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暴呪

【あらすじ】
 木原の兄貴が死んだ。内臓を次々に口から吐き出すという、不気味な死に方だった。
 兄貴からの仕事が無くなり、収入を絶たれた若手ヤクザの翔人は困り果てていた。そんな時、関西からやって来た本城という危険な香りのするヤクザから、ある仕事を持ちかけられる。それは、タオルに包まれた謎の物体を抱いて眠って欲しいという、奇妙なものだった。一晩で二十万円という破格の報酬に目が眩んだ翔人は、二つ返事で引き受ける。
 その夜、謎の物体を抱いて眠った翔人は、グロテスクでおぞましい夢を見る。その夢がただの夢ではないことに気づいた時、想像を絶する恐怖が翔人を襲う。


【本文】
 木原の兄貴が死んだ。奇妙で不可解で、不気味な死に方だった。
 翔人が同じ藻屑組のヤクザから聞いた話によると、兄貴は川崎駅近くの馴染みのクラブで飲んだ帰り、自宅マンション前の路上でタクシーから降りた直後に突然死したらしい。しかしそれは心臓発作や脳梗塞といった、よくある突然死ではなかった。
 胃や腸など、内臓を次々と吐き出して死んだ、という。
 タクシー運転手の話はこのようなものだった。タクシーを降りた兄貴は突然、地面に膝をついて苦しみだした。異変を察知した運転手がタクシーを降りて兄貴のそばに行き、声をかけると、突然兄貴は大量の血を吐いた。吐血は打ち寄せる波のように何度も続き、やがてピンク色のぬめぬめとした塊を吐き出した。胃だ。それに続いて、肝臓や小腸などの他の内臓も、次々とズタズタになった状態で兄貴の口から飛び出した。
 そして吐くものがなくなった兄貴は力なく倒れ、そのまま死んでしまったという。それがタクシー運転手の語った顛末だ。
 翔人は自宅の布団の上に寝転がり、人づてに聞いたその光景を想像した。
 あまりにも現実感のない話で、翔人はとても信じられなかった。せいぜい血を吐いて死んだ、くらいならわかるが、内臓を口から吐くなどあり得ない。馬鹿馬鹿しい。
 翔人は事件の真相に想像がついていた。恐らく、そのタクシー運転手は兄貴が売っていた薬の常習者だったのだろう。それで薬漬けになった脳が、吐血する兄貴の姿に不気味な映像を付け足したのだ。きっとそうに違いない。
 翔人はそのように結論し、頭のなかのグロテスクな光景を振り払った。
しかし少なくとも、木原の兄貴が死んでしまったことは紛れもない事実だ。それは翔人にとって痛手だった。
 別段兄貴を慕っていたわけではない。藻屑組に入ることになったのは地元の先輩だった兄貴に誘われたからだし、それなりに良くしてもらっていたとも思う。しかし人間性は決して好きではなかった。傲慢で、利己的で、それでいていざという時には下の者を守らない卑怯者だった。実際に酷い目に遭ったことも一度や二度ではない。
 とはいえ、翔人には必要な人だった。木原の兄貴は商才があって、若くしてさまざまなシノギを持っており、翔人は定期的に兄貴から仕事を貰っていた。そしてそれが、唯一の収入源だった。
 つまり兄貴を失うということは、生活の基盤を失うということだ。
 翔人は薄い布団の上で深いため息を吐いた。途方に暮れていた。見上げた天井には無数の染みが浮かび、埃がこびりついている。
 築五十九年、六畳、家賃三万円。かろうじてシャワーとトイレはあるが、くたびれて薄汚く、年中どこかから虫が入ってくる最低の部屋だ。エアコンも古くて効きが悪く、真夏のこの時期は蒸し暑く息苦しい。だが今どきの末端ヤクザが住めるのはこの程度の部屋なのだ。二十六歳にもなって年収は三百万円にも届かない。そのなけなしの収入すら失った。
 翔人はもう一度ため息を吐いた。無力感が手足の先まで行き渡り、体に力が入らない。
 これからどうすればいいのだろうか。組の他の誰かに、何かしら仕事を回して貰えないだろうか。いっそ、自分で新たなシノギを作るとか。いや、それは面倒だし、そもそも何をどう始めればいいのか、全くわからない。
 翔人は考えることに疲れ、横になったままスマホを手に取った。ユーチューブを開き、アニメの切り抜きの動画や、色っぽい美人が踊っている動画を見るともなく見る。
そうやって時間がどんどん過ぎていった。いつもそうだった。結論や行動を先延ばしにし、楽な方に逃げる。そんな自分を自覚し、嫌悪しながらも変わることができない。
 ふと、おすすめに表示されたある動画が目に留まった。チャンネル名は「かずきパパのワンダフルデイズ」。娘と一緒に初めてのクッキー作りをするという内容だった。
 翔人は一瞬ためらってから、その動画を開いた。
 画面に映し出された和希は元気そうだった。にこやかで、陽気で、おどけていて、いかにも良いパパという感じだ。三歳くらいに見える娘もよく懐いていた。楽しげでリラックスした雰囲気から、良好な親子関係であることが伝わってくる。
 かつて翔人とつるみ、悪さをしていたころの面影は微塵もない。十代半ばの自分たちは、エネルギーと怒りに溢れ、それを発散するかのように暴れていた。少年院に送られなかったのが奇跡だ。それが今では、娘とクッキー作りとは。
 もっとも、そもそも和希は自分とは違っていた。和希は自頭が良かったし、人との付き合いを大事にした。十八歳で内装工事の会社に就職して、そこからは真面目に働いた。翔人にはそれができなかった。
 きっと和希にとっては、画面のなかの姿こそが本来のもので、翔人とつるんでいた時の方が異例で異常だったのだろう。
 和希がクッキー生地で作ったアンパンマンが下手で、娘はケタケタと笑っていた。翔人は動画を止めた。その輝かしい光景をこれ以上見ていられなかった。
 スマホを置くと、目の前にあるのは相変わらず、狭くて古くて薄汚れて蒸し暑い、最低の部屋だった。胃の底でどろどろとした重い液体が渦巻いているような、鬱屈した気分になった。
 立ち上がり、冷蔵庫へと向かう。あと一本くらい缶チューハイがあったはずだ。しかしなかには調味料と賞味期限切れの食べ物しかなかった。最後の一缶は昨夜飲んだのだ。
 翔人はローテーブルの上に置いてあった昨夜のチューハイの空き缶を手に取り、口の上で逆さにした。残っていた二滴が舌の上に落ちる。アルコールの抜けた温くて甘い液体が舌に染み込む。
なんと、惨めなのだろう。
無性に腹が立って、翔人は空き缶を壁に投げつけた。壁には翔人が過去に開けた複数の穴が開いている。
 なんで自分はこうなのだ。いつまでこうなのだ。
 物覚えが悪く、根気がないためまともな仕事ができず、ヤクザになるしかなかった。だがヤクザにしても、特別腕っぷしが強いとか、度胸があるとか、悪さをする才能があるでもない。何もできない。自分には何もない。
 裏の世界で力を示した木原の兄貴や、表の世界で順風満帆の和希の顔が頭に浮かぶ。
 すごいよな、二人とも。
 自分も二人のような、すごい男になりたかった。明確なビジョンがあるわけではない。とにかく、人に認められる、自分で自分を認められる、そんな男になりたかった。このまま築五十九年のアパートで朽ち果てていくことだけは耐えられない。
 その時、スマホが鳴った。画面には仲間の組員である田島の名前が表示されている。田島も木原の兄貴の弟分で、気が利くので翔人よりも重宝されていた。兄貴の訃報を伝えてくれたのも田島だ。兄貴の件で、何か追加の情報だろうか。
「もしもし」
『翔人今どこにいる?』
 田島は木原の兄貴に倣って翔人を下の名前で呼んだ。
「家だけど」
『そうか。ならそのまま家にいろ。今から行く』
 田島は電話を切った。なんとなく、焦っているような感じだった。
 なんの用だろうか。田島がここに来ることはほとんどない。木原の兄貴が死んだ件で、緊急で相談しなければならないことがあるのかもしれない。
 よれたスウェット姿だったので着替えようかとも思ったが、田島が相手だと思うと面倒に感じ、翔人はそのままの格好でぼんやりと待った。
 二十分ほど経ち、インターホンが鳴った。
 ドアを開け、翔人は驚いた。そこに居たのは田島ではなかった。がっちりした体に脂肪を蓄えた大柄の男で、浅黒い顔に満面の笑みを貼りつけていた。
「こんにちは! 君が翔人君やね?」
 体躯に似合わぬ高い声は、関西の訛りだった。
 翔人が困惑していると、男の後ろから田島の顔が現れた。
「翔人、この方は本城さん。うちの系列の、兵庫の頭賄組の方だ」
「『頭賄組』の本城です。よろしく」
 本城は朗らかにそう言って、握手を求めてきた。
 自分のような末端ヤクザが目上のヤクザから握手を求められるなど普通はありえない。翔人は腰を九十度に折って頭を下げて挨拶し、恐る恐るその手を握った。ゴツゴツとした岩のような手だった。
「頭賄組」は兵庫県尼崎市を拠点にする暴力団だ。一方翔人の所属する「藻屑組」は神奈川県川崎市を拠点としており、どちらも関東最大の大型暴力団の系列組織だった。
「ちょっと上がらせて貰うわ」
 そう言って、本城は翔人を押し込むようにしてなかに入った。畳に上がる際、本城は高級そうな革靴を脱がなかった。田島は土間の辺りで立ち止まり、緊張した面持ちで直立していた。
 体重百キロは超えているであろう本城の巨体は、翔人の狭い部屋ではなおさら大きく見えた。年齢は四十代後半くらいで、深緑色のスーツを着ている。手には大きな紙袋を持っていた。
 本城は周囲をぐるりと見まわした後、翔人を振り返った。
「汚い部屋やなあ。ちゃんと掃除せんと、病気になるで」
「すんません。田島だけが来ると思ってたんで……」
 翔人は恨みがましく田島を睨んだ。田島はバツが悪そうにサッと視線を外した。
「ええ? 雄一君、僕が来るって言ってへんかったん? そらあかんよ。翔人君にも、色々と準備ってもんがあるやろうし」
「え? あ、す、すみません」
 田島は慌てて頭を下げた。
よく見ると、田島の額には脂汗が滲んでいる。もちろん暑いからというのもあるが、緊張が理由のように見えた。
「もうええから、車で待っとって。翔人君とは二人っきりで話すわ」
 本城が笑顔で言った。
「わかりました」と言って田島は頭を下げた。その直後、顔を上げた田島と目が合ったが、やはりすぐに視線を外された。
 田島が出て行きドアが閉まる。すると一瞬で、本城の体から立ち上る気配のようなものが部屋を満たした。それは濃密で、息苦しかった。
「なあ翔人君、ここには椅子とか座布団はあらへんの?」
 硬直していた翔人は、慌てて部屋の隅に置かれた座椅子を取り、埃を払って本城の前に置いた。本城はそこに腰を下ろすと、翔人にも床に座るように促し、二人は向かい合って座った。
 古いエアコンが力を振り絞るように大きな音を立て、中途半端な冷風を吐き出している。
「いやあ、急にお邪魔してすまんなあ」
「いえ、大丈夫です。ええと、本城さんは田島とどういった関係なんすか……?」
「前に川崎に来た時にな、木原君から紹介して貰ったんや。一番の子分だって。そうそう、木原君は君にとっても兄貴分なんやって? えらい死に方やったって聞いたわ。気の毒になあ」
 本城はわざとらしいほど口をへの字に曲げ、悲しげに首を振った。翔人は黙って頷いた。
「まあそうなると、大事なのは木原君のやってた商売を誰が継ぐかって話やろ? もちろん藻屑組の誰かが継ぐのが一番てっとり早いんやけど、君んとこの天野組長がな、『今うちには木原みたいに商売を回せる人間が他にいない』ってことで、僕に声をかけてくれたんや。驚いたでほんま。でも、お世話になってる天野組長の頼みやから、ようしいっちょ一肌脱ごうかってことで、川崎まで来たっちゅうわけや」
「はあ、そうなんすか」
 確かに木原の兄貴は合法の商売から非合法の商売まで手広くやっており、その抜けた穴を埋めるのは簡単ではなかった。兄貴の上納金がなくなれば、組としては大打撃だ。藻屑組にはビジネスに長けた人材が少なく、ならば外部の人間を、と組長が考えたとしても自然なことだった。
「それで、今日はなんの用で俺のとこに?」
 翔人は期待を込めて聞いた。この流れは、もしかしたら仕事をくれるのかもしれない。本城とは関わりたくなかったが、収入を絶たれた翔人は藁をも掴む思いだった。
 なぜか本城は返事をしなかった。押し黙り、両手の指先をひとつひとつ撫でている。
「本城さん?」
「……ん? ああ、ちょっとすまんな」
 本城はスーツの内ポケットに手を入れ、細長い金属製の物体を取り出した。それは爪用のヤスリだった。本城はそのヤスリで、慎重に爪の形を整え始めた。真剣な表情で一本一本、指の形に沿うように丸く削っている。
「うん、ええ感じや」
 両手を何度も開いては閉じ、握り具合を確かめて満足そうに頷いた。
「ちょっとでも長くなると気になってしゃあないねん。ええと、何の話やったっけ?」
「今日はなんの用でここに?」
「ああ、そうやそうや。実はな、ちょっと仕事をお願いしたくてな」
「本当ですか! なんでもやりますよ」
 本城はにやりと笑った。
「ほんま? 助かるわあ」
 本城は持参した紙袋から奇妙な物体を取り出した。それは一見してタオルの塊のようだった。長さ四十センチほどの楕円形に近い形だが、所々ボコボコしている。恐らく、なかにある何かを、タオルでぐるぐると巻いているのだと思われた。
「今日の夜、これを抱きしめて寝て欲しいねん」
「え? それが仕事なんすか?」
「そうや。簡単やろ?」
「簡単、ですけど……。それなんなんすか?」
「二十万払うわ」
「え?」
 翔人は聞き間違いかと思い、首を傾げて本城を見た。
 本城は紙袋から封筒を取り出し、翔人の前に投げた。
「十万入っとる。やってくれたら、明日また十万払うわ」
 中身を確認すると、そこには本当に十万入っていた。
 翔人は目の前の奇妙な物体を眺めた。これを抱いて寝るだけで、一晩で二十万が手に入る。二十万、大金だ。木原の兄貴に頼まれ危険な仕事もいくつかやったが、一回でこれほどの金額を貰ったことはない。しかもこれは怪しいものを運んだり、誰かを脅したりするよりも遥かに簡単で楽だった。
 明日の飯代にも困る翔人にとって、こんなに美味い仕事はない。
「どうや、やってくれへんか?」
「やります」
 十万の入った封筒を握り締め、翔人は答えた。
 本城は満面の笑みを浮かべ、翔人の肩を叩いた。その力は強く、翔人は危うく転びそうになった。
「ありがとう! ほんま助かるわあ」
「でもこれ、なんなんすか」
「別に持ってたら逮捕されるとか、そういう危険なもんやないから安心して。そやな、僕の大事な宝物やとだけ思っといてくれたらええわ」
「はあ」
「じゃあ、いくつか簡単なルールがあるから、ちゃんと覚えといてな。一つ、これを乱暴に扱わんこと。絶対に放り投げたりしたらあかんよ。二つ、夜中の0時から早朝5時まで抱き締めて眠ること。別にこれより長く眠ってもええけど、0時から5時までの間は絶対布団から出たらあかんで。トイレに行ったりもあかん。三つ、このタオルを開けんこと。たったこんだけや。簡単やろ?」
 翔人は一度では覚えられず、もう一度繰り返すようにお願いした。本城に促され、スマホでメモをとる。
「本当に、これだけでもう十万くれるんすか?」
「安心して。僕は嘘は言わんから」
 本城はどこか作りものめいた笑顔でそう言った。だが実際に十万をくれたのだし、本当に明日もくれるのかもしれない。
「もし上手くいけば今後もこの仕事をお願いしたいと思ってるんや。一晩で二十万、それを何回も。リスクなんてこれっぽっちもないし、こんな美味しい話はないと思うで。だから今晩、しっかりやってや」
「マジっすか? わかりました。任せて下さい」
 脳裏に浮かんだ札束に目が眩み、翔人は前のめりに答えた。
 アパート近くの路上では田島が車に乗って待機しており、翔人はそこまで本城を送った。田島はやはり翔人と目を合わせようとしなかった。
家に戻ると、翔人は床に置かれた紙袋には目もくれず、先ほどの封筒を手に取った。一、二、三……やはりちゃんと十枚ある。まとまった現金が手元にあるというだけで気分が上がる。
木原の兄貴がいなくなってどうなることかと思ったが、こんな幸運が舞い込むとは。この意味不明な仕事が何回貰えるかわからないが、これで当面生活できる。それに、大金を用意できれば、それを元手に何かシノギを作ることだってできるかもしれない。
一時間前とは打って変わって、翔人の胸は希望に満たされていた。劣等感も不安も、風に吹き飛ばされたように綺麗さっぱりなくなっていた。
和希、見ていろよ。幸せになれるのはお前だけじゃない。俺だってこれをきっかけにすごい男になってやる。こんな、何者でもないちんけなヤクザじゃなく、誰もがひれ伏すようなでかいヤクザになってやる。
そう固く決意した一時間後、翔人は「景気づけ」を理由に十万円を握り締めてパチンコ屋に向かった。そしてあっという間に、そのほとんどを失ってしまった。

