴国の丘歴史資料館の展示物(同日撮影)

 さて、金印についてですが、後漢書・東夷伝には「建武中元2年=紀元57年、後漢に貢物を持った使節が朝貢し、光武帝から『漢委奴国王』の金印を賜った」とあります。この金印が1784年(江戸時代)に海に面した志賀島から見つかりました。なぜ、そんな場所からなのかは不明です。かつて王墓があったのでしょうか?盗掘者の家か墓でもあったのでしょうか?カラスが運んだとか?発見者が偽りの報告をしたとか?

大阪府和泉市の府立弥生文化博物館の「漢委奴国王」の金印のレプリカ(2024年11月22日撮影)
上下とも弥生文化博物館の金印使い方の説明(同日撮影)

 ちなみに金印の大きさは10円玉くらい。チロルチョコぐらいとしてもいいかな?想像以上に小さいです。使い方は朱肉をつけて紙にポンっと押すハンコ・・・ではなく、竹などに書いた文章を束ねたものや品物の「封印」として、粘土に押し当てて使います。これを「封泥ふうでい」といい、王の印である重要性や、封が閉じられてから破られていないことを示します。これは古代メソポタミア文明でよく見られる方式と同じだと思います。

邪馬台国、ヤマト王権以前から大陸と交流

福岡市博物館の展示。漢から得た品々(2026年5月24日撮影)

 金印を賜ったことや後の大宰府といった「大陸への玄関口」の役割は、邪馬台国やヤマト王権の時代以前から、北部九州は盛んでした。福岡市博物館の展示から学んだのですが、福岡市西区の吉武高木遺跡の3号木棺墓から見つかった青銅の鏡や武器類は、紀元3世紀頃のもので、朝鮮半島からもたらされたものだそうです。この時期は、青銅器を死者と共に埋葬する例は少ないそうで、その数や質からして、この3号墓の被葬者は朝鮮半島とのつながりを持ちつつ、抜きんでた存在=王のようなリーダー的な人物かと思われます。つまり、クニと王政の始まりを物語ってもいるそうです。

福岡市博物館展示の吉武高木遺跡などの王墓から出土した大陸由来の青銅器製品(同日撮影)

奴国の丘歴史公園↓

奴國の領域拡大  シン・奴國へ

 福岡市博物館の展示を見ていたら、福岡市や春日市を領域としたと思われる奴国に関する展示が充実していました。先に紹介した「須玖岡本遺跡」の辺りから少し平野部に出たところに3世紀末から4世紀前半ごろ、福岡平野最初の前方後円墳「那珂なか八幡古墳」が作られたようです。

福岡空港近くの那珂八幡古墳。現在は後円部の階段上に八幡神社社殿が建つ(同日撮影)

 那珂八幡古墳は4世紀の築造と思われ、前方後円墳で84mの大きさ。後円部は高さ15m、直径50m。埋葬室からは割竹木棺が確認され、三角縁神獣鏡が見つかりました。埋葬室は複数あるようで、神社社殿もあることから、その真下の埋葬室は未調査だそうです。

福岡市博物館展示。右から3番目が那珂八幡古墳出土の青銅鏡(同日撮影)

 奴國が漢から金印を得た約180年後、倭国大乱を経て邪馬台国の卑弥呼の時代(3世紀前半)となります。この頃からでしょうか、現在の丘陵がある春日市の須玖岡本遺跡の辺りを中心地としていた奴國は、福岡平野の真ん中に中心地を移動させていたようです。「シン・奴國」という言い方はないでしょうが・・・それは学術的には比恵遺跡と那珂遺跡と名付けて分けられていますが同時代の遺跡で、両遺跡の領域は164haと広大。吉野ケ里遺跡の6倍に相当するそうです。4世紀の那珂八幡古墳はその中央部に位置するそうです。もちろん、すでにヤマト王権の影響下に入っています。

 博多湾の那津なのつが重要な港になって、後の時代の海外使節団を招く鴻臚館や大宰府政庁の発展へとつながっていきます。「なのつ」という名前からも國の名前の名残を感じますね。本来は「奴」ではなく「那」なのでしょうか?

那珂八幡古墳↓


奴國の東の不彌國

 奴國を出ると、魏志・倭人伝には「東行して不彌ふみ國まで百里。官を多模たぼといい、副官を卑奴母離という。千余戸ある」とだけ。奴國からは近いので、福岡県宇美町か同県福津市福間町か?という説があります。

福岡県宇美町の光正寺古墳(2026年5月19日撮影)

 宇美町には3世紀後半の築造と思われる全長54mの前方後円墳「光正寺古墳」があります。現地の案内看板には、「不彌國の盟主の墓ではないか」とありました。卑弥呼が死んだと思われる3世紀半ばから時を置かずして、すでに前方後円墳が北部九州に造られているんですね。こちらも福岡空港から車で10分とかからない場所に位置しています。

宇美町歴史民俗資料館展示の遺跡出土品(同日撮影)
同館展示の宇美町の遺跡や古墳を示す模型。不彌國の領域はこのぐらいか?(同日撮影)

 ここが不彌國であろうとなかろうと、卑弥呼の時代の前後で、すでに北部九州一帯において、ここまでの遺跡や古墳が出現している点は気になるところです。さらに、奴國の「那珂八幡古墳」や不彌國の「光正寺古墳」の大きさ。これらが各国の王墓の大きさの基準とするなら、「卑弥呼の墓」はそれを上回ってもいいでしょうし、そのぐらいの技術力や人の動員力はあるでしょうね。なにせ、漢の「倭の奴国王」レベルではなく、親魏「倭王」ですからね。これを超える規模の古墳となると・・・北部九州にはあまり・・・見当たらないですが・・・いや、むしろ卑弥呼の死後から、その墓を模しつつ小さめに遠慮した前方後円墳が各地で広がり始めた?

 はてさて???

光正寺古墳↓

行方が分からなくなる投馬國、そして邪馬台国へ・・・

 そして、ここから先が大問題ですね。魏志・倭人伝の不彌國から次は「南へ水行二十日」と、船に乗ったと思われる記述があり、随分と時間がかかって投馬とま國に着き、さらに南の邪馬台国には「水行十日、陸行一月」だそうです。これをそのまま地図に当てはめると、九州を越えた南東の海上になってしまい、魏志・倭人伝の記述が誤りであることは確か。なぜ肝心な所で筆者は間違えたのか!それゆえに邪馬台国がどこなのか論争に決着がつかないわけです。

 投馬國が分かれば、邪馬台国が九州内で完結するのか、近畿方面まで行くのかのヒントになりそうですが、それも2024年現在、候補地はいくつかあれども実証できておらず、推測の域を出ません。困っちゃいますね・・・。

 九州なら、佐賀の吉野ケ里、南九州は日向の西都、山陰なら出雲、近畿はいわずとしれた三輪・巻向の大和。同時代には大国が各地にあります。四国、山陽、東海、北陸・・・関東甲信、沖縄や東北押しの研究者・研究家もいるかもしれませんね。

 みんな知りたい・・・でも分からない・・・結論が欲しい・・・自説が否定されるから欲しくない・・・邪馬台国と初期ヤマト王権は日本史最大の歴史ミステリーですね。

表紙の写真=福岡市博物館展示、本物の金印「漢委奴国王」(2026年5月24日撮影)





いいなと思ったら応援しよう!