千曲川は、大ネズミだった⑥「守られていた意味」
終章「守られていた意味」

あの夜のことを、もう一度思い出す。
2019年10月12日。台風19号。
避難するかどうか、躊躇していた。
その時、要介護の父が、唐猫様に守られているから大丈夫だと言った。
私は避難をやめた。
床下から水が這い上がり、床上まで達した。モップを持ち、風呂場の排水溝に向かって、ひたすら掻いた。
手が、震えていなかった。
あれから数年が経った。三万年前の地質学、川沿いの神社の配置、唐猫と大ネズミの伝説、明治天皇の改称、サードベースだった大木の根——すべてを調べ終えた今、あの感覚の正体が見えてきた。
守られていたのは、私一人ではなかった。
三万年分の人間の営みによって、守られていた。
考えてみれば、当然のことだった。
3万年前、上田盆地の湖が決壊し、千曲川が生まれた。その恐ろしさを、先人たちは大ネズミという言葉に封じ込めた。
やがて人々は川のほとりに神社を建てた。大己貴命と建御名方命を祀った。川を治める神を、川の流れに沿って配置した。上流から下流まで、同じ神の系譜でつないだ。
境内に木を植えた。祭りを続けた。
木は根を張った。根は地盤を固めた。祭りは記憶を更新し続けた。
誰もそのために、そうしたわけではなかった。
ただ、神社を守り、祭りを続け、木を育てた。
その積み重ねが、三万年という時間をかけて、2019年の夜、堤防を守った。
私が感じた「守られている」という感覚は、錯覚ではなかった。
三万年分の人間の記憶が、地面の奥から私を支えていた。根のように。
そして私は気づいた。
私もまた、その連鎖の一部だということに。
祭典係として、私は毎年この神社の祭りに関わってきた。意味を深く考えず、ただ手順に従い、場所に立ち、言葉を唱えた。
だが今なら分かる。
その行為が、根を張る行為だったということを。
私が祭りを続けることで、境内の木が守られる。木が守られることで、根が育つ。根が育つことで、地盤が固まる。地盤が固まることで、次の台風の夜、誰かの家が守られる。
その誰かは、私の名前を知らない。
私もその誰かの顔を知らない。
でも、根はつながっている。
見えないところで、時間を超えて、つながっている。
これが、神道が三万年かけて伝えてきたことではないか。
教えとして残さなかった理由が、ここにある。
教えは時代とともに変わる。解釈は権力によって書き換えられる。明治の改称のように、言葉の意味は塗り替えられる。
だが、行為は残る。
祭りを続けるという行為。木を育てるという行為。根を張るという行為。
それは言葉ではなく、体に刻まれる。世代から世代へ、説明なしに伝わっていく。
神道に教えがないのは、教えより深いものを伝えているからだ。
宗教学者・島田裕巳は、神道を「ない宗教」と呼んだ。教えがなく、感じることを本質とする宗教だと。
あの台風の夜、私は考えていなかった。
ただ、手が動いていた。モップを持ち、水を掻き、また持ち、また掻いた。
手が震えていなかった。
千年前の人々も、同じだったのではないか。川が溢れ、水が来て、恐怖より先に手が動いた。その記憶を伝説に封じ込め、神社を建て、祭りを続けた。
「感じる」から、動く。
動くから、構造が生まれる。
構造が、次の世代を守る。
これが、神道の本質だったのだ。
最後に、一つだけ問いを立てたい。
私たちは今日、何を植えているのか。
木を植える人間は、その木が堤防を守る日を知らない。伝説を語る人間は、その言葉が三万年後に地質学的事実として証明される日を知らない。祭りを続ける人間は、その行為が千年後の洪水から誰かを守る日を知らない。
それでも、植え続ける。語り続ける。引き継ぐ。
なぜか。
守られている、という感覚があるからだ。
根拠はない。証拠もない。論理でも説明できない。
それでも、その感覚だけは揺るがない。

あなたにも、サードベースの木があるはずだ。
子どもの頃に何気なく触れ、やがて忘れ、そして気づけばずっとそこに立っていた、何かが。
それは木かもしれない。神社かもしれない。あるいは、誰かの言葉かもしれない。幼い頃に聞いて、意味も分からず、それでも胸の奥に残り続けた、あの一言かもしれない。
あなたはまだ、その根の正体を知らないかもしれない。
でも、根は張られている。
あなたが気づく前から、ずっと。
そしていつか、あなたが水をかき出す夜が来る。
手が、震えていない夜が、来る。
そのとき、あなたは気づくだろう。
自分が一人ではなかったことに。
あの日、名前も知らない人に助けられた。
今日、私は名前も知らない誰かのために根を張る。
それが、一期一会というものの、本当の意味かもしれない。
川の近くに住むということは、豊かさと便利さを享受することだ。千曲川がそうであったように、水運は富をもたらし、文明を育てる。森将軍塚の豪族も、篠ノ井追分の宿場も、この川の恩恵の上に栄えた。
しかしその背後に、大きなリスクがある。
豊かさと便利さの背後に潜む大きなリスク——これは千曲川だけの話ではない。心当たりのある方も、いるのではないだろうか。
先人たちはそれを知っていた。だから神社を建てた。伝説を残した。石を積んだ。木を植えた。
私たちは今、そのことをどれだけ意識して生きているだろうか。
千曲川は、今日も流れている。
脅威として。感謝の対象として。
それが神道の原点だとすれば——人間はずっと、恐れながら、手を合わせ続けてきた。
父の言葉の意味が、今ならわかる。
「ここは大丈夫だ。唐猫様に守られているから」
父は、3万年分の記憶を、一言で語っていた。
私もまた、その一人だ。
※サムネイル画像および「私のサードベース」はAIで生成したイメージです。本文中の写真はすべて著者による実地取材の記録です。
