「食べたい」を叶えられる人たちのなかで
先日、終末期の栄養ケアについて学んだ。
そこで聞いた「お食い締め」という言葉。
もう医療的に改善の見込みはなくて、
できることもなくて、
看取りの段階に入った患者さん。
その方の「食べたい」を、最後にもう一度叶えてあげる。
——なんてすばらしいんだろうと思った。
そして同時に、こんな風に思った。
あの席に、薬剤師は座れるんだろうか。
食べさせてあげられる人がいる。
味わわせてあげられる人がいる。
私は、その輪のどこに立てばいいんだろう。
今日はこのことを私なりに考えてみた。
研修で出会った言葉
その言葉は、研修のスライドの中にさらっと出てきた。
「お食い締め」。
最初、聞き間違いかと思った。
でも、講師の方は静かに続けた。
看取りの段階に入った患者さんに、
最後に「食べたい」を叶える。
その方の人生の、最後の一口を支える。
そういう関わり方のことだと。
——お食い締め。
口の中で、その言葉をもう一度なぞった。
お食い初め、という言葉なら知っている。
赤ちゃんがはじめてご飯と出会う日。
その対になる言葉が、世の中にはちゃんとあったんだと思った。はじまりに名前があるなら、終わりにも名前がある。
当たり前のようでいて、
私はその当たり前を今日まで知らなかった。

心を揺さぶられたんです。
スライドの中では、ゼリーを少しずつ口に運ぶ写真や、好きだったお寿司を一貫だけ用意する事例が続いていた。
「食べる」って、栄養を入れることだけじゃない。
その人がその人らしく終わっていくための、最後の輪郭みたいなものなんだな、とそんな風に思った。
「食べたい」を叶えられる人たちのなかで
研修のあいだ、私にはいろんな職種の人の動きが頭の中で重なって見えていた。
管理栄養士さんは、その方の好きだったものを思い出して形にする。
ペーストの中に、夏みかんの香りをそっと忍ばせる。ゼリーの色を、いちごの赤に寄せる。
看護師さんは、口の中をきれいに整えて、姿勢を支えて、スプーンを唇まで運ぶ。ご家族の手に、そっとスプーンを持ち替えて援助する。
言語聴覚士さんは、その一口が安全に飲み込めるように、角度や温度や量を見ている。
医師は、「もう食べていいですよ」と、ご家族に静かに伝える。
——あの席には、ちゃんと役割がある人たちが座っている。
ぐるっと見渡して、私は思った。
じゃあ、薬剤師は??
もう改善の見込みがなくて、治療として打てる手もなくて。「飲んでください」と差し出せる薬も、たぶんもうあまりない。
私の手元には、何が残っているんだろう—。
「食べたい」を叶えられる人たちのなかで、
私はどこに立てばいいんだろう。
ほんの少しだけ、羨ましいと思った。
そして、そう思ってしまった自分にちょっと驚いた。
最期に、焼き肉を食べさせるということ
その研修の中では、
ひとつの事例が紹介されていた。
看取りの段階に入った患者さんが、最期に「焼き肉が食べたい」と言った。そして、ご家族もそれを叶えてあげたいと願った。
——焼き肉。
飲み込みも落ちている、体力もない、
誤嚥のリスクはもちろんある。
医療の常識で考えれば、
止めることのほうが「正しい」のかもしれない。
でも、その場にいた医療者たちは
止めなかったそう。
リスクを全部承知したうえで、
どうしたら少しでも安全に、
その方の口に焼き肉を運べるか。
どの部位を、どんなふうに切って、
どう味つけして、どんな姿勢で。
何かあったとき、どう対応するか。
そこまで考え抜いて決断した、という話だった。
何が正解かという問いは、もうあの席には存在していない。ただ、その人の人生最後の望みにどこまで本気で向き合えるか。
あったのはそれだけだった。
私はスライドを見ながら、
ちょっと泣きそうになっていた。
「医療的にできることがない」って、
たぶんよく聞くフレーズ。
治療として打てる手がない、
という意味で使われる。
でも、あの焼き肉の事例は、その言葉の意味をまるっとひっくり返していた。
治療として打てる手がないからこそ、
できることがある。
その人がその人らしく、
最後の一口にたどり着くために、
何ができるか。
医療者の仕事は、そこまで続いていた。
私の手元に、残っているもの
——じゃあ、薬剤師は。
焼き肉の事例の余韻のなかで、
私はもう一度、自分に問い直していた。
あの席で、私には何ができるんだろう。
しばらく考えて、
ひとつだけ思いついたことがある。
「足す」ことは、もうできない。
治る薬を出すことも、
症状をぐっと良くする薬を出すことも、
たぶんもうない。