夏の太陽は十九時を過ぎてなお、空を赤く染めていた。それでも夜は急速に川崎の街を覆いつつあった。繁華街はカラフルな明かりを灯して活気に満ち、夜行性のギラギラした目つきの者と日中の労働に疲れ果てた人がない交ぜに行き交っていた。
パチンコからの帰り道、翔人はそんな繁華街をイライラしながら歩いていた。他の歩行者への配慮は全くせず、前から来る者がいても決して避けることはしない。避けるべきは自分ではなく相手だと思っていた。実際、向かって来る人々はみな自発的に道を譲った。翔人は末端と言えどヤクザであり、その雰囲気には特有の威圧感があった。誰もが翔人の歩く姿や機嫌の悪そうな表情を見ると、少しでも距離を取ろうとした。
 翔人は怒りのままに大股に歩を進めた。あれほど当たらない渋い調整にしているパチンコ屋にも腹が立ったし、何よりも考えなしに貴重な金を使ってしまった自分に腹が立つ。こんなことだから、いつまで経っても底辺から抜け出せないんだ。
 立ち止まり、ジーンズのポケットから潰れたタバコの箱を取り出すと、ライターで火を点けた。深く吸って肺を煙で満たし、ゆっくり吐き出す。いくらか気持ちが落ち着いた。
 まあいい。明日にはまた十万が貰える。その金は絶対にパチンコには使わないで、自分の将来のために有効に使おう。
 その時、少し離れた場所からこちらに向かってくる集団に気が付いた。下品な大声を上げ、大通りを我が物顔で歩く五、六人のガラの悪い男たち。翔人はすぐに気が付いた。藻屑組と対立関係にある、我座見会の連中だった。
 この近辺は藻屑組の縄張りだが、最近我座見会が少しずつ周辺で商売をするようになっていた。まだ規模が小さく、しかも飲食店などの合法のものなので、藻屑組としては快くはないが静観している状況だった。
 このままでは奴らと鉢合わせてしまう。
 翔人は顔を伏せ、踵を返し逆の方向へと速足で歩き出した。
 これは別に逃げたわけじゃない。我座見会との揉めごとは上から禁じられている。警察につけ入る隙を与えないよう、昨今の藻屑組関連組織は事なかれ主義を貫いており、喧嘩、ましてや抗争など以ての外なのだ。ならば接触しないことが一番の予防策だ。だからこれは、奴らが怖いから逃げたわけじゃない。
 翔人はそのように自分に言い聞かせ、急いで繁華街を抜けた。

