『祝福の葬列』 第十話

 はっと気が付くと凪は地面に座っていた。
 寝起きのように鈍行の思考でよろよろと首を動かし、辺りを見渡す。そこは、草の生い茂った場所だった。
 地面の湿った感触にじわじわとぼやけていた思考が晴れ、足元が崩れ落ちるような恐怖が沸き上がって来た。
 今、ここはどこだ。
 さっきまで押し入れの中にいたはずだ。それなのに今は見渡す限りの草むらの中にいる。
 何で、なんて考えるまでもない。ミチオに捕まったのだ。
 早くなる心臓を抑え、冷静になれと自分に言い聞かせる。
 ここが丘ならばまだ近くに四ツ谷がいるので、どうにかなる可能性はある。それに悠馬の話によれば連れて来られた人はすぐには死ななかったらしいから、まだ希望はあるはずだ。
 草を踏む様な音にびくつきながら振り返る。
 視界を覆う草のせいでよく見えないが、視界の端に白っぽい何かが映った気がした。
 ここが丘ならばいるのはミチオだけではなく、神様だという白い女もいるはずだ。あれが何をしてくるのかは分からないが、警戒するに越したことはない。そろりと腰を上げ、首を伸ばして草の上から辺りを見渡し――女と目が合った。
 すぐ近くにいた。ほんの数メートルの距離。恐らくずっと凪を見下ろしていたのだろう。
 咄嗟に動くことも出来ず、ぽかんと口を開けて女の目を見返す。
 近くで見た女の目は真っ黒で、そこからぼたぼたと液体が溢れ落ち続けている。涙だと思っていたが、辺りが暗いせいで垂れ流されるそれは血液のようにも見えた。
 女の薄い唇がゆっくりと動いた。口の中に歯も舌もない。空洞だ。
 じっと目を凝らしてしまった凪は、その口の中に蠢くものに気が付く。何も入っていないと思っていたのに何かがいる。
 人間だと思った。
 志賀の話では、この女の中身は連れ去られた者たちだ。それならば、この中にいるのは人間に違いない。
 凪の予想を肯定するみたいに口の中身がぐちゃっと動き、粘土の高いものがぶつかるような音をたてた。そして、一瞬、誰かの目が見えた気がした。すぐに押し潰され、代わりに小枝みたいなものが口の中から現れた。
 それは、指だ。口の中から出ようと必死で伸ばされる。爪の先らしきものがピンクに塗られているのが見える。
 英梨の爪も似たような色をしていた。赤黒いものが付着しているし、指の形も歪なので確証はない。
 女の口の中からは絶えず蛙が潰れるような音が聞こえている。
「うぶっ」
 腹の中から胃液が上がってきて口を押さえた。その時、手首に青あざ出来ていることに気が付いた。ミチオに握られた箇所だ。
 はっきりと残る痕は、よく見れば身体中に残っている。
 ミチオが連れてきたのに、本人はどこにいるのだろう。女は凪を観察するように見つめるだけでなにもしてこない。空っぽの神様の中に死体を詰め込んだだけの代物に間違いなさそうだ。
 それよりもミチオだ。
 凪は相手に気取られないように辺りを見渡す。
 耳を澄ませていると遠くの方から草を掻き分ける音がしているのに気が付いた。
「凪くーん」
 がさがさ。
 背を低くして音の方を見やると、ひょいっとミチオが草の中から顔だけを出した。
 しかし、凪の姿は女の影になって見えないようで、またきょろりと顔を動かす。
 さっきの家と違い、ミチオには迷いがある。神様と丘とミチオの関係性はよく分からないが、利害の一致とか、そう単純なものでもないようだ。
 凪はそっと音を立てないように足を後退させた。
 女が一歩踏み出す。よく見ると女の足は異常に細く、立っていられるのが不思議なほどだ。その足が容赦なく草や枝を踏むせいで音が鳴った。
 途端に今まで凪を探していた声が止み、ざっざっざっと草を掻き分けてくる音が迷いなく近づいてくる。
 凪は走り出した。
 あれに捕まればもうお終いだ。
 無我夢中で足を動かし、丘を降りて行く。八年前に来た時はすぐに出られたのにいくら走っても延々と草むらが続いているような気がする。それに草の高さは凪の腹辺りまでしかないはずなのに走る凪の視界に草が入り込んで来る。体に当たると逃げるのを邪魔するように巻き付いたり、体を傷つけて来る。
 痛い。草のせいで出来た傷がどんどん抉られていく。温かい液体が頬を伝って行くのを感じながら足を動かした。
 自分がちゃんと下っているのかも分からない。でも足を止めるわけにはいかない。
「凪くん、怖くないよ。大丈夫だよ」
 すぐ近くから声が聞えたと思った時には、手を掴まれていた。
 ばき、と竹が割れるような音と共に掴まれた手に酷い痛みが走り、足がもつれる。
「いだああ」
 折れた。折られた。痛みのせいで頭がぱっと赤く染まり、足に力が入らなくなる。
 逃げなければ、と思うのに腕を振り払う力が入らない。ここで終わるのか、と口惜しさと恐怖でぶわりと涙が溢れた。
