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高校教員の私が、なぜ不登校の親になったのか?〜「正解」を捨てた先にあった、わが子との新しい関係〜 ♯7



オランダの空気が溶かした、心の「こわばり」

2025年3月末、私たちは家族全員でオランダの地に立ちました。空港での銃を持った警備員の姿に緊張したのも束の間、一歩街へ出れば、そこには驚くほど穏やかな時間が流れていました。

視察中、子どもたちは本当に生き生きとしていました。 ツアーメンバーにも恵まれ、毎晩のように行われる懇親会や、現地での体験授業に積極的に参加する中で、子どもたちはツアー仲間の大人や、その子どもたちともすぐに打ち解けていきました。

何より驚いたのは、子どもたちの「主体性」です。 英語が通じると知るやいなや、片言の英語で現地の人に話しかけようとする。「コーラ(Coke)」を頼もうと必死に伝え、店員さんが笑顔で持ってきたのが「フォーク(Fork)」だった時には家族で爆笑しましたが、そんな失敗さえも笑い飛ばせるほど、私たちの心は解き放たれていました。

妻の克服と、新しい「居場所」への一歩

この旅で、誰よりも大きな一歩を踏み出したのは妻でした。 渡航前、彼女は自らの体調不良の症状や、長時間のフライトへの強い不安を抱えていました。行きの長時間フライトを乗り越え、オランダの「個を尊重する」空気に包まれる中で、彼女は本来の自信を取り戻していきました。明るい笑顔や雰囲気も取り戻していきました。

現地では、わが子と同じ不登校三人の親であり、自ら「サドベリースクール」を開校した方とも出会い、意気投合。 「学校がないなら、自分たちで作ればいい」 帰国後、妻は以前の不安げな表情を脱ぎ捨て、不登校の子どもたちの「居場所」作りや、保護者コミュニティの活動に奔走しています。彼女のその強さは、間違いなくオランダの風が育んだものでした。

体育教育の常識を覆す「徹底した子ども中心主義」

専門である体育・スポーツの現場でも、私の価値観を根底から揺さぶる光景がありました。 地域スポーツクラブ「カンポン」では、サッカー一つとっても、年齢や能力に合わせてルールが柔軟に変えられていました。

7歳まではコートも小さく、ゴールはカラーコーンの間。5人対5人の少人数で行い、14歳になってようやくゴールキーパーが登場する。これらはすべて、子どもたちがボールに触れる回数を増やし、「楽しい!満足した!」と感じさせるための科学的根拠に基づいた設計でした。
GPSで出場時間を管理し、全員を主役にする徹底した仕組み。日本のような「一握りのスターと、大勢の補欠」という光景は、そこには存在しませんでした。

小学校の体育授業も同様で、「全員がどう楽しむか、いかに全員を活動させるか」が教師の腕の見せ所。
さらにそんな体育教員の存在は、尊敬され、待遇も日本とは全く異なっていました。

帰国、そして「全員不登校」という現実

2025年4月に帰国。末っ子は一年生になりました。末っ子も幼稚園の行きしぶりがあったこと。兄2人を見ており、ゆくゆくは登校しなくなるのではと懸念がありました。
そのため私たち夫婦は、妻と私が別居し、幼稚園の友人も多い学区への転校を済ませていました。順調に通っていたように思いましたが、夏休み明け9月には足が止まりました。これでわが子三人、全員が不登校。 以前の私なら絶望していたでしょう。でも、今の私は驚くほど静かでした。

アムステルダム中央駅で突きつけられた「作業員の人権を守るために、利便性を捨てて日中に工事をする」という視点。それが私の中に根付いていたからです。「何かのために、誰かの心を犠牲にしてはいけない」。それは、教育も同じです。学校という枠に合わせるために、わが子の笑顔を削り取ってはいけないのだと。

体育教員としての「敗北」と「再生」

オランダで見た「科学的な楽しさの追求」は、私の新しい活動の原点になりました。 現在は地域で、競争を排除した運動教室を開催しています。そこには補欠も応援団もいません。全員が主役で、誰もが「自分のままでいい」と感じられる場所。かつて部活一筋だった私が、今、子どもたちと一緒に笑いながら「スポーツの真の楽しさ」を学び直しています。

結びに:共に迷い、歩んでいく

不登校の親として、そして教員として、私は今も迷いの中にいます。 でも、わが家には「空欄の通知表」の裏側にある、数字では測れない命の輝きを信じる力があります。

「学校に行かせること」をゴールにするのをやめたとき、私はようやく、一人の父親としてわが子の隣に座ることができました。

不登校は、終わりではありません。 それは、自分たちの人生を、自分たちの足で歩み始めるための、長い、長い「始業式」なのかもしれません。