 二十三時半、翔人は本城から与えられた仕事に取り掛かることにした。
渡された紙袋のなかを覗く。奇妙な物体は変わりなくそこにあった。所々に凹凸のある楕円形の塊で、タオルで何重にも覆われているため見た目からはなんなのかさっぱり想像できない。持ち上げてみると、大きさの割には重くない。臭いも特にないし、振ってみても音はしなかった。タオルのフワフワした感触の奥に、何か少し固いものが入っているのが感じられる。
 中身が気にはなったが、タオルを開けてみようとは思わなかった。本城から開けるなと言われていたのもあるし、なんとなく不気味だったからだ。知らない方がいいこともある。知ってしまえば、仕事に支障が出るかもしれない。
 とにかく、これを抱き締めて眠ればそれでいいのだ。簡単なことだ。
 翔人はトイレに行ってから部屋の電気を消し、謎の物体を抱えて布団に寝転んだ。見えなければ、腕のなかにあるそれはぬいぐるみのようにも感じられた。ぬいぐるみを抱いて寝るのだと思えばそう悪くない。そんなことをやったことはないが、不思議と安心感にも似たものを感じた。
 たったこれだけで、明日にはまた十万貰える。寝るだけで合計二十万だ。最高の仕事じゃないか。
 しかし、そんな都合のいい話があるのだろうか。
 疑問が頭に浮かんだが、元々寝つきのいい翔人は自分でも気づかぬうちに、深い眠りの底に落ちて行った。

 奇妙な夢を見た。それは生々しく、何より不快だった。
 そこがどこなのか、翔人にはさっぱりわからなかった。目の前にあるのは、柔らかい、黒とも赤とも言えぬ色の壁だ。首が動かせないのでよくわからないが、恐らく体の前後左右、全ての方向をその壁に覆われている。圧迫されて一切の身動きがとれず、窒息しそうだった。壁はべとべとしており、暑かった。おまけにここは酷く生臭い。
 ここから出なければ。しかし、どうやって。全身が気味の悪い壁に挟まれており、手足は動かせない。だが出なければ。出なければ。
 そうだ、いい方法がある。
噛み千切ればいいじゃないか。
 翔人は思い切り目の前の壁に噛みついた。歯が食い込むと、壁からは血が噴き出した。そうか、これは肉なんだ。だが翔人はかまわずに噛み千切り、そのまま飲み込んだ。生暖かい肉の塊が喉を下りて行く。
 翔人は何度も何度も、それを繰り返した。赤黒い肉の壁を噛み千切り、飲み込む。吐きそうになったが、それでも止めることはできない。一刻も早くここを出たい。それしか考えられなかった。
 必死になって顔の前の生暖かい肉を食い続けていると、気づくと壁はなくなっていた。周囲にはただ、闇があるだけだった。全身の圧迫感もなくなり、手足は自由になっている。
 ふと、両手を見る。それは自分の手ではなかった。
 骨と皮になるまで痩せた、子供の手だった。

 翔人は大きな悲鳴を聞いて飛び起きた。その悲鳴が自分の口から出ていたことに、すぐに気づいた。
 体中にびっしょりと汗をかき、Tシャツが背中に張り付いている。息を整え、動悸が治まるまで少し時間がかかった。
 窓の外は明るくなり始めていた。スマホの時刻を見ると5時17分。飛び起きた拍子にタオルに包まれた物体を体から離してしまっていたが、0時から5時までという約束は守れたことになる。物体は布団の端に転がっていた。
 それにしても、嫌な夢だった。映像も感触も、音も臭いも全てが鮮明で生々しく、まるで現実の出来事のようだった。焦りと恐怖で精神的に酷く消耗したし、寝ている間に体が強張っていたからか、体も疲れていた。
翔人はタオルに包まれた物体を睨んだ。こんな変なものを抱きしめて寝るから、わけのわからない夢を見たのだろう。
 ふと、口のなかに違和感があるのに気づいた。歯と頬の間に、何かがある。
 ぺっ、と手のひらに吐き出したそれを見て、翔人は再び悲鳴を上げた。
 それは、夢のなかで自分が噛み千切っていた肉片にそっくりだった。

 その日の昼過ぎ、本城が再び翔人の部屋を訪れた。するとドアを開けるや否や、いきなり翔人の顔を両手で挟み、目を覗き込んだ。
「うーん、見たとこ大丈夫そうやな。おい、自分の名前言えるか?」
「え? 河合翔人ですけど……」
 質問の意図がわからず眉を顰める。本城は満足そうに頷いた。
「そうかそうか! いや、期待以上やねえ、翔人君。さすがやわ」
「何がっすか?」
「立派に仕事を果たしてくれたっちゅうこと」
 本城は異様に真っ白な歯を見せて笑い、高級そうなスーツの内ポケットに手を入れた。引き抜かれた手には、茶色の封筒が摘ままれていた。
「はい、約束の十万円」
 軽い調子で本城は言った。
 翔人は黙ってそれを受けとり、なかを確認した。確かに十万円入っている。
 一晩寝るだけで、昨日受け取ったものと合わせて二十万円。翔人にしてみれば、一カ月分の収入と言っても過言ではないほどの額だ。
「……ありがとうございます」
 翔人の声色はどこか沈んでいた。
 本当にありがたいし、嬉しい金額だった。しかし昨夜の奇妙な夢や、何より口から出たあの肉片を思うと、気味が悪くて仕方がなかった。
「あの、本城さん。これ一体、俺は何をやらされたんですか?」
「んん? 僕の大事な宝物と一緒に寝てもらった、ただそれだけやけど?」
「でもなんか、変な夢見たんすよ。肉の壁みたいなのを食べる気持ち悪い夢」
「それは、ただの夢やんか。夢と現実の区別もつかへんの? 君は」
「いや、それに朝起きたら、なぜか口のなかに肉の欠片が入ってたんすよ。そんなことってあります? 肉を齧る夢を見たら、朝に口のなかに肉が入ってるって……。これおかしいっすよ」
「昨日の晩御飯の食べ残しちゃうの? それも十分あり得るやろ」
「昨日の夜はカップ麺だけで、肉なんて食べてませんし。それにあれ、生肉っすよ。気味が悪いからトイレに流しちゃったんでもうここには無いっすけど……」
「なんにせよ、気にしすぎやって。それより、またお願いしたいと思ってんねんけど」
 もう一度、あの仕事をする。翔人は躊躇った。二十万は喉から手が出るほど欲しかったが、どうしても昨夜の悪夢が忘れられなかった。映像が、臭いが、感触が、体にべったりと貼りついて取れなかった。
 翔人は俯き、遠慮がちに口を開いた。
「すんません、本城さん、やっぱり俺……」
 翔人の話はゴンッという鈍い音と共に寸断された。大きな拳が一瞬見えたかと思うと、爆薬が炸裂したような衝撃と痛みを額に感じ、翔人はのけ反って後ろに倒れた。ローテーブルがひっくり返り、空き缶やカップ麺の空容器が床に散らばる。
 翔人はこれまで何度も殴られたことがあるが、本城の拳は今まで経験した誰のものよりも痛かった。
 倒れたままなんとか顔を上げると、チカチカする視界のなかに本城が見えた。本城は神経質に右手の指先を撫でていた。
「ああ、あかん、伸びすぎや。あとで削らな」
 本城は舌打ちをすると土足のまま部屋に上がり、しゃがんで翔人の顔を覗き込んだ。その顔には白々しい笑顔が貼り付いていた。
「なあ翔人君、別にそんなの、どうだってええやん。変な夢見たとか、口になんか入ってたとか、どうってことないやろ? 怪我したわけやないし、サツに捕まるでもない。それどころか楽して二十万貰える。それが今の君にとっては、一番大事なんちゃうんか?」
 本城は翔人の髪を掴み、力づくで部屋をぐるりと見せた。
「見てみ、このしょうもない部屋。ヤクザもんがこんな小汚い部屋に住んで、やっすい酒飲んで、ほんま情けないわ。いつまでもこんなんで、ほんまにそれでええんか? 稼げないヤクザ、弱いヤクザはな、みんなに見下されるんや。堅気にすら見下される。ゴミ同然の存在や。わかるやろ? 今の君がそうなんやで」
 額の痛みは続いていたが、それでも本城の言葉は翔人のなかに深く入り込んできた。翔人の劣等感を直接突き刺す言葉だった。
 本城は翔人の腕を引っ張り、床に座らせた。抵抗することのできない怪力だった。翔人の顔を覗き込み、何度聞いても慣れない高い声で、優しく語りかける。
「なあ翔人君、僕は君のためを思って言うてるんやで。これはチャンスなんや。僕の仕事をすれば、あっという間に大金が稼げる。今どきのヤクザで、そこまで稼げる奴はそうそうおらんよ。こんなしょうもない部屋、すぐにでも出ていける。服も酒も女も、もっと上等なもんがいくらでも手に入る。しかも夜寝るだけでや。それを考えれば、夢がどうだ口のなかがどうだ、些細な問題やと思わへんか?」
 翔人は俯きながら本城の話を聞いていた。目を見るのが恐ろしかった。本城はいつだって笑っていたが、その目が笑っていたことは一度もない。
 何か反論したかったが、できなかった。恐ろしさもあるが、何より彼の言葉が正しかったからだ。
 本城は翔人の肩に手を乗せ、優しく囁いた。
「とはいえ、君がショックを受けとるのもわかる。今日はゆっくり休んだらええ。ほんで明日また、仕事して欲しい。やってくれるな?」
「……わかりました」
「ありがとう! そう言ってくれると思っとったわ」
 本城は床に転がっていた例の「宝物」を拾い上げ、一度部屋を出て行った。十分ほどして再び戻ってくると、タオルに包まれたまま特に変化した様子のないそれを、翔人に手渡した。
「準備はしといたから、明日の夜、また同じように頼むわ。二十万、しっかり手に入れてや」
 本城の言う準備とはなんなのか、翔人は聞く勇気がなかった。