 その時、ミチオが手を離した。反射的に振り返るとミチオは顔を顰めて己の手を見つめていた。その手は赤く爛れている。
「凪くん、嫌なものを持っているね。外して」
 ミチオは怒りを携えた目で凪の胸元を見た。そっと手で触れると服の上からでもその存在に気が付いた。四ツ谷から貰ったお守りだ。それがミチオを拒絶しているのだ。どうせならば、丘に連れて来るのを拒んでほしい、と内心文句を言いながら逃げるために足を踏み出した。
 走り出してすぐにミチオの手が伸びて来た。逃れようと体を反らす。湿った土に足がとられて、地面を転がる。
「怖くないよ。逃げないで。大丈夫だよ。皆の所へ行こうよ」
 起き上がってまた走り出す。ミチオの声に焦りが滲んでいる気がするのは願望だろうか。
「凪くん、ねえ、まって、待ってよ」
 ミチオの手が凪に触れる。追いつかれたが、四ツ谷のお守りがあればまだ助かるはずだと縋るように胸元に手を持っていき、
「あぇ?」
 そこに何もないことに気が付く。
 慌ててお守りをかけていた首に触れるが、そこはべったりと血で濡れているだけでお守りに繋がっている紐が無くなっている。凪が気づかぬ間に草がお守りの紐を切り落としていたのだ。
 途端に不安と恐怖が押し寄せた。
 ミチオに腕を掴まれる。全身が痛いせいか、もう何も感じない。ぐっと体が後ろに引かれ、足が止まる。
「凪くん、行こうねぇ」
 にこにこと笑ったミチオに引きずられて、今来た道を戻って行く。
「いあだああ。いあああ」
 上手く喋ることすらできず、子供みたいに喚く。
「しずかさん、しずかさあん」
 最後の抵抗とばかりに地面に爪を立て、四ツ谷の名前を呼んだ。
 ばり、と爪が折れて剥がれる鋭い痛みにパニックになっていた思考が冷静さを取り戻した。
 このまま死ぬのか。何もせずに。借金まみれの父親と不倫をしていた母親に捨てられたせいでこんな目に合っているのだ。二人が仲が良かったら凪はこの集落にくることが無かっただろう。あの二人のせいだ。何故自分がこんなクソみたいな目に合わないといけないんだ。
 絶望や恐怖は一瞬にして憤りに変わり、両親に対しての憎悪は目の前の化け物に向けらえた。
「離せや、くそったれ」
 上手く発音できたか怪しい暴言を吐きながら、目の前の細い腕に噛み付いた。
 激しい嘔吐感を覚えたが、口を離さない。噛み切ってやるつもりで力を込めると口の中に無数の針が刺さったような痛みが走った。既に全身痛いので気にならない。どうせ死ぬのならミチオも一緒に連れて行ってやろうとすら思っていた。
 その時。
 手を叩いたような破裂音が辺りに響き、驚いて口が離れる。
「凪君、走れ」
 耳元で聞き慣れた男の声がしたと脳が認識する前に凪は駆けだしていた。ミチオの拘束は取れている。
 ミチオが背後で何か喚いているが、全く聞き取れない。きーんと耳鳴りのような音がして、頭がおかしくなりそうだったが、声に突き動かされるようにして足だけは動かした。
 ぱん、ともう一度音がする。それは四ツ谷がよく魔除けにする手拍子だと気が付いた。
 ちらっと前方の光が目に入って来た。
「あ」
 肩に大きな手が回り、引き寄せられ、丘から転がり落ちた。
 視界が開けている。周りにはさっきまであった草はなくなり、地面も湿り気を帯びた土ではなくからりと乾いている。丘から出たのだ。
「凪君」
 目の前の光景が信じられず、ぼうっとしているとすぐ傍から声が聞えて来た。緩慢な動作でそっちを向く。四ツ谷が眉を下げて笑っていた。
「大丈夫か? 生きてる?」
「い、いきてる」
「良かった。遅くなってごめんな。ほんまごめん」
 四ツ谷が何か言っているが、上手く理解できない。何を言っているのだろう。
 あの危機的状況からどうやって脱出できたのか分からない。自分の願望だろうか。そうにちがい無いと自嘲気味な笑みが零れた。
「しずかさん」
「なに。あんましゃべらんと。立てる? 無理そうならおぶって行くから」
 凪は泣いた。
 自分の願望の四ツ谷はいつも通りで、彼がいる日常に戻りたいと心の底から願い、涙が溢れて止まらない。
 両親に捨てられ最悪だと思っていたのに、彼と出会えたことは幸福だったと言える。両親といるよりもずっと楽しく、幸せだった。
「かえりたい」
 家に帰りたい。
「帰ろうな。大丈夫。帰れるから」
 都合の良い言葉の後、背後で草を踏む音がして反射的に振り返りそうになった。
「ああ、見たらあかんよ。前だけ見とき。それかもう寝なさい。疲れとるやろ」
 確かに疲れていた。指の一本も動かせない。
 目を閉じるとすぐに眠気がやって来た。
 四ツ谷以外の声に名前を呼ばれた気がしたが、もう目を開ける気力はなかった。

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