ウメさんのシャボン玉【シロクマ文芸部】
「シャボン玉…なんてどうですか?」
ここは、老人福祉施設「ひだまりの丘」。
僕の名前は大久保哲也。この施設で働いて2年目になる。
毎月の新しいレクリエーションを考えるミーティングで、僕は初めて提案してみた。
一瞬、空気が止まる。
「シャボン玉…ですか?」
司会の田原さんが聞き返す。
一部の職員は、露骨ではないが、少しだけ表情を曇らせた。ありがちなレクが増えるのか、という顔だ。
「実は、ウメさんがあの歌を口ずさんでいるのを聴いてしまって…」
僕が続けて言うと、場の視線が少しだけ変わった。
ウメさんは、入所して3か月。
誰とも深く関わらず、レクリエーションにもあまり参加しない。
「やらされるのは嫌いだ」とはっきり言う人だ。
けれど、なぜか僕にだけは、少しだけ心を開いてくれている。
亡くなったご主人の若い頃に似ているらしく、僕のことを「テツ」と呼ぶ。
レクに参加しない日は、僕が隣に座る。
ウメさんの希望で静かなところに移動し、文句をひとしきり言ったあと、決まって歌う。
「シャボン玉飛んだ♪ 屋根まで飛んだ♪」
僕は、その歌を思い出していた。
普段なら流されて終わる提案だったかもしれない。けれど田原さんは、僕が初めて提案したことと、ウメさんの名前が出たこと、その二つを汲んでくれた。
「じゃあ、来月はシャボン玉でいきましょう」
その一言で、あっさり決まった。
「ウメさん、来月はシャボン玉するんだよ」
今日のレクもパスしたウメさんにそう伝えると、キョトンとした顔で、ただ空を見上げていた。
興味があるのかないのか、よくわからないまま。
風の心地よい、よく晴れた日。
シャボン玉の日がやってきた。
職員たちは、事前に100円ショップで道具を揃えていた。色とりどりの容器と、プラスチックの吹き棒。
「さあ、みなさん!今日はシャボン玉ですよ!」
田原さんの明るい声が響く。
利用者たちは、促されるままにそれを手に取り、シャボン玉を飛ばし始める。
小さな玉が、いくつも生まれては、すぐに消える。
その様子を、ウメさんは少し離れたところから眺めていた。そして僕を呼ぶ。
「テツ、部屋に戻るよ」
…あぁ、やっぱりダメだったか。
僕は、ため息とも深呼吸とも取れるような息を漏らした後、努めて笑った。
「わかったよ、ウメさん」
僕は、車椅子を押して部屋に戻る。
すると、ウメさんが言った。
「その袋、取って」
朝、ウメさんが抱えてきた袋を渡すと、
「テツ、行くよ」
「え?どこに?」
「戻るよ」
「戻るの?」
「シャボン玉やるんだろ?」
「ウメさん、やるの?」
「テツがやろうって言いだしたんだろ!」
「なっ、なんで知ってるの?」
「田原さんが言ってた」
少しだけ間が空く。
「テツがやろうって言うならやるさ」
「ウメさん…」
僕は急いで車椅子の後ろに回り込み、ウメさんに気づかれないようにひとりガッツポーズをした。そしてすぐに、車椅子を押した。いつもより、少しだけ速い速度で…。
再びデッキに現れたウメさんに、職員たちは少し驚いた顔をした。
ウメさんは袋の中から何かを取り出す。
古びたブリキの缶。
布に包まれた細長いもの。
「それは……?」
ウメさんは背筋を伸ばし、静かに作業を始めた。
缶から取り出したのは、小さくなった固形石鹸とおろし金。
「シャッ、シャッ」
乾いた音が響く。
削った粉に、魔法瓶の熱い湯を注ぐ。
そこへ、蜂蜜を数滴。
最後に取り出したのは、色の変わった麦わら。
「昔はこれを使っとったんじゃ」
水に浸し、ゆっくりと戻していく。
「子どもの頃、母とやったもんじゃ」
ウメさんが目を細める。
その手つきには、迷いがなかった。
気づけば、近くにいる人の手が止まっていた。
「あら、懐かしいねえ」
「うちも作りよった」
小さな声が重なっていく。
ウメさんは麦わらの先を十字に割り、液を含ませる。
記憶を手繰り寄せるように、一度呼吸を整える。そして、しっかりと息を吸い込み、麦わらにそっ吹き込んだ。
静かに。
でも長く。
生まれたのは、ひときわ大きな一玉。
真珠色に光る、重たいシャボン玉。
それはゆっくりと浮かび上がり、
他の玉が次々と消えていく中、
ただ一つ、
空へ向かっていった。
フェンスを越え、屋根を越え、
どこまでも、どこまでも…。
割れない。
誰も声を出さなかった。
ただただ、静かに見つめていた。
ウメさんも、空を見上げていた。
まるで、遠くの誰かを見送るように。
一ヶ月後。
中庭には、子どもたちの声が響いていた。
今日は「ひだまりフェスタ」。
「教えて、ウメおばあちゃん!」
子どもたちが集まる。
ウメさんの前には、新しい麦わらが並んでいた。
「いいかい、乱暴に吹いちゃダメなんだよ」
その顔は、以前とはまるで違っていた。
隣で見ていた息子さんが、僕に言う。
「ありがとう。あんな顔、久しぶりに見ました」
「いえ……僕は何も」
本当は、何もしていないわけじゃない。
でも、それを言葉にするのは、なんとなく違う気がした。
空には、いくつものシャボン玉。
あの日と同じ、真珠色の光。
かつてウメさんがお母さんから教わり、
大切にしていたものを、
今、また誰かに渡していく。
ウメさんは、もう一人ではなかった。
空を見上げるその目は、
もう、次の春のことを考えているようだった。
