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B003

【あらすじ】
 ○○年。砂漠の中にたった一人で住む少女。快適な家には少女しか存在しておらず、少女は自分以外の人間と会ったことがない。そんな彼女を唯一慰めてくれるのはラジオの存在だった。ラジオ放送、B003。そのパーソナリティで在る奏多という少年を通して、また、さまざまな放送局から少女は言葉を覚え、世界を把握しようとする。けれどもある日、ラジオは故障してしまい、少女はとうとう孤独に耐えきれずその快適な家を出ることにする…。
命を落とすことを覚悟で灼熱の砂漠に出た彼女は、人間以外の不思議な生き物に出会い、さまざまな経験をする。そして世界の秘密を知ってゆく。
世界に一人取り残された少女と、奏多という少年の正体とは。


砂の星


 星は、砂に似ていると思う。さらさらと透明で瞬く度に消えてしまいそうな、心細くなるような、不安で堪らないのに一人でないような。そういう気持にさせるから。

 無数に散らばる夜の星を見ることが、いつしか私の日課になってしまった。生まれてからずっと一人でここにいる。誰もいない、砂漠の真ん中で。

 輝く星はどこに行くんだろう。月が輝くと星々は途端に光を弱めてしまうのはなぜだろう。だから、月の出る夜は寂しい。月の光は星の光よりもずっと強く世界を照らすのに、寂しい。

「あなたがいればいいのに」

私は一人、呟く。そんな夜にはそう呟く。

そうすれば「あなた」がどこかにいるような気がするから。会ったことのないあなたが、私のことを迎えに来てくれるような気がするから。私は今、一人きりだけれど決してそれは永遠に続くことなどではないと思えるから。

 

生まれてからずっと一人なのに「寂しい」と感じるのはおかしいなと思う。私は誰にも会ったことがないし、この辺には生き物もいない。

 ただ、星のような無数の砂と、砂のような無数の星がいつも広がっている。

それはとてもとても美しい。一人だから、美しいのか、もし「あなた」と見たならもっと美しいのか、私にはわからない。わからないのだけれど、これが美しいということだけがわかる。


 昼間は夜よりもずっと暑い。暑さが体に堪えて私は一日中家の中にいる。

 家は、私がここに存在した時からここにあって、以来、私はずっとこの家の中に存在している。

途轍もなく唐突に、私の意思ではなく、いつの間にかそんな風になった。

家は広い砂漠の真ん中に建っている。私一人にはあまりに大きすぎる三角屋根の家。壁には煉瓦模様の塗装がされている。私が言うのも可笑しいけれど、可愛い家だ。

 玄関には梨色の扉と、広いベランダもついている。それなのに、家の庭に在るはずの緑の芝生も、マリーゴールドが植えられたプランターも、自転車も、自動車も、ラクダだっていない。あるのは砂だけ。砂、砂、砂。だから私はどこへも行けない。

 その代わりといってはおかしいけれど、家の中にはなんでもある。

例えば私の大好きなものの一つがラジオ。ラジオは私にどんなことでも教えてくれた。世界にはいろいろな人がいるらしいということ。私は世界に一人ではなくて、でも一人だということ。言葉。笑うということについて。心を震わす物語。

眠れぬ夜は朗読をしてくれることもあるし、人によって声色や話し方が違っているのも面白い。

 もしも私がいつかこの家を出て、遠くまで行けたのなら、このラジオから私に話しかけてくれる人たちに出会ってみたい。本当にそれが実現してしまったのならとても緊張するに違いないのだけれど(だって人というものにも会ったことがない)誰が何と言おうとそれは蜂蜜みたいにときめいた時間に違いないのだから。

私はこのラジオが私に与えたすさまじい影響について考えずにはいられない。

ラジオを愛している。私の先生であり、友人であり、たった一人で過ごす私の途方もないような時間を溶かしてくれるもの。もしもこれがなかったら私は莫大な時間の波に呑まれて今頃息が出来なくなってしまっていただろう。それともこの家でたった一人暮らす毎日にほとほと疲れて旅に出ていたかもしれない。

 

よく、考える。

この家を出て旅をする私のことを。家の奥の納屋にある、大きなリュックサックを背負って砂の中を一歩一歩重々しく歩く私のことを。歩く度私の靴の中に滑り込む粒子の細やかな砂の粒。

旅のリュックサックには飲み水と、バナナと、パンとゆで卵、それから汗を拭くためのタオルなんかも入れる。着替えは無くてもいいだろうけど(それは生きてはゆけるという意味で)暑いからすぐ汗をかくのに違いない。汗まみれで旅をするのはあまりにも清潔じゃない、とも思うけれど着替えのことまで考えていたらあのリュックサックは私の体には到底抱えきれない重さになりそうだ。

飲み水や食料の方が大切だもの。

旅とはそういうものなのかもしれない。普段重要に思っているものを忘れたり、忘れてもいいと思えるものなのかもしれない。私はよく、旅について考える。

なんにせよ、「清潔」という面に関して、ここでは仕方がないけれど諦めなければならないかもしれない。もしもいつか旅に出るなら。    

そういえば「清潔」という言葉はラジオのショッピングコーナーでよく聞く言葉だ。

 「清潔が一番ですよね、この掃除機なら車の中だって・・・」

「お値段は・・・」

 大事だと思う。それは床にそっと蓄積された埃を拭うこととか、汗をかいた頭皮を毎日水で流すこととか、小まめにシーツを取り換えること。

その行為自体も心地よいことだけれど、清潔にしているとき私の心は少しだけ軽くなるのだ。ほんの少しだけ。

他にもお風呂の中をぴかぴかに磨いたり、使い終わったキッチンの食器を片付けてシンクの水垢まで磨いたりするのも心地の良いことだ。清潔になるのも気持ちがいいし、清潔にするのも気持ちがいい。

ラジオを掛けながら、私は時折「清潔」にすることに没頭する。

そういう時、ラジオで話すパーソナリティの声を聴きながら、私は鼻歌を歌ったりする。ラジオを聴きながら鼻歌を歌うのはなにやらあべこべだ、と思うけれどそういうときの私は「清潔」にすることにことごとく集中していてそれ以外のことに焦点が少しも合っていない。

焦点が合っていないので汗をかきながらお風呂を磨いてラジオを聴きながら鼻歌を歌ったりするのだ。そうして磨いたお風呂に早速入ってまた汚したりすることが出来るのだ。 

心地良さはある種の根拠のようなものだ、と思う。それによって、私は「清潔」にすることがきっとすごく良いことなのだと、誰からも教わらなくても本能的にわかってしまう。

 

でも、旅に出るという幻想のようなその想像は太陽が燦燦と照り付ける砂の中をただひたすらに、ひたむきに歩いている私が突然ぱたんと力尽きて倒れてしまうところでいつも途切れる。

そしてその想像の中で、もう一人の私は力尽き倒れた私を客観的に見下ろすのだ、とてもとても高い丘の上のようなところから。

広い砂漠の中では蟻のように小さな私。それは空に散らばる小さな星に似ているけれど、似て非なるもの。その場所で私は蟻なのだ。私を見下ろす私も、見下ろされている私も。砂でも、星でもなく。

私は力尽きて、横たわる。柔らかく、熱い砂の上に。そうして倒れた後、喉の渇きをより一層強く感じながら頬を赤くひりひりと焼いてゆっくりと、けれど確実に死んでゆくのだ。ただ一人きりで。

 私はきっと、旅には出ない。怖いもの。一人ぼっちの私は、死ぬのが怖い。「死」そのものが怖いのか、死ぬ目にあうのが怖いのか、わからないけれど。


 それに比べてこの家は恐ろしいくらい快適だ。

 ストレッチのきいた深いアイボリー色のソファは座り心地が抜群で、いつまでもそこでラジオを聞いていられるという気がする。私は眠たくなったらいつでもそのソファの上で瞼を閉じる。

さっきの言い方をするのであれば、お昼寝は「時間を溶かす」最もいい方法のひとつだと思う。夜本格的に眠るとき以外、私はベッドには横にならない。だから一日の大半をこのソファの上で過ごすことになる。

 部屋の中はいつも空調がほどよく効いていて少しばかり外の暑さにへばっていてもこの家の中に戻るだけで万事解決する。

 一番すごいのは食べ物で、私は生まれてこの方一度も買い物というものをしたことがないのに、なんと冷蔵庫の中にはたくさんの食料が日替わりで出たり入ったりしている。

私が食べることがもっと好きなら、大変なことだったと思う。だっていつまで食べてもきっとこの冷蔵庫はいつまででも食べ物を届けてくれるんだもの。

食べることは嫌いじゃないけど、眠ることの方がもっと好きだったのはこの場合ラッキーだったと思う。

それにいつか、あの人に会う日が来るかもしれない、という鋭くて甘い予感のようなものが私にはある、昔から。「あの人」が誰なのかわからない。でも「あの人」の予感は私を足の指先から喉元までこみ上げてきて優しく私を蝕む。胸の奥の届きそうで届かない、もどかしいような場所。搔きむしりたいのに、私の指先がぎりぎり届かない場所。そこで、誰かが私を呼んでいる、そんな気がする。

 だから、私はあまりに乱雑に、横暴に、暮らすことが出来ない。

私は私にできるやり方できちんと暮らす。きちんと名のあるご飯(昼ごはん、とか夜ご飯、とかブランチとか)を食べてきちんとお風呂に入って眠る。体や部屋を清潔にすることは怠らないし身形もそれなりに整える。起きたらパジャマからワンピースに着替えるし、毎日同じ服を着たりもしない。長く伸ばしたうねうねとうねるくせ毛はちゃんと毎日ドライヤーで乾かしている。ラジオや良い音楽を聴いて本棚のインテリア雑誌や児童書、文庫本(これも出たり入ったりする)を手に取ってみることもある。

もしかすると、きちんとしていない内に入るのかもしれないけれど、当たり前のことをしているだけなのかもしれないのだけれど、一人にしては折り目正しく生きている方ではないかと思うのだ。何せ、比べてみる人がいないので私には「普通」というものの基準がわからない。わからないまま、生きている。

 料理をするのも好きだ。上手、というのとは違うかもしれないけれど、フライパンに卵を落とす瞬間、とか、お肉を押し付けた時のじゅう、という音、にんにくを炒めた時の香ばしい匂いなんかを体全体で感じるのは心地いい。

私は少し塩辛い味付けが好きなのかもしれない。味を付けた後で、いつも辛すぎたかな、と思うけれど塩辛くする癖は一向に直らないから。そうやって好みの味にばかりして食べるから料理が上手というのとは少し違うと思う。でも、私は私の作る食べ物が好き。

 いつか、誰かに食べさせることを思えばこんな自分好みばかりではいけないのかもしれない。カレーライスとか、肉じゃがとか、クリームシチューを作れるようにならなければいけないのかもしれない。いつか、ラジオでそう聴いたことがある。本棚に出たり入ったりする雑誌の中にレシピ本もよく入っているので今度作ってみようかと考えている。

これもおかしなことだ。いつか会うかもしれない、というのはいつまでも会えないかもしれない、ということなのに。それでも私はその予感と言う名の微かな希望に縋って生きている。縋ることでしか、息をすることが出来ない。

 何にせよ、冷蔵庫に入っている食材は日によって違うから私が自分本位に献立をきめるわけにはいかないのが玉に瑕だと思う。

基本的にいつも常備してあるものは牛乳と、卵と、食パン(時々クロワッサンやデニッシュ)それにバナナ。ここには季節がないので今日、どんなものが現れるのか、それ以外の食材を予想することも出来ない。だからカレーや肉じゃが、シチューを煮込む日が来るのはいつになるかわからない。

それでも、私はこの神出鬼没で、だけど親しみやすいこの冷蔵庫のことを割合気に入っている。

 ただ、もう一つ不満があるとするならば、お水も冷蔵庫の中にいつもペットボトルで現れるということ。

お腹が冷えるので、私はいつもペットボトルを冷蔵庫から出して暫くして常温になってから飲むようにしている。これは最近始めたことなのだけれどこれを始めてから前よりも体調がよくなってきたような気がする。体に水を含んだような怠さがあまりないような感じ。前は濡れたままの洗濯物みたいに体がだるいことが多かったから。いちいち水を飲むために冷蔵庫からペットボトルを出しておくのは少しばかり面倒なので改善してほしいのが正直な気持ち。

 でもそれよりももっと好きなのはお風呂に入ること。お風呂はあたたかくて、私はほんとのところ、いつまでも入っていられるという気がしている。お風呂に入るとき、大事なのはこの三つ。

まずはいい匂いの石鹸。それからここでは常温じゃなく、良く冷えた炭酸水、それにラジオ。これは私が思うお風呂に入るときの「三種の神器」だ。この三つがあればふわふわと気持ちよく、時間を溶かすことが出来る。逆にこの内何か一つでも欠けていてはだめ。現実に引き戻されて、お風呂は私にとってただの作業としての「お風呂」になってしまう。

私が好きな石鹸の匂いはラベンダー、その次が橘の香りでその次がハイビスカス。バニラはとても甘ったるいしなんだか作り物のような匂いがしてあんまり好きじゃない。ストロベリーも。私が甘い香りのものをあんまり使わないからか、お風呂場の石鹸置きには私の好きな香りのものが置いておかれるようになった。

 この家のお風呂には藍色の小さなタイルが張り巡らされていてそれがとてもきれい。透き通っていて、濃い藍色。藍色の絵の具を一滴垂らして少し雑に塗り広げたみたいな素敵な色。私はお風呂に入りながら暇さえあればそのタイルを見詰めている。

 浴槽は真ん丸の形をしていて、淡いクリーム色だ。お湯は下の方から湧き上がるようにして出てくる。足し湯をするとそれがお尻の方に当たって、くすぐったいけど気持ちがいい。この砂漠のどこから水が流れてきているのかいつもは不思議で仕方がないけれど、浴室の窓からは丁度外が見えないようになっていて、私はその不思議さを簡単に忘れてしまう。

もしかすると私はいま、砂漠の真ん中になんかいないのかもしれない。長い夢を見ていただけなのかもしれない。お風呂から上がったらラジオや本の中にいるような様々な人々が暮らす「普通」の世界が待っているのかもしれない。「あなた」があたたかいスープを作りながらバスタオルで体や髪をぐるぐる巻きにした私に向かって、「お上がり」と声をかけてくれるのかもしれない。そんな風に今いる場所を忘れてしまう。

私は背中を浴槽に凭せ掛けていつまでもラジオを聴くともなしに聴いている。


お風呂に入ること以外で今日したことといえば起き抜けに喉が渇いていたので西瓜を食べて、それから白いごはんの上にお味噌をおかず代わりにのせたものを少しと昨日焼いておいた卵焼きを二切れ、未だ喉が渇いていたので牛乳を一杯飲んだことくらいだ。その後昼寝をした。

暑さの中での喉の渇きは、水だけでは癒えないことがある。だから今日は西瓜が冷蔵庫にあるのを見つけてすぐ、寝惚けたまま実をスプーンですくって食べた。西瓜は丸まる一個じゃなく、大抵四分の一の形に切られて置いてある。

いつものことながら起きるのが遅かったから朝一番にラジオを聴いて、最初の食事を終えた頃にはもうほとんど正午を回ろうという時間だったと思う。ブランチをしながらまたラジオを付けた。ラジオからは、女の人の高い声がしていた。知らない女の人の声。私のラジオは一局しかないのでダイヤルを回して違うものに変えたりすることは出来ない。私のラジオ。四角くて白い、無機質なラジオ。

私はブランチをすると決まって眠たくなるのだけれど知らない人の声だと、うとうととするのが遅いような気がする。知っている人の声よりも、眠たくならない。

それでもやっぱりゆっくりと眠りが体を循環してきて私はそれに行儀よく従うようにして瞼を閉じた。残念なことにこの、知らない女の人の声を知っているような気持になったときに丁度、眠りがきれいに回ってしまった。 

あえてその微睡みと闘わないようにしている。それが一番いい方法だから。私がこの世界によって傷付いたり機嫌を損ねないために。そうやってこの世界と折り合いをつけている。そうやって私はただ、私自身のために細やかな配慮を積み重ねることしかできない。


 目が覚めたら、もう窓から見える地平線に太陽が沈んだ後だった。当たり前だけれど沈んだ後には太陽がもうどこにも見えないということに私は毎度落胆する。昼寝の悪い点は、目覚めた時沈んだ太陽を哀愁を持って受け入れなければならないということだ。薄暗くなった世界は私をなんとなく鬱々とした気分にさせる。時間を溶かした代償。

今日は、向こうに見える地平線がなんとなくまだ赤らんでいて、あの燃えるような太陽が沈んだばかりなのだということが分かった。 

沈んだ後もまだ強く光を放って、寧ろ沈んでしまう直前に蠍のように赤くなる太陽は狂っている、と思う。完全に狂っている。昼間は決して直視することが出来ないのに夕暮れの赤は瞳に入れることが出来るところも。瞳に入れた後、暫く瞼の裏に焼き付いて離れないところも。 

この間、夕日を見た。砂漠の地平線に沈んでゆく、赤い赤い夕日。見るんじゃなかった、もう少し眠っていればよかった、と思ったけれどそれでもそれは美しいと形容するべきものだった。夕日が沈むのを見ても、沈んでしまった後目覚めても、私はこんな風に落胆する。

