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#1 なぜ今、日本が“瀬戸際”なのか

「日本は今、瀬戸際にある」と言うと、多くの人はこう返すかもしれない。
戦争が起きているわけでもない。
街は安全で、物も溢れている。
表面的には、危機など見当たらない、と。

しかし私は、まさにその「何も起きていないように見える状態」こそ、
瀬戸際の正体
なのではないかと感じている。

近年、日本社会には、違和感が広がっている。
何か大きな事件があったわけではないのに、
「このままでいいのだろうか」
「どこか大事なものを置き去りにしていないか」
そんな感覚を抱く人が、少しずつ増えているように思える。

この違和感の一つは、社会の中で共有されていた価値・基準が、急速に弱くなっていることにあると思われる。

礼儀や作法は「形式的だから不要」と言われ、
伝統や慣習は「古いもの・意味がないもの」と切り捨てられる。
敬意と批判の違いが曖昧になり、
何を尊重すべきか」を口にすること自体、どこか後味悪いものに
なっている。

もちろん、変化そのものが悪いわけではない。
社会は時代とともに変わる。それは無論当然のことだ。
問題は、
何を残し、何を変えるのかという判断の軸が見えなくなっていること

もう一つの要因は、「今だけ・自分だけ」という価値観が、合理性の名のもとに正当化されてきた点にあると思われる。

効率化、自由、個人の選択。
どれも本来は大切な考え方だ。
しかし、それらが唯一の基準になったとき、社会はゆっくりと痩せていく。

年賀状を出さないのは効率的かもしれない。
地域との関わりを避けるのは気軽かもしれない。
伝統を重んじるのも、軽んじるのも個人の判断だろう。

だが、それらが積み重なった結果、
人と人をつないでいたものが失われ、
社会全体の厚みが削られていく。

個人が悪いのではない。
むしろ、そう振る舞うことが「賢い」とされる空気こそ、
問題なのだと思われる。

そして、この流れは教育とも無関係ではない。

私たちは、知識や技術を学ぶ一方で、
「何を誇りにしていいのか」
「なぜこの国が続いてきたのか」
「自分はどこに立って生きているのか」

そうした問いに触れる機会を、確実に減らしてきた、又は減らされてきた

結果として、判断の拠り所を持たないまま、
その場その場で「もっともらしい意見」に流されやすくなっている。

日本が瀬戸際にあるというのは、
すでに何かを失ったからではない。

これから何を大切にするのかを、選び直さなければならない段階に来ている
――その意味での瀬戸際なのだと思う。

怒る必要はない。
誰かを断罪する必要もない。

ただ一度、立ち止まって考える必要がある。
効率や自由の先に、何を残したいのか。
この国を、単なる「便利な場所」にしたいのか、
それとも、誇りを持って引き継げる共同体として残したいのか。

その問いから、すべては始まるのだと思う。

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