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評価不能、という評価。現役教員の私が、わが子と「空欄の通知表」を囲む夜


終業式

こんな悲しみに、共感してもらえるだろうか。

今日、私は勤務校の終業式を終えた。今年は担任ではないが、一人ひとりの生徒の顔を思い浮かべながら通知表に記載する教科の成績は評価してきた。「今学期、よく頑張ったな」「次の学期はここを伸ばそう」。誰かの成長を認め、数字や言葉で評価する。それが教員である私の、誇りある仕事だ。

その仕事を終え、私は年休を取って、いつもより数時間早く帰路につく。 夕方、わが家のチャイムが鳴るのを待つために。わが子の担任の先生が持ってくる、一枚の「紙」を受け取るために。

評価できる部分がない、という現実

「学校に来られていないので、評価できる部分がありません。基本的には空欄になります」

長子、第二子それぞれ、家庭訪問に来た担任の先生方は、申し訳なさそうにそう告げた。 手渡された通知表。そこには、私が日中生徒たちに書いていたような、色鮮やかな活動の記録も、きらめく数字も、何一つない。ただ、真っ白な空白が広がっている。
何とか参加できた社会見学や、イベントの出席日のみ出席日数と2、3日カウントされほとんどが欠席と記された通知表。

教員である私には、その事務的な処理の正しさが痛いほどわかる。学校というシステムにおいて、出席のない生徒を評価する物差しは存在しない。それは「平等」なルールなのだ。

でも、親としての私は、その真っ白な空欄を見つめながら、声にならない叫びを飲み込む。そして、その通知表を担任から手渡される際、「ありがとうございます」と口にしているこの子たちは何を思うのだろうと考える。

空欄に隠された「わが子の成長」

この数ヶ月、この子たちがどれだけ苦しんできたか。 学校に行けない自分とどれだけ戦ったか。 家の中でようやく笑えるようになり、食事が摂れるようになり、自分の好きなことに熱中できるようになった。

学校の物差しには決して載らない、この子たちの「成長」を、私は一番近くで見てきた。 それなのに、教育のプロであるはずの私が、わが子の目の前でその「空欄」を一緒に受け取ることしかできない。むしろ私の中には「ありがとうございます」と心から言えない自分もいる。

「評価不能」

その四文字が、この子たちの半年間を否定しているようで、あるいは私の父親としての不甲斐なさを突きつけているようで、切なくて、やりきれない。何か目に見える形で、評価してやれないものか。こんな事なら、通知表は必要ないのではないかとさえ思う。

共に「真っ白」を見つめる時間

「先生、ありがとうございました」

そう言って先生方を送り出し、私はわが子たちとともに座る。 三人で覗き込む、真っ白な通知表。

「評価がない」ということは、この子たちの価値が「ない」ということなのだろうか。 教壇に立つ私は、生徒たちに「結果だけがすべてじゃない」と言い続けている。なのに、わが子たちの前では、その言葉が喉に詰まって出てこない。

現役教員として、そして一人の親として。 この空っぽの通知表を、私はどんな顔で、どんな言葉で受け止めればよかったのか。

今夜はただ、この真っ白な紙を、この子たちのぬくもりを感じながら、静かに閉じることしかできない。 
終業式ってこんなに辛いものだったかな。。。