詰まる所、寂しいのだ。寂しくて悲しいのだ、沈みゆく太陽も赤い地平線も。赤い太陽が不在を知らせるのと同時に外気がひんやりとしてゆく。そしてそれは私の心を静かに冷たい空しさのようなもので侵食してゆく。そうやって、夜がやって来る。

それに比べて、朝日というのは、夕日よりもずっと心地が良いものだ。気分が良いもの、だけど私の生活習慣上、あまり目にすることがない。それでもいままで見た朝日はいつも潔いほど明確に爽やかなものだった。

時々、朝の到来を眠りの隙間に感じることがある。ほんの少しだけ隙間の空いた遮光カーテンから差す光。またはあまりに透き通った静けさという名の朝の報告。私はけれど、それを受け取らない。受け取れば、健康的になってしまうと思うから。強すぎる光だって時折私を心細くさせてしまうことがあることを私はちゃんと知っている。


遠くに見える、残酷なほどありありとした赤く染まる地平線を見詰めながら身震いがした。点け放しにしたラジオからはのんきなコマーシャルの音が聞こえてきて、それはいつものように私の心を少し楽にしてくれるような気がする。ラジオCMではショートドラマ形式で安全運転を訴えていた。

「急いでいたら・・・」

「パパ、危ないよ」

「ぎりぎりで助かったよ・・・」

「運転手さんは気を付けてください」 

「国道35号線は・・・」

そんな風に過ごしていたら、いつの間にか夜になった。

 

 星は綺麗だけれど、やっぱり寂しい。こういう時は音楽を聴く。ラジオから流れる、気に入った曲をこまめに録音してまとめておいたものがあるのだ。ラジオの音をカセットに録音すると音質が到底救いようのないほど悪くなってしまうのだけれど(本当に致命的なほど酷い音だった)数年前からどういうことなのか、とてもきれいな音で録音ができるようになった。最初は突然のことで驚いてしまったけれどこれも冷蔵庫の中を出たり入ったりする食料品のようなものなのだと思って妙に納得してしまった。私が不満に思ったことは、いつの間にか改善されてしまうのだ。

この、不可解で不思議な家。私のラジオみたいにいつまでたっても無機質で快適な家。

数え切れないカセットテープの中に音楽はきちんと保存されていて、私は録音したカセットテープをリビングの机のそばの大きな棚に一つ一つ丁寧に並べている。これは私の趣味と言えると思う。

「清潔」と同じように「整頓」も大事なことだ、私の心を少しだけ明るくすることにそれは役立つ。

 カセットテープには、そのどれにも私がよく勘案して付けた名前がある。名前というより、タイトルと言った方がいいのかもしれない。

このタイトルを頼りにその日聴くテープを一つだけ選ぶようにしているのでこれは思ったよりも重要な作業。タイトルには規則性や統一性というものがなくてその日その日で全く違うのだけれど、今思い出せるものだと、

「バラの花は枯れない」

「ホワイトソーダの味」

「間違って泣き出しそうになった時にしか聴かない」

「車が走る夜に」

「こぎつね座・またはヘラクレス座が見えたなら」

「うだるように暑い夕暮れに」

といったところだ。

名前を付けた途端、テープに命が吹き込まれたような気がするのが好きだ。途端に愛着がわく。これで私のものだという思いがする。

こういう時、私がワイン愛好家なら年代別にワインをずらりと並べているおしゃれな深紫色のワインセラーを作るのに違いない、と思う。間接照明をたくさん点けて、ガラスのケースの中には特別なワインを並べる。あいにく、お酒は飲まないけれど。

年代別のワインのように私のカセットテープには日付がない。だって、私は今日が何年何月で、私が何才かも知らないもの。それでも私はこの簡素な棚の中に並んだカセットテープたちが生きているような気がすることがある。生きていて、呼吸をして、きちんと私の耳を潤す。もしかすると「生きている」ものに触れたことがないから、自分が愛着を持ったものに対してそんな風に思ってしまうのかもしれない。

テープに夜に聴くためのタイトルが多いのは、私が夜更かしで、それなのに夜に限ってセンチメンタルな気分になるからかもしれない。

夜はラジオをあまり聴かない。不思議なことに、夜は人の直接的な話声よりも流れるような音に酔っていたいと思う方なのだ。それでも人恋しい時は小さな音量でラジオを流しながらテープの音楽を流すことがある。そうするとほんの少しだけ、誰かと一緒に音楽を聴いている気分になれるのだ。無論、お風呂に浸かるときはラジオだけだと決めているのだけれど。

 私はそれで、今日もいつものようにその棚の前に立って慎重に夜のお供を選び出す。一晩中何度も繰り返し選んだテープを聴かなくてはならないので、これはとても大切な選択ということになる。時々、間違ったものを選んでしまって今日の気分じゃないとすっかり冷めてしまうこともあるけれど、そういう時も私は他のカセットに交換して聴き直したりはしない。私はそういうことにロマンがないと感じるから。

いつか、「グッドナイト・アフターヌーンティー」のラジオパーソナリティーの佐々木さん(彼女は私の憧れの女性なのだ)が言っていた、「ロマンは人生において最も大切なことの一つ」という言葉を聞いてからというもの、私はなにごとにおいてもロマンというものを大事にしている。

どういうわけか、今日はテープ選びに失敗したと思っていてもそうして最初から繰り返し何度も聴いている内にその音楽が私の耳に馴染んでくることも多いのだ。

 佐々木さんはだけど、「ロマンは最も大事なことの一つ」で「最も大事なこと」とは言わなかった。

だからきっと他にもいくつか人生において最も大事なことがあるのに違いない。そうじゃなければあの佐々木さんが「最も大事なことの一つ」だなんて言い方をするはずがないんだもの。

私はそれに対してこんな風に思っている。

どうかいつか穏やかな夜の片隅で私の耳元に囁いてはくれないだろうか、何が最も大事で、何が私に足りていないのかを精確に、優しくそっと、教えてはくれないだろうか。もちろん私がちっとも傷付かなくて済むように、と。

だって、それがもしこれまでちっとも大事にしてこなかったことだったら私は暫く立ち直れないのに決まっているのだから。


 あいかわらず、昼間あんなに寒かったのに夜はしんしんと冷えている。

いつも夕方目を覚ましたくらいから肌寒くなってきて、あとは一気に駆け上がるようにして気温が下がるのだ。もちろん、この家の中はそれに合わせてあたたかくなるのだけれど。

私は肩にさっとショールをかけて外に出た。この赤いショールは私が外に出る時決まって羽織るもので私が随分小さな頃から使っているもの。いつのまにか色あせてしまって毛玉もたくさんついているけれどどういうわけか手放そうという気にはなれない。

それでなくてもこの家のごみ箱に入れたものはその瞬間どこに吸い込まれてしまうのか跡形もなく消えてしまう。だから簡単にはこのごみ箱に物を入れることはできないのだ。 

それでも、こうして長くここで暮らしているとうっかり間違って捨ててしまったものはたくさんある。お気に入りのクマのキーホルダーに本の中に挟んであった栞、刺繡入りカーディガンから一つだけ取れてしまった光る貝殻のボタン。なにかに混ざってひょっこりこのゴミ箱に入ってしまったら最後、永遠にそれをなくしてしまうことになる。

 「寒い」

私はスリッパのまま外に出ると新鮮でいて透明な空気を吸い込んだ。

夜の空気はひんやりと冷たくて私の鼻の頭を一瞬で赤くしてしまう。いつものこと。

私は朝に一度、夜に一度は必ず外の空気を吸うようにしている。そうしなければいけない気がするのだ。確信はないけれど、こういう時間が一人ぼっちの私をぎりぎりで正気な場所に居させてくれるような気がする。

 今日のテープは、

「テディベアとリボン」

に決めて、イヤホンを差したカセットプレーヤーの再生ボタンを押した。

再生ボタンを押すときのかち、という確実な音が好きだ。かち、という音。ひどく誠実な音。そして指が沈み込む感覚。それから私は「来る」と覚悟する。この静まり返った夜の中ではそうでもしなければとても受け止めきれないのだ。それほどまでに私の耳から頭の中まで攫っていってしまう音の波。何度その瞬間を経験しても私は慣れるということを知らない。

 今日は、「テディベアとリボン」を選んで正解だったように思う。

一曲目が流れて来た時、そう思った。一曲目も、二曲目も三曲目もそうだった。ピアノの優しくてシンプルな音色の曲で予想外の音階に飛んだり、ペダルを大仰に踏んで闇雲に音を広げたりしない、小難しくない曲。それに歌詞があるものでなくてよかった。今日は、そういう気分なのだ。外国語の歌詞だって意味が分からなくてもなんだか堪えてしまうことがある。だからこんな気分の夜、ピアノや楽器の音色はいい。

 外で音楽を聴くときはイヤホンを付けることが多いように思う。周りに誰もいないのだからスピーカーを大音量にして聴いても構わないのに。

私はこうして両耳をふさいで音楽に没頭するのも、生活の中に寄り添うようにそっと後ろで音楽を流すのもどちらも好き。

「音」は外の空気に似ている。それは私が私という形を保つために必要な新鮮な酸素のようなもの。だから目を覚ましてから眠りに着くまで音がない瞬間は、ほとんどない。ラジオか音楽、いずれにしてもなんらかの「音」はいついかなる時も私の周りになくてはならないものなのだ。

 昼間に驚くほどよく眠るのでいつも夜は眠れないものと腹を括っているのだけれどそれでもコーヒーや紅茶は気が引けるので夜はよくココアを淹れる。小さな白い(兎が服を着た絵が描いてある)ミルクパンで粉と牛乳とを丁寧に練りながら作る、簡単だけど手の込んだココア。ココアはいい。自分が何かとても贅沢で特別なことをしている、という気持にさせてくれる。

 

チェック模様の赤いショールとココアを持ってベランダに出ていると冬みたいに感じることがある。ここには夏しかないけれど、夜は時々吐く息が白くなるほど寒くて、私はそれが嫌いじゃない。知らないものを知ったような気分になるから。

 ふう、と少しだけ冷めたココアから出る湯気に息を吹きかけてみる。耳の中から頭の中を侵食する、誰かのピアノの音。単純だけれどなぜかあたたかくて懐かしい旋律。ココアの甘くてでもどこかちょっとビターな匂い。

 今日は、空から星が降っている。












  南十字星


 星が降るとき、星が降らないときよりも私はずっとセンチメンタルになる。

 時々だけれど、これは秘密にしておきたいのだけれど、泣いてしまうことだってある。だってしんしんと降り注ぐ星々はあまりにきれいだから。きれいなものは寂しくて、ちょっと切なくて、だから綺麗だ、と思う。きれいなものが少しも寂しさをはらんでいなかったならそれはなにか、別のものだと思う。

 冷たい涙が頬につう、と流れる時、だから私は悲しいけれど不幸じゃない。「悲しい」と感じられるだけの心があるうちは不幸じゃないし不幸になりきれない。

 星は降る。次から次へと。しんしんと、音も無く振って来るのに地面に落ちた星はぱりん、というような音を立てる。繊細な音だ。決して小さくないけれど、煩いと感じない音。私がイヤホンをしていても聞こえてくる鋭くて弾むような音。音と言うよりも命が弾けて砕けるような振動。

 ぱりん。ぱりん。

 星が落ちて、消えてゆく。落ちた瞬間眩い光を放って。その星の一つ一つに、願いを込めた人がこの世界のどこかにいるのかもしれない。それとも、いないのかもしれない。

 私は、きっといるに違いない、と思った。だってそうじゃなければこの星々がこんなに美しくて悲しいはずがないもの。

「お嬢さん」

星が言う。

「お嬢さん、泣かないで」

泣いていないのに、と思った瞬間、頬に冷たい涙が流れていることに気が付いた。あんまり冷たいので気が付かなかった。

星の声は深くて優しい。ぱりん、という音に似ている。雑念のない、言葉の意味そのままの感情が伝わって来る声。星はイヤホンをしている私の耳にも聞こえる声で振動する。星の声、単純なピアノの旋律。

――ぱりん。

――ぽろん。

「お嬢さん。いつか、僕にこう願った人がいました。一千光年前の世界で」

星の優しい声。振動。

なにを、願ったのですか。

「それは・・・」

星は、答えようとしたところでぱりん、という音を立てて割れてしまった。丁度、砂漠の上に落ちてしまったのだ。割れた時、あまりに眩い虹色の光を放ったのでこれはきっと、たくさんの人々が願いを託した星なのだろうと思った。星は地面に落ちて砕け消えてしまったけれど、この星もまだ空の上に瞬く星も実のところひとつである、という感覚がいつも私の中にあって、だから悲しくはない。

 「なにを、願ったのかな」

私は独り言ちてみた。涙を流しながら呟いた言葉はひんやりとした空気を伝って空の方へ上っては消えていくみたい。意味もなく、そして美しく。

 私のように、一人、星を見上げては会ったことのない誰かに思いを馳せた人もいたのかもしれない。こんな風に消えていく言葉の影を最後まで見送った人がいたのかもしれない。きっと私も、その人も同じようで違って違うようで同じだという気がするのだ。今まさに砂漠の上で弾けては砕け散る星とまだ空の上で光り輝く星とが静かに、けれど確かな強さで繋がっているように。

 時々、思う。

 もしも世界が恐ろしいほど大きくて、そのあちこちに私のように孤独に空を見上げている人がいるのならそれはとても、滑稽なことなのではないか。その一人一人が同じ孤独を抱えているのに、交わらずただそれぞれに願いごとをするだけだなんて。

 もしそうだとすれば私たちは孤独で滑稽で、怖がりだ。だってみんな心に望みを抱えているのに、みんな寂しいから。寂しいのになにをするにも恐ろしくて踏み出すことができないから。

 

 私は、随分前から願い事をするのをやめてしまった。その代わりに、「祈る」ようにしている。

 この間祈ったのは、確か一か月ほど前の満月の夜。

 願いごとをするのはやめてしまったけれど、なにもしないのはなんだか人生を儚んでいるようでわびしい。わびしいと寂しいは似ているようで全然違っている。寂しいのはよくても、わびしいのはいやなのだ。だから、祈るのだ。


 ラジオで「南十字星」という星座があることを知った。私のラジオは日付を教えてくれないからそれがいつ現れるのかはわからなかったけれど、もしかしたら、と探したところに南十字星(と、私は信じている)を見つけたのだ。

 これは、名前の通り、大きな十字架の形をしている。星と星とは離れているのに人間が勝手に繋げて星座にしてしまった。そこにロマンがある。ロマンがあるのはいいことだ。私は別にクリスチャンと言うわけではないけれど、ラジオで聞いたお経とか、そういうのよりは、十字架とか聖歌とかの方にロマンを感じるタイプ。

 だから、お月様の明るい夜に南十字星を見つけた時は「とうとう満月の夜をやり過ごす方法を見つけた」と一種の救いのようなものを感じた。

 私は満月の夜、南十字星に祈らずにはいられなかった。どうしても。私の祈り方はこうだ。

 まず、ベランダの脇に跪く。肩にショールをかけていればそれを頭に被せてもいいし、なければそのままで。

 手のひらを合わせた後指をクロスして握る。そのこぶしに口づけるように顔を近づけて少しうつむき気味になる。瞳を閉じる。

 あとは、祈るだけ。祈りと願いの違いは、祈りの方がもっとちゃんと誰かに届いているような気がするということ。願いよりももっと切実であるということ。少なくとも、私にとっては。

 祈りは自由だ。なにも、綺麗な言葉である必要なんてない。愚痴をこぼしても、どうしてこんな風なの、と怒っても構わない。きっとその「誰か」はそれをに寛容に受け止めてくれると信じているから。

 そうして祈っていると、心の真ん中が熱を持ったように熱くなることがある。それで私は思う。

 「一人だけれど、一人じゃない」

 そうしているうちに何時間も経っていることもあるし、数分、数秒で飽きてしまうこともある。けれどなぜか、熱心に祈ったあとはよく眠れる。

 もしかしたら、その時間だけ、私の周りの半径五センチくらいは世界で最も安全で最も静かで最も清らかなんじゃないかと思うことがある。「願い」よりも「祈り」の方がだからもっとロマンがあると私は思う。


 突然だけれど、私は恋をしたことがない。

もしも私がこの家に一人きりじゃなかったのなら友達やボーイフレンドの一人もいたのかもしれないけど私はあいにくそういうわかけにはいかなかったから。

長らく、割れては発光して降り注ぐ星々を見詰めていたけれど、あんまり頬を流れる涙が冷たくて体に堪えてきてしまったのと、星が私に話しかけたまま姿を消してしまったことも気にかかって祈ろうという気にもなれなかったので今夜はもう眠ることにしてベッドの中に入ったところだった。

パジャマに着替えてベッドの中に入るということは私にとって一大決心だ。眠るぞと決めたことになるのでこの後は決して瞼を開けることがない。なのでその後はただ、物思いにふけることになる。

イヤホンを抜いたカセットプレーヤーを部屋で流しながらパジャマに着替えたり、歯磨きやストレッチをしている間は全然物思いにふけらないのに、不思議だ。ルーティン化されたことを流れる音楽のようにこなしてゆく。この時間は余計なことを考えずに済むので気に入っている。

