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高校教員の私が、なぜ不登校の親になったのか?〜「困った子」ではなく「困っている子」:特別支援教育が教えてくれたこと〜 ♯4


前回まで

前回、第二子までもが登校できなくなった「絶望」の中で、私たち夫婦は「学校に戻す」という目的を一旦捨てる決断をしました。そして私は、わが子の特性を正しく理解するため、特別支援教育の「学び直し」を決意しました。

今回は、その学びが私に突きつけた衝撃的な真実と、それによって変わり始めたわが子との関係についてお話しします。

「できない」のではなく「困っている」という視点

特別支援教育を学び始めて、最初に頭を殴られたような衝撃を受けた言葉があります。

「本人が困った人なのではなく、本人が一番困っている人である」

それまでの私は、不登校になったわが子を「学校に行けない(行かない)困った存在」として見ていました。
どうにかしてその「困った状況」を修正し、元のレールに戻すことばかり考えていたのです。

しかし、学びを進める中で、長子が宿題の書き取りに執着していたこと、1ミリのズレも許せずに全て消してやり直していたのは、単なる真面目さではなく、視覚的な情報の捉え方や「完璧でなければならない」という強い特性(こだわり)による過緊張だったのではないか、という視点を得ました。
第二子の癇癪についても、どうにもならない感情を表現する術がなく、癇癪として発揮されているのではないか、という視点も得ました。

「平等」ではなく「公平」な支援を

さらに、私の教育観を根底から覆したのが、「平等」と「公平」の違いという考え方です。

これまでの私は、クラス全員に「同じ宿題」を出し、「同じ時間」に登校させることを「平等」な正義だと信じて疑いませんでした。熱中していたクラブ活動でも同じでした。さまざまな能力がある子達であるのは理解していたつもりなのに、何の疑いもなく同じような練習、メニューを課していました。
しかし、特別支援教育は教えてくれました。

同じものを全員に平等に与えるのではなく、それぞれの課題に合わせて「公平」な支援を行うこと。

背の高さが違う子どもたちに同じ高さの踏み台を配るのが「平等」なら、どの子も景色が見えるようにそれぞれに合った高さの踏み台を配るのが「公平」です。

長子には、みんなと同じ「100点満点の登校」という高いハードルではなく、彼が安心して立てる彼専用の踏み台が必要だった。それを「みんなと同じように」と強要していた私は、教育者として最も大切な視点を欠いていたのです。

長子の「全か無か」の苦しみ

特に長子の場合、不登校のきっかけとなった補習やいたずら以上に、彼自身の中にあった「完璧にこなさなければならない」という強い思い込みが彼を苦しめていました。

親や先生が提案した「保健室登校」や「遅刻・早退しての登校」、「好きな授業だけ受ける」といった折衷案。それらはすべて彼に拒否されました。

「行くなら最初から最後まで。宿題も課題もすべて完璧に終わらせてからでないと、提出も登校もできない」

彼にとって、学校生活は「100か0か」でした。少しでも欠けがある状態は耐え難い苦痛であり、中途半端な参加は選択肢になかったのです。私は「そんなに硬く考えなくてもいいのに」と思っていましたが、彼にとってはそれが「世界のルール」であり、譲れない一線だったのだと学びを通して気づかされました。

彼は「わざと」こだわっていたのではなく、そうせずにはいられないほど、心の中で強い不快感や不安と戦っていたのです。

第二子の「癇癪」という悲鳴

また、第二子については、激しい「癇癪(かんしゃく)」に私たち夫婦は長年困り果てていました。一度スイッチが入ると、手の付けようがないほど暴れ、叫ぶ。

それまでは「しつけが足りないのか」「わがままを許しすぎているのか」と自分たちを責めていましたが、学びの中で、それは彼なりの「感覚のオーバーロード」や「感情の調整機能の未熟さ」から来るパニックなのだと理解し始めました。

彼は私たちを困らせようとして暴れているのではなく、自分の内側から湧き上がる制御不能な感情に、彼自身が一番振り回され、苦しんでいたのです。

彼らは二人とも、私たちが用意した「普通の学校生活」という枠組みの中で、必死に、必死に、溺れないように泳いでいたのだと気づきました。

「評価」をやめ、「観察」を始める

この学びを経て、私の子どもたちへの接し方は劇的に変わりました。

一番の変化は、「ジャッジ(評価)」をやめたことです。 朝起きてこない、ゲームばかりしている、勉強が進まない。それらを見て「ダメだ」「やらせなきゃ」と評価するのをやめ、「今、この子は何に困っているんだろう?」と「観察」するようになりました。

私が「教員」の仮面を脱ぎ捨て、一人の「父親」として、彼らの「困り感」に寄り添おうとし始めたとき、張り詰めていた家庭の空気が、少しずつ、本当に少しずつですが、緩み始めました。

そしてオランダへ

特別支援教育は、私に「眼鏡」を授けてくれました。わが子を、そして学校の生徒たちを、ステレオタイプな「普通」という枠で見ず、一人ひとりの「背景」を見るための眼鏡です。

しかし、日本という閉じた社会の中だけで学んでいると、どうしても「日本の学校の枠組み」にどう適応させるかという思考に陥りがちです。
実際に私たち夫婦も、そればかりでした。というより、自らが経験し、今属している「日本の学校」の枠組みしか知らなかったのです。

「もっと広い世界では、子どもたちの多様性をどう捉えているのだろう?」

この問いが、私たち家族を「オランダ」という国へと向かわせることになります。

次回は、なぜオランダだったのか?そして、家族全員で海を渡るという大きな決断についてお話しします。

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