 その後、翔人は二週間でさらに三回、本城の仕事をした。その度に毎回あの夢を見た。暗くて狭くてジメジメして暑い空間から脱出するために、必死で目の前の肉を食らう夢。三回のうち一回、口のなかにやはり肉片が入っていたことがあった。幻でも勘違いでもなかった。その存在自体が気持ち悪くて、またすぐにトイレに流してしまった。どうせ証拠を見せても、本城は辞めさせてはくれないだろう。
 翔人は夢を見る度に、少しずつ消耗した。精神がすり減り、細胞の一つ一つが蝕まれていく感じがした。食欲がなくなり、夢を見るのが恐ろしいので夜に眠れなくなった。しかし不思議なことに、いざ仕事という時には気絶するように眠りにつき、深く夢のなかに落ちていくのだった。
 本城は仕事の翌日には上機嫌で翔人の元を訪れた。体調不良を伝えても、「いやこれは元気な方やから、まだまだ大丈夫」と言い、まともに取り合ってくれなかった。そして二十万円が入った封筒を置き、「宝物」に次の仕事の準備をして去って行くのだった。翔人は指示された日に、また「宝物」と一緒に寝る。次がいつなのか、まだ伝えられていない。
 翔人は炎天下をふらふらと歩いていた。あの気味の悪い物体と一緒の空間にいるのがとにかく嫌だった。照り付ける太陽は過酷だったが、強烈な陽気は翔人のなかに残り続ける悪夢を消毒してくれるようで、むしろ心地いいくらいだった。
明確な行先はない。ただ夜から逃げるように、太陽の下をあてどなく歩き続けた。自分がどこに向かっているのか、全く意識しなかった。
本城の「宝物」とは一体なんなのだろうか。しかしタオルを解いて中身を確認する勇気はなかった。決して見てはならないものである気がした。そして見たが最後、本城に仕打ちを受けるのも確実であり、それがまた恐ろしかった。
受け取った報酬のうち、六十万はまだ手付かずで家に置いていた。最近はパチンコに行く気力もなかった。金がすごい勢いで貯まっていくという事実が、弱る精神の代わりに翔人を支えていた。
 夏の日差しは厳しく、翔人の額からは汗が止めどなく滴っていた。歩きながら一瞬、平衡感覚を失いそうになり、熱中症になりかけていることに気づいた。
 飲み物を買わねばと周囲を見回し、翔人は自分がどこを歩いているのかに気づいた。目の前にあるのは翔人が子供のころ、よく遊びに来ていた公園だった。川崎の工業地帯にほど近い公園で、春には見事な桜が咲く。
 見慣れた景色を前に、翔人は驚いていた。無意識に、なぜ自分はここに来たのだろうか。何も考えていなければ、人は自然と思い出深い場所に足を向けるものなのだろうか。
不思議に思いながらも、翔人は公園に足を踏み入れた。真っ直ぐに水飲み場まで向かい、蛇口をひねって水を飲む。喉を鳴らし、乾いた体にたっぷりと水分を取り込む。子どものころも、ここで遊んで疲れる度に水を飲んだ。そしてまた元気に駆けだしたものだった。
 水を止めて口を拭い、翔人は改めて公園を見回した。広い芝生、子供がはしゃぐ遊具、立ち並ぶ桜の木、隣接する野球場、全てが昔のままだった。
 翔人の母はよくここに幼い翔人を連れて来てくれた。貧しかったのでテーマパークやおもちゃ屋に連れて行って貰ったことはない。だがここに母と来るだけで、翔人はとびきり楽しかった。滑り台はジェットコースターに劣らないほど刺激的だったし、母とのかくれんぼは最新のゲームなんて目じゃないほど夢中になれた。
 当時のことを、ずいぶん久しぶりに思い出した。いや、本当は無意識に思い出さないようにしていたのかもしれない。
 翔人の母は優しかったが、常に優しかったわけではない。その精神にはムラがあり、機嫌が悪い時にはよく怒鳴り、時には叩いた。母に男がいる時には、叩かれる回数が増えた。
それでも翔人は母が好きだった。機嫌が良い時には公園に遊びに連れて行ってくれたし、何よりも唯一の家族だった。
 しかし母は翔人が高校に進学して間もなく、母の身の回りの品と一緒に消えてしまった。わずかばかりの金と、『ごめんなさい』という書置きを残して。
 当時は母を恨み、怒り狂ったが、今となってはしょうがないことだと思っている。誰だって、あんな貧しく苦しい生活から逃げ出し、新しい場所でやり直したいと思うだろう。不出来な息子はトラブルも起こすし、金がかかるばかりで手放してしまいたかったとしても無理はない。
 母が今どこにいて何をしているのか、そもそも生きているのかさえ翔人にはわからない。
 母を思い出しても、無意味に胸が痛むだけだ。もうあんな奴のことなんてどうでもいい。今の自分には金がある。これからもっと増える。その金で、このクソみたいな人生から脱出する。
もう公園を出ようと出口に向かいかけた時、後ろから誰かに呼び止められた。
「おい、お前翔人だよな?」
 聞き覚えのある声に翔人は振り返った。そこにはかつての親友、和希がいた。ユーチューブ以外で顔を見るのはずいぶん久しぶりだった。
「やっぱり翔人だ。久しぶりだなー。元気してたか」
「ああ、まあな」
 自分の口から出た声が想像より遥かに弱弱しく、翔人はごまかすように咳払いした。
「なんだ? 大丈夫か?」
「大丈夫、ちょっと痰が絡んだだけだ」
 今度は意識的に力強く声を発した。
「和希お前、こっちに帰って来てたのか」
「まあな。たまには親父とお袋に子供の顔見せなきゃな」
 和希が視線を向けた先には、歓声を上げながら滑り台を滑る幼い女の子の姿があった。和希の娘の姫花だ。
「あー、ユーチューブちょっとだけ見たよ」
「マジで? どうだった?」
「よくわかんなかったな」
 和希は噴き出し、声を上げて笑った。
「そりゃそうだろうな。お前向きの動画じゃねえもんな」
 屈託のない笑い方は、十代のころと全く変わらなかった。
「でも結構人気あるんだぞ。この前チャンネル登録者数が十万人行ったんだ。すごいだろ? で、お前の方はどうなんだ。まだヤクザやってんのか?」
「まあな」
 翔人はバツの悪い思いで短く答えた。
 その時、娘の姫花が走って来て和希の足に体当たりした。そしてそのままぎゅっと和希に抱きつく。
「ねえパパー、ブランコやろうよー」
「パパ今お話ししてるでしょ。もう少し遊んでなさい」
「やだあ。早く行こうよー」
「ごめんね、もうちょっとだけあっちで待ってて」
「やだ。離れない」
 わがままを言う娘の脇腹を、和希は両手でくすぐった。姫花はキャハキャハと楽しそうに身を捩り、そのまま笑いながら走って離れていった。
 翔人はその光景を見ながら、胸に先ほどと同じ痛みを感じた。母のことを思い出した時と同じ、疼くような痛み。そして気づいた。以前、ユーチューブで和希の子育て動画を見た時に途中で辛くなったのは、自分の現状とあまりにも落差のある幸福な光景だからだと思ったが、それだけではない。子供時代を思い出すからだ。親と無邪気に戯れる子供の姿に、在りし日の自分を重ねてしまうのだ。
「悪い悪い。そうか、まだヤクザやってんのか」
 そう言って、和希は何かを考えるように黙り込んだ。言うか言わないか迷うようなそぶりを見せていたが、やがて口を開いた。
「……俺は正直、お前はヤクザに向いてないと思ってる。なあ翔人、もしお前さえ良ければうちの会社に入らないか? うちの社長、元ヤクザとかそういうの気にしない人なんだ。堅気になって、一緒に働かないか?」
 翔人は驚き、目を丸くして和希を見た。和希の表情は柔らかかったが、冗談を言っているようではなかった。
 一瞬、翔人はその温かな提案に飛びつきたくなった。しかし、すぐに踏み止まった。一般企業で雇われたって、絶対に長続きしない。毎日毎日、朝から晩まで決められたルールに則って働くなんて、そんな根気は自分にはない。すぐに逃げ出してしまうに決まっているし、そうなれば誰よりも和希に迷惑をかける。自分の駄目さは自分が一番わかっていた。
「悪いけど、俺はヤクザでやってくから。今、でかい仕事やってんだよな。めちゃめちゃ儲かるやつ。これで稼いで、金を貯めて、もっと稼げる新しいシノギの元手にするつもりだ」
 翔人は胸を張ってそう言った。「新しいシノギ」の具体的なビジョンは無論ない。しかしそれだけが、翔人の希望だった。
「それって、ヤバい仕事じゃないよな?」
「別に、犯罪とかではないから」
「ならいいけど……」
 そう言うと、和希は一歩前に進み、声を潜めた。
「お前の組さ、もしかして抗争とかしてる?」
「いや? してないけど」
「本当か? じゃあニュースでやってる、川崎で暴力団員が次々死んでる事件は一体なんなんだ?」
 初耳だった。最近は本城以外の組の人間とは会っていないし、気力がないのでテレビもネットもほとんど見ていない。
 気になってスマホで検索してみると、和希の言う事件のネット記事が多数表示された。
『川崎市で四人の暴力団員が相次いで不審死』
 記事を読んでみると、死んだ四人は藻屑組の人間ではなく、対立関係にある我座見会の人間だった。
 四人の死亡状況は全て同じだった。
 ズタズタになった内臓を口から吐き死亡、とのことだった。
 翔人は思わず息を飲んだ。木原の兄貴と同じ死に方だ。
 そしてもう一つ、翔人は思い当たった。
四人はこの二週間以内で死んでいた。翔人が本城の仕事をしたのも、この二週間で計四回だ。
 これは偶然なのだろうか?
 翔人は口元に手を当てた。あの夢。苦しみのなか目の前の肉に噛みつき、引き千切る夢。そして、口のなかにあった肉の欠片。
 吐き気を感じたが、なんとか堪える。和希は突然沈黙した翔人を心配し声をかけていたが、その言葉は一切耳に入ってこなかった。
 確かめなければいけない。
 翔人は和希に別れを告げると、もつれる足を動かし、家路を急いだ。