そうしているうちに瞼が重たくなる。重たくなるのでベッドに入って眠りにつきやすいように暗くしていた部屋の最後の灯り、オレンジ色の豆電球を消す。瞼を閉じる。さあすると突然物思いはやってくる。窓は閉めたかな、喉が少し乾いた、というところからどんどん派生して物思いにふけっていると、私は恋をしたことがない、という考えに思い至った。この考えにはごく自然にけれどもとても頻繁に思い至る。

でも、それは少しだけ違うかもしれない。ほんの少し間違っているかもしれない。確かに、恋愛というものはしたことがないけれど私は実のところ「奏多くん」という人にほとんど長い間恋心のようなものを抱いているのだ。恋心について私は本の中やラジオの恋愛相談の知識しかないけれど、たぶんこれは恋心と言ってもいいのかもしれない、と思う。だって「奏多くん」のことを考えると心がずきずき、わくわくしてお尻の底に冷たい風が吹くみたいにそわそわとする。

奏多くんはB003のラジオパーソナリティで、それは必ず毎日朝の十一時に放送されるのだけれど(それも丁度私が目を覚ます時間帯なのだ!)私はこのラジオを発見してから一度だって聞き逃した試しがない。

聞き逃したことはないのだけれど一度だけ、二度寝をしてしまって最初の五分ほどを聴くことができなかったことがある。

その時はだから、大層落ち込んだ。大層大層落ち込んでしまって夕方になって昼寝から目を覚ますまでの間使い物にならなかった。といっても昼寝をしたのはラジオを聞いた直ぐ後だったので使い物にならない状態であったのはほんの数時間、ないし数分のことだったのかもしれないけれど。

私は眠りさえすればそれほど後に尾を引かないタイプであると思う。寂しさは眠ってもちっとも良くならないけれど。

なんにせよ、B003は私の楽しみ。人生の潤い、恋、ときめき、青春。

放送は決まって三十分間奏多君が雑談をするというもの。その間奏多くんは音楽を流したり、何らかのコーナーを始めたりすることもなくただ、話している。今日あったこと、思ったこと、知ったこと。奏多くんの声は高くも低くもなくて、でもどこかおっとりとしているから安心する。話題も明るくも、暗くもない。奏多くんをリトマス試験紙で計ったらきっと中性になるに違いない。

理由なんてないけれど、私はこのラジオに惹き付けられるようにして好きになった。この時間も、彼のことも。

もちろんのことだけれど、私は余すことなくどの放送もテープに録音している。私は奏多くんの選ぶ言葉が好きだ。それに奏多くんの言葉はとてもリアル。他の放送とは比べものにならない程、肌触りのようなものが感じられてリアルなのだ。私はこのB003を聴いている間、彼の声や言葉を感じている間だけ、この世界には私一人きりじゃないのだと信じ切ることが出来る。それは私にとってどれほどの救いであるのか、自分でも計り知れない、と思う。

布団の中に潜り込んで眠りにつくまでの間、私は奏多くんのことについて考える。

 奏多くんの白く光る粒のような声について。彼の声はどうしてこんなにも私を揺さぶるのか、どうしてこんなにも私を安堵させるのか。私がここに生きているという気分にさせるのか。

奏多くんの選ぶ言葉について。どうして彼の言葉はあんなにも冷たくてあたたかいのか。時に不気味なユーモアをわからない程度に忍ばせるやり方でぽろりと零すのか。どうして饒舌なのに彼の言葉は寡黙であるのか。

私の頭は休まることを知らない。回転のし過ぎで深い眠りの中に引きずり込まれるまで一度も。

――奏多くんの生活態度について。奏多くんともしもいつか会える日のことについて。奏多くんの髪の長さと質感について。奏多くんのファッションセンスについて(これは以前、ラジオにて致命的なのですよと話していた)。

不思議なことにそうすると、心地よく眠たくなって、怖い夢を見なくて済むのだ。

 けれど一つ、以前と変わったことがある。変わったというよりも付け足された、と言う方が正確かもしれない。眠りにつくまでの間、今までは奏多くんのことしか瞼の裏で考えられることはなかったけれど、最近は少し違うのだ。

私は先日満月の夜、南十字星を見て祈りについてからこの世界を作った「誰か」について、思いを巡らせるようになった。具体的に考えるわけじゃない、ただ、その「誰か」が信じられない程あたたかくて愛にあふれた「誰か」であることを信じるのだ。ただ、ひたすらに。盲目的に。

信じるというのは気分がいいものだ。疑うよりもずっと。それは私だけのものだ。誰も侵害することの出来ない、私だけの領域。私と「誰か」だけの聖域。

私はその行為を「花束のルール」と名付けている。守らなければいけないことはただ一つだけ。徹底的に信じるということだけ。「花束のルール」をしていると、私は奏多くんのことを考えるときとは少し違った、もっと爽やかなぬくもりに包まれるような気がする。爽やかで静かで冷静でまっしろな。でもおかしなことに、そのぬくもりは奏多くんの声に似ているのだ。白く光る粒のような声。ぬくもりは私を包む。とんでもない広さで。大きさで。

そうして、私はまた、眠りに落ちる。


 今夜は、まだ窓の外で、

ぱりん。ぱりん。

と星が降っては割れる音がしている。

 あの星は一体何を言いかけていたのだろうか。

 一千万光年前に、人々は何を願ったのだろうか。

 星の、深くて優しい声を思い出す。

「それは・・・」




 「B003がシャットダウンしました」

 ピーピーピー




















冷たい部屋


 実験室の空気は冷え切っている。僕は父さんを見送って以来、ずっとここに籠りきりだ。以前からここに籠ってはいたがそれが酷くなってとうとう僕は外に出なくなってしまった。そのせいで僕の肌は以前に増して青白くなったように思う。

僕はこの部屋のことを窮屈とは思わない。ここは父さんとほとんどの時間を共に過ごした部屋だから。

それでもデスクの上に並べられた数台のコンピュータや栄養を取るためだけに存在する丸い錠剤、コンクリートの床や壁は父さんがいなくなってからというもの、更に無機質さを増した。

窮屈ではない、ただ、無機質なのだ。


 父さんは時々僕をこの部屋から出して、広い広い砂漠を見せてくれた。

僕はでも、それがあまり好きではなかった。こういう時の父さんの表情が好きではなかつたのだ。父さんは怯えていた。何もない砂漠を見詰めながらただ、怯えた目をしていた。だから僕はこの部屋にいる時の方が好きだった。

 外は咽返してしまうほどに暑いのに、この部屋は冷たい。父さんはこの部屋のことを「シェルター」と呼んでいた。

 僕はもう、この世界に僕らを飲み込んでしまうものなどないと知っていたけれど、それを父さんにわかってもらうことはしなかった。必要がないと思った。怯える父さんの瞳を僕は守りたかった。


母は僕が生まれてから数か月してこの世に呑み込まれてしまった。

どのように、呑み込まれたのか、なにがきっかけであったのかはわからない。ただ、父さんはよく愛おしそうな表情をして僕が母に似ているのだと言った。目と目の間が離れているところや、肌の質感がそっくりなのだと言った。父さんは僕が心から尊敬する研究者であり、父親だった。

父さんは、この世に呑み込まれたりはしなかった。代わりにただ、少しずつ体を小さくして、何か見えないものに体力を奪われていくようにして死んでしまった。

僕は泣かなかった。泣かなかったというより、どうやって泣けばいいのか、わからなかったのだ。そういう僕を見て、父さんはいつものように微笑んでくれた。

そして、

「そういうところも、母さんによく似ている」

と言った。


涙の出所というものがどこにあるのか、僕にはわからない。どうしてあの時、父さんの瞳から泉から湧き出るように信じられない程美しい雫が零れ落ちたのか。

美しくて僕は叫び出したかった。この冷たい部屋の中に響いて、響いて、自分の声に耳をふさぎたくなるほど大きな声で叫びたかった。けれど、そうしなかった。そんなことをすれば父さんが悲しむような気がしたのだ。こんなにも僕を入れた瞳から美しい涙を流す父さんが。

父さんは少し乾いた、茶褐色の大きな手のひらを僕の頬までゆっくりと伸ばして僕の顔を包み込んでしまうようにして触れた。僕はまだ幼かった。父さんの手はかさかさとして頬が痛んだけど、どうかそのまま僕の頬に手を置いていて欲しいと願った。僕は前にも増して叫び出したくてたまらないという衝動に駆られた。けれど、叫ばなかった。父さんの唇が動いた。唇も荒れて、皮が所々剝けていた。茶色がかった桃のようだった。そして、

「ありがとう」

父さんは確かに、そう言った。

 僕は父さんを愛していた。


深海に沈む、錆びついて苔むしてしまった碇について、僕はよく思いを馳せる。

海というものを見たことがない。だからこそ、想像する。その碇はどんな風にそこに沈み、そこに居座り、どんな風に朽ちてゆくのだろう。知りたいようで知りたくないような気になっていつも途中で考えるのを辞めてしまう。

気が付いている、その碇は僕そのものだ。


僕は父さんを失ってこの世界にたった一人になった。ただ、この少女を残して。


「B003が、シャットダウンしました」


コンピュータが例の如く淡々とした機械音を出した。今夜もあの子が眠りについたのだろう。B003という名は父さんがつけたものだ。

あの子は人類最後の生き残り。正確には僕を含めた二人、だが。

 僕には彼女がいま、どこにいるのかわからない。本当は調べれば簡単に彼女の居場所を特定することが出来るのだが、父さんがそれを望まない。父さんは、彼女のことを愛していると言った。大切なのだと言った。だからこそ、彼女には何も知らせたくないのだと言った。この世界の、残酷さについて。恐ろしさについて。彼女をそういうものから守り続けることは父さんが僕に託した仕事の一つだ。 

 父さんはよく、僕に向かって「任せたぞ」と言った。父さんは僕の頭を撫でながら、なぜか僕以上に得意げにそう言うのだけれど僕はそう言われるのがあまり好きではなかった。それはいつか父さんがいなくなってしまうという約束をしているような気持になるから好きではなかった。父さんが僕のために言ってくれる言葉や僕のために見せてくれる砂漠なんかより、僕は父さんが楽しそうに研究について話しているのを聞いているのが一番好きだった。それから、母さんの話を聞かせてくれるのも。

 僕は苔むした碇になどなりたくなかったのだ。


僕とあの子は世界の正式な研究対象でもある。

僕は生まれた時から、この世界に父さんとあの少女しかいないという状況であったので僕と彼女が研究対象であることにはなんの疑問もなかった。

はじめからそうであると、人間はその状況に疑問を抱かないのかもしれない。その証拠に父さんがこの世を去ったことは「はじめから」ではなかったので僕は父さんのいないこの世界になれるのに随分と時間がかかった。「慣れている」というのはあまりにそぐわない。ただ、知らないふりをすることが上手くなっただけなのかもしれない。けれどいつまでも「慣れていない」を続けるわけにはいかなかった。だって父さんは僕に、「任せたぞ」と言ったのだ。

父さんがいなくなってから、父さんが研究していたあの子については僕が研究をすることになった。もちろん、自分自身についても。

僕の体には、背中から無数の管を通していて一分一秒細胞レベルで僕の体について起こる全てのことをコンピュータに記録している。だから僕はこの研究室を出ることが出来ない。 

父さんは僕にこういうことをしたがらなかった。父さんは僕をこの部屋に住まわせながら、それでも最大限、自由でいられるようにといつも気遣ってくれた。

けれども父さんがなくなってから暫くして、僕はもっと自分自身の体について研究熱心になった。そうでもしなければ、僕も呑み込まれてしまうと思ったのだ。この世界に。

父さんがこの世界を去ってから、もう十年以上たつ。時々何のために僕は研究しているのか、わからなくなることがある。自分の体を細分化して、どうするというのか。クローンでも作るつもりなのか。僕は知っている。父さんは、僕が死んで、人類が終わることを避けたかったのだ。僕は僕以外の命を作り出せるのだろうか。それはあまりに無謀であってあまりに秩序のないことではないか。僕は、神じゃない。

わからない。ただ、僕にはこうしていることしかできない。朝起きて夜眠るまで、依然として、僕はこの部屋の中にいる。



今日もこの部屋は外の暑さなど少しも関係がないというように冷たくてコンクリートの床や壁は固く無機質だ。だからいつでも深夜のようだ、と思う。窓がないから。でもそれは僕が親しみを持って幼い頃から知っている風景なので不思議に落ち着くのだ。

ただ、無機質な部屋の中で一つだけ、冷たい熱を持ったものが存在している。部屋の中央に大きな水槽が一つ、置いてあるのだ。そこには数匹の大きな熱帯魚が泳いでいる。どれも、とても長生きなのだと父さんが言っていた。そして彼らは人類なんかよりも、もっとずっと力強いのだとも。この水槽の中をのぞくとき、父さんは生き生きとして、安心しているように見えた。この無邪気な命たちに。 

父さんがいなくなってしまったいま、かねてから父さんの趣味だったのこの魚たちの世話は僕がしなければいけなくなった。

彼女のようだ、と思う。彼女はこの水槽の魚だ。力強くて、だけど、何も知らない。何も。そして僕は彼女の世話をする、父さんの代わりに。

時折、僕はこの水槽に耳をくっつけてみることがある。体を凭せ掛けてもびくともしない水色の水槽は僕の鼓動まで吸い取っては押し返すようにただ、そこに鎮座している。水槽は冷たいのに、熱帯魚を見ていると体の底からじんわりと熱を持つように感じる。

熱帯魚は、いつ見ても同じ顔をしている。何を考えているのか、どこを見詰めているのか、毛頭わからない、そういう顔だ。

いつか父さんが「お前に似ている」と言った。それはおかしい。母さんはとても表情豊かな人だったと父さんは言ったのに。それならば僕と母さんは似ていないことになるじゃないか。でも、もしかしたら似ているのかもしれない。僕が叫び出したくてそうしなかったときも、父さんは「母さんに似ている」と言ったから。  

あの子も、僕も、この水槽の中の魚だ。そしてもしかすると母さんや父さんも。それぞれ違う湿度で、だけどちゃんと似ている。

水槽に当てた耳が冷たくて熱い。赤あおきいろ。色鮮やかな魚たち。生きている、命ある生物たち。


あの子はいま、眠りについたらしい。僕にあの子の全てがわかるようにコンピュータが緻密に計算を繰り返してはこのように知らせてくれる。一日の間に何度も鳴るこの音。


ピーピーピー

「B003が・・・」


それはもうほとんど、僕の呼吸音のようなものだ。僕らは繋がっている。彼女の居場所も、彼女の顔も、わからないけれど。彼女は父さんが守りたかった、宝物のような存在だと思う。

 このコンピュータは父さんが作った。このコンピュータを通してあの子の心臓の速度、成長具合、眠りの深さや生活習慣までがわかる。もちろん、プライベートは出来るだけ守るようにしているがやむ負えない場合もある。だって彼女は人類最後の研究材料であり、僕は人類最後の研究者であるのだから。

 父さんは、本当に立派なエンジニアだった。彼女がこの世界の異変に気が付かないよう、父さんは彼女が生まれた瞬間からあの箱の中に入れてしまったのだ。

 あの、快適で小さな箱庭の中へ。

 愛しているが故に、閉じ込めたのだ。父さんの「世界」への恐れはそれほどに大きく、彼女を守る手段としてそれが最善だと考えたのだ。僕は父さんのその選択を尊重する。僕も、彼女も、世界に呑み込まれてしまうわけにはいかないのだ。

 そしてその父さんが作った掟に乗っ取るようにして彼女は少しだって感付かない。自分自身の運命に、状況に、境遇に。それは父さんの為した技だ。僕にはできっこない。こうして彼女の生活を守ることくらいしか。

 ただ、コンピュータが示す彼女は決まってとても、寂しそうだ。彼女はとても頻繁に涙を流す。そしてセンチメンタルだ。


 「ピーピーピーB003・エラーコード18」


どうして彼女は泣くのだろう。生まれた時からあの箱の中にいて、どうして自分が寂しいと気が付くことが出来るのだろう。

 僕にはそれが理解できない。僕は一度も泣いたことがないから。父さんが亡くなったときも、その後も、一度も。慣れないことはあるけれど、泣いたことはない。あの、水槽の中の熱帯魚のように。

 今日もコンピュータには「寂しい」と表示されていた。

 「感情情態:寂しい」

 僕は彼女と自分自身のことを研究する、一日中。

もうすぐ、僕は二十歳の誕生日を迎えようとしている。





手と手、耳と耳


僕には一つだけ、趣味と呼べるものがある。それは、媒体に声を吹き込むこと。つまりラジオを残すことだ。

 これは最初趣味というよりほとんど僕の日記のようなものだったのだけど、あの子があんまり熱心なラジオのリスナーになったので驚いた。

なぜかあの子は僕のラジオをとても大切に思っている。僕のラジオの放送時間になると、あの子の心拍数や脈拍が一気に跳ね上がる。そして彼女は決まってラジオが始まる少し前に目を覚ます。

よく眠る子だ。あの子は眠るのが遅い代わりに朝を超えてほとんど昼前まで眠っている。それはあえて朝を避けているようだ、と思うことがある。そしてそういう彼女の心境が僕にもわかるような気がしている。

夜はまるで鋭い目をした暗殺者のような顔をしてやってくるけれど本当は決して脅威などではない。実のところ夜は優しく寄り添ってくれる存在なのだ。何を押し付けることもなく。ただ、僕たちの形をそのまま浮き彫りにして。


