千曲川は、大ネズミだった④「唐猫が消された日」
第5章「唐猫が消された日」
唐猫の「唐」は、中国を指す。
当時の最先端技術の産地だ。
現代で言えば、シリコンバレーから呼び寄せた最新技術に相当する。
千年前の人々は、異国の知恵を借りて川を鎮めようとした。
私たちと、何も変わっていない。
「軻良根古」という文字を、初めて見た人は読めない。
意味も分からない。どんな漢和辞典を引いても、この四文字に意味はない。
だが、これは漢字ではない。正確には、漢字の「音」だけを借りた表記だ。「軻」も「良」も「根」も「古」も、意味を持たない。ただ「からねこ」という音を、漢字の形で写しただけだ。
万葉集の時代から続く、日本語の知恵だ。
——現代で言えば、暴走族が書く「夜露死苦」と同じ構造だ。
「夜に露が死ぬほど苦しい」ではない。「よろしく」という音を、漢字で写しただけだ。古代人も暴走族も、やっていることは同じだった。
だがここに、神道の本質が顔を出す。
教えを「意味」として残さない。音として、形として、物語として残す。解読できなくていい。感じればいい。
では、なぜこの神社は「唐猫神社」から「軻良根古神社」に改称されたのか。
その答えを求めて、私は明治11年という年に目を向けた。
明治11年(1878年)、明治天皇は北陸・東海への巡幸の途中、長野を訪れた。
この地を通る際、千曲川を渡る必要があった。
当時、この場所に橋はなかった。
矢代の渡し——千曲川を船で渡す、古くからの渡し場だ。川と街道が交わるこの場所は、物資と人が行き交う要衝だった。

繁栄も、そしてやがて訪れる衰退も、その起源はすべて千曲川だった。だから、この川のほとりに、神社が必要だった。
さらに興味深いことがある。明治時代、この神社への参道沿いには郡役場、税務署、警察、学校が立ち並んでいた。

国家が地域を治めるための装置が、千曲川を治めてきた神社への道に集中していた。権威と治水は、明治においても、やはり一体だった。
川を渡る前に、天皇は立ち寄った。
軻良根古神社——当時はまだ唐猫神社と呼ばれていたその社に。
境内には今も、一つの石碑が残っている。
「明治天皇御渡御之處」
天皇がここを渡御された場所、という意味だ。
碑文を書いたのは、学習院名誉教授・飯島忠夫。長野松代の旧藩士の家に生まれ、東宮御学問所御用掛も務めた人物だ。皇室を知り、この地を知る人間が、記録を残した。
偶然ではない。

そして、その年の6月21日。
「宮の許可を得て、軻良根古神社と改称する」
長野県神社庁の記録に、そう残っている。
唐猫神社から、軻良根古神社へ。
改称の理由は、記録に明示されていない。
祭典係として、この話は知っていた。
だが、改めて考えると、理由はそれだけではなかったかもしれない。
明治という時代、「唐」という文字は中国を指す。日清戦争前夜の緊張の中で、この文字は不都合ではなかったか。
記録は残っていない。
だが、書かれなかったことこそが、本音ではないか。
歴史は、記録されたものだけで語られる。しかし時に、記録されなかった空白の中に、最も重要なものが隠されている。
意味をなくすことで、格式を得た。
これは皮肉なようで、実は神道の本質に沿っている。
教えを意味として残さない。形だけを残す。「軻良根古」という音の響きは、「唐猫」という言葉が持つ素朴さを消し、代わりに解読不能な荘厳さをまとった。
暴走族が「夜露死苦」と書いて凄みを出すように、古代人が音を漢字で写して神秘を宿すように、明治の人々は意味を捨てることで権威を得た。
だが、ここで一つの問いが浮かぶ。
改称によって、失われたものがある。
「唐猫」という名が消えたとき、この神社の本来の意味——川と戦い、命を落とした猫の記憶——が、表面から見えにくくなった。
権威を得た代わりに、物語を隠した。
同時に、伝説も書き換えられた。
川を鎮めた猫から、養蚕のネズミを退治する猫へ。明治政府が国策として推し進めた養蚕業——その天敵であるネズミを退治する存在として、猫の伝説は塗り替えられた。
そして軻良根古神社から歩いてすぐの場所に、長谷寺という寺がある。
その寺に、釈迦涅槃図がある。住職に直接確認したところ、江戸時代中期に描かれたものだという。毎年3月15日にのみ公開される。
涅槃図に猫は描かれない。仏教の長い慣習だ。猫はネズミを追い払い、お釈迦様に薬が届かなかった。だから嫌われ者とされた。
それでもこの地の人々は、涅槃図に猫を描いた。
明治以前から、ずっと。
唐猫への敬意が、仏教の慣習さえも書き換えていた。
だが明治天皇が訪れた年、唐猫という名は消えた。
物語は書き換えられた。しかし涅槃図の猫だけは、誰にも気づかれないまま、今もそこに描かれている。
また、軻良根古神社には三柱の神が祀られている。それは単独の神社として始まったわけではない。隣地区には「篠井庄神社旧跡」という石碑が残っている。明治の神社整理によって、周辺の神社がここに統合された。名前を変え、伝説を書き換え、神社を統合する。明治という時代の力は、この小さな神社の隅々にまで及んでいた。
神道はもともと、物語を器として記憶を残す宗教だった。大ネズミの伝説、唐猫の死闘、川沿いに連なる祭神の系譜——それらはすべて、千曲川という荒ぶる力と向き合ってきた人間の記憶だった。
その記憶の一部が、明治という時代の「力」の前に、静かに塗り替えられた。
しかし——消えたわけではなかった。
境内の大木は、その後も根を張り続けた。千年の記憶を、地面の奥深くに刻み続けた。
そして2019年の夜、その根が堤防を守った。
物語は消えても、構造は残る。
それが、この神社が私に教えてくれた、最初の答えだった。
だが、まだ問いは残っている。
その構造を、誰が、いつ、設計したのか。
答えは、境内の大木の根の中にあった。