 汗だくで帰宅し、部屋の隅に置かれた段ボールを開ける。なかにはタオルに包まれた例の「宝物」が入っていた。
 翔人は恐る恐るそれを持ちあげ、経年劣化で傷んだ畳の上に置いた。
 謎の物体はタオルで几帳面に包まれており、端部が器用に折り込まれているので簡単には解けないようになっていた。実際、これまで三回これを抱いて寝たが、一度も中身が露わになったことはない。
 緊張で強張る指をタオルの端にかけ、潜り込ませて引っ張る。ぴったりと隙間なく折り込まれており、摩擦の影響もあって簡単にはいかなかったが、どうにか解くことができた。クルクルと物体を回しながら分厚いタオルを剥がしていく。やがて中身が露わになった。しかし、現れたものはさらに包帯に包まれていて、まだ正体はわからない。とはいえタオルに包まれていた時よりも形状がはっきりとわかった。それは人形のような、頭と手足のある物体らしかった。包帯には所々に赤黒い染みが滲んでいた。
 タオルと同じように几帳面に巻かれた包帯を、慎重に解いていく。確認しなくてはいけないという思いと、見てはならないのではないかという迷いがせめぎ合い、時々手が止まった。本城の顔が脳裏に浮かぶ。あの拳の、強烈な痛みが甦る。
 翔人は深呼吸し、心を決めた。見なくてはいけない。我座見会構成員の不審死と、これが関係している証拠は何もない。しかし、翔人の直感は無関係ではないと告げていた。その直感は無視できない。
 震える指で慎重に、だが躊躇せずに包帯を外していく。クルクルと手を回し、薄汚れた包帯が解けると、本城の「宝物」が姿を現した。
 翔人は小さな悲鳴をあげ、それを床に落としてしまった。
 それは人間の子供のミイラのようだった。大きさからすると、子供というよりも赤ん坊に近いかもしれない。体育座りのように膝を抱えて丸くなっている。全体が茶色く、干からびた皮膚には皺が寄っていた。よく見ると、腕に何か筒のようなものを抱えている。
 翔人は荒く呼吸しながら床に転がるそれを見つめた。
これは本物なのだろうか? それとも作り物なのだろうか? 翔人には見わけがつかなかった。仮に本物のミイラであるならば、こんなものと一緒に寝ていたというのは恐怖でしかない。
 なぜ、これと一緒に寝なければいけなかったのか。そこにはどんな意味があるのか。
 翔人は呼吸を整え、スマホを手に取って電話をかけた。

 田島の住むマンションに着いた。さほど大きくはないものの、翔人の住む築五十九年のアパートとは比較にならない、綺麗な近代的なマンションだった。オートロックもある。田島は翔人と同い年だが、木原の兄貴に重宝されていたので収入には雲泥の差があった。
 ここを訪れるのは二度目だった。一度、一緒に飲んだ帰りに寄らせて貰ったことがある。以来、惨めな気持ちになるので足を運ぶことはなかった。
エントランスでインターホンを鳴らし、オートロックを解除して貰い、エレベーターで田島の部屋まで向かう。部屋の前まで来ると、もう一度そこにあるインターホンを押し、ドアが開くのを待った。
 電話をして訪ねたい旨を伝えた時、最初田島は渋った。しかし翔人が「仕事に使うアレを壊してしまったかもしれないので見て欲しい」と伝えると、今すぐ持って来るように言ったのだった。
 やがて田島の足音が聞こえ、ドアが開いた。田島の顔が現れた瞬間、翔人は隠し持っていた金槌で田島の眉間を殴った。死なないようほどほどに加減したが、それでも田島は玄関に倒れ、低い唸り声をあげながら悶絶した。翔人は部屋に入って鍵をかけ、倒れる田島の脇腹を思い切り踏みつけた。ぐあっ、という情けない声が田島の口から漏れる。
 翔人は田島の両脇に手を入れ、玄関から廊下へと引っ張り上げた。そしてそのまま、リビングへと引きずって行く。田島は中肉中背だが、それでも成人男性一人を移動させるのは一苦労だった。
「てめえ、翔人、どういうつもりだ」
 リビングのドアを閉めた直後、田島が床に転がったまま絞り出すような声を発した。眉間に当てた手の隙間から、血が流れている。
「田島、それは俺のセリフだよ」
 翔人は立ったまま田島を見下ろし、疲れたように言った。実際、悪夢のお陰で消耗している翔人には、いつもなら問題ないこの程度の暴力も一苦労だった。
 翔人は背負っていたリュックを床に置き、ファスナーを開けてなかを見せた。そこにはあの、子供のミイラらしき物体が入っていた。
「なあ、これはなんなんだ? なんで俺は、こんなものと一緒に眠らされたんだ?」
 田島はミイラと翔人の顔を交互に見て、舌打ちをした。
「なんだお前、開けるなって言われてただろうが。壊れたってのは嘘なのか?」
「お前が何も教えてくれないからだろう。これはなんなんだ? 早く言えよ」
「知らねえよ、俺は何も」
「……なあ田島、俺はこれ以上、お前に暴力を振るいたくはないんだよ。お前が俺のことを見下しているのは知ってるけど、俺はお前のことを藻屑組の仲間だと思ってる。これまで何度も一緒に仕事したじゃないか。お前だって、俺に対する情が少しはあるんじゃないのか? どうなんだ?」
「お前、こんなことしてただで済むと思ってるのか」
「思ってない。でもこのままじゃ俺、頭がおかしくなっちまいそうなんだよ。せめて、自分が何をしているのか知りたいんだよ」
田島は翔人を鋭い目で睨みつけていた。万一に備え、翔人は金槌を持つ手に力を入れた。
 舌打ちと深いため息が田島の口から漏れた。血の滴る眉間を押さえながら、田島は体を起こして床に胡坐をかいた。
「呪い、だってよ」
「呪い?」
「俺もよくは知らない。本城さんが言うには、それを夜に抱いて寝ると、狙った相手を呪い殺すことができるらしい」
 馬鹿馬鹿しい、と翔人は思った。呪いなど存在するはずがない。信じられない。しかし一方で、胸の奥にその説明はストンと落ちてきた。少なくとも、本城がなぜ自分にあんなことを何度もやらせたのか説明がつく。
「じゃあ俺はこれで、我座見会の奴らを呪い殺したってことなのか」
 田島は驚いたように目を開いた。
「よくわかったな。本城さんが商売するのに邪魔だから、消えて貰いたかったらしい。それよりお前、簡単にこの話を信じるんだな」
「……少なくとも、これが普通じゃないことはわかる」
 翔人はリュックのなかを苦々しげな表情で見た。呪いに使う物だとすると、一層気味が悪く感じられる。
「田島、これは人間のミイラなのか?」
「知らない。ああクソ、いてえ。翔人お前、ここまでする必要ないだろうが」
「悪かったよ」
 立ち上がろうとする田島を翔人は助けた。まだふらついている。
「あの悪夢はなんなんだ? 呪いと関係があるってことだよな」
「だから知らねえって。でも本城さんはお前のことを褒めてたよ。これを抱いて寝た人間は大抵発狂するけど、お前は平気だからすごいって。何回でも使えるって」
 翔人は絶句して田島を見た。
発狂する? そんなにリスクのある仕事だなんて、言ってなかったじゃないか。本城が伝えてくれないとしても、お前がこっそり教えてくれるチャンスはいくらでもあったじゃないか。
 田島も話し過ぎたことに気づいたのか、ハッとして翔人を見た。口を開きかけた田島の腹に、翔人は思い切り前蹴りを食らわせる。壁にぶつかって床にくず折れた田島の上に、洒落た間接照明が倒れた。
 田島のうめき声を背後に聞きながら、翔人は足早に部屋を出た。エレベーターは使わずに階段を駆け足で降り、エントランスを抜けてマンションを出る。
 逃げよう。この街を出よう。田島と話す前からその可能性を考えていたが、今や決定的になった。これ以上、この仕事をしてはいけない。本城は自分のことを壊れるまで使い潰すつもりなのだ。
 このまま逃げることも考えたが、手持ちの金がほとんどない。ヤクザは口座が作れないのでクレジットカードも持っていない。だから逃げるにしても一度家に帰り金を調達する必要がある。本城から貰った六十万円があれば、当面の生活費にはなる。
 翔人は大通りに立ち、焦る気持ちでタクシーを待った。いつもはいくらでも走っているのに、こういう時ほど来ない。こうしている間にも、田島が本城に連絡して捜索が始まっているかもしれないのに。暑さとは別の意味で、全身から汗が止まらなかった。
やっと来たタクシーに乗り込み、急いで自宅アパートの住所まで向かうよう伝える。のんびりとした受け答えをする高齢の運転手で、ナビの入力も遅く翔人はイライラした。ようやくタクシーが走り出した時は、思わず胸を撫で下ろした。十数分も走れば着くはずだ。
車窓に川崎の街並みが流れていく。立ち並ぶマンション、駅近くの便利な商業施設、そして多くの住宅。川崎は東京のベッドタウンとして年々人気が高まっているらしい。高所得者が住む高級住宅街がある一方、翔人が生まれ育った南部の工業地帯には貧しい人間が多く暮らしていた。努力だけでは這い上がれない格差がそこにはあった。翔人は生まれてこのかた、貧しさしか知らない。
この街ともついにお別れだ。嫌いな街だった。
しかし嫌いなのに、どうして自分は川崎を離れなかったのだろう、と不思議に思った。川崎を拠点にする藻屑組に入ったからというのもあるだろうが、そもそも離れるという可能性を考えたことすらなかった。最初から、自分にはなんの可能性もないと半ば諦めていたのかもしれない。それは貧しさの呪いだったのかもしれない。
これはいい機会なのではないか。新しい場所で、新しい人生を始める。そしてこれまで想像もしなかったような何者かになる。堅気の仕事をして、可愛い子供のいる父親になる、とか。
そこまで考えて、翔人は鼻で笑った。馬鹿馬鹿しい考えだ。夢物語だ。とにかく今は、この街を離れることだけを考えよう。
 タクシーが家の前まで到着すると、翔人は運転手にこのままここで待つように伝え、急いで部屋に駆け込んだ。
 リュックから呪いのミイラを取り出し、代わりにテーブルの上に置きっぱなしにしていた六十万を突っ込む。他に何が必要か焦る頭で考え、翔人はお気に入りのジーンズと、スマホの充電ケーブルを入れた。そして少し躊躇ってから、ミイラをタオルで包んでリュックに入れた。持ち歩きたくはないが、いざという時に交渉材料になるかもしれない。
準備が完了したので部屋を出ようと、ドアの前まで来たところで翔人は立ち止まった。一瞬考えた後、引き返して衣装ケースの上に置いた小物入れを開ける。
 そこにはペンやハサミなどに混じり一枚の写真が入っていた。かつて母と住んでいたアパートの前で撮影した写真で、幼い翔人と母が並んで立っている。
母が映っている、残された唯一の写真だった。
 翔人はそれもリュックに入れると部屋を出た。鍵はかけなかった。
 タクシーは言われた通りにそのまま停まっていた。翔人はホッとして、後部座席に向かうとドアが開いた。
 乗り込もうとして、翔人はそこに誰かが乗っているのに気づいた。その顔を見て、全身の血の気が引いた。
 そこには本城がいた。トレードマークの深緑色のスーツを着て、冷たい笑みを浮かべこちらを見ている。
 走って逃げよう、と思った瞬間、本城に胸倉を掴まれた。本城は翔人を掴んだままタクシーを出ると、ものすごい力で翔人をアスファルトに叩きつけた。
 本城は翔人に馬乗りになり、顔面を何発も殴った。鼻血が噴き出し、鼻の骨や、頬の骨が砕けるのがわかった。
 間もなく、翔人は意識を失った。