思えばこのラジオはあの子と僕の唯一の繋がりでもある。彼女は献身的なリスナーであるだけではなく、毎日このラジオ宛にメッセージを送ってくれるのだ。僕はそのメッセージに返信をしたことはないのだがそれには関係なくそして懲りることなく、あの子は僕にメッセージを送り続ける。ただ一人。

それで僕は時々彼女は実はとても粘り強い性格なのではないだろうか、と思うことがある。繊細で、粘り強くて、彼女は何処までもつかみどころがない。

 もちろんそれは時に酷く短いメッセージなこともあるが全て読むのに一苦労してしまうほど長文であることもしばしばだ。彼女はラジオのメールアドレスにきちんと一回のラジオについて一通、メッセージをくれる。メッセージはパソコンメールを通して送られてくるのに、いつかのメッセージで彼女が、

「私はパソコンが嫌いです。ずっとしゅーしゅーというおかしな音を立てているし、なんだか熱くてそれなのに存在感は冷たくて嫌になる。それに不気味だから。でもこちらへメールするために毎日使っています。それはいたしかたありませんよね。昔は毎日、ラベンダー色のノートに(ラベンダーの精油を幾滴か落としたので良い香りがする)日記を綴っていたのですがいまはこちらへ送るメッセージが私の備忘録のようになっているみたい。日記を書くのを辞めてしまいました。変ですね。日記帳はまだ置いてあります。お気に入りの言葉がいくつか入っていますから」

とパソコン嫌いを公言していた。

彼女はどうやら「しゅーしゅー」という音を立てるもののことが気に入らないらしい。パソコンやテレビ、冷蔵庫。そういうものの近くにいるのが「向いていない」のだそうだ。 

彼女にとってはそうでも、僕にとってはもう、パソコンの音が自分自身の寝息のようなものだと思う。父さんといた頃からずっとそうだったから慣れてしまったのかもしれない。だからもしかするとパソコンの「しゅーしゅー」という音や熱帯魚の住む水槽の中のエアーポンプが規則正しい音を立てていなければ居心地が悪いと感じるかもしれない。

 規則正しい音が好きだ。決まりきったこと、彼女がきちんと十一時前に目を覚ますこと。僕がこの部屋に一人きりだということ。こちらを見ても話しかけても来ない熱帯魚たち。あの子が眠りについた時に鳴る、パソコンの音。毎日あの子が僕に送るメッセージ。

 決まりきっていて、心地いい。決まりきらないことは心地が悪い。怖い、という方がもっと正しいのかもしれない。

 きっと僕はいつまででも同じことを繰り返したいのかもしれない。同じ曲を何度も何度も繰り返し聴いているように、ただ、安心という水に浸り切って。


彼女のメッセージは日に日にどこかこなれて来ていて面白い。興味深くもある。

それらを通して僕はB003としてではなくただの「彼女」としてのあの子をもっとよく知るようになった。彼女の体の状態や計ったような精神状態などではない、もっと繊細でもっと複雑な彼女のこと。

 たとえば歯を磨くときは、うっかりすると磨きすぎてしまうのでそうならないように砂時計を置いておいて砂が全部落ちてしまうまで磨くということ。(これはラジオ情報ではなくなにかの雑誌で読んだらしい)。野菜は好きでも生野菜はあまり食べないということ。水が冷蔵庫にペットボトルで現れるのであんまり冷たくてお腹を壊すということ。最近はおさげをして、赤いワンピースを着るのが好きだということ。

 本当に何気ないことを彼女はまるで国家の一大事であるように語るのが上手い。僕は文字から彼女が懸命に、僕に向かってスピーチをする姿を想像する。あの子の声はどんなだろう。鯨ではなく、海豚のようかもしれない。もっと、地に足の着いたような声で話すのかもしれない。静かではないだろう、という気がする。話したことはないが、彼女の綴る言葉は決して「静か」ではないから。

 あの子の演説は結構、役に立つ。冷蔵庫のペットボトルの水があんまり冷たいという旨のメッセージに沿って今は常温の水をあの家に設備する手配をしているところだ。

彼女の願うところは出来る限り、叶えてあげたい。彼女の願いを叶えてあげることが出来るのはこの世界中を探しても僕ただ一人だけしかいないのだから。夜の霧の中にも、朝露の葉の裏にも、時計の針の裏にも。誰もいない。誰一人。

 ふと、僕の願いを叶えてくれる人について思いを馳せる。

けれど、僕には彼女と比べてそういった存在の必要性が低いのだと思う。卑下をしているのではない、ただ、そう思う。

僕は既に多くのものを与えられていると思うのだ。少なくとも、僕はずっとこの世界に一人でいたわけではなかった。そして僕はいま、きちんと一人だということを知っている。一人でこの部屋にいて、「あの子」を残して他には誰もいないというこの世界の秘密を知っている。

僕よりも三つばかり年上の、まだまだ幼い少女。僕と同じように孤独で、だけど僕よりももっと毎日を嘆くように過ごす少女。


 僕にとってこのラジオが日記のような存在であるのと同じように彼女にとっても僕に送る言葉一つ一つが日記のような役割を果たしているという事実は不思議だと思う。

僕が彼女の気配を認識しているのは当たり前で、でも彼女もとても正確に、僕の気配を嗅ぎ分けている。彼女の方がもっと不確かなものに話しかけているのに違いないのに彼女は僕にメッセージを送るのだ、毎日。いつかもしも僕らが出会う日が来るとして「フェアじゃない」とあの子は僕にそう言うのだろうか。そんなはずがないほど、彼女は「僕」という人間を確かに感じている。

 僕と彼女の、日常の交換。語れないことは語らない、それでも語れることはいつだってシェアできる。

 ラジオを録音するとき、僕は毎回のように驚く。自分自身にこんなにも話すことがあるのだ、ということに。なにもない、毎日。繰り返す毎日。繰り返しているということに気が付かないような毎日。それなのに毎日ちゃんと違うのだ。違うのだということを僕は彼女に語りかけるという作業を通して知ることが出来る。

 日記は自分のために書くものだが、この日記は相手のためにもよく役立つのだろう。そうでなければ、何年もこうして僕は一人放送を続けられただろうか。彼女は僕にメッセージを送り続けられたのだろうか。

 「B003」。何気なく、彼女の名前からとってつけたラジオの名前。父さんが宝物のように大切にしていた名前。

 彼女はこの名前が自分のものであると気づかないのだろう。

 彼女もまた、あの水槽の熱帯魚のようだ。自分がどこにいるのかわからないまま、ただ、泳いでいる。涼しくて狭い水の中を。

 

 あ、あ。聞こえていますか。おはようございます。B003宇宙放送のラジオパーソナリティーの奏多です。今朝はなんだか少し冷えますね。

今日はコーヒーを飲みました。僕は大抵サプリメントで済ましてしまうのですがコーヒーは好きなんです。あ、みなさんはちゃんと食事を取ってくださいね。特に朝ごはんは大切ですよ。

コーヒーは癖になる。中毒性があっていけませんね。僕は味より、コーヒーの匂いを嗅ぐのが好きです。

 父は僕なんかより重度のコーヒー依存症でした。僕に「コーヒーを淹れてくれ」というのがほとんど口癖でしたから。いつもたっぷりのコーヒーが作られていて、熱いのに父は暖かいコーヒーを飲むのが好きでした。あたたかいものの方が美味しいから、と言って。

 子供はあまり飲むものじゃない、と僕が飲むといい顔をしないのに、自分は水か何かのように飲むんだから困ったものです。ノンカフェインにして飲むようになったら父は何も言わなくなりましたが。結局親子というものは似るものなのでしょうかね。

 

 ――突然ですがみなさん、南十字星というものをご存知ですか。

南十字星は八十八星座の一つに数えられます。「サザンクロス」とも呼ばれ、その名の通りその形はイエスキリストを象徴する十字架のように見えます。それだけでなく昔の旅人が南極の方向を知るために使っていたのだそうで。

僕は時々、その旅人のことを考えます。一人、そのサザンクロスを頼りに歩くのは心細いのではないでしょうか。それとも案外、僕が想像するよりずっとそれは足取りを確実にしてくれたのでしょうか。

人から見て孤独なように見えても、本人は少しも孤独じゃないということがあるのかもしれませんね。そしてそれは逆もしかりです。僕は自分自身が孤独なのか、そうでないのか、わかりません。正直わからないのです。

 ああ、でもそうだ、いまは、コンパスがあれば簡単に方角がわかりますよね。便利になったものです。

 星空を見る時、みなさんは何を思いますか。愛する人ですか。自分自身についてですか。夢や、あ、夢と言っても二種類ありますね。眠るときに見るものと、起きているときに見るもの。どちらにせよ、夢について。

 僕はよく、亡くなった父について考えます。しんみりしてしまったらごめんなさい。

 でもこれは悲しい話ではなくて。事実、僕はあまり泣かないんですよ。あまり、というより全然。

 そう。父について考えます。父は優しいけれど時々厳しくて、鯨のような声をした人でした。ええ、鯨です。といっても、鯨を見たことも声を聞いたこともないんですが。ははは。

なんとなく、そんな気がするんです。写真が飾ってあったんです。ダイニングテーブルの上に。一つは鯨の写真、一つは母さんの写真でした。鯨の目は、父さんにとても、はい、驚くほどとても、似ていたんですよ。特につぶらな瞳はそっくりでした。鯨の声とどうして父さんの声が似ているかわかるかというと、それはわかりません。ほとんど、直感のようなものなのです。

母さんの写真は一枚しかなかったんですけど、自分でいうのもおかしなくらい、僕に似ていると思いました。髪の色や瞳の色、肌の色や笑い方まで。小さな頃、よく鏡の前で自分の中に母の面影を探していたものです。でもそれは心細いとか恋しいとかいうより、もっとあたたかな気持ちがする行為でした。父は僕のことを大層可愛がってくれたし、僕は僕の顔を鏡で見る度に母のこと思うことが出来たんです。僕を見るまなざしで父さんが母さんを愛していたことは明らかでした。

 あの、何を言いたいかと言うと。みなさんも是非、南の空にサザンクロスを探してみてください。

 そしてもしもいつの日か道に迷ってしまったときには空を見上げて自分がどの方角に行くべきなのか、星座に聞いてみてください。きっと答えてくれると思います。

 みなさんが夜の星空を見て何を思うのかも是非、メールで教えてくださいね。

 それでは、今日の放送はここまで。良い一日をお過ごしください。

 ここまでのお相手は、B003宇宙放送室、奏多でした。


 決まってあの子が深く眠ってしまった後に、僕はラジオを録音する。最初は一日の終わりに日記を残すために軽い気持ちで始めたのがいまでは一日も欠かすことが出来ない日課のようなものになってしまった。これはもう僕のための放送ではない、あの子のためのものだ。

あの子がこれ以上寂しくなったり、泣いてしまったりしなければいいのに。


幼い頃、「目に見えたり手で触れられないものの方がもっと近くに感じることがある」と父さんがよく話してくれた。父さんが話してくれたのも、鯨の写真が飾ってあったのもこの冷たい部屋の中でそれは僕がラジオで話している「ダイニングテーブル」よりもっもっと温度の低い「ダイニングテーブル」だったかもしれないけど、そこに父さんがいれば僕は幸福だった。

父さんは、もうここにはいない母さんのことを「目に見えないけれど近くに感じるもの」として、最期までずっと愛していた。父さんは母さんとの記憶がいつも心をあたためてくれるのだと言った。寂しそうな瞳で。

いまは父さんが言っていたことが少し、わかるような気がする。父さんの感じていた気持ちと僕の彼女に対して抱く気持ちが同じだということや似通っているということではない、ただ「見えない、触れられないからこそ感じる独特の近さ」があると思うのだ。それはある場合において、本当にそばに居る人よりも近いということもあるのかもしれない。

僕の顔を見たことがない彼女は僕にありのままの感情を露にしたメッセージを、僕は言葉を交わしたことのない彼女に毎日ただ心からの本心を吐露する。それはとても不可思議なことだ。

時には父さんにすら話せなかった話を僕はラジオを通して話す。つまりあの子に打明けてみせる。彼女はどう思っているのだろうか。僕が、不特定多数にこの話をしていると信じ切っているのだろうか。それならばあまりに鈍感だというほど僕は「あの子」に話しかけている。「みなさん」という言葉を借りてあの子に話しかけている。

いや、気が付いているから彼女は僕に毎日欠かさずメッセージを送るのだろう。どういう形か、どういう実体であるか、ということではなく、彼女はきちんと「気付いて」いるのだ。なにかに。気付いているということに気が付かずに。

彼女はおそらく自分が砂漠の中心にいて、何処へ出ても一人ぼっちなのだということもどこかでちゃんと知っているのに違いない。

聡明で可哀そうなあの子。

もしも、はじめから僕らが広い世界で自由に出会った二人ならば、僕らはこんな風に互いの喜びや不安を交換することが出来たのだろうか。 

 わからない、いまはなにも。僕が立派な、父さんのような研究者になる日まで。父さんが話すこの世界の恐ろしい真実を知る日まで。


 僕が放送している「B003」以外の放送はすべて、コマーシャルも含めてこれまでの古い音源を拾って来たものだ。だから、あの子のラジオには天気予報と日付がない。

 僕にとってもこれは「今日」を刻むものであったので僕自身、今日が何年の何日で、何曜日で、晴れているのか、曇っているのか、そういうことが全然わからなくなってしまった。ただ、地続きになった日常が繰り返されてゆく。そういう意味ではあの子の方が余程毎日を刻んで生きているのかもしれない。あの子の言葉からはいつも「温度」のようなものを感じる。僕にはない、あたたかな体温のようなもの。僕がとっくにどこかに落としてきてしまったようなもの。


 なんにせよ、あの子はこのラジオのことを酷く気に入っているらしい。



 B003、宇宙放送奏多くん宛。

こんにちは。先日のラジオも楽しみに聴かせて頂きました。

 奏多くんにはもう、感想のメッセージをお送りしたと思うのですが、どうしてもまだ送っておきたいことがあったのでもう一通送らせていただきました。

 南十字星についてです。先日の放送を聴いてからすぐに南の空にサザンクロスを探したのですがその時には見つけられなかったんです。

 それが、先日南の空に(おそらく)サザンクロスを見つけまし

た。確かに星と星をつなぐと十字架の形を象っているように見えたので間違いないと思います。今までもこんな形の星座は見たことがなかったから。星座を見つけることについては自信があるのにこんなに素敵な星座を知らなかったなんて。今でも不思議な気分です。

 見つけた時、「サザンクロス」だ、と思うより先に「南十字星」だ、と思ったのでここでは南十字星と書かせていただきますね。そういうことは大事ですから。

 奏多くんのおかげさまで、私は満月の夜をやり過ごす方法を見つけることが出来ました。そのお礼が言いたいのが一番の気持ちでしつこいかと思ったのですがもう一通メッセージを送らせて頂いた次第です。

私が月明りが強い日が苦手なことも、もうご存知のことと思います。

苦手なことについて話すのがあまり好きではないので何故苦手か、というのはここでは割愛させていただきますね。もう説明させて頂いたことがあったような気もするし。

とくに満月の夜が苦手でした。なぜって、満月の夜は一番月明かりが強いですしそれに加えて月そのものが内側からきらきらしているような気がするんです。きらきらしているものに「苦手」だなんていうのはあまりに不躾ですね。ごめんなさい。

あ、苦手なものについて説明するのが苦手と言いながら説明してしまいました。

ところで、満月の夜をやり過ごす方法についてですが、私が見つけた解決策を聞いてください。

それは、祈ることです。

だって、満月の夜でも南十字星は見えたんですよ。それになぜだか、祈ることは月の出る夜にぴったりでした。むしろ月の出ている夜だからいいと思えたほどです。すごいことではありませんか、驚くべきことです。

それもこれも南十字星のことを教えてくれた奏多くんのおかげです。本当にありがとうございます。南十字星にはあまりにロマンがあるので救われました。どうやって祈るかと言う件に関してはまたメッセージしますね。奏多くんがそれについて興味があられるか、わからないので。

それに前回のメッセージもとても長い方だったし、あんまり長いと奏多くんが他の方のメッセージを読むのに大変でしょう。

以前、届いたメッセージはすべて拝読している、と奏多くんがお話しされていたのにはいたく感動しました。

ちなみに、私が夜の星を見て思うことは、(とてもとても迷ったのですが)「美しい」です。だって夜の星々はあまりにも美しいです。美しくて寂しくて、だからとても泣きそうになります。

追伸 暑い日が続きますがお体に気を付けてお過ごしください。改めて感謝を込めて。

















ラジオ


私のラジオが、壊れてしまった。

かなしいかなしいかなしい。

悲しくて悲しくて、朝から何度も泣いている。悲しいだけじゃなくて、とても寂しい。

寂しくて寂しくて心が破裂してしまいそうだ。破裂。パン、と言う音を立てて。泣くのが正解なのかどうか、私の気持ちがよくわからない。わからないけれど泣いている。呼吸するのと同じようにあとからあとから泣いている。

私が生きていても、私の音しかしない。他には冷蔵庫のぶうん、という音と、歯を磨いたりするときなんかの、歯磨き粉が泡立ってシャカシャカいう音、服を着る時に耳元でするシャツが擦れるような決まりきった生活音だけ。外の音も、締め切ったこの家の中には届かない。

