高校教員の私が、なぜ不登校の親になったのか? 〜長子のSOSと家庭崩壊〜 ♯1
序章:教育者としての「自信」と、親としての「盲目」
私は40代の現役高校体育教員です。部活動指導に青春を捧げ、「生徒を成長させることにかけては誰にも負けない」という、ある種の自信と傲慢さを持っていました。当時の私にとって、学校での成功こそが人生のすべてであり、家庭は「勝手に回るもの」だと思い込んでいました。
そんな私が、教壇では絶対に経験しないであろう、最も厳しい現実に直面します。それは、長子の「不登校」というSOSでした。
家庭の危機
教員人生が一変した、家庭内の大きな危機
実は長子のSOSより少し前、私の家庭は大きな危機を迎えていました。ワンオペで3人の子どもの子育てをこなしてくれていた妻が体調を崩したのです。その看病と家事・育児に私が追われるようになったため、私はやむなく勤務形態を全日制から定時制へと変えていました。(※妻の病状の詳細は、本記事では割愛させていただきます)
「部活いのち」だった私の生活は一変しました。日中は定時制で教鞭をとり、夜は家事、育児、そして看病。授業やクラブ活動、生徒指導に費やしていたエネルギーの全てを家庭に注ぎ込みました。私自身は「家庭を守っている」という自負がありましたが、物理的・精神的な余裕は限りなくゼロに近く、家の中の空気は常に張り詰めていました。
長子から見れば、家庭の状況は激変し、いつも笑顔だった母親が体調を崩し、父親が常に疲弊し、多忙を極めている状態でした。
わが子の変化
完璧を求めた長子の、静かなるプレッシャー
長子は、コロナ禍での小学校入学組。根が真面目で、学校生活にはすぐ順応しました。
入学式や参観日での姿勢は非の打ちどころがなく、手を挙げて発言し、係や委員も率先してやる。「素晴らしい」「お手本だ」と褒められるばかりでした。しかし、その「完璧であろうとする姿」の裏には、本人にしか見えない強烈なプレッシャーが隠れていました。特に、こだわりが強い宿題の書き取りでは、少しでも字の形が崩れると、全てを消して最初からやり直す。
私はこの頃、妻の看病と仕事に追われ、長子のこの**「頑張りすぎ」**のサインを、「まじめな性格だから」の一言で片付けて、深く見ようとしませんでした。
妻の回復と子どもの不登校
その生活から2年と少し、長子4年生の6月、妻の回復と重なった行き渋り
妻の看病に加え、家事・育児をこなしていく生活から2年と少しの月日が経過しました。長子が小学4年生になった6月ごろ、発熱で数日欠席します。そしてこの時期、私にとって皮肉なことに、妻の体調がようやく回復に向かい始めました。家庭の危機が少し収束し、私も一息つける……そう思った矢先でした。
休んだ分の「学び直し」として、登校した後の昼休みや放課後に補習を行うこと、クラス内で筆箱を隠し合う「いたずら」が流行したこと。長子はこれらが重荷だと訴え、行き渋りが始まります。
「それがしんどい。せっかくの休み時間がなくなるのが辛い」
見誤った対応
父親としての対応と、最大の「盲点」
私は父親としてでなく、「教員」として冷静に担任の先生に相談し、補習をナシにすること、いたずらの解決を目指すことで話をまとめました。「これで問題は解決した」と安堵する私。
しかし、私が本当に見なければならなかったのは、表面的な「補習」や「いたずら」ではなく、家庭内の大きな変化の波に晒されながらも、ずっと「いい子」でいることを強いられてきた長子の心の緊張だったのです。
おそらく長子は、家庭が大変な時期に「これ以上、自分のことで親を困らせてはいけない」とSOSを出すことを我慢し続けていたのでしょう。そして、家庭の状況が落ち着き始めた瞬間に、その重いフタが外れてしまった。
教壇で生徒指導に自信を持っていた私が、自分の家庭で最も重要なSOSを読み間違える。この後、彼の行き渋りはさらに強まり、私の「教員」として家庭生活も行ってしまっていた姿が、本格的な家庭崩壊と長子の不登校を決定づけることになります。
次回は、当時の私の「部活狂い」の生活や「教員」として家庭内の問題に対応してしまったこと、長子が行き渋りから完全にストップしてしまうまでの経緯を深掘りします。
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