 沼の底の真っ黒な泥に際限なく沈んでいくような、深い眠りだった。いつまでもそこにいたいのに、翔人は強制的に現実に呼び戻された。
気づくと、全身が濡れている。冷水を頭からかけられたようだ。目を開け、かすむ視界に映ったのは、どこかの建物のなかだった。無機質な内装からすると住宅ではなさそうだ。
「あー、やっと起きたわ。いやあ良かった。このまま死んでしまうんやないかと冷や冷やしたわ」
 本城が少し離れた場所でパイプ椅子に座っていた。翔人と目が合うと歯を見せて笑い、手に持っていたヤスリで爪を整え始めた。どうやら翔人が目覚める前から手入れをしていたらしい。
 より翔人に近い位置に、見たことのない男が立っていた。骨太の本城と違って線の細い男で、だが身長はかなり高く、年齢は四十歳くらいだろうか。細長い男はバケツを手にしていた。
「翔人君、僕はがっかりやで。なんで僕の宝物を盗んで逃げようとしたん? お金はいっぱいあげてたやないの」
 翔人は口を開きかけて、激痛ですぐに口を閉じた。頬の内側が切れているらしい。それどころか顔全体が痛んだ。相当腫れているに違いない。
 その時、翔人はようやく自分の状態に気が付いた。ひじ掛けのついた木製の椅子に座らされており、手足と腹をその椅子にガムテ―プで巻きつけられている。
 拘束されている? そもそもここはどこなんだ。
 周囲を見回す。それほど広くはない部屋で窓はなく、床はコンクリート、天井は配管が丸出しだった。本城の近くに安物の事務机が一つと、後は壁際にパイプ椅子が数脚あるだけで物もほとんどない。日常的に使われる場所ではないようだった。事務机の上には翔人のリュックが置かれている。
「雄一君も期待外れやし、ほんと最近の若いヤクザは全然駄目やね。なあ、須藤」
「はい」
 須藤は無表情のまま答えた。本城は丁寧に爪を整えながら話している。
「この須藤はな、僕の弟分やねん。尼崎から来て貰ったんや。こいつはいいヤクザやで。どんな仕事でもきっちりする。翔人君、仕事はな、途中で投げ出したらあかんよ。特に、僕からの仕事は」
 本城はそう言って顔を上げ、翔人を見た。そこに笑顔はなかった。事務机にヤスリを置くと、神妙な顔で指先を一本一本確認し、手を何度か握ってから頷いた。
「いい感じや。ちょっとでも爪が長いとな、気になってしゃあないねん。ほら、人を殴る時に、爪が長いと手のひらに食い込んで嫌なんよね。わかるやろ?」
 本城は立ち上がり、翔人に近づいた。殴られると思い体を動かすが、ガムテープできつく固定されているので動けない。
「ははは。大丈夫、もう殴らへんよ。心配症やなあ」
 熊のような巨体を揺すりながら目の前まで来ると、本城は腰を屈めて翔人の手の辺りを見つめた。
「あれ? 翔人君、ちょっと爪が伸びすぎてへんか? しゃあない、僕が整えたげるわ」
 須藤がすかさず動き、机の引き出しからヤスリを取り出して本城に渡した。それは本城が使っているものよりも二回りは大きく、人間の爪というよりは、金属や木材を削るためのものに思えた。
 嫌な予感がした。
「な、何をするんですか」
 固まった血が痰のように喉に絡み、上手く声が出せない。
 須藤が幽霊のように音もなく翔人の背後に回り、椅子を押さえた。本城は鼻歌を歌いながら、しゃがんで翔人の指先を撫でる。そしておもむろに左手の人差し指を掴むと、その先端をガリガリと削り始めた。爪どころかその下にある指の肉ごと、なんの躊躇もなく削っていく。
 翔人は殴られることには慣れていたが、これは想像を絶する痛みだった。指先に集中する繊細な神経が、肉と共にガリガリと少しずつ削られ失われていく。
 翔人の悲鳴とも吼え声ともつかない絶叫が、密室にこだまする。その合間に、本城の鼻歌と、爪と肉が削られる音が聞こえる。
「ほーら見てみ。綺麗になったやろ」
 本城が笑顔で言った。翔人の左手指先は、先端から五ミリが無くなっていた。
「もう、許して下さい。許して下さい」
 翔人は泣いていた。鼻からは血の混じった鼻水が大量に流れている。
「許すも何も、僕は君のために爪の手入れをしてあげてるだけやからなあ。これ、もしかして拷問やと思ってへん? ちゃうからね。ただまあ強いて言うなら、何事もけじめは必要やっちゅうことかな。さ、どんどんいこか」
 本城は当たり前のように、今度は翔人の左手中指を掴んで削り始めた。
 地獄の時間だった。いっそ指を切断してくれたほうがマシだとすら思った。どれだけ懇願しても、どれだけ泣き喚いても、どれだけ罵倒しても、本城は手を止めなかった。
 そして、二本目もまた五ミリ削られた。
「そう言えば、翔人君はあれがなんなのか知りたくて雄一君のとこに行ったらしいね。せっかくやし教えたげるわ」
 世間話のような軽い口調で本城は言い、翔人のリュックを開けてなかから例のミイラを取り出した。本城に馬乗りで殴られている時に背中の下敷きになっていたが、壊れてはいないようだった。
「これはな、まあいわゆる呪具っちゅうやっちゃな。兵庫の山奥の方でむかーしに作られたもんらしいわ。ちなみにミイラちゃうで。かなり精巧に作られとるけど、木製の人形や。ただ、この体の部分には子供の遺灰が入っとるらしい。その子供に似せて作られとるんやって。面白いやろ? 僕がまだ若いころ、借金の取り立てしとる時に手に入れたんや」
 翔人はちらりとそのミイラ――人形を見た。確かに、先入観から本物のミイラに見えていたが、木製だと言われるとそのようにも見える。だがそもそも今は指先が焼けるように痛み、話があまり頭に入ってこなかった。
「ほらここ、見てみ。人形が筒を抱いてるやろ。ここにな、呪いたい相手の名前を書いた紙と、そいつの体の一部を入れんねん。髪の毛とか、爪とかな。するとこいつに誰を呪えばいいのか伝わる。で、夜に抱いて眠ると、こいつが相手の内臓をぐちゃぐちゃにして殺してくれるんや。便利やろ?」
 本城はスマホを取り出し、しばらく操作してから画面を翔人に向けた。そこには目を見開き、力なく倒れる中年の男が写っていた。男の口元や服は血にまみれ、床には赤やピンクの臓物の破片が大量に散らばっている。
「こんな風に死んでしまうねん。むごいもんや。こんな死に方だけはごめんやなあ」
 本城は嬉しそうに笑うと、スマホを仕舞った。
「僕はな翔人君、君のことを本当にすごいと思ってるんやで。この人形の呪いは、効果もすごいけどデメリットもあってな。使った人間の精神への負担が大きいんや。何人かにやらせてみたけど、みんなすぐにおかしくなってしまったわ。大変やったでえ。ずっと泣いてたり暴れたり、言葉が話せなくなったり、急にビルから飛び降りたりしてなあ。ほんま迷惑やったわ。だから君みたいに、四回寝ても正気を保ってるのは本当にすごい。これでも感謝してるんやで」
「だったら、もう解放して下さい」
 震える声で翔人は言った。
「それはあかんよ。君にはまだまだ、仕事をして貰わなあかんからね。でもそうやな、この『爪の手入れ』は、本当は両手の指全部やろうと思っとったけど、それは勘弁したるわ」
「ほ、本当ですか」
 それでもいい。この地獄のような痛みから解放されることだけが今の翔人にとっては重要だった。
「ああ。僕は嘘は言わんからね。だからあと三本、左手全部綺麗にするまでは頑張ってな。人差し指と中指だけこれやと、バランスが悪いもんね」
 浅黒い顔を大きく歪め、本城は満面の笑みを浮かべた。