不思議だ。静けさというものはもっと心を癒すものかと思っていた。ラジオの番組と番組をつなぐ数分の沈黙。星空を見上げる時テープレコーダーのスイッチを入れるあの微かで静かな沈黙の息遣い。

でもいまの静けさはほとんど暴力的な悲痛さで私に襲い掛かる。助けてと願っても喚いても誰も助けになんて来ない部屋の中で。


あんまりたくさん泣いたので家に在るティッシュを全部使い切ってしまった。ティッシュの塵もあちらこちらに散らかっている。

こういうとき、「整頓」も「清潔」も何も役に立たなくなるのだと知った。役に立たなくなる、というより出来なくなる。手につかなくなる。こういう時にこそ「整頓」や「清潔」が必要なのに。

静かな、静かな部屋。それは私をとことん一人ぼっちにさせる。静かで煩い。そういう沈黙が私の耳の中をこれでもかというように侵してゆく。心が冷たくて冷たくて凍えてしまいそうだ。熱くて、冷たい。


 さっき部屋でカセットテープを誤魔化しにかけてみたけれど、音がちっとも頭の中を攫ってくれなくて、私を余計に不安にさせるばかりだった。そればかりか音楽がやけに大きく鋭く響いてきんきんとする。それが私を苛立たせる。

 私のぐすぐすと鼻をすする音さえもこの部屋に吸収されてしまって何ともない顔で消えてゆく。寂しい、寂しい、寂しい。

――ああ、気が付いてしまった。とうとう。ううん、気が付いていたけれど、気が付かないふりをしていただけなのかもしれない。

 世界はこんなにも静かだったんだ。

 深く眠ったり、お腹を一杯にしたり、ラジオを付けて必死に必死にわからないふりをしてた。

 それでも時々、思い出したようにその現実は私を襲って私の両足をいとも簡単に掬い上げて行ってしまう。

 もう、逃げられない。

 そう思った。もう逃げられないし逃げようもない。だって、あのラジオが壊れてしまった。私をただひとつだけ、救ってくれるもの。私の友人、私の家族。幼い頃からの私の先生。

 佐々木さんも知らない女の人も、聞きなれたコマーシャルも、初めて聴く音楽も、ラジオショッピングの軽いノリも、なにもかもが嘘だったように思えた。遠い遠いものに思えた。

 だけどどうしても、奏多君の声だけが胸の中にじんわりと消えない。そのほかの声は思い出せないのに、奏多君の声は忌々しいほどに私の心の中心にある、こんな時にも。


 朝起きて、朝ごはんを作ろうと台所に立ったところで、ラジオのボリュームが少し小さいことに気が付いた。だけど私は手を濡らさないために手袋をしていたからラジオのボリュームをいじるみたいな繊細な動きができない。

それで、ラジオを直接台所まで運んでこようということになった。遠くだと少し小さいけど、近くで聴いたら十分に聞こえる音量だ。普段ならそこまで気にならないほどのことだけど、これから始まるのは「B003」だから妥協は出来ない。もうすぐ、放送が始まる。

私はそれで、焦っていた。台所にラジオをそのまま運んできたところで、ゆで卵を作るために火にかけていた鍋がごとごと沸騰しだしてお湯が溢れた。シューという音を立てて。 

私はラジオをキッチンの洗い場のそばに置いて、急いで火を切ろうとした。でもあまりに慌てていたから、牛乳を並々注いでいたグラスを左手でひっかけてしまったのだ。牛乳はそのままきれいにラジオの上に降り注いだ。ナイアガラの滝みたいに。私は驚いて、暫く動けなかった。現状を把握するのにすごく時間がかかったから。

ナイアガラの滝、は昔読んだ写真集に載っていた。

カタカナの名前で、伸ばし棒の付いた有名な写真家が撮った写真。滝の下に体を忍ばせたらどうなるのだろう。鋭い水圧に押しつぶされてしまうのかもしれない。白い滝が写っているのに私にはそれが緑の写真に思えた。燃えるような緑。濃い、とても濃い緑。

 

ラジオはそれから暫く問題なく動いていたようだったのに、突然がちゃがちゃと籠ったような音を立てて鳴らなくなってしまった。つまり、故障してしまったのだ。

 私はすぐには絶望しなかった。急いでラジオを水で洗ったり、電源を付けたり、消したり、ドライヤーで乾かしてみたりもした。でもそのどれも上手くいかないようだったので、私はゆっくりと時間をかけて絶望した。このラジオが壊れてしまったことにではない、ラジオが壊れてしまった瞬間魔法が解けて何もかもが崩れ落ちて行ってしまうような私の人生に。

私にとっては、初めて「死」を感じるような瞬間だった。私には愛する家族も友人も実際にはいないけれどその全てをこの小さな白い、四角い箱が担ってくれていたのだ。決して同じような役割ではないにしろ、少なくとも私にとってそれは身近でいて大切なものの小さな「死」だった。

 ラジオが壊れたのは初めてだった。私が私であると気が付いて、このラジオが宝物だと気が付いてからずっと長い間。

 ラジオだけじゃない、この家にある何もかも一度だって壊れたことはなかつた。

 「壊れる」ということを私は知らなかった。「失う」ということも。本当は知らずに済んだのかもしれない。だって私はここにただ一人きりだったから。

 なにもない毎日にもこんなにもたくさん自分自身を傷つける要因が転がっているという事実に時々呆然とする。

 私はむしゃくしゃして、叫び出したくて、大声で泣きたくて仕方がなかったけれどそうはしなかった。(ティッシュを使い切ってしまうほど長い間しくしくと泣いて、カセットテープを再生しては消して、というのは何度も繰り返したけれど叫び出さなかったのは自分でも見上げたものだと思う)。叫ぶというのは一人でするのにはあまりに心細い行為のように思えたのだ。

 その代わりに、私は零れた牛乳も鍋の中のゆで卵もそのままに納屋に向かった。すごい勢いで。扉はわざとばたん、という大袈裟な音を立てて閉めた。

最初は悲しみ、その後は寂しさ。その後は怒りのようなものがこみ上げてきたのだ。それは私がいつも祈っている「誰か」に対してなのだという気がしたけれどそれが定かなのかどうかよくわからない。今の私には賢明な判断が出来ない。

ただ、ただ、怒りのようなものがこみ上げてきてそれは得体のしれないエネルギーになって私の体に満ち満ちてゆく。

 

 納屋に向かったのは他でもない、旅に出ようと決めたからだ。 

 本当は、今までだって何度もそうしてみようと思った。だけど途中で惨めにのたれ死ぬのが目に見えていたからそうしなかっただけ。

 でも今は違う。私は悲しみと怒りとなにかわからないものに対する理不尽さに圧倒されている。もしかするとその「なにかわからないもの」はやっぱり先日私が熱心に祈った「誰か」への恨みのようなものかもしれないと思った。

奏多君はどうして、南十字星なんてものを私に教えたのだろう。全てが恨めしくて、憎くて、だけどそういう自分をどこかで冷静に見ている自分がいる。冷静な自分が言う。

 「いましかない」

「旅に出るならいましかない」

 いまなら、旅に出るだけの理不尽さに燃えるパワーのようなものがある。それは勢いだ。いつか佐々木さんが「旅に必要なものは、勢いとお金だけですよ」と言っていた。お金はないけれど、お金があることはないから、私に用意できるものは勢いだけ。

 冷静な自分はだからちっとも冷静じゃないようなことを唆してくる。

 納屋には、埃をかぶった黒くて大きなリュックサックが一つ。埃を払うと、舞い散った埃が鼻の中に入って咽る。

 ごほごほごほ。

 咳込んだところで顔を上げると、納屋の中に見たこともないほど大きなクモがいた。

 クモは、

「どうした。本当にそのリュック一つで旅にでも出るつもりか」

「気が狂っているな小娘」

とでも言い出しそうなつぶらな瞳でこちらを見た。背筋がぞわぞわとする。クモの背中に不気味な幾何学模様が黄色と緑で描かれていてぞわぞわとする。

 そう言いたいなら言えばいいのに。そんな目をしてこちらを訝しげに見るぐらいなら。

 そういうクモの態度にも苛立つ。背筋がぞわぞわするけど苛立つ。

 私は諦めない。諦めないのだ。

勢いが冷めやらぬよう今度も大きな音を立てながら床を大股でどんどんと歩いて扉をばたんと閉めながらリビングに戻った。

クモはそのままにしておいた。どうせ出ていく家だ。どんなに無作法なクモがいようと、ムカデがいようと構いはしない。


今度は部屋に戻って、冷蔵庫から水の入った冷たいペットボトルを取り出すとそれをリュックの容量のほとんど半分ほどに何本も詰め込んだ。

私がなにかこの家について不満を抱くとそれは何日もしないうちに解決されるのだから、このペットボトルももうすぐ冷たくなくなるのだろう。けれど、そんなことはもう知らない。知る余地もない。

 それから、気を取り直してキッチンに戻り、食パンにマヨネーズと一緒に潰した卵を適当に挟んだサンドウィッチをリュックに詰めた。 

憎き卵。ゆで卵の鍋が噴きこぼれなければラジオがナイアガラの滝の攻撃を受けることなんてなかったのに。でも悪いのは牛乳をひっかけた私。手袋を取るのを面倒くさがって少しの無精をした私。そう思うともっともっと恨めしい。恨めしくて恨めしくて旅に出られそう。そう思った。

作ったサンドウィッチをリュックに詰めながらこれでどれだけ生き伸びられるだろうか、と思った。思った瞬間少し頭にひんやりとした冷静な風がふいて、私は急いで考えるのを辞める。そんなことをしたら旅になんて出られなくなってしまうもの。

この勢いのようなものがすぐに過ぎ去ってしまうこともどこかで本能的に知っているのだ。

私は旅に出る必要がある。今すぐに。この恐ろしいほど快適な部屋が静けさで満たされてしまう前に。















エラー008


リュックにはカセットプレーヤーとイヤホン、厳選したテープをほんの少し入れた。

 機械はいつか故障するものだと知ったのでこのプレイヤーやイヤホンもまたいつ壊れてしまうのかと考えると怖い。少し機械アレルギーができてしまったみたい。

 だけどラジオがないいま、これがないと不安。




 ピーピーピー

「B003、脱走」


 コンピュータが警報ブザーを鳴らす音で目が覚めた。

 何事かと飛び起きると、コンピュータには大きく赤い文字で、

「B003、脱走」

とある。目を疑った。一体、どういうことだというのだろう。


 昨日もあの子は僕のラジオにいつも通りメッセージを送って来てくれていた。データを見ても何も変わったことはない。食事もきちんと取っていたし、眠る時間だって変わらなかった。あの子が突然家を出るなんてことは考えられない。

 それでも、やはり彼女はもうあの家にいないようだ。あの子のデータを一日も欠かさず取っていたコンピュータのディスプレイにも「測定不可能」と出ている。

あの子が家を出たらしい。

 その事実が僕の体にゆっくりと入って来る。拒むことが出来ない。事実はいつも拒むことを許さない。突如勝手に発生する。そしてどうしても僕らはそれらから逃れることが出来ないのだ。父さんの時も、そうだった。そしてきっと母さんの時も。


急いであの子を探さなければならない。外は危険なのだ。それにあの子は知らない。外の世界がどのように危険かを。どのように恐ろしいかを。


僕は今しがた目が覚めたことなど忘れて血眼になって情報をかき集めた。コンピュータのキーボードがかたかたと煩い。耳につく。

あの子はどこに行った。どこに行った。どこに行った。


こんなことは許されない。父さんが宝物のように守ってきたあの子。こんなことがあってはいけない。

けれどもそうしてがむしゃらにコンピュータに向かい合っても、数時間経ってやっとのことでわかったことはたった一つだけだった。ただ一つ、あの子はどうやら、ラジオが壊れたことに嫌気がさしたらしいということだけ。

「ラジオが壊れた」。どうやら水没したのかもしれなかった。

彼女が目を覚ましてから家を出てゆくまでそれ以外に変わったことは何もなかったのだ。

それにしても、ラジオが壊れたというだけでこの広大な砂漠の中に出ていくだろうか。そんな危険なことを冒すだろうか。「ラジオが壊れた」というただそれだけで。

けれどもいくら考えてもそれ以外に理由は一つも見当たらない。そして彼女がラジオというものをなぜか奇態なほど愛していたこともまた事実だ。


彼女がしていることはあまりにも無謀だ。この世界の恐ろしさというものを差し引いても灼熱の太陽が降り注ぐ砂漠の中ではどんな狂人な体力を持つ大人でも数日ももたないかもしれない。

自然は驚異だ、時として。そしてこの世界はとっくのとうにとち狂っている。

けれど最も恐ろしいことは彼女が「知らない」ということだ。彼女は温室の中で大事に育てられてきた花だ。

不可能だと頭でわかっているのと、実際にわかっているのとでは話が違う。全くの別物なのだ。

僕は彼女にどれだけの脅威がそこに在るのか、教えてくれる人がいなかったことを酷く悔やんだ。

 僕の父さんのように。あの鯨の声で。


どうしようもなく焦る頭の片隅でラジオなら僕が直ぐに直したのに、と思った。冷蔵庫に食材が入ったり消えたりするのと同じように簡単な操作一つで。

僕が目を覚ますまでもう少しだけ待ってくれればよかったのに。そうすれば、君の望むものを残らず与えてあげたのに。

 ――君は最初から望んでなどいなかったのか。

 そういう思いが一瞬僕の胸を横切った。ひんやりとする。心がざわついて上手く呼吸することが出来ない。

 これはいけない。冷たいコーヒーを飲もう。頭を冷やしてどうすべきか考えよう。

 いや、そんなことをしている間にも彼女はあの家から離れて行ってしまうのではないか。

ああ、どうしたものか。油断して眠りすぎてしまったのがいけなかった。

あまりのことに頭が上手く働かない。目は覚めたのにこれがまだ夢の続きであるようだと思う。夢の続きであればいいのにと思う。

彼女があの家を出ていくなど考えたこともなかった。想像もし得なかったことだ。

気が付くのが遅すぎた。

僕が思うより彼女は勇敢で、そして向う見ずで、孤独だったのかもしれなかった。




 一歩家の外に出ると、私は外の世界の空気と、家の中の空気とが全く違っていることに気が付いた。湿度とか、温度とか、匂いとか。そういうことで説明できるような「違い」ではなくて、まるきり、本当にまるきり違うのだ。

 暑い。でも、家の中から出られないと思っていた時よりもずっとこの暑さも私の知り合いのような、味方ではないけれど敵でもないような不思議な心持がする。

 何を恐れていたんだろう、と、少しだけ、思った。でも恐れていたって当然だ、と直ぐに思い直した。

 リュックサックに入れた大量の水や食料が背中をぐいぐい引っ張るように重たい。もう少ししか歩いていないのに、いつの間にか私の家は遠くなってもうすぐ、この砂丘を下ったところで見えなくなってしまうのだろう。喉ももうすでに乾いている。腕は日に当たってひりひりと痛んだ。

そういえば生まれてこの方一度も日に焼けたためしがないことに気が付いた。ラジオではよく、「紫外線対策に気を付けて」という言葉を耳にしていたけれど。ラジオのことを思い出すと今でも涙が零れ落ちそうになるのをぐっと我慢する。

 ――やっぱり、間違いかもしれない。あまりに無謀だ。 

 そういう思いがよぎったけれど、それがどうしたという気もする。無謀がどうした。無謀の何が悪い。悪いならどうして叱ってはくれないのか、誰も。


 ひたすらに、私は足を動かした。そうしていないと、涙がほろほろ止まらなくなりそうだった。

きっと、あのまま家の中の静けさに呑み込まれてしまう方が余程悲しかったのに違いない。けれども、こうやって歩いているのも思ったより寂しかった。音がない。どこまでいっても、同じ砂、砂、砂。

暑い。暑くて頭がふらふらする。風もない。


時々、何もない砂の上に座って水を飲んだ。ペットボトルに口を付けたと思ったら中の水がなくなっていて誰かが私に内緒で飲んだのかと思った。

喉が渇きすぎて乾いているのか乾いていないのかわからなくなる。

それでもやはり思い出したように無性に喉の渇きを覚えてその度砂丘に座り込んで水を口に含んだ。こんな風に水を消費したくはないのに、そう思えば思うほど喉が渇く。

 頭が酷く痛んだ。これが俗にいう「熱中症」なのかもしれないな、と思うとなぜかふっと笑みがこぼれる。初めてだ。

「ねっちゅうしょう」

口に出してみると可笑しな響きだ。

「ねっちゅうしょう」

 疲れた。熱い。頭痛がたたって耳裏でがんがんという音がしている。太鼓をたたくみたいに規則正しく。お陰で寂しさは少しましになった。


 サンドウィッチは、どうせこの暑さで日持ちもしないだろうから今晩食べよう。夜まで我慢だ、と思うとまた無性に寂しくて、心細くなる。お腹が減っているからかもしれない。家の中でじっとしていると減らないのに、こうして歩いているだけでこんなにもお腹が空くということを知った。「お腹とお腹がくっきそう」と思って、

