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エッセイ | おたまさんと白湯



実家に猫が暮らしている。
名前はたまちゃん。


私が結婚して家を出てほどなく、たまちゃんは実家の飼い猫として迎えられた。


野良猫出身。


たまちゃんの避妊手術した直後、実家のみんなに用事があり、妊娠中の私が実家に出向き、一緒にお留守番をしたのを覚えている。



避妊手術をした病院の診察券
2006年生まれ



2006年生まれの長生きネコだ。
約20歳。人間だと96歳ぐらい?


産めなくなった身体を、これから産む身体が見守る。なんだか不思議な気持ちになった。猫が人に「飼われる」とは、こういうことなのだろうか。


たまちゃんは、性格的に穏やかで、ほとんど病気や怪我もなく、手のかからない子だ。


あんまり抱っこさせてくれないけど、撫でると気持ちよさそうに目を細めてくれるし、鼻を近づけると、たまちゃんも鼻を寄せて挨拶をしてくれる。


飲み水は、冷たい水ではダメで、お湯を好むというこだわりを持つ。白湯を飲んでいるたまちゃんは、ネコ界隈で、意識高い系女子なのだろうか?






そのたまちゃんが、つい先日、息を引き取った。





2週間ぐらい昏睡していて、年齢からもう老衰だろうと、治療や延命はせずに、そっとその時を待つことにした。


その日も、たまちゃんの様子を見に実家へ。いつものように、たまちゃんに声をかけ、お腹の辺りに掛けてあるタオルをそっとめくり、お腹を撫でようとした。


そのお腹が、いつもみたいに上下に動いていないのが見てとれた。


そっとお腹に触れてみる。


ここ数日、水だけで生き延びてきたネコの痩せ細ったお腹は、あばら骨の位置をはっきりと私の掌に教える。


やっぱり動いていない。


手足は温かくないけど、お腹の辺りはまだしっかりと温かい。

「たまちゃん、息してない」


実家の両親と兄が、たまちゃんの周りに集まった。みんな、驚きはしない。来るべき時が来たんだね…。そんな言葉を発したわけではないけど、誰一人そう思わない者はいなかった。



たまちゃんがこの世とお別れする時に、周りにはちゃんと家族がいたよ。



最後に抱っこしたくて、その身体を持ち上げた。


これぐらいの力で持ち上げたらいいかな、という予想でぐっと腕に力を込める。その力を余らせるほど、タマちゃんは軽い。


そして、その身体は少し、こわばり始めていた。


でも、温かい。



敷いておいたおむつがズレて、私のワンピースにタマちゃんのおしっこが流れたけど、そんなことはどうでも良かった。


たまちゃんの毛並みは、とてもなめらかでツルツルしていて、白湯の賜物かな?なんて、今思うことでもないことが頭をかすめた。


本当に、どこに出しても恥ずかしくない、きれいな寝顔だ。


数時間ほど前に、家族が様子を見た時は、まだ息をしていたらしい。


私を待っていてくれたの?


まだほんのり温かいけど、もうこれ以上は絶対に温かくならないタマちゃんを抱きながら、何度も撫でて、鼻を近づけて最後の挨拶をした。


きっと、あまり苦しみもなかったと思う。


そう思いたい。

 

翌日、私は立ち会えなかったけど、実家の庭にたまちゃんは埋葬された。住み慣れたこの家の庭に。 



そういえば、こんなことがあった。

亡くなった祖母は、たまちゃんを「おたまさん」と呼んでいた。それはどこか、ペットというよりも、同士のような関係を匂わせる呼び名に思えた。


おたまさんは、なぜか祖母の足首だけに、かぷりと甘噛みする子だった。


たまちゃんが、私たちには見せない「おたまさん」という一面を、祖母には見せていたのかもしれない。


普段、うるさく鳴く子ではないのに、祖母がお風呂で朦朧となっていた時があって、なぜかおたまさんがお風呂の前でずっと鳴いていた。それで家族がおかしいな、と駆けつけて、祖母の異変に気付けたという。



「タマちゃんのお手柄だった」

家族はよくそう言っている。



ただの偶然かもしれない。

お風呂の白湯を飲みたかっただけかもしれない。


だけどこうやって、おたまさんがこの家にいてくれたことによる意義みたいなものを、この出来事に紐付けして見出そうとする人間という生き物を、私は嫌いになれない。



ネコなんて、そこにいるだけで許されるのに。

意義も意味もいらないのに。



タマちゃんは、タマちゃんの人生(猫生?)を全うした。

全うした。

まっとうした?


ネコの人生(猫生)って、全うするとか、そんな壮大なものなのかな。


飼い猫の猫生って、実にの〜んびり。ゆ〜ったり。食べて寝て、遊んでいたずらして…。


そんなの許されるの、子ネコの時だけ…ではない。生きてる間、ずっとこれでいいんだよね、だってネコなんだもん。ネコってそういうものだから。


生きている間、の〜んびり、ゆ〜ったり、ネコしてることで、猫生を全うできる。


この世界で生きる、人間以外の動物って、人間にどう思われるかによって、生きやすさが決まる。


犬とネコは、人間にとっての二大ペットだから、上手く人に飼われることができたら、その「犬生」や「猫生」を、穏やかに全うできるのかもしれない。


たまちゃんは、ほとんど病気や怪我知らずで約20年も生き延びた。野良猫のままだったら、こうはいかなかったかもしれない。



もちろん働かず、何かしてもらっても頭を下げることもなく、夜中に白湯が飲みたくなったら、人間の枕元で鳴いて起こす。


そんな自由な生き方、人間社会ならば幼少期限定だぞ!

だけど、人間はネコにそんなことを求めない。ネコはずっと面倒を見てもらう側で、その猫生を終えることができる。


好みもあるけど、犬やネコは人間に好かれやすい容姿で生まれる。


それは、「癒し」という、人間がやたらと人間社会に求める「生産性」とは無縁の枠に、努力なく収まる。

一方で人間は、オンの時間に「生産性」を生み出し続けるために、オフの時間に自分を癒す必要がある。それは、温泉だったり推しだったり、そしてネコだったりする。


一見、「生産性」を生んでいない彼らは、私たち人間が「生産性」を生み出すための、リカバリーアニマルなのかもしれない。


ネコ側は、そもそもそんなこと考えていない。



「人間様を癒すために頑張るぞ〜」なんて意気込んで生きていない。何も考えずに生きている純粋さに、私たちは勝手に癒されている。



人間は、何にでも役割や意味を与えたくなる生き物だ。相手がネコでも。


たまたまそこに棲みついたたまちゃんが、あの時おばあちゃんを救ったんだ!


ネコにも心があるんだ!
ネコは恩返しするんだ!
我が家に来る運命だったんだ!

こう思った方が、私たちは幸せになれるのだから。




ただ、ご縁があったのはゆるぎない事実。



出逢うべくして出逢ったかは別として、互いに長い時間、そばにいて当たり前の存在として認識し、共存できたこと。

家族という共同体。


血のつながりも契約もないまま、一つだけ違う種として、ある日その共同体の構成員に選ばれた、たまちゃん。

その死を悼み、感謝の想いとともに送り出せたことには、大きな意味があると思っている。





2026年8月12日 永眠




季節はお盆。


97歳で亡くなった祖母が、おたまさんを迎えに来て、仲良く一緒にお空に行くのかな。




そう思いたい。


さて…。

私も、白湯飲んでみようかな。

だってあの猫年齢で、あんなに毛なみがツルツルだなんて、他に理由が見当たらないんだもの。



いい猫生でした


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