 長いこと、翔人は剥き出しのコンクリートに膝を抱えて座っていた。左手には全体に包帯がグルグルと巻かれている。一呼吸ごとに、鋭い痛みが指先に走った。殴られた顔面の痛みも依然残っている。
 本城と須藤は拷問が終わると部屋を出て行った。ドアは施錠され、出ることは叶わない。殺風景な密室に一人残され、今が何時なのかすらわからなかった。感覚的には、あれから二、三時間は経ったような気がする。
 ここはどこなのだろうか。遠くまで運ばれたのかもしれないし、もしかしたら川崎で藻屑組が保有している建物の一室なのかもしれない。監禁に使える部屋があるらしいことは翔人も聞いていた。外の音はほとんど聞こえないので、地下室か、あるいは防音処理が施された部屋なのだろう。
 ここから逃げなければ。これ以上、あの仕事はできない。今はまだ耐えられているが、いずれは自分も、本城が言っていたような狂人になってしまう。逃げなければ。隙を突いて、脱出しなければ。
 そこまで考えて、自分の体が震えているのに気が付いた。本城の邪悪な笑顔が目に浮かぶ。左手を見ると、乱暴に巻かれた包帯には血が滲み始めていた。
 ここから逃げ出したら、今度はあの程度の拷問では済まないだろう。精神を蝕む悪夢も恐ろしいが、本城の執拗な暴力も恐ろしい。
 現実にも、夢のなかにすらも、逃げ場がない。ではどこに行けばいいのだろう。
 ドアが唐突に開き、須藤が現れた。その後ろから現れた本城は見るからに上機嫌だった。
「さあ、仕事の時間やでえ」
 本城はタオルの塊を大事そうに抱えている。あの人形が入っているのだろう。須藤は折りたたんだ毛布とロープを持っていた。
 翔人はよろよろと立ち上がり、身構えた。
「須藤ほら、翔人君の前に毛布を敷いてあげて。そう、そこでええ。さあ翔人君、その上に座って」
「俺、もうこれ以上やれないっすよ。勘弁してくださいよ。これ以外の仕事ならなんでもやりますから。盗みでも、詐欺でも、売人でも、なんでもやりますから」
「あー、君にはそういうの求めてへんから。だって君、あんま使えへんって話やし。適材適所、これこそ君にできる唯一の仕事やねん」
 話している間に須藤が翔人の背後に回り、慣れた手つきで、翔人が抵抗する間もなく素早く後ろ手に縛った。翔人はそのまま後ろから突き飛ばされコンクリートに倒れ込む。須藤は倒れた翔人の足を腕と同じくきつく縛り上げた。翔人は芋虫のように横になったまま体をくねらすことしかできなくなった。
「な、何を……」
 本城は須藤に人形を渡した。須藤はそれを翔人の腹に押し当てると、器用にロープで胴体に固定した。
「君はただ、大人しく寝てればそれでええ。絶対に暴れたりせえへんようにな。それが壊れたら、どうなるかわかるやろ」
 本城はそう言い置き、須藤と共に部屋を出て行った。
 翔人は少し手足を動かしてみたが、ちょっとやそっとではこのロープは解けないと悟った。おぞましい呪物を腹に括りつけられたまま身動きがとれない。
 眠りたくない。またあの夢のなかに行くことを考えると、それだけで動悸がした。あの夢を見ると心からも体からも生気が失われる。そもそもあれは夢ではなく、人形が誰かを呪い殺す際の、実際に起きている惨劇を体験しているのではないか。
 眠らない、それしか生き延びる道はない。眠らなければ呪いは成功せず、呪いが成功しなければ、「役立たず」だからと解放して貰えるかもしれない。翔人としては、そこに賭けるしかなかった。
 だがすぐに、強烈な睡魔が襲ってきた。この人形を抱くと、いつもこうだった。目を見開き、唇を血が出るほどに噛んで堪えたが、やがて翔人は白目を剥いて夢のなかに引きずり込まれた。

 体全体をぶよぶよした脈打つ肉の壁に圧迫され、窒息しそうだ。生臭く、ぬるぬるしている。気色が悪い。逃れるためには、またこれを食わねばならない。
噛みつくと血の味がして、糞便の臭いが立ち込める。吐き気を堪えながら、なんとか飲み込む。それをひたすら、ここから出られるまで繰り返す。また無限にも感じられる時間を耐えねばならない。
 焦燥と、嫌悪感と、恐怖に満たされながら、ひたすらに顎と首を動かし、翔人は誰かの内臓を食い破り続けた。
「こんなところ嫌だ」と思った。
「ここに来たかったわけじゃないのに」と思った。
「本当はあそこに行きたかったのに」と思った。
 いや、これは、自分が思っているのだろうか?
 では誰が?
 肉の壁は消え、夢が終わる気配がした。
 
 
 それから四回、翔人は仕事をさせられた。
 手足を縛られたまま、翔人は虚ろな目で床に転がっていた。度重なる強いストレスで精神がすり減り、気力と思考力が完全に失われていた。毛布が敷かれているとはいえ、コンクリートむき出しの床は固い。体中が痛んでいたが、この日はそれも感じなかった。
ここに来てから何日経ったのか、もはやわからない。最近は須藤だけが来ては無言で仕事の準備をしたり、翔人に食事を与えたりオムツを換えたりした。もはや人間としての尊厳はなかった。
 瞬きの回数が減った翔人の目は赤く充血している。涙が一粒、頬を伝って毛布に落ちた。
 どうしてこんなことになってしまったのだろう。俺はただ、何者かになりたかっただけなのに。誰にも馬鹿にされない、人に認められる存在になりたかっただけなのに。それがこのざまだ。何者かになるどころか、他所から来たヤクザにいいように使われてゴミのように床に転がっている。
 このままここで、死んでしまうのだろうか。
 俺は一体、何になりたかったのだろう。木原の兄貴のような成功したヤクザ? そんなものに本当になりたかったのだろうか。もはやわからない。
 翔人は横を向き、虚ろな目で虚空を見つめていた。その視線の先に、床に置かれた自分のリュックがあるのに気が付いた。
 あのなかには母の写真が入っている。子供の自分と母が並んで立つ写真。母の姿を残す、唯一の写真。
 胸のなかに、言いようのない熱い感情が膨れ上がる。忘れていた記憶があふれ出す。母と繋いだ手の感触。滑り台の下で自分を待っていた笑顔。夕方、帰り道で一緒に歌った蛙の歌。一度だけ誕生日に買ってくれた、近所のケーキ屋のショートケーキ。母は自分の分のイチゴもくれたっけ。
もしかしたら、俺が一番なりたいものは、あのころの自分なのかもしれない。
 翔人は嗚咽を漏らして泣いた。体を震わせ、怯えた芋虫のように体を丸めて泣き続けた。
 全て間違っていた、と思った。
 ひとしきり泣いて、ぐったりと横たわっているとドアが開いた。
現れたのは本城だった。脇にタオルで巻いた人形を抱えている。翔人の顔を見ると驚いたように一瞬立ち止まり、近づいて顔を覗き込んだ。
「あー。もうあかんかなあ」
「……本城さん、本当にもう勘弁してください」
「なんや、喋れるやん。あと一回は使えるな」
 本城はそう言って、翔人の腹に人形を括りつけた。
 翔人は暗い穴に突き落とされた気分で本城を見上げた。本城は微笑みを浮かべてこちらを見ている。
「なんでそんな、何人も殺さなきゃならないんだ。木原の兄貴のシノギを奪ったんだから、それで十分じゃねえかよ。どんだけ強欲なんだよ」
 翔人は振り絞るように声を出した。
 本城は考えるように顎を撫で、それから近くに置いてある椅子に足を組んで座った。
「別に僕は、自分の利益のためにやってるわけちゃうねん。木原君はまあ、こっちで動きやすいポジションが欲しいから死んで貰ったけどな。翔人君、僕はな、ヤクザの未来のために動いてるんや」
 こちらを見る本城の顔にいつもの胡散臭い笑顔はなく、ごく自然で力の入っていない表情をしていた。
「翔人君、ヤクザの一番の商品ってなんやと思う? 答えは簡単、暴力や。僕らは暴力を売るのが商売やねん。僕らの暴力が恐ろしいから、あらゆるシノギが成立すんねん。でもな、時代が変わって、暴力が商品にならへんようになってきた。暴力団排除条例だの、暴力団対策法だので、あらゆる活動が制限されて、簡単に逮捕されるようになってもうた。組の上の老人たちは自分たちの利益しか考えてへんから、下にはトラブルを起こすなって言うやろ? ヤクザは大人しくなるしかない。すると、世間の人間は少しずつ僕らを恐れへんようになる。実際、反グレ連中に舐められて、こっちが一方的に殴られることもある。警察沙汰になれば、咎められるのは暴力団である我々やからな。もう暴力は、ヤクザの商品として成立せえへん。ヤクザは人口も年々減っとるし、このままやとそのうち滅んでまうやろな」
 本城は翔人の腹に括りつけられた人形を指差した。
「だから僕は、それを使うことにしたんや。この呪具は今の時代にぴったりの究極の暴力装置や。僕に逆らった人間、不都合な人間は、世にも不気味な死に方をする。科学では説明できへんし、当然警察も僕を逮捕できへん。僕は恐れられ誰も逆らえへんようになる。ヤクザの恐ろしさを、みんなが思い出す。僕はまだまだ恐怖をばら撒くで。そしたらきっとまた、ヤクザが自由に商売できる、良い時代が戻ってくるはずや」
 本城の口調は明るく、目は輝いていた。
「そんなの、俺には関係ない」
「まあ、自分のことしか考えてへん君にはそう感じられるやろね。でもきっと、これからヤクザになる若い子は、僕に感謝することになるわ」
 翔人のなかに怒りが沸き上がった。本城の理想のために自分が犠牲になるなどまっぴらごめんだ。
 反論しようとした瞬間、全身に覆いかぶさるように睡魔が襲ってきた。意識に靄がかかり、すぐそこにいるはずの本城の姿が遠くなる。また、呪いの夢に誘われている。
 眠ってはいけない。次に眠ったら、今度こそ正気を失ってしまうだろう。
 手足を動かそうとするが、当然縛られているので何もできない。のたうつように懸命に体を動かす。しかし、どんどん体に力が入らなくなってくる。
「君はもう、これで終わりやろう。せめて最期は見届けてあげるから、安心して眠り」
 それが誰の声なのかすらわからぬまま、翔人は意識を失った。

 真っ暗な場所に、翔人は立っている。
 ここには肉の壁はなく、血の臭いも立ち込めていない。しかし現実の光景ではない。ただ闇だけが、どこまでも広がっている。
 ふと、気が付いた。暗くてよく見えないが、近くに誰かがいる。うずくまり泣いている。小さな子供のようだった。
 翔人はそちらに行こうとしたが、どれだけ動かそうとしても足が動かなかった。
――おかん、どこにおるん?
 闇の向こうから心細そうな子供の声がした。
 ――おかんに会いたい。
 翔人はその声を聞いたことがあるような気がした。いや、そもそもこの子供に会ったことがある。
 もう何度も、一緒に寝ているじゃないか。
 こっちにおいで、と翔人は言った。
 子供の泣き声が止んだ。暗くて見えないが、こちらに顔を向けている気がする。
 ――おかんに会いたいのに、いつも違うとこに行かされんねん。嫌なところ。もうあんなとこ、行きたくない。
 行かなくていいよ。苦しくて怖いよな。こっちにおいで。
 翔人は優しく語りかけた。
 子供は立ち上がってゆっくりこちらに歩いてきた。近くまで来ても、不思議と顔は闇に覆われていて見えない。四、五歳くらいの小さな男の子だ。
 まるで昔の自分が目の前にいるようだった。
 翔人は子供を優しく抱き締めた。骨の感触がわかるほどに痩せている。
子供は安心したように肩の力を抜き、翔人の背中に手を回した。
 俺が一緒にいてあげるよ。
翔人の言葉に、子供は頷いた。
 二つの孤独な魂が混ざり合い、無限の闇のなかに溶けていった。