「おなかとおなかがくっつきそう」

とまた一人口に出して笑った。笑い声にちっとも力が入らない。ふにゃふにゃとする。

いまからでも、引き返そうか。あの、どこからともなく食料が溢れて来る冷蔵庫が恋しい。適度な温度も、ラジオから流れ出る声も。

 そう思ったところで、また私のラジオからはもう音が出ないのだということを思い出して泣いた。

お腹が空いて悲しい。涙も塩辛くてそれで少し水分補給をしてみようと舌を出してみたけれどうまくいかなかった。


 そうだった、あの部屋にはもう戻れない。だってここよりももっと、寂しいんだもの。



 夜が来た。足がもう棒のように重たくて感覚がない。頭も昼間に増してふらふらとしている。

もしかしたら、あと数日したら死ぬのかもしれない。数日持てばいいところなのかもしれない。私も、あのラジオと一緒に死ねるのなら、それもいいのかもしれない。歩き疲れて、ばたんと倒れるのは「ロマンがある」のかもしれない。

 お腹とお腹がくっつきそうなくらいにお腹が減っているのに、なぜだか食欲がわかない。あの暑さのせいだという気がした。

それでも、明日にはもう食べられなくなっているだろうからあと数日の間でも生き延びられるようにと私はまた先程とは違うどこかの砂漠の真ん中に腰を下ろすと、重たいリュックの中からサンドウィッチを取り出した。

目印になるようなものが何もないから、私が今日どれくらい進んでいてここが砂漠の真ん中の右端なのか左端なのかわからない。

「マヨネーズの匂い」

アルミホイルを剝いて出て来た生ぬるいサンドウィッチからはつん、と酸っぱい匂いがした。もしかしたらもう既に悪くなっているのかもしれない。

でもなぜだかわからない、それで突然無性にお腹が空いた。喉から手が出そうなほどサンドウィッチが食べたくて、食べたくてたまらなくなった。いつから心にこんな食いしん坊な恐竜を飼っていたのかと思った。私はキッチンペーパーとアルミホイルの包を乱暴に剥がして、勢いよくサンドウィッチにかぶり付く。かぶり付いた時に端っこの胡瓜が滑り落ちて私の頬に張り付いた。でもどうでもよかった。

 おいしい、おいしい、おいしい。

 驚いた。とても、とてもおいしい。味なんてわからない。しょっぱいのか、酸っぱいのか、甘いのか。それでもただ、おいしかった。 

それでまた、私は泣いた。とても美味しくて、とても生きてるという感じがした。

家で食べる、きれいに盛りつけたり整った料理よりもリュックの中でぐちゃぐちゃになって、腐らないように大目に塩を入れた乱雑なサンドウィッチの方がおいしいだなんておかしい。

 あんまりおかしいから、私は笑った。一人、すっかり冷えて肌寒い砂漠の中で泣きながら笑った。

 これだけでも、旅に出てよかった、とそのとき初めて自分のことを労われた気がした。

 寒い上にたくさん泣いたので、鼻が痛い。鼻水をかまなくちゃいけない。でも家中のティッシュを使い果たしたので今日鼻水を拭うティッシュはない。

 でも、泣くのと同じくらい、私は今日笑ったのかもしれない。



 いつか、奏多君のラジオに送ったメッセージが読まれたことがある。

もちろん、メッセージを送るのはヘビーリスナーなら当たり前のことだし、私は何度もそうしてきたけれど、実際に読まれたのはたったの一度だけだ。奏多君のラジオはきっと大人気ラジオなのに違いない。

あれ、でも、リスナーからのメッセージは私以降一度も読まれたことがなかったっけ。それなら私の運がすこぶるいいのか、奏多君のラジオを聴くのは私くらいしかいかのどちらかだろう。後者ならもっと読んでくれればいいのに。奏多くんのラジオにはジングルもないし、凝った演出もない。

それか、もしかするとこの世界には私と奏多君だけしかいないのではないか、と考えてみる。それも悪くない。全然、悪くない。

私のメッセージは一度きりしか読まれたことはないけれど、そのたった一度にしてはその内容があまりにありきたりなものだった。そのメッセージは、こういうもの。


 B003ラジオ様宛、奏多君へ。いつもとても楽しみに聴いています。奏多君の声を聴いていると、なぜかとても落ち着く、落ち着くのに心の奥からざわざわしてわくわくするんです。

おかしいですよね。私もおかしいと思うんですけど、そうなってしまうので仕方がありません。

何が言いたいかと言いますと、奏多君の声がだいすきということです。ありがとうございます。

今日は質問させていただきたいことがあり、メッセージを送らせて頂きました。

 奏多君は、さびしいと感じる時がありますか。それから、奏多君はどんなとき、幸せを感じますか。

 それから、もしよろしければ奏多君の一番好きな食べ物を教えてください。

 質問が多くなってしまい、申し訳なくてすこし恥ずかしいですね。

 これからもB003の放送を心待ちにしています。 

              リスナーより




 今日は、星がきれい。サンドウィッチを包んでいたクッキングペーパーで鼻をかんだ時、初めて空を見上げて思った。月が出ていないから、星がきらきら輝いている。




















天体衝突


メッセージ、ありがとうございます。とても嬉しいお言葉も、励みになりますね。

 そうですね、ではまず、「幸せに感じる時」からお返事させて頂こうと思います。

 僕が幸せを感じるのはなんといっても、このラジオ放送をしているときですかね。ここでは、なぜかとても饒舌になれるし、正直でいられるような気がするんです。

僕は、世界中の人に配信しているつもりではなく、たった一人に話すつもりでお話

ししているんですよ。その方がもっと現実的で、でも非現実的で、楽しいんです。何を言っているかわかりませんよね。すみません。

 僕のラジオをたった一人でも、楽しみに聴いてくれる人がいれば、それはもう奇跡のような出来事だと思います。


リスナーさん、突然ですが、星と星がぶつかることを、天体衝突というそうです。衝突すればもちろん、互いにクレーターなどの大きな傷を残すことがありますね。

でも、それさえもとても尊いことではないでしょうか。一人では傷さえ作ることが出来ません。傷付くとき、いつもそこには自分が大切にしている何かがあるでしょう。

 僕は寂しいと感じることがありません。それが、「寂しさ」についての答えでしょうかね。ははは。

いえ、もしかしたら感じているのでしょうか。実のところ、わからないのです。父はそういう僕のことを魚のようだと言って心配していました。自分は鯨なのに。

 好きな食べ物はいちぢくです。

良く熟していてあまいものよりも、まだ少しかたいものを好んで食べます。といってもコーヒー以外滅多に口に入れることはないのですが。気が付いたら何も食べずに一日を過ごすこともあります。

そうですね。それでもあえてあげるなら、いちぢくです。

 

 リスナーさんのお名前は、なんでしょうか。是非また、メッセージをお願いします。


 私は奏多君のラジオ音源を全てカセットテープに保存しているけれど、この日の放送の(特に私のメッセージが読まれた部分)は本当にたくさん、テープが擦り切れていないのが不思議なくらいによく聴いたので奏多君がこの日話した言葉一つ一つやその抑揚、間の取り方までとても精密に暗唱することができる。

おかしなことに、奏多君はリスナーのメッセージというものをこのほかには読まなかった。後にも先にも、一度も。私はだから、すごく幸運だと思う。それか、もしかすると、この世界には本当は私と奏多君二人きりなのかもしれない、と想像してみることがある。想像してみると、大好きな佐々木さんや他のラジオのDJに怒られてしまいそうだけれど、それはそれで悪くはないと思う。私と、彼しかいない世界。ラジオでたった一度だけ、言葉を交わした二人。

「ロマンがある」と思う。けれどきっと、そんなことはあり得ない。それならばきっと、奏多君は「寂しい」はずだから。

そう思ってみてふと、奏多君は「寂しいと感じることがない」と話したけれど、私は奏多君の言葉の中に「寂しさ」が含まれていないわけがないと思った。だってそうじゃなきゃ、彼の声がこんなにも優しいわけがないもの。

なら、本当に私たちはこの世界に二人きりなのかもしれない。そんなばからしいことを真剣に、考えている。

亡くなってしまった奏多君のお父さんならきっと笑ってしまうようなこと。


かち。

 砂漠の真ん中で、私はカセットプレーヤーの再生ボタンを押す。もちろん、あの日の奏多君の放送だ。リュックに入るものは限られていて、あんまり重たくするわけにはいかないから選りすぐりのカセットだけをもってきた。

「リスナーさんのお名前は何でしょうか。是非また、メッセージで教えてください」

 私は奏多君にそう言われてみて初めて、自分には名前がないことを知った。そして、名前があればいいのに、と思った。


 何もない砂漠の上に体を横たえていつものように星空を眺める。

 この星空と砂漠とはやっぱりよく似ている。どこまでも果てしなくてどこまでも美しい。どうにもこうにもできないから、美しい。だからどうにもこうにも出来ないところにしかない、美しさを湛えている。いつでも。

 耳の中で奏多くんが何度目かの「天体衝突」についての話をしたとき、遠くの空で星と星とがぶつかる音がした。


















  砂漠の花


 彼女に名前を訊ねたのはなぜだろう。自分でもよくわからない。もしかすると、彼女にB003という名前があまりにも似合わないと感じたからかもしれない。僕の名は「奏多」で、けれど彼女の名前は途方もなく無機質だから。



私は昨日、星に見惚れている間にいつの間にか眠ってしまっていたみたいだった。

遠くの方で星と星とが衝突する、ばん、という音を聞いた。聞いたような気がする。

飛び散る、ぶつかって傷付いた星の欠片たち。粉々になってどこかへ落ちる破片たち。それらはまたその一つ一つの中に新たな命を携えてそして細やかで高い声をあげる。


きらきらきら。


その星の屑が私の上に振ればいいのに。眠っている間に降ってきて私をどこかへ運んでれればいいのに。その命を吹き込んでくれればいいのに。私の中の、私自身も届かないところまで。

そう、思ったところで意識がふうっと剥がれてゆくのを感じた。私の体から「眠り」という種類の無意識の世界へ。

その瞬間の感覚というものはどんなものにも例えられないほどに心地が良い、と思う。私から私が剥がれてゆく感覚。体という重りを外す感覚。

その時、私はいつも奏多くんの声について思いを馳せる。あの、優しい声。優しいのに、寂しそうじゃなくてだからとても寂しそうな声。そして私は「花束のルール」を守るのだ。世界のどこかにいる「誰か」をただ、ただ、信じるのだ。

――信じている、とはなんだろう。信じる、と言葉にすれば、心に決めれば、それは「信じている」ことになるのだろうか。私はそんな風には思わない。思えない。



朝、目を覚ますと体が重りを付けているみたいにずっしりと重たかった。

喉が渇いて、お腹も空いている。

昨日の夜貴重なサンドウィッチを食べたというのにこのお腹の空き方はない、と少し腹立たしかった。何も食べない方がもっとましだったんじゃないか、と思ったけれどそれはないだろうと思う。

そう思って、私は昨日食べたサンドウィッチのあまりのおいしさを思い出さずにはいられなかった。

あんなにおいしいものを食べることはもうないかもしれない。「おいしいもの」というより、あんなに「おいしいと感じること」がないかもしれない。


お腹が減っているだけではない、咽そうなほどに体が熱い。腕や頬、膝がひりひりと熱を持って痛む。

焼かれるような太陽の光と暑さとで目を覚ますというのは思ったよりもいいものではないのだと身をもって知ることになってしまった。

けれど、本の中やラジオで学ぶよりも実践的に学ぶ方がずっとしんどくて、だからずっと肌身に染みる。本当に「学んだ」という気になる。

私は私が思うよりもっと、本当に何も知らずに生きてきたのだ、きっと。


 私は眩しい直射日光に眉間に皺を寄せながらゆっくりと体を起こすと汗で肘に張りついた砂を払った。

それから「まだ、生きてる」と寝惚けた頭の中で思いつつリュックサックからペットボトルを取り出して水を一口、口に含む。

空のペットボトルが一本、また一本と増えてゆくたびに背中の重りは少しずつ軽くなってゆくのに私の不安はそれに比例するみたいに少しずつ増えてゆく。

それは死の恐怖よりも渇きの恐怖。渇いているのはいや。飢えているよりもっといや。なぜだか、わからないけれど。

リュックサックの中の水はまだ残っている。けれどあまり一度にたくさん飲むわけにはいかない。明日も、今日も、生きていられるかはわからないけれど計画的に考えなくてはいけない。

 「渇き」の問題以外に「ロマン」の問題もある。

ばたん、と倒れ込んで死んでしまうのにはロマンがあるけれど投げやりに命を絶つのは違う。だからこそ私は兎にも角にも精一杯やるしかないのだ。

それがたとえたった一日長く生きるためであるとしても。「人生で最も大切なことの一つ」であるロマンのためにも。


 ペットボトルの蓋をキチンと締めてリュックサックの中に入れ直す。重力が三倍になったみたいに感じる、重たい体を起こして立ち上がると、私はまた歩き出した。

こんなことなら、もっと小分けにして運動をしておくのだった。少しずつ外に出てみるだとか、筋肉をつけておくだとか。

そういうことをしておく時間は沢山、余るほどたくさんあったのに。


 どれくらい経っただろうか。鈍く痛む両足をなんとか動かしながらまたあてもなく歩いていると、どこからか、

「そこの方」

という声が聞こえた。

「そこの方」

声は確かにする。それは間違えがない。けれども、見回せど、振り返れど、そこには何もない。

「ここですよ」

気のせいかと思ってまた歩き出そうとすると私の足取りを止めるみたいにまた呼びかける声。

とうとう、気が狂ってしまったのかしら。この暑さと空腹でおかしくなってしまったのかしら。

そう思ったところで、足元に私の膝まで程の大きさの花を見つけた。

「あら」

「はい」

「お花」

「はい、お花です」

「そちらにいらしたのですか」

「はい、紛らわしくて。申し訳なく」

「いえいえ、私こそきょろきょろとしてしまって」

「いえいえ」

「あの、無視をしたのではなく」

「ええ、わかっておりますとも」

私が頭を下げると、花も「恐縮だ」というように首を垂れた。

 私はどうやら砂漠の真ん中に花を見つけたようだ。砂漠の花。

 「こんにちは」

花が言う。

 花はとげとげとしていて、緑色で、丸い斑点のような模様があった。花は少しだけグロテスクだった。だけどなぜかそれがやけに美しかった。毅然とした花だった。

「こんにちは」

「旅をしているんですね」

「はい、そうなんです」

「旅か」

「はい」

「いいな。いいですね」

「はあ」

「私には旅が出来ませんからねえ」

「え」

 私は花を見た。たしかに、花には茎があってそれは熱い砂の中にきちん、と伸びてしまわれている。

「ふふ」

旅ができるというのは幸せなものですよ、お嬢さん。

 花が言う。花が言うと、なんだか旅ができるということがやけに幸せであることのような気がしてきた。さっきまで自分が世界中で最も可哀そうで訳ありな生き物だと思っていたのに。

「そういうものですか」

私が言うと、花は何度もうんうんと大きく首を振って深く頷いてみせた。首は茎の丁度三分の一ほど上のところから生えているらしい。そこからしなるように花の首は曲がった。

声を出して話すのは初めてだった。星と話すときは決まって心の中で話すから。自分の声が話すとき、こんな風に響くのだと知って驚いた。

「あなた、私を踏むところでした」

花は笑う。私が焦って、

「ごめんなさい」

と言うと、花は今度は首を横に大きくぶんぶんと振って、「いいんですよ」と言った。

「いいんですよ」と言った花は寛容だと思った。そして花も実のところ、私と話せてうれしそうであるように思えた。

「話すのはいいですね」

私が言うと、花は微笑んだ。花には顔がなかったけれど、私には花が微笑んだということが良くわかった。それに花には性別も、年齢もないのだということもわかった、なぜだか。

「いいですねえ」

花はのんびりと言う。花の声はのんびりとしていて少し、眠たくなる。

「私、話したの何時ぶりだろう」

 「人と」と言おうと思ったけれど、この花はもちろん花であって人ではないし今までも人と話したことはなかったことを思い出してそう言うのをぎりぎりのところで思い留まる。

「ふふふ、私もですよ」

「そうですか」

「いつですか」

「え」

「最後に話したのは」

私は、あの、星が降った夜のことを思い出す。

「あれはたしか・・・一か月ほど前かしら」

「星ですか」

「え」

「ふふふ」

「なぜわかったのですか」

「なぜって。一か月ほど前に星が降りましたから」

「ああ」

「星は、いいですね」

私は「花もいいですよ」と言おうとして、それも思い留まることにした。

この緑色のとげとげとした、独特の美しさを秘めたこの砂漠の花を「花」という言葉でひとくくりにするのは違うと思ったからだ。失礼にあたってはいけない。

「水を、恵んではくれませんか」

花が言う。花は先程までと打って変わって少々気不味そうな様子だった。毅然な花にはそういう姿がいまいち似合わなくて私はそれが可哀そうになる。よく見ると、花は眉尻を下がるところまで下げているようにも見えた。

