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不登校3人と、混ざり合わない「正解」〜不登校児の父である体育教師の日常〜

これまでこのnoteでは、私が「なぜ不登校の親になったのか」という原点から、オランダ教育との出会い、そして現在進めている通級指導教室の開設準備まで、どちらかと言えば「前向きな再生の物語」として綴ってきました。

しかし、正直に言います。 書いている内容は決して嘘ではありませんが、それは私の人生の「見栄えのいい断面」に過ぎません。一歩家の中に入れば、理想と現実のギャップにのたうち回り、どう過ごしていくのが正解なのか分からず、毎日泥臭く苦しんでいます。

今回は、教育者としての仮面を一旦脇に置き、一人の父親として「綺麗事ではない日常」を共有させてください。


1. スクリーンに吸い込まれる日常と、妥協のルール

わが家のリビングは、静かです。上の息子二人はゲームに没頭し、下の娘はYouTubeの世界に浸っている。かつては、この光景に耐えられず、制限時間を設け、タイマーをセットし、「時間は守れ」「依存症になるぞ」とルールでがんじがらめにしようとしたこともありました。

主治医からも「家庭なりのルールはあったほうがいい」とアドバイスをもらっていました。しかし、厳しくすればするほど、家の中はギスギスし、お互いにトゲのある言葉をぶつけ合うだけ。

そんな中、妻が同じ年代の不登校の子を持つ保護者仲間と出会いました。その家庭では、思い切って「フリー」にした結果、子どもがゲームに飽きて以前ほど執着しなくなったという話を聞いてきたのです。

まずは夫婦でじっくり話し合いました。その上で、家族会議を開きました(不登校が始まってから、わが家はルールを決めたり、旅行について決めたりは家族会議です)。そして2026年からは、私たちも「フリー」に挑戦することにしたのです。

決めたのは、3つだけ。
1️⃣ 大体1時間ごと(セーブのタイミングやキリのよいところ)に
  30分の休憩を入れること
2️⃣ 寝る時間、食べる時間は合わせること
3️⃣ 外遊びの時間も取り入れること

正直、私たちの「我慢」がいつまで持つか、不安で仕方ありません。食事の時間になっても画面から目が離せない彼らに、つい「早くしろ」と注意してしまう。すると「あーあ、今日は最悪な一日だ!」と叫ばれる。良かれと思って言った言葉が、彼らの一日を台無しにしてしまう。この虚しさは、言葉になりません。

2. 空振りし続けるキャッチボールと、捨てきれない「プライド」

「体育教師の父」として、一番つらい瞬間があります。 「キャッチボールしようぜ」「犬の散歩、一緒に行かないか?」 外へ連れ出そうと誘うたびに、彼らに拒絶されることです。

「お父さんはすぐ怒るから嫌い」

そう言われた時、胸が締め付けられました。学校では何百人もの生徒を笑顔で動かし、やる気を引き出している私が、わが子を玄関から一歩外へ出すことさえできない。

心のどこかで、私はまだ「指導者としてのプライド」を捨てきれていないのだと思います。わが子の動きを観察しているつもりでも、いつの間にか「もっとこうすればいいのに」「なぜできないんだ」という教員としての評価の目で見てしまう。

「一緒に楽しもう」と誘っているつもりでも、私の醸し出す空気や言葉の端々に、無意識の「指導」が混ざってしまう。子どもたちは、その微かなプレッシャーを敏感に察知して、心を閉ざしてしまいます。指導者としてのプライドが、父親としての「共感」を邪魔している。その事実に気づくたび、自分の無力さを突きつけられます。

3. 教師だからこそ見える「出口のない不安」

日本の義務教育期間は、良くも悪くも「進級」していきます。学校に行けていなくても、カレンダーをめくれば学年は上がり、いつかは卒業証書が手元に届く。その意味では、今はまだ、猶予期間の中にいるのかもしれません。

でも、ふとした瞬間に、暗い影が心をよぎります。 「この自動的な進級が終わったあと、この子たちの将来はどうなるんだろう?」

義務教育という守られた枠組みが外れたとき、彼らはどこへ向かうのか。お金はかかりますが、通信教育の体験を勧めたり、フリースクールの見学に連れて行ったりもしました。しかし、彼らは動き出そうとしません。

皮肉なことに、勤務校には不登校を経験した生徒たちがたくさんいます。彼らの中には、自分なりの道を見つけて歩き出す子もいれば、ただ「卒業」という肩書きだけを手に、社会への不安を抱えたまま去っていく子もいます。

そんな生徒たちの姿を見るたび、わが子の顔が重なってしまう。 「うちの子たちも、この道を辿るのか」 進学、就職、自立……。見通しが全く持てないまま、真っ暗な海を漂っているような不安に、夜な夜な押し潰されそうになります。

4. リビングの「静寂」を、共有する時間に

最近、私は新しい試みを始めました。 子どもたちがそれぞれの画面に没頭しているリビングで、私も自分のパソコンを開き、ずっと気になっていたnoteの執筆を始めたのです。

以前なら「いつまでゲームしてるんだ」とイライラしていた、あのリビングの静かな時間。それを「子どもを監視する時間」から、「お父さんも何かに没頭する時間」に変えてみました。

カタカタとキーボードを叩く私の背中を、子どもたちがどう見ているかは分かりません。でも、「ああしろ、こうしろ」と指示を出すのをやめ、私自身が自分の表現を楽しんでいる姿を見せること。それが、今の私にできる、精一杯の「背中を見せる教育」なのかもしれないと感じています。

同じ空間にいながら、それぞれが自分の世界を大切にする。それは、混ざり合わないけれど、確かに繋がっている、新しい家族の形なのかもしれません。

結びに:それでも、この家で生きていく

体育教師としての私の正解と、父としての私の正解。そして、子どもたちの「今」という正解。 これらは今も、転機を待つ間も、完全には混ざり合わないのかもしれません。

でも、たとえ食事の時間に小言を言って「最悪な一日」と言われたとしても、私はこの場所を、彼らが自分を守るための砦として守り続けたい。

不登校3人との日々は、きれいごとではない「泥臭い試行錯誤」の連続です。それでも、ゲームの合間にふっと見せる笑顔や、犬と戯れる一瞬の表情を信じて、私は明日もただ一人の父親として家庭にいます。

(つづく)

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