【弥生の国々⑧】邪馬台国ここ?纒向(上) 計画された都市「農」あらず
前回までは邪馬台国・九州説に沿って佐賀県の吉野ケ里遺跡を、魏志・倭人伝と比較しながら見てきました。今回は「畿内説」の有力候補地、奈良県の纒向遺跡に行ってみたいと思います。
大型建物 直列複合の神殿遺跡

私は纒向遺跡には二度行ってますが、つい先日立ち寄った時には現代らしく、スマートフォンのアプリで上の写真のようなヴァーチャル再現映像を見ることができました。イメージしやすいですね。

纒向遺跡からは東西約12.4m、南北約19.2m、床面積238㎡の掘立柱建物の痕跡が見つかっています。その建物と軸をまっすぐに2棟の建物跡も発掘されており、手前に舞台のような建物、中程度の大きさの建物とで合計3列、さらに復元エリアの西側(撮影している私の後方)にもう1棟あったことが分かっており、一直線に並んだ特異な複合施設だったと思われます。纒向遺跡の中心的な建物ではないかと思われます。ここが邪馬台国の女王・卑弥呼がいた建物だったのでしょうか?

魏志・倭人伝には「宮室、楼観、城柵を厳かに設け」とあります。宮室はいいですね。楼観は・・・この建物の近辺には見当たりません。周囲の民家の下に跡はあるかもしれませんが・・・付近の唐古・鍵遺跡にはあります。望楼建物の絵が描かれた土器の発掘からも、あってもおかしくはありません。城柵・・・環濠跡は見つかっていますから、模型のような藁葺的なものかどうかは分かりませんが、当然あったでしょうね。
吉野ケ里遺跡で復元された主祭殿に比べると小さい印象です。必ずしも日本一の大きさでなければいけない理由はありませんが、ちょっと魏志・倭人伝の記述からは、吉野ケ里遺跡よりは距離があるかなぁ~という印象です。吉野ケ里遺跡の方が魏志・倭人伝の記述の建物が揃いに揃っていますね。
農村ではなく都市 城塞よりは聖域?

纒向遺跡を中心とした弥生時代の集落の様子について、埋文センターの博物館の解説によると「2世紀末から3世紀初頭になると環濠が埋め立てられ、集落の規模が小さくはっきりしなくなる。このような集落構造の変化は、それまでの弥生社会の枠組みが崩れたことをあらわすとともに、新たな古墳社会の幕開けを告げるものと考えられる」そうです。この社会の入れ替わりの時期に現れたのが纒向遺跡なんだそうです。
さらに「土器の形式だと庄内0式期(3世紀初頭)と呼ばれる時代に当たり、弥生時代には集落がなかった場所に突如、径約1㎞と当時としては国内最大級の規模を持つ巨大な『マチ』が出現した。それまでの農耕的色彩の強い弥生時代集落のような自然発生的なものではなく、極めて強い政治的な意図によりつくられたマチであると考えられる」と書いてありました。

空撮写真を眺めつつ、模型で当時の様子を見てみます。写真右手(東)の三輪山などから複数の川筋が見えます。その間の微高地のような場所に、直列の神殿跡が発掘されました。稲作の水田がないのも特徴です。上記の解説のように、農村ではなく都市機能を備えていたことが分かります。
これは個人的な印象ですが、環濠や城柵で何重にも囲まれていた戦争時代真っただ中の城のような吉野ケ里遺跡に比べると、城柵などは要所要所にあったとは思うのですが、なんとも開放的に見えます。外敵からの防御や「戦いの香り」が薄いとでもいいましょうか?軍事要塞的な「城」よりは、神社仏閣といった宗教儀式の「聖域」のよう。素人意見ながら、卑弥呼を補佐した弟の屋敷や、各地のクニから集まった大臣・宰相、武官的な人たちの政務所は、この直列の神殿エリアではなく、別のところにありそうです。
魏志・倭人伝にある「倭国が乱れる中、一女子を王に立てた」とあるように、各国々が話し合って女王を立てて争いを止めていることを考えると合致する気はします。畿内近郊では「戦いの時代」は終わっていたのでしょうか・・・?
出土例が少ない九州産土器

纒向遺跡周辺から出土した土器は、外来品が多いのが特徴です。九州から東海・関東まで、各地の特徴を持った土器が出ており、外から持ち込まれたものや、土の成分などから外来デザインを纒向で作ったものもあるそうです。移住者が故郷の土器を作った感じでしょう。
ただ・・・魏志・倭人伝にある「伊都國(福岡県糸島市)は女王国(邪馬台国)に属する」とあるわりに、九州の土器が少ないのは気になります。最も多いものは東海地方で、次いで瀬戸内東部(兵庫・岡山・四国東部)、山陰、北陸と続くそうです。
「土器といえば東海」がブランドだったのでしょうか?「青銅・鉄器は山陰(出雲)」「前方後円墳工事は瀬戸内東部(吉備)」というような特徴が、後の大和王権に如実に表れてきます。
それはともかく・・・となると、この時代、九州の文化・社会圏域と畿内の文化・社会圏域は別々のような気がしてきます・・・ちなみに、良く出土する銅戈は紋様などから九州型(綾杉紋)と大阪湾型(鋸歯紋)の2種類があります。
卑弥呼ゆかりの出土品?

纒向遺跡では「桃の種」は注目された出土品のひとつで、古代中国文化では貴重で神聖な果物とされています。ここでは合計2765個も見つかっています。贅沢品であり、農耕の舞など祭祀に使われたのではないかと推察される出土物です。卑弥呼が食べたものでしょうか?
このほか多種多様な植物や動物の痕跡が認められ、祭祀で用いる捧物的な要素が考えられるとのこと。木製の仮面は柄を装着すれば鍬になります。占い用の動物の骨も。矢じりなど武器も出ています。
邪馬台国の朝貢の件を傍らに置いても、纒向遺跡の政権と魏や晋など古代中国王朝との交流は認められています。3世紀中頃の溝からはベニバナの花粉が見つかりました。日本では栽培されていなかったと考えられ、染色技術を持った渡来人の足跡を感じさせるものだそうです。
長くなるので前半はここまで。次回は古墳について見ていきたいと思います。
纒向遺跡↓
表紙の写真=纒向遺跡(2018年12月19日撮影)