今までちゃんと考えてきませんでした。
でも、「引く」ことはできるかもしれない。
看取りの段階に入った方の薬を作っていると、まだ何錠も処方が並んでいることがある。何年も前から飲み続けている、コレステロールの薬。
何年も前から続いている、骨の薬。
飲み込みづらそうにしている、大きな粒の胃薬。
もう要らないだろうものが、
そこにはたぶん混じっている。
飲みにくいなら粉にすればいい。
そんな考えもあると思う。
でも、その何錠かをそっとしまうことができたら。
口の中とお腹に少しだけ余白ができる。
余白ができた口に、
最後の一口の焼き肉を運べるかもしれない。
——これは、ささやかな仕事。
焼き肉を切る人や、姿勢を支える人ほど絵になる仕事じゃない。
でもたぶん、
薬剤師だからできる仕事かもしれない。
「足し算」じゃなくて、
「引き算」であの席に参加する。
そういう座り方なら、
私にもできるのかもしれないと思った。

正直、この関わり方くらいしか
思い浮かびませんでした。
でも、答えは出ない
——とはいえ。
「引き算」って言葉でまとめてしまうと、
ちょっと整いすぎている気もする。
本当のところ、現場であの場面に立ち会ったときに自分がそんなにきれいに動けるのかなんてわからない。
看取りの段階で、何錠かをやめる判断。
主治医に「この薬、もうやめてもいいかもしれません」と切り出すタイミング。
ご家族に、その理由をどう伝えるか。
どれも、簡単じゃない。
「焼き肉を食べさせる」という決断が、リスクを承知したうえでの極限の選択だったように、
「飲ませない」という選択もまた、
誰かが責任を引き受けて初めて成立する。
その重さを、私はまだちゃんと知らない。
それに——「引き算」だけが薬剤師の関わり方なのか、とも思う。
痛みを取る薬を、最後まで丁寧に調整する。
吐き気を抑えて、口を湿らせる。
ご家族の「これ、飲ませてあげていいんですか?」に、ちゃんと答える。
たぶん、答えはひとつじゃない。
今日の研修で、何か答えがでたわけじゃなかった。むしろ、問いがひとつ増えて帰ってきたという感じだった。
あれから何日か経って、
今こうして書きながらも答えは出てない。
『食べたい』を叶えられる人たちのなかで、私はどこに立てばいいんだろう。
たぶん、明日からの病棟で、また少しずつ考えていくんだと思う。
あの席に、薬剤師が座れる日が来るのか。
それとも、座らなくていいのか。
座らないことが、その人の最後の一口を守ることなのか。
わからない。
ただ、ひとつだけ。
「お食い締め」という言葉を知れてよかった。
はじまりに名前があるなら、
終わりにも名前がある。
その名前を知っている薬剤師でいることくらいは、今日から始められる。
コラム:言葉に名前がつくということ
「お食い締め」は、もともと造語だそうだ。
言語聴覚士で、愛知学院大学の牧野日和先生が、お食い初めと対になる言葉として提唱した。
狭義には、人生最後の食事。
広義には、「最期に誰と何を食べようか」と思いを巡らせ、去りゆく人と残される人がそれぞれの立場で命を学ぶ機会のこと。
一本締めの「締め」と同じだ、と先生は語る。
宴のおしまいに、よおーっ、ぽん、と手を打ってそれぞれが家へ帰っていくあの締め。
名前のなかった営みに、名前がつく。
それだけで、私たちの目はその営みをちゃんと見つけられるようになるんじゃないかな。

参加して本当に良かったと思いました。
参考文献
牧野日和(原案・監修), かなしろにゃんこ。(漫画). お食い締め 口から食べられないアナタへ ~言語聴覚士が見たそれぞれの選択~. 竹書房. 2025.
リハノメ. 「お食い締め」とは何か?ご家族が死を受容する過程に見た思い. 牧野日和先生インタビュー. https://gene.themedia.jp/posts/3172312/
日本通所ケア協会. 終末期の食事支援とは~患者と家族のためのお食い締め. 2025. https://www.jtca2020.or.jp/2025/07/28/terminalcare0728/
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