 可哀そうな花。

星が降る夜を最後に、きっとこの花も会話らしい会話などしていないのに違いない。そして私のように足を持たないこの花がいつ水を飲めるというのだろう。

 そう思うと、私はたまらなくなった。この花がかわいそうで、いじらしくて、たまらなくなった。

 さっき会ったばかりだというのにおかしな話だけれど、たまらなくなってしまったものは仕方がなかった。

私は未だ申し訳なさそうな困り顔をした花を背中にいそいそとリュックサックを砂漠の上に卸すと、中からペットボトルを取り出した。

「ありますよ、いつもはきんきんに冷えていていやなんですけど」

今日にかぎって、冷えて欲しい時に限ってぬるいのはいやですね。

 私がそう言いながら蓋を開けると、

「いいんですか」

貴重なものなのに。

と花が言った。

確かにそうだ。

これはとても貴重なものだった。私がこの砂漠で生きてゆくために。「不思議だな」と思った。私はあまりにこの花に水を差しだすことについて考えなかったし迷わなかったから。

「考えませんでした」

「優しいですね」

花に言われてみて、それは違う、と思った。こうやって話をするとき、「こうしてはくれませんか」と言われると反射的に差し出してしまうものなのだ、きっと。これは例えば眠りにつく前両足のつま先がぴくん、と弾けることや炭酸を飲んだ時食道の辺りがぐっとつかえた様になるのと似ている。

「反射だっただけですよ」

「ふふふ」

「それに」

「ええ」

「こういうことを、知りたくて旅に出たのかもしれません」

私はペットボトルを傾けて緑色の花の大きく開いた花弁の真ん中に水を注いだ。花弁と言っても、それは私の家に置いてあった多肉植物の模型のように全体的に丸くて厚ぼったい感じで、とげも生えている。そして丸い斑点。

 花は、私が水を注ぐ間、黙っていた。黙っている、というより話せないのかもしれない。今水を注いでいるところが口のような役割をしているのかもしれないし。

 花に水を注ぎながら、こういうことを知りたかったのだと思った。たとえそれが初めましての相手にでも、私は水を注ぎたいのか。注ぎたくないのか。それは優しさや親切であるのか。本当に反射でしかないのか。奏多君、佐々木さん、ラジオとお風呂、あの家以外の世界で私はどんな風にたたずむのか。

 そんなことを考えている内にいつの間にかペットボトルの中身は空っぽになって、ボトルを傾けていた右手が手持無沙汰になったようにぶらぶらとした。

それでも黙っている花をどうしたものかと覗き込もうとすると、突然、緑の花が、

「ちょっと、伸びますので。お顔に気を付けて」

と言う。私が花を覗き込むようにしていた姿勢から体を逸らせると、花は突然、

 ぐうううん。

という大きな音を立てて、空の方へ大きく伸びた。

茎がぐんぐんとどこまでも伸びてゆく。伸びるのが早すぎてどのようにして伸びているのか、横にも太くなっているのか、詳しいことが良くわからない。それでも花は伸びる。ぐんぐん、ぐんぐん伸びる。

花が伸びるその勢いで私の髪がそよいだ。おさげを三つ編みにしておいた部分ではなくて、おくれ毛の部分。そして花が伸びる時、ぐううん、という音と一緒にしゅう、という音がした。摩擦音のような、風を含む音だった。

花は伸びて、広がった。花は青々とした緑をさらに濃い緑にして、美しいとげはそのままに、だけど私を傷つけないようきちんと避けて大きく伸びた。


暫く経っただろうか。私が呆気に取られて目の前の太い茎ばかりを眺めていると、上の方から、

「どうぞ、ここで少し、休んでいかれて下さい」

という声がした。花の声は先程より少し籠っていて野太く聞こえる。

「いいんですか」

私は上を向いて心持大きな声を出して話しかけた。叫ぶほどじゃない、けれど上の方にいる花に聞こえるような大きな声で。

「はい、お水を下さったじゃありませんか」

「でも」

「お水がないと、大きくなれないんですよ」

「いいんですか」

「いいんです」

「うれしい」

「ふふふ」

花は、笑った。顔はないけれど、にこやかな様子であることがわかる、なぜだか。

 私も、花も、うれしかった。うれしくて、楽しかった。

「あの」

「はい」

「耳は茎にもついているので」

「はい」

「声はよく聞こえますよ」


 大きくなった花が作った影の下にはささやかな風がさらさらと流れて随分気持ちが良い。砂漠を歩いていても、ちっとも風が吹かなかったのに。花は風も作り出してしまったのかもしれなかった。日陰という概念が存在しなかったこの砂漠で花が作ってくれたこの大きくて小さな居場所が私を静かに包み込んでゆくのがわかった。風は、こんなにも心地が良いものだっただろうか。

「今晩は、ここにいてもいいですか」

私が言うと、

「どうぞ、明日私が小さくなるまで是非ここに」

驚いた。

「小さく、なるのですか」

「はい、おそらく明朝には」

驚いた。とても驚いた。花は、私のために「水を恵んではくれないか」と言ったのだ。明日には小さくなってしまうものと知りながら。私をここで涼ませるただそれだけのために。そのために、あの申し訳なさそうな表情を造ったのだ。大きくなるという「労力」を厭わなかったのだ。

そう思うと、私はまた無性に花のことがいじらしくてたまらなくなった。そしてそのための水ならば少しも無駄ではないと思った。

「窮屈ではないですか」

花が言う。

「少しも」

「冷えませんか」

「ちっとも」

「ふふ」

「あの」

「はい」

「ありがとう」

心から、零れ落ちるみたいに口を出た言葉。心地良い。

「いえ」

花は微笑んでいる。


私が今夜もここにいること。

なんとなく、花も、それを望んでいるのではないかと思った。私も花も寂しくて、それでもずっとこうしていられるわけではなくて、それをきちんと知っていて。それでもこの瞬間をただ共有したいのだ。

「ありがとうございます」

また私が言うと、

「根元にはとげがありません。どうぞ、寄りかかってください」

と、花が言う。少し、得意げだった。

「いいんですか」

「ええ」

ゆっくりと背中を根元の方に凭せ掛ける。花の根元は思ったよりも固くて、だけどひんやりと冷たく気持ちが良かった。

 さっき起き上がったばかりなのに、涼しくて心地の良い日陰にいると、私はまたうとうとと眠たくなった。それほど体が疲労しているのかもしれない。それでも構わなかった。いまはただ、心地が良かった。

 来てよかった、あの家の外に。あんなに美味しいサンドウィッチを食べて奏多君の声を聴きながら相も変わらずきらきらと美しい星を見た。

 初めて話をして、初めて親切と言われた。

 花は美しい。よくある花なんかじゃなくて、花は花らしく美しい。あの濃い緑も、凛とした佇み方も、斑点模様も、花の持つ優しさも含めてその全てを私は大層気に入ってしまった。気に入る、というのは好き、ということだ。

そしてこうして話をしていると空腹なことも、寂しさも、壊れたラジオのことも、忘れていた。

 私は重くなってゆく瞼を受け入れる。あの家で学んだたった一つのこと、「眠りには抗わない」に習って。

 今度目を覚ます頃には、私は生きているのだろうか。わからない、わからないけれど。今はとても穏やかな気分だ。












熱帯魚


探せど探せど彼女は見つからなかった。僕が眠っている間にあの子がそんなにも遠くに行けるようには思えない。けれどもいくら探しても彼女の姿はどこにも見つからない。不自然なほどに。

 ――もしかすると、吸い込まれてしまったのかもしれない。

そう思って僕は突然恐ろしいほど大きな不安に襲われた。恐ろしいほど大きな不安。

その不気味な不安は僕の小さな細胞一つ一つに巧妙に入り込んでくる。僕はイメージする。不安が僕の細胞を丁寧にゆっくりと黒く侵してゆく様を。それは妙なことに美しい光景だ。抗えないから、僕はそれを眺めることしかできないのだ。

抗えないことは時に僕を「諦め」というささやかな白い毛布で包む。不思議な安堵だ。抗えない。抗えない。

あの子は吸い込まれてしまった。そうに違いないから、僕はもっと深くイメージする。イメージの黒い沼に体を沈めてゆく。不安が指先の方まで蝕んで腐ってゆく。朽ちて、指先の方からほろほろと砂のように崩れてゆく。それは黒い砂だ。

僕は想像する。

――鋭い牙を携えた赤黒い魚が大きな口を広げて彼女を飲み込んでしまう様を。

 

父さんは人類が「なにか」に吸い込まれてしまったのだと言った。その「なにか」は一体何なのか、「なにか」であるのかそれとも「なにものか」であるのか。僕がいくら尋ねても父さんははぐらかすようにして決して教えてはくれなかった。

その話をしているときの父さんの顔があまりに深い恐怖のようなものを湛えていて、だから僕はこの話をあまり長くは出来なかったのだ。父さんの表情に深い恐怖を陰らせるのはいつも僕がそういうことを訊ねるせいで、父さんは顔色一つ変えないのに僕には父さんの細胞が震えあがるのをその度に感じた。今の僕のように。


 彼女と僕とを引き離しているのも、彼女を一人きりにしておくのも父さんがその「なにか」を酷く恐れていることに関係しているようだった。

 「B003が思い出してはいけないから」

と、父さんはこういう時、決まってそう言った。


「思い出してはいけないから」


なにを「思い出す」のがそんなにいけないのだろう。

確かに彼女は僕よりもずっと繊細だけれど、それが彼女をあの小さな箱に閉じ込めておく理由になったのかどうか、僕にはわからない。計り得ない。

 僕は、その恐ろしいことの後に生まれたのだから大丈夫なのだと、父さんはそうも言った。

だから彼女は一人、あの部屋に隔離されなければならず、僕は父さんと過ごすことが出来たのか。僕と彼女、どちらの方が幸福なのだろうか。そして不幸なのだろうか。昔はわかっていたように思うのだけれどいまはもうわからなくなってしまった。間違えなく、彼女のいないこの世界で僕は一人きりだから。

 思えば父さんがいなくなったいま、僕も彼女も互いに一人ぼっちになっていたのだ。そして彼女はとうとうその孤独に耐え切れず外の世界に出て行ってしまったのだ。何もない、広大な砂漠の中へ。

 どうして僕らはこうして離れていなければならないのだろうか。父さんがいなくなってしまったいま、そんな風にまだ誰かが僕たちを規制することは出来るのだろうか。

「B003が思い出してはいけないから」

――その言葉の本当の意味を、僕は知っている。知らないふりをしていた、だから父さんも僕に多くを語らなかった。

  

「吸い込まれてしまった」人達。それはよく父さんが使っていた言葉だ。

「なにか」はブラックホールのようなものだろうか。それとも僕の頭の中で作り上げられた赤黒い魚のようなもの。その「なにか」はこの世界を砂で敷き詰めてしまった。僕と父さん、彼女だけを残して。

吸い込まれてしまった人々はどんな思いだったのか。恐ろしかったのか、寂しかったのか、はたまた何も感じなかったのか。

怖かったのに違いない。自分の体が、魂が、何者かによって吸い込まれてゆくのは。それでもその人々は僕よりもっと恐ろしかったのだろうか。いまの、この僕よりも。

 僕はいま、とても恐ろしい。とても、とても恐ろしい。こんなに恐ろしいことはなかった、今まで一度も。

 彼女が、その「なにか」に吸い込まれてしまったかもしれない。彼女の存在が呑み込まれてしまった、きっとそうだ。いや、そうに違いない。

 これだけ探しても見つからないのだから。隠されてしまったのだ、この世界にいた幾億の人々と同じように。

 とんでもないことになってしまった。恐ろしい。体が静かに震えている。唇が渇いて僅かな摩擦音を立てている。寒くない、少しも寒くないのに体がひんやりと冷えてゆく。


驚いた、とても。

彼女がいなくなって、「父さんとの約束を守れなくなった」ということよりも「彼女をなくしてしまったかもしれない」という事実に僕はいま到底ありえないほど強く心をかき乱されている。

これは以外だった。そしてこれはあってはいけないことだと思った。

ああ。気が付いてしまった。

僕には、心がある。僕にはあったのだ、本当はずっと。

「恐れ」も「悲しみ」も「苦しみ」もそして言い表せない程強烈な「寂しさ」も。

そしてそれらから僕はもう目を逸らすことが出来ないみたいだ。


 父さん、ごめんなさい。

 僕は寂しい。

 僕はもう、あの水槽の熱帯魚ではなくなってしまったようです。







Grace


どのくらい長い間、歩いたのだろう。頭が酷く痛む。ぐらぐらと視界が揺れて上手く歩くことが出来ない。どこまで行っても変わらない砂の山。その景色が不確かさを増してそこに佇む。霞む景色。ここはどこだろう。私は誰だったのだろう。わからなかった、はじめから。

 お腹が空いて、今にも倒れそう。喉が渇きすぎて、もういまは体が渇いている状態に随分慣れてしまったように思う。

 リュックサックは随分、軽くなった。昨日の夜我慢できなくて中に在るものを全部食べてしまったから。大事に置いておいた非常用のスナック菓子やグミなんかまで。食べている間の記憶がない。あんまり、飢えていたんだもの。

 飢えることより渇くことの方がもっといけないことだと心に決めていたのに、食料品なんかよりも先にリュックにたくさん詰め込んだはずのペットボトルはすっかり空になって、黒いリュックサックの中で互いにぶつかり合いながら乾いたからからという音を立てている。意気込んでいた当初の計画とは裏腹に水分と言う水分は食料よりももっと先になくなってしまった。

 「意思」なんてものは存在しないのだと、私はこの旅を通して知ることになってしまった。

だって、喉は乾くし、お腹は減るのだから。どんなに拒んだって、どんなに強がったって。それは三日と持たない。少なくとも、私はそう。そうだった。

 それでも、あの「小さな家」に引き返そう、と思ったことは以外なことに一度もなかった。私は弱虫だから、それはだけど意志の強さなんかじゃない。ただ、あの家に戻りたくないだけ。帰りたくないだけだということを知っている。

寧ろ、あの家にいままで閉じこもっていられたこと自体がおかしいのだ、とまで思うようになった。思い出すだけで苦しくなる。寂しくて、出口のない場所。息の詰まる、あの快適な部屋。

 ああ、ふらふらとする。気分が悪い。肌も日に焼けてひりひりと痛む。赤くなっていた肌の一部が茶黒いような色に変わっていた。耳の皮は捲れている。唇の皮は乾燥で剥けて時折血の滲んだような鉄臭い味がする。

痛い。どこが痛いのかわからない。わからないけれど、ただ、酷く痛む。どこもかしこも。痛い。痛い。痛い。

――もう、だめかもしれない。

 そう思った瞬間、私は砂漠の真ん中にばたんと膝から倒れ落ちた。そして私が倒れたその場所に大きな砂埃が舞うのを見た。砂埃が口や鼻の中に入って咽返しそうになるけれどその元気もない。こほ、と乾いたような咳が一つ、申し訳なさそうに出た。そしてすぐに砂埃に掻き消されて消えた。


このまま死ぬのは思ったよりロマンチックじゃあないな。飢えているから、ロマンチックじゃない。

意識が遠ざかってゆく。




 冷たい。

私の頬に冷たくて鋭い粒がぱちんと当たった。それで、目を覚ます。どうやらまだ、生きていたみたい。それか、もう生きていないのかもしれない。そういう場所に来ているのかもしれない。

また、さっきと同じ粒が私の頬でぱちんと弾けた。さっきよりももう少し、頬の高い位置にそれは当たって弾ける。弾けるのに、ちっとも痛くはない。ただ、弾けるだけ。ぱちん、という音を立てて。

それは私の熱く火照った体や腕、耳の内側にも当たっては弾けた。

冷たい。冷たくて鋭くてでも柔らかい。ぽつりぽつりと私に降りかかる粒。

 なにかしら。

私がそう疑問を持つとともに、今度はそれが勢いよく音を立ててとても高い、高いところから私の体中にふり注いだ。そうか、高いところから落ちてくるせいでこの粒々はこんなにも鋭いのね。本当は少しも鋭くはないのに。そうか、これは。

――雨だ。

ひどく、ひどく、気持ちが良い。あの、緑の花の日陰にいた時とはまた違う、冷静で真っすぐな心地のよさ。際限のない心地良さ。体の温度が徐々に下がってゆくのを感じる。目を開いていたくなくなった。五感をもって集中して感じていなければとてももったいないことのように感じる、なにもかもを洗い流してくれるみたいな雨。余すことなく、一粒残らずこの体に受けておかなければならない、そういう気持にさせる雨のシャワー。

私はなぜだか、歌いたくなった。なぜだかわからない。死にかけて、体に冷たい雨を浴びながら、無性に歌いたくて歌いたくてたまらなくなった。

だから、歌うことにした。


雨雨フレフレ母さんが

蛇の目でお迎え嬉しいな

ぴっちぴっち ちゃっぷちゃっぷ

らんらんらーん


 思ったより、大きな声が出た。私の声だとは思えないくらい、思い切りのいい豪快な声。嬉しそうな声なのに、怒っているように聞こえた。叫んでるように聞こえた、自分の声。

 これも、ラジオで聴いた曲だ。カセットテープに録音して蛇の目を持って私を迎えに来る、「誰か」のことを思いながら何度か聴いた。とても、いい曲だと思ったのだ。そして奏多くんのお母さんのことを考えた。

 なんとなく、奏多くんのお母さんには蛇の目よりビニール傘や紫陽花柄の淡い模様の傘の方がもっと似合うと思った。傘を差しながら、小さな奏多くんの手を引くお母さんは白いプリーツスカートと、マットな銀色のパンプスを履いている。奏多くんはまだ幼くて、だから長靴を履いては水たまりで暴れてお母さんの白いスカートや銀色のパンプスを汚してしまうのだ、いつも。

