高校教員の私が、なぜ不登校の親になったのか?〜「正解」のない教室:オランダの学校で見つけた希望〜 ♯6
空港での洗礼と、わが子の鋭い問い
2025年3月末、私たちは期待と不安が入り混じった気持ちで、オランダ・スキポール空港に降り立ちました。
まず驚いたのは、空港内に銃を持った警備員が配備されていたことです。平和な日本、そして学校という安全な場所で働いてきた私にとって、それは「ここは日本とは全く違うルールで動く世界なのだ」という強烈な洗礼でした。

その光景を見た子どもたちは、不思議そうに私に尋ねました。 「ねえ、なんで日本には(銃を持った警備員が)いないの?」
私は「日本は銃の所持が認められていないし、そこまでしなくても警備ができる安全な国なんだよ」と伝えました。しかし、返ってきた言葉に絶句しました。
「でも、日本の空港にも外国人はたくさんいたよ。本当に大丈夫なのかな?」
大人が信じこんでいる「安全」という当たり前を、子どものフラットな視点がいとも簡単に突き崩す。返す言葉を失った私は、自分の価値観を一度解体して、この国と向き合う覚悟を決めました。
働く人の「人権」が守られている風景
街の中心部、アムステルダム中央駅は大規模な改修工事中でした。首都の主要駅です。日本で言うと東京駅と言えばいいでしょうか。ちなみに東京駅はこのアムステルダム中央駅をモデルに造られたとも言われています。
日本では終電後の深夜に行うのが当たり前の工事を、オランダでは日中に行います。そのため駅の一部は使用禁止。

ガイドの方に「日本では利用者のために夜間に作業します」と伝えると、こう返されました。 「それでは、作業員の人権(生活や睡眠)はどうなるのですか?」
誰かの利便性の裏に、誰かの犠牲がある。多忙を極める日本の学校現場で、自分を削り続けてきた私にとって、この言葉は呪縛を解くような重い一言でした。その姿勢は教育現場も同じ。ある学校では校長が非番で不在でしたが、それが「当たり前」として受け入れられていました。教員の「余裕」こそが、教育の質を支えているのだと痛感しました。
多様な学びの現場:モンテッソーリとタールスクール
視察では、いくつかの特徴的な学校を巡りました。 モンテッソーリ教育の学校では、子どもたちが自分のペースで、自ら選んだ課題に没頭していました。そこには「みんなと同じ」を強いる空気は微塵もありません。
特に印象深かったのは「タールスクール」です。ここは移民の子女など、オランダ語が未習熟で学力的にしんどさを抱える子や難民として戦禍を逃れてきたトラウマを抱えている子など多様な子が在籍する学校です。しかし、そこには悲壮感はなく、一人ひとりの習熟度や背景に合わせた「公平な支援」が徹底されていました。さらにはトラウマへの対応が、職員全体に徹底的に落とし込まれていました。それは教師のみならず、校内の全職員であると現地で紹介されました。
「学校に行かない」という選択肢が少ないのは、親子で自分たちに合った学校を自ら選ぶ権利があるからです。自分たちで選んだ場所だからこそ、納得感がある。この「選択の自由」こそが、不登校という概念を日本とは違うものにしていました。
体育教員養成大学で見た「プロの矜持」
自分の専門分野である体育教育の養成大学にも足を運びました。 そこで目にしたのは、徹底して体系化されたプログラムと、指導者の「プロ意識」です。
地域スポーツクラブ「カンポン(Kampong)」の視察とも重なりますが、オランダでは指導法が科学的根拠(エビデンス)に基づいて確立されています。大学と現場が密接に連携し、年齢層に応じた指導法が年々アップデートされている。
特筆すべきは、いかに「生涯にわたってスポーツを楽しむか」に主眼が置かれていることです。GPSで選手の出場時間を管理し、全員を主役にするシステム。日本のような「一握りのスターと、大勢の補欠(応援)」という構造は、ここでは「不公平」とみなされます。
授業を受ける子どもたち、スポーツクラブで習う子どもたちに笑顔が絶えませんでした。日本で起こりうる「体育嫌い」など到底起こりそうもない雰囲気でした。
教員養成大学で聞いた言葉で印象に残っているのは、「Loopt't Lukt't Leeft't」です。「授業がスムーズに成り立っているか? 活動レベルが子どもたちに合っているか? 活気があり子どもたちが本気で取り組んでいるか?」を常にフィードバックしているとのことでした。いかに楽しませるかが主眼であることがここからもわかります。
結びに:私たちに足りなかった「余白」
オランダの平日の午後、16時半には仕事を終えて家族と過ごす人々。地域で笑顔でスポーツを楽しむ子どもたち。彼らが持っているのは、単なる「自由な時間」ではなく、自分や家族を大切にするための「心の余白」でした。
日本の学校に縛られ、心の余裕を失い、家でも「教員」としてわが子をジャッジしていた私。 「この余白こそが、わが子を救うために、そして日本の教育を変えるために必要だったのではないか」
次回、この視察を経て私が日本に持ち帰り、自らの教育現場、そして「不登校のわが子」にどう向き合い始めたのか。その後をお話しします。