 狭い密室に、獣のような叫び声が響いた。
 椅子に座ったままうたた寝をしていた本城は反射的に立ち上がり、周囲に素早く目を走らせた。敵が来たわけではなさそうだ。
 すぐに、絶叫しているのは床に転がる翔人だと気が付いた。目をひん剥き、歯を食いしばり、涎を垂らしながらのた打ち回っている。
 ついにおかしくなったか。
 本城は翔人に近づき、頬を強い力で何度も叩く。
「おい、おい! しっかりせえ!」
 しかし翔人から返事はない。激痛に耐えるように顔を歪ませながら、激しく体を動かしている。このままでは、腹に巻き付けた人形が壊れてしまう。それだけは避けなくてはいけない。
 本城は事務机の引き出しから小型のナイフを取り出すと、翔人に近づいて腕を掴んだ。弱っているはずなのに、その暴れる力は異様に強い。苦労して動きを抑えながら、腹に人形を巻き付けているロープを切った。
 人形を包んでいるタオルの塊を、ひったくるように翔人から離す。これで安心できると思いきや、ふと、違和感を覚える。軽い。タオルの包みも形が崩れている。
 嫌な予感でうなじの辺りがざわざわする。
 中身を確認するために、本城はタオルを急いで開いた。だがそこには何もなかった。あの子供の形をした呪具は、影も形もなく消えてしまっている。
本城はタオルの一部が破け、穴が開いていることに気が付いた。そこからどこかに転がり落ちてしまったのかもしれない。しかし周辺を見回しても見当たらず、翔人の下敷きになっているかと思えばそうでもなさそうだった。
 一体どこに消えた。焦りと苛立ちが同時に押し寄せてくる。
 依然として呻いている翔人の声が耳障りだった。腹を何発か蹴れば静かになるだろうか、そう考えながら目を向け、翔人の着ているシャツの腹の部分が破れているのに気が付いた。
 破れたタオルと破れたシャツ。何か関係があるのだろうか。
 本城はしゃがんで翔人のシャツをめくり、腹部を露出させた。そしてそこにあるものを見て息を飲んだ。
 翔人の腹に、あの人形が突き刺さっている。いや、埋まっているという表現の方が正しいだろうか。人形の頭部が腹から出ているが、出血や傷は見えないので皮膚を傷つけているわけではなさそうだった。
 あまりの事態に本城が硬直していると、人形の頭部は少しずつ翔人の腹に入っていった。泥に落とした物がゆっくりと沈んでやがて見えなくなるように、人形は翔人のなかに完全に入り込んでしまった。腹には傷一つなく、まるで何事もなかったかのように綺麗だった。
 先ほどまで喉が擦り切れそうなほどに叫んでいた翔人は、叫ぶのをやめて荒い呼吸をしている。本城は事態が全く飲み込めず、床に転がる弱った若者を茫然と見つめた。
 一体、何が起こった? 人形がこいつの腹に入った。呪いの矛先が手違いでこいつに向いて、これから直接内臓を破壊するということか? それとも、こいつが何かをしたのか?
 混乱しながら考えを巡らせていると、床に転がる翔人と目が合った。消耗して目の下には濃い隈ができているが、敵意に満ちた鋭い目つきだった。
「……お前、一体何をしたんや?」
 翔人は返事をせず、かわりに口元にうっすらと笑みを浮かべた。
 久しく感じていなかった恐怖が、本城のなかにじわりと沸き出た。
 人形を取り返さなくてはいけない。あれは俺のものだ。俺の理想を成し遂げるために必要不可欠な道具なのだ。
 本城は右手に持つナイフをちらりと見た。
「それはお前のもんちゃう。返してもらうで」
 手足の自由を奪われたまま横向きでこちらを見ていた翔人を転がし、仰向けにする。シャツをめくり露わになった腹部に左手を当て、みぞおちの辺りに狙いを定めると、本城はナイフを躊躇なく振り下ろした。
 しかし、本城の手は途中で止まった。突如強烈な痛みを胃の辺りに感じたからだった。まるで胃に刃物が突き立てられたような、鋭く耐えがたい痛みだ。本城は苦悶の表情でナイフを落とし、膝をついた。
 笑い声が聞こえた。翔人が笑っている。本城を見つめ、楽しそうに笑っている。
「……なんや、これは」
 振り絞るように声を出した本城を更なる痛みが襲った。腹のなかに次々と、経験したことのない激痛が波のように押し寄せる。まるで、腹に入り込んだ獣が、内臓を躊躇なく食い荒らしているような。
 本城は四つん這いになり、大量に血を吐いた。血の海には内臓の欠片がところどころに浮かんでいる。
「それが呪いだよ。どうだ? 良い気分か?」
 翔人の声を聞きながら、本城は血のなかに倒れた。
 なぜ、呪いが俺の方に? 入れるものを間違えたのか? それともこいつが呪いを操れるように?
 しかし思考は激痛に追い出され、それ以上考えることができなかった。本城の体は小刻みに痙攣しはじめ、口からは赤い泡が零れている。
 翔人と本城は、同じような格好で床に倒れて向かい合った。二人の視線が交差する。翔人の瞳にはぎらぎらとした輝きが宿り、本城の目からは光が失われていった。
 本城は自分が死に向かっているのを感じた。聴覚も、嗅覚も、触覚も、あらゆる感覚が遠くなる。きっと間もなく、何も感じなくなる。
 怖い。ヤクザになった時から死を覚悟していたはずなのに、いざ目の前にすると、こんなにも怖くてたまらない。
 倒れたまま、本城はさらに大量の血を吐いた。気道に血が入り、呼吸すらままならない。
 「……ま、まだ死なれへん。まだこれから……」
 最後の言葉を言い終わらぬまま、本城はガクガクと何度か大きく体を震わせ、そのまま動かなくなった。

 翔人は本城の死を見届けると、なんとか体を起こして膝立ちになった。足首を縛られているので、膝で這うように少しずつ移動する。本城の死体の近くに落ちているナイフを拾うと、苦労しながら手足のロープを切った。
 立ち上がろうとしたが、足に力が入らず転んでしまった。本城の吐いた生ぬるい血のなかに尻もちをつく。
 ふいに、翔人は吹き出した。そしてそのまま笑いが止まらなくなってしまった。目を開いたまま死んでいる本城を見て笑い、血まみれになった自分の手のひらを見てさらに笑った。腹のなかに木製の人形が入っているので違和感があり、気持ち悪いはずが、それすら笑えた。
狂気的な笑い声が埃っぽい密室に反響し、まるで本城に殺された全ての人間が笑っているかのようだった。

 翌年の冬、我座見会は壊滅した。理由は単純、構成員の半数が死に絶えたからだった。次々と非科学的な死を遂げ、残された構成員もみな逃げ出した。川崎は完全に藻屑組のものとなり、その影響力は拡大し続けた。
 翔人はタワーマンション上階にある自宅で革張りのソファーに座っていた。深く腰掛けたままタバコを吸い、ゆっくりと煙を吐き出す。広いリビングに紫煙が溶けていく。
 インターホンが鳴った。呼んでいた客が来たのだ。翔人はモニター越しに対応し、エントランスのオートロックを解除した。部屋の鍵は開いているので、自由に入ってきていいと伝える。
 ソファーで待っていると、しばらくしてドアの開く音がした。廊下をこちらに向かってくる足音が聞こえ、近くで人が立ち止まる気配がする。
 顔を向けると、田島が怯えたように翔人を見ていた。
「約束通り、持ってきました」
 震える手で、ジップロックを差し出す。なかには一本の白い髪の毛が入っている。翔人はそれを受け取ると、中身をジッと見つめた。
「間違いないんだよな?」
「はい。オヤジの、天野組長の髪の毛です」
 翔人は頷くと、それを目の前のテーブルに置いた。
「あの、ほ、本当にこれで許してくれるんですよね? これで終わりですよね?」
 情けない顔で縋るように言う田島を一瞥し、鼻で笑う。タバコを一口吸ってから、「そうだな」と翔人は答えた。
 翔人はジーンズのポケットに手を入れ、一枚のジップロックを引っ張り出した。袋には「田島」と書かれている。中身は田島の髪の毛だ。
 田島は泣きそうな顔でそれに手を伸ばした。しかし、袋に手が届く前にその動きが止まった。腹に手を当て、苦悶の表情を浮かべて床に倒れる。ジタバタと藻掻いたかと思うと、口からズタズタになった内臓と血を吐き出した。
 翔人はソファーに座ったまま、その様子を無表情で眺めていた。
「ど、どうして……」
 恐怖と憎悪が入り混じる目で、田島は翔人を見上げた。
 しばらくフローリングの上でのた打ち回り、やがて田島はこと切れた。
 田島とは長い付き合いだが、自分でも意外なほど、その死になんの感慨も抱かなかった。
 翔人は立ち上がり、窓辺に向かった。そこからは川崎の夜景が見下ろせた。すぐ近く、多摩川の向こうにある東京と比べると見劣りするが、それでも悪い光景じゃない。清濁併せ持つこの川崎という街を、翔人は好きになってきていた。
 かつての自分は、ここから見える光の粒の一つに過ぎなかった。いや、あのオンボロアパートの明かりは、この高さからは見えもしないだろう。貧しくて、劣等感に塗れ、何者かになりたいと焦っていた小さなヤクザ。今となっては、ずいぶん遠くに感じられる。
 服の上から腹を撫でる。皮膚と筋肉の下にある、木製の人形の感触を確かに感じる。
 こいつのお陰で、俺は暴力そのものになった
 磨き上げられたガラスに、自分の姿が反射している。夜の闇を背景に立ち、こちらを見つめている。
 ガラスの向こうの翔人は笑っていた。その表情は、あの本城の作りものめいた笑顔にそっくりだった。


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