 そんな平和なシーンを何度想像したのだろう。絵本やラジオで、何度目にし、耳にしただろう。


 雨を見たのは、これが初めてだった。

「お飲みなさい」

雨が言った。

不意に言った。なのに驚かなかった。雨はそういう不思議な声をしていた。決して人を驚かせたりはしない、そういう声。

雨の声は、その一粒一粒の中にあった。高すぎない、あたたかみのある母のような、慈愛に満ちた声。それだけで私は雨に抱かれ包まれているような気持になる、そういう声。

私はほっとした。なあんだ、何も心配しなくてよかったんだと思った。そうして、空に向かって大きな口を開けた。あんまり大きく口を開けたので顎の骨が痛い。唇のささくれが割れて、ちりちりと痛んだ。それでも、そんなことは関係のないことだった。

雨は、私が口を開けたと同時にもっと強く降り注いだ。雨の音は心地が良いものだった。どんな音楽や楽器よりも心をしん、と静かにさせるものだった。鎮痛剤のように。足をぶつけた時に傷部を冷やす氷のように。そして雨は喉の渇きを癒してくれる。

私はわき目もふらず、目を閉じて砂の上に寝転がったまま一心不乱に雨を喉に含んでは飲み込んだ。起き上がる元気のないことが都合が良かった。こうして雨に集中していられるから。

飲み込んでも、飲み込んでも、どこまでも私の体は水分を欲していた。

雨は、

「かわいそうに」

と言いながら私の喉に流れた。

「かわいそうに」

不思議と、その同情は私の心を癒すものだった。心の安全地帯のような場所に、雨はじんわりと染みこんでゆく。

そして雨は歌を歌った。


雨雨フレフレ母ちゃんが

蛇の目でお迎え嬉しいな


雨の声は美しかった。この世のものとは思えない程。美しく、あたたかみを持って響いた。冷たい雨が私の体を打ち、喉に流れ込んでもそれはどこかにあたたかみを秘めていた。だからこんなにも心地が良いのに違いなかった。

私にはお母さんがいたのかな。わからない、だからそれが一体どういうものなのか、実際のところはよく知らない。けれど私が想像する、「母性」のようなものを形にしたような声だった。

 突然ぐう、と胸が熱くなった。熱くて、苦しくて、泣きたくなった。

 ここにはいない「母」に会いたくて会いたくて仕方がなくなった。その人に、抱き締めていて欲しくなった。そして一人じゃない、とささやいて欲しくなった。

 だって、あんまり雨が母を思わせるから。

すると、雨は、

「お泣きなさい」

と言った。とてもとても柔らかく、けれども芯のある、良く通る声で。

 それで、私は泣いた。泣くことにした。大声を出して。時にはしゃくり上げて、時にはすすり泣くように。もちろんその間も雨を口に含んでは喉に運ぶことは忘れずに。

私の声も涙も、泣こうが喚こうがどうしようが関係のないことだった。雨の粒が私の顔を濡らしてどれが涙かもわからないようにしてくれたから。雨のざあざあという音が私の声を掻き消して遠くまで運ばないようにしてくれたから。だから、私は堂々と泣いた。堂々と泣くのは思ったよりも気持ちが良いことだった。この雨が私を濡らすのと同じくらいに。

 雨はその間もずっと歌を歌ってくれた。雨はとても歌が上手だった。


ぴちぴち ちゃぷちゃぷ

らんらんらーん


私は雨の声で体がとろけてしまいそうだった。だってとても、優しいんだもの。

「慈愛」という言葉が雨にはぴったりだと思った。

そして、私はふと、私もこの「雨」の子供なのだと気が付いた。私も奏多くんも、奏多くんのお父さんやお母さんも、緑の花も。みんなこの雨の子供なのだ。


 思い切り泣いて、なんだか心の中がすっきりとしていた。機嫌も体調も良くて、奏多くんのラジオも上手く録音できた、そんな日に部屋を思い切り掃除して整理整頓したみたいな。久しぶりに朝、カーテンを開いて窓から新鮮な空気をかき集めるみたいな。そういう、すっきりとした気持だった。そしてすっきりとした気持ちには、この冷たい雨がこの上なくよく似合った。


「怖かったの」

「怖かったでしょう」

 雨はたとえ多くを語らなくても、何があっても私のことを否定したりはしないとわかっていた。それはとてもとても嬉しいことだった。嬉しくて、安心することだった。

 私はいつまでも雨を飲んだ。大きく口を広げて。懸命に。まるで生きることを強く望むように。

その度、雨足は強くなって私の喉を潤した。

「さあ、お飲みなさい。あなたのために、降るのだから」

 怖かったでしょう。

 ええ、怖かった。

 死ぬのは。

 とても、怖かった。









朝と夜


「B003、検知できません」


 パソコンが今日もまるで決まりきったことのように言う。この数日、飽きるほどに何度も聞いた機械音。


どうしたって、あの子が見つからない。どうしたって。

呑み込まれてしまった。彼女が呑み込まれてしまったということだけが明確になる。探せば探すほど明確になるので僕は毎秒ごとに希望を失わなければならない。こんな苦痛な時間は知らなかった。知らなかったし、知らないままでいたかった。


そういえばどういうわけか、昨日から息をすることが面倒になってきた。

 なにをするのも面倒だ。父さんとあんなに約束をしたのに僕はあの子のことについても自分のことについても、研究するのをやめてしまいたいと思うようになった。無駄なような気がしてきたのかもしれない。

 希望なんてない。ラジオ放送も辞めた。辞めようと決めて辞めたわけではない、あの子がいた間は一日も欠かさず録れていたものが録れなくなってしまったのだ。どうでもよかった。あの子が聴いていないラジオに存在理由があるだろうか。価値があるだろうか。

意欲というものがない。元々、サプリメントに頼っていたからなにも口にしないという状態になるのは簡単なことだった。食べていないから無気力であるのか、無気力であるから何も口にしなくなったのか。理由は後者に決まっているのだが、今となっては意識が朦朧としてそういう区別もつかない。

ラジオ放送を辞めてしまって、僕はもう僕の思っていること、考えていることがとうとうわからなくなってしまった。自分自身の気持ちに正直でいるのは僕にとって一番難しいことで困難なことだった、いつだって。

 気が付いていた、ラジオを放送していたのは、あの子のためなんかじゃない。僕のためだったと。本当は気付いていた。何もかもに。余すことなく。

 僕を正気でいさせてくれるもの。僕は必死で語りかけていた。あの子に向けて。世界にただ一人、僕が守りたいあの子に。

 僕はもう正気でなくなってしまった。

 微妙なバランスで守られていた小さな世界のようなものが「彼女」というパーツを失ってぐらぐらと傾き倒れてしまった。

 彼女が住んでいた小さな家は、僕にとっても細やかな心の安らぎであり、雨宿りが出来る場所であったのだ。小さな世界であったのだ。その世界との僅かな関わり、許された僅かな心の交換が僕を保っていた。でもそれは僕が思っていたよりもいつも崖っぷちであったのだ。それに気が付くのが遅すぎた。

彼女はもういない。どこを探しても。僕よりももっと先にいたあの子はとうとうその崖の下へと飛び立っていってしまったのだ。

 こんなにも眠らずに熱心にコンピュータの前を動かなかったのは初めてのことだった。体が青い布張りのパイプ椅子に張り付いたようにして動かない。疲れてしまった。本当に。

 研究はおろか、目を覚ますことも億劫だ。それでもまだ、たった一つの希望をこの手のひらから零すことが出来ないのが僕を余計に苦しくさせる。

 彼女がまだ、この世界のどこかにいる、という微かな、微かな希望。それは希望と呼ぶには余りに切実で見通しの悪いものだ。

 だから僕は潔く絶望することが出来ない、この場所にいることが苦しくて苦しくてたまらない。


こんな感情は知らなった。彼女がいなくなってから、僕は「感情」というものに非常に敏感になった。敏感になったというより、通常になった、という方が適しているのかもしれない。

ラジオで語っていた自分の頭で「考えていること」や形のある気持ちのようなものは日に日にどんどんと不透明になってゆくのにそれに比例するように形のない、猛烈な「感情」という名の激しい波のようなものが僕を飲み込んでしまう勢いで押し寄せて来る。

今まで、遠くを見つめるように生きて来た、ずっと。遠く遠くを見つめる。そしてその視線の先にも何も映さない。そういうやり方で。

 でも、彼女がいなくなってからというもの、僕にはそれが出来なくなってしまった。今までのようにぼんやりと遠くを見つめることができず、それどころかあらゆるものごとに対してぴったりとピントを合わせてしまうようになってしまった。

 ピントを合わせると、その出来事と焦点が合う。目が合ってしまう。それは途方もなく恐ろしいことだった。目が合えば最後、目を逸らせなくなる。

 苦しい。

 父さんがなくなったこと。それより前に母さんがなくなったこと。この世界が僕らから人々を奪ってしまったこと。今僕が世界にただ一人残されているのかもしれないという現実。

 ――そして彼女が世界に呑み込まれてしまったかもしれないということ。

 鏡の中に映る僕の瞳はきちんと「ここ」に居て、それがやけに不気味だった。僕はこんな顔をしていたのか。

 まだまだ幼い顔をしている。緑の目、薄い茶色の髪。いつの間にか随分と伸びた。うっすらと、鼻の下に髭のようなものが見える。 

知らない人物のように思えた。それでも、やはり母さんの写真とよく似た顔。

 水槽の中のエアーレーションのぶくぶくというよく知ったはずの水音がする。耳なじみのある音なのに今日はいやによそよそしい音のように聞こえた。そしてコンピュータの唸るような静かで永続的な機械音。彼女が嫌い、僕が愛していた規則的な音。

 「助けてくれ」

 と、僕は思った。猛烈に。助けてくれ。どうか。

それ以外の言葉は何もなかった。誰か、僕を助けてくれ。

 実体のないものに縋るように願いを乞うのは初めてのことだった。僕は実体のないものからずっと距離をとるようにして生きて来たから。

 そしてそれと同時に、彼女がその「誰か」に対して熱心に祈るのを想像した。彼女が南十字星に向かって一心不乱に祈る姿を想像するのは容易なことだった。

彼女はこの世界でずっと生きて来たのだ。こんなにも全てにぴたりと焦点が合った世界の中で。

それはどんなに毎日が苦痛に満ちていたことだろう。そしてそれはどんなに毎日が色鮮やかであったことだろう。

 彼女がいつか、僕にくれたメッセージを思い出す。一度だけ、僕がラジオで読み上げたメッセージ。

 あの時は分からなかった、なぜ僕があのメッセージを選んだのか、なぜ僕があの日あのメッセージを読もうと思ったのか。

 でも、今ならその理由がよくわかる。

 「奏多くんは、寂しいと思うことがありますか」

 彼女は、確かにそう問うたのだ、僕に。純粋でまっすぐな、そしてガラス玉のように繊細なその心を携えながら。

 それは彼女が常に寂しさと共に在ったから出た言葉であり、彼女が僕に潜むどうしようもないような「寂しさ」を見抜いていたから出た言葉ではなかったか。そしてそれを僕自身も知っていたのだ。

 僕たちは運命共同体だ。だってこの世界にただ二人しかいない。

 僕を一人ぼっちにさせないのはただ、あの子だけであの子を一人ぼっちにさせないのはただ僕だけが出来ることだ。


 彼女がまだ、この世界のどこかにいる、という微かな、微かな希望。それは希望と呼ぶには余りに切実で見通しが悪いものだ。

 けれど、僕がいま、「生きる」という選択をするために机の引き出しの中に仕舞われた味気ないサプリメントを口に含む唯一無二の価値があるものだ。








コードナナツメ 


目が覚めると、体が随分と軽くなっているように感じた。あんなにびしょ濡れだった洋服や砂だらけの頬もきれいに乾いてすっきりとしている。

「やっぱり」

と、私は思った。「やっぱり」洗濯してくれたんだわ。雨は。

ああ、喉が潤っている。これだけで、随分違う。それに泣き疲れるほどによく泣いたので心もうんと澄んでいる。

 私が体を起こすともう「雨」の姿はなく、あたり一面、宝石をちりばめたみたいな星空が広がっていた。

「きれい」

思わず、口を出る言葉。きれいなものに、素直に「きれい」というときの人間の表情はみんな同じなのだろうと思う。見たことはないけれど、きっと。呆けた様な表情になって、言葉だけが先行するみたいに口を出るのだ。ただ、「きれい」と。

 今日は月が出ているけれど、それは三日月くらいのささやかな灯りであるので星のきらめきを邪魔したりはしない。寧ろこういう月は星と丁度良いバランスで共存しているようで私は美しいと思う。

 星空は不思議だ。何度も何度も、こうして見上げているというのにその度に私を驚かせるほどの美しさで圧倒する。でもその美しさはちっとも押しつけがましくない、とても優雅で品のあるものなのだ。

 心が空っぽで澄んでいればいるほど、星空は堂々と澄み、心が満帆になって涙が零れ落ちそうなときほどどこまでも複雑怪奇に冷たく凛と輝く。そういう空を私は愛している。

 

ふと、この夜空と共に音楽を聴いたなら素敵だろうという考えが頭を過って、私は突如そのうっとりとしたような気分から打って変わって大きな不安と差し迫るような焦燥感に襲われた。

 だって私の宝物であるラジオは、牛乳の滝によって脆くも簡単に壊れてしまった。今日は、滝のような雨が降ったではないか。姿を現さない(というよりもその一粒一粒が彼女だったのかもしれない)雨の洗濯は、私の古びたカセットプレーヤーやテープを故障させるのに十分だったのではないだろうか。

 急いでリュックの中を弄った。リュックは予想通り、びっしょりと濡れている。私の体はこんなにも清々しく乾いて風を通しているのに、この黒いリュックサックは水を含んでそれが重たくて仕方がないというような佇まいでどんよりとそこに沈んでいた。

 どうしてこのリュックだけ。どうして。

 わかっていた、特別なのは私だけで、「雨」は私にだけ格別に甘い恵みをくれたのだと。

 そうでなければ、この寒い砂漠の夜を越えられなかったに違いない。ずぶ濡れのままでは凍え死んでしまっていたかもしれない。

 それでも。

「いや」

 心臓がぎゅう、という音を立てて痛んだ。でも今は、私を慰めてくれる雨の姿はない。

「いや」

いや、いや。いや。いや。

 怖い、怖くてたまらない。

カセットテープは濡れて、ひんやりとしている。それは死体のようだった。あの、壊れてしまったラジオによく似ていた。

わかっていながらも、一抹の希望を消し去ることが出来ずに私は震える指で湿ったリュックの中から取り出したカセットプレーヤーの再生ボタンを押す。

 かち。

 いつもの、音。だけど少し、違う気がする。いつものように、確実でない気がする。確実でない、不確実で不安定な音。知らない音。

「どうして」

かち。かち。かち。

中に入れているカセットを取り換えて何度も再生ボタンを押したけれど、一度も音楽は流れなかった。そうしている間に鼻の奥がつんとして視界がぼやけてきた。

壊れてしまった。壊れてしまった。

私の大切な思い出たち。幾千もの夜に、私を慰めた音楽。奏多くんの声。奏多くんが一度だけ、初めて私のメッセージを読んでくれたかけがえのない録音テープ。よりにもよって、大切なものばかり持って来てしまった。だって、あの家にはもう帰らないのだから。

「うう」

おかしな声だなと思った。自分で、自分の喉から出る不可思議な音を聞いた。苦しかった。寂しかった。

 本当は、それが一番だった。私は本当に一人ぼっちになってしまった。

 私の情けない声はまたいつもみたいに夜空まで届かないうちに儚く消えた。


 「ピーピー。故障。3840故障。コードナナツメ」





 眠っていた。近頃、ずっとこんな風に過ごしている。僕はまるであの子になったみたいだ。あの子のように、僕は初めて寂しいと感じるようになった。あの子のように、僕は布団をかぶってよく眠るようになった。一日の大半を深い眠りの中で過ごしている。眠っても、眠っても、泥のようにまだ眠れてしまうのだ。

あの子と違う点といえば、僕はあの子のように食べ物を食べ物らしく扱わないということぐらいだろうか。僕は毎日水でサプリメントをとても投げやりに口に放り込む。「彼女」という希望を捨てきれないから、放り込む。

 父さんがこんな僕を見たなら何というのだろう。叱るだろうか。ああ、𠮟れるものなら、叱って欲しい。誰か、僕を叱ってくれ。

 冷たい部屋。あの子のいない世界。ひとりきりの世界。僕の背中からは幾つかの管が繋がれている。これがコンピュータに接続されて僕の命そのものを日々研究しているのだ。このコンピュータは父さんのようなものかもしれない。父さんの形見と言うよりも、父さんそのものなのかもしれない。

 僕は父さんが恨めしかった。大好きで、尊敬していて、でも時々憎かった。

 コンピュータも研究もいらなかった。僕はただ、父さんにずっとそばに居て欲しかったんだ。ただ、僕のそばに。


 ピーピーピーピー


 コンピュータが音を立てている。

どのみち、故障したところで構わない。何が故障したのか知らないが、どうでもいいことだ。僕は早くまたあの眠りの中に沈みたい。躰が鉛のように重い。時々、涙が出るようになった。涙なんて、父さんがなくなった時も流さなかったのに。

 今は