『祝福の葬列』 第十一話
草の中を走っている。
頬から流れた血がぼたぼたと零れているし、手首はおかしな形に曲がってしまっているが、痛みはない。
その状態で、凪は只管足を動かしている。背後から迫って来るものに捕まらないように。
背後から迫って来た手が折れた腕に伸ばされる。捕まる。痛い。死ぬ。もう終わってしまう。
死にたくない。
帰りたい。
「かえりたい」
凪は目を開けた。
目の前には見覚えのない天井があった。焦げ茶色の天板に刻まれている黒々とした木目が凪を見下ろしている。本物の目のように見えるそれからゆっくりと視線を逸らす。すると、凪の枕元に人が座っていることに気が付いた。
白髪の人が丸っこい背中を凪に向けながら何かぶつぶつと呟いている。その人の正面に仏壇のようなものがあるので、拝んでいるみたいだ。
何を言っているのかは分からない。まるで水の中にいるみたいに聞こえて来る音は不明瞭だ。
とん、と左手に固いものが触れた。
瞬きをしながら視線をそちらに向ける。
四ツ谷が隣に座っていた。
口が動いているので、何か言っているのだろうけど、聞こえてこない。
「何を言っているの」
凪は口を動かした。聞こえたが定かではない。
不意に右手が握られた。ぐちゃっと潰れるような音を聞いて気がして視線をやる。そこにミチオがいた。にこやかに笑い、凪を連れて行こうとしている。
「凪君」
ミチオの声だけは鮮明に聞こえる。
その声をかき消す様にぶつぶつと呟く声が大きくなった。
頭が重く、酷い眠気に襲われて瞼を閉じた。
また、草の間を走っていた。
体中が痛い。足が重くて走れない。思わず下を向き、自分の足がずたずたになっているのが目に入った。よくこれで端っていられるものだと冷静に思う。
走らなければいけない。
背後から迫って来る音が大きくなる。
ああ、捕まる。
嫌だ。
嫌だ。
「いやだ」
また目を開けた。
部屋の中は、薄暗かった。
天井の目は相変わらずに凪を見下ろしている。その一つが瞬きして凪の方へとぬうっと落ちて来る。
「なぎくん」
それはミチオだった。
顔のすれすれで止まり、目を合わせようとしてくる。
「一緒にいこうね」
凪は目を逸らした。目を合わせちゃいけないと散々言われていたからだ。
顔が近いのが兎に角不愉快で顔を顰める。どっか行け、と声に出した途端、目の前からミチオが消えた。
代わりに左からぬっと四ツ谷が顔を見せる。眉が下がり、心配そうな顔をしている。何でそんな表情をしているのかいまいち分からず、首を傾げる。すると首が痛んだ。
寝違えたのだろうか、と不思議に思っていたら手首が痛くなった。どんどん体が痛くなり、口から叫び声が出た。
痛い、痛い、と喚く。四ツ谷が肩を摩ってくれたが、どうにもならない。
痛みと熱で涙が溢れる。
どうしてこんなに痛いのだろう。
分からない。
背中に何かが触れる。手だ。誰かの手が触れている。
「やめて」
背中を引っ張られて、気が付いたら目の前が真っ暗になっていた。
湿った土の上を引きずられている。
全身が痛くて抵抗する気力も起きない。運ぶのならもっと丁重に運べよと悪態を吐く。凪を引っ張って行くミチオは黙ったまま喋らない。無視されたのが腹立たしく、ミチオの手を殴りつける。するとミチオは、ぎゃあと悲鳴を上げて飛びのいた。
手が離れたせいで、凪は土の上に転がった。
ミチオが何か言っているが、聞き取れない。泣いているみたいだ。いや、泣いているのはミチオの奥にいる女だ。顔が白くて、笑っているのに泣いている女。集落の人間はあれを神様と呼んでいるらしいが、実際に見れば神様じゃないと気が付くはずだ。
あれの腹の中には死体が詰まっている。泣いているのは、帰りたいからだ。
あの中にもツバサがいるのだろう。
「ごめん」
あの時、凪が一人で帰らなかったらツバサは死ななかったのだろうかとたまに考える。そんなわけないと思いながらも考えるのを止められない。
「一緒に行こう」とミチオが言った気がしたが、無視をして立ち上がる。
そして、背を向けて丘を出た。
酷い痛みで目が覚めた。
過去最低の目覚めに呻き声が上がる。
「起きたか?」
頭上から声がかかるが、顔を上げる力はない。目だけを動かし、声の人物を視界に入れた。
背の低い老婆だ。白い袴みたいな服を着ていて、丸く穏やかな顔つきをしている。顔に見覚えはない。
「体が痛いじゃろ。向こうからようやっと戻って来たんや。大変やったわ。君も大変やったろ。今から更に大変になる。体がぐちゃぐちゃのぼろぼろやけん。聞こえとるか? 死んだか?」
老婆はありえないぐらい早口で捲し立てるように喋る。
何か答えるために口を開くと口の中が痛んだ。思わず呻き声が出た。
「ああ、ああ。無茶したなあ、化けもん噛んだんやろ。口の中も酷い有様や。喋らんとき。ここどこか分かるか? 自分が何もんかわかるか? 名前は? ああ、喋れんのんか」
ちょっと黙ってくれないだろうか。老婆が延々に喋るせいで頭痛がしてきた。
ここは今どこで、この老婆は一体誰なのだろうか。聞きたいのに口を開くこともままならない。
「お、目覚めたん?」
がらりと部屋の扉が開き、四ツ谷が顔を出した。
見知った顔の出現にほっと安堵の息を吐く。
四ツ谷は凪の隣に腰を下ろし、目を合わせて安心した様子で笑った。その顔にはくっきりと隈が出来ていて、疲れが露わになっている。
「この子、反応薄いわ。もともとか?」
「婆さんが煩いんやろ。凪君、聞こえとるよな?」
小さく首を縦に動かす。
「この人、俺の婆さん。有名な霊能力者で、凪君のストーカー追い払ってもらいに来たって説明したんやけど、覚えとる?」
記憶になかったので首を横に振る。
「閑は閉じ込めるんは得意やけど、祓うんは苦手やからな」
四ツ谷の祖母が凪の顔を覗き込む。よく見れば顔つきが似ているような気がしなくもない。
「ずうっと丘とこっち行ったり来たりしとったの覚えとる? 実際にじゃのうて、魂が連れていかれとった。漸く戻せたわ。もうおらんようになっとるから安心せえ。これからは体の方をどうにかせんと」
そんなに酷い有様のなのかと自身の体を見てみる。布団に覆われていて見えない部分が多いが、布団から出ている左手はぐるぐると包帯が巻かれた上に固定されていた。丘でミチオに折られたせいだろう。覚えのない怪我もある。
そろそろと指を動かしたり、足を動かしてみる。もぞもぞする凪に気が付いた四ツ谷が布団を剥いでくれた。夢うつつの状態で走っていた時の足はもう見るも無残な状態だったが、包帯は巻かれているものの形は変わっていなかった。折れてもいないらしい。
「足は切り傷が多いけど、ちゃんと歩けると思う」
四ツ谷は凪が視線を向けたり、持ち上げたりした箇所の怪我を説明してくれた。
やはり左手の骨折は深刻らしく、少しだけ顔を顰めた。口の方は多量の針を含んだような傷が出来ているらしい。舌に穴が開いていると聞いた時はミチオに噛み付いたのを後悔した。
「ミチオ君は、あの家に閉じ込めたわ」
四ツ谷は、あの集落で何がありここに来たのか話し始めた。
凪がミチオの攻防の末に丘に引きずり込まれたのを四ツ谷は直ぐに気が付いた。封印を済ませ丘に捜しに行き何とか凪を引っ張りだしたらしい。四ツ谷の体のタトゥーはお守りのような役割を果たしているので、ミチオを一時的に退けた。ミチオを封印できたが、凪は丘に長居しすぎていた。そのせいで、向こうに精神が引っ張られていたらしい。穢れを纏ったままだといつ連れて行かれるか分からないので、祓うのが得意な四ツ谷の祖母を頼った。
四ツ谷の祖母、四ツ谷鶴子は京都に住まいがあるらしいが、傷だらけの凪を連れて京都まで行くのは無理だと判断し、鶴子に東京ま出て来てもらった。現在、凪たちがいるのは四ツ谷家が所有している東京の家らしい。
驚くことに凪は一週間以上丘と現実を行ったり来たりしていた。
「最初は全然目さまさへんから死んだ思たわ」
四ツ谷は冗談めかしに言うが、心配していたのが透けている。
「実際に死にかけていた。何度も危なかったわ。よく無事に帰って来られたな。精神が強いんやね。強くなきゃ化けもんに噛み付こうなんて思わんか」
凪が寝込んでいる間、鶴子は祈祷をし続け、四ツ谷は傍にいてくれたらしい。
「いつまでいても構わんからな」
そう言うと鶴子は疲労など感じさせない足取りで部屋を出て行った。
四ツ谷が匙を投げるくらいだ、祈祷は凪は想像もできないぐらい大変だったに違いない。喋れるようになったらお礼を言いたい。
「凪君が喋れんのは口の怪我もあるけど、たくさん叫んで声が枯れたせいやから、数日で話せるまで回復するはずや」
もう二度と喋れないようにならなくて安堵した。
ずっと眠り続けていたようなものなので眠気なんてないはずなのに瞼が重い。
「安心したんやろ。寝とき」
四ツ谷の手によって強制時に目を閉じさせられ、そのまま眠った。
もう丘の夢は見なかった。
凪の意識が戻った三日後に四ツ谷の言う通り喋れるまで回復した。すぐに鶴子に謝罪とお礼を言うと「謝られる理由がないわ」と頭をぽんぽんと叩かれた。
「右の頬、もしかしたら傷が残るかも」
四ツ谷家お抱えの医者に言われた言葉にショックを受けたのは、凪よりも四ツ谷だ。
「俺のせいや」と頭を抱える四ツ谷に凪は呆れた視線を向ける。
「大したことないです。女じゃあるまいし」
「そういう考えよくないで。男女に差なんてないわ。傷があるんて嫌や言う奴もおるかもしれんやろ。変な目で見られるかも」
「そんなこと言ってくるような人とは関わらないで大丈夫です」
「それは、そうかもしれんけど……」
どうも四ツ谷は凪が丘に連れ去れたのは自分のせいだと思っている節がある。
「何度も言いますけど、四ツ谷さんが悪いわけじゃないですからね。鶴子さんだって被害は最小限だったって言っていたじゃないですか」
「そうやけど」
いつになくうじうじした様子に段々うざったくなり、折れていない方の手で肩を小突いた。
「俺が帰って来れたのは、閑さんのおかげですよ。お守りがあったから帰って来れました。それにね、あんたがいなかったら俺はもっと早く死んでます。もう二度と自分のせいなんて言わないでくださいよ。そろそろうざいです」
「最後で台無しや……」
凪と四ツ谷がその家を出たのは、それから二週間後だった。
「お世話になりました」
世話になったのは鶴子だけではない。食事の世話をしてくれたり、傷の手当てをしてくれた人もいたし、話し相手になってくれた人もいた。鶴子と同業者や弟子らしい一行に頭を下げた。
「元気でな。何かあったらすぐ連絡してきな」
手を振る鶴子達に別れを告げ、凪たちは自宅へと戻った。
休業の張り紙を剥がし、事務所の扉を開けた。一か月以上家を空けていたが、埃も大して溜まっていなくて良かった。
軽い掃除は必要だが、後回しでいいだろう。
「悠馬君に帰ったって連絡したらすぐ来るって」
背後で鞄を担いだ四ツ谷が事務所に入るながら言う。
「お茶出さないと……」
「顔見たら帰るいうとったからええやろ」
ミチオの封印が済み、凪が意識を失っている間に一通りの連絡は終わっているらしい。悠馬もシゲも無事だった。しかし、シゲは未だに家から出られないらしい。もう後は時間が解決するしかないと四ツ谷は言った。
「一段落して良かったわ」
事務所を見渡しながら思う。帰って来たのだ。
帰って来れたのだ。
「凪君」
四ツ谷に呼ばれたのに、凪は両手で顔を押えて俯いた。
鶴子にもう大丈夫だと言われてもどこか気が張っていたように思う。絶望の淵にいて、死を覚悟したのだ。帰れるなんて思っていなかった。ずっとどこか夢の様で、目を開けたら丘を駆けずり回った挙句に女の一部になっているかもしれない。そんな懸念がずっとあった。
事務所の空気に触れ、漸く現実だと実感が沸いた。
「ずっと気張っとった疲れたな」
大きな手で頭を撫でられ、ぐすりと鼻を鳴らした。
「帰って、来れてよかった」
搾り出す様に吐き出した言葉に四ツ谷が頷いた。
「おかえり」
四ツ谷の手も震えていたし、声も少しだけ濡れているような気がした。
「ただいま」
結局、凪は目を真っ赤にした状態で悠馬を迎えた。悠馬は未だに包帯をしている凪を見て驚いたあと、凪以上に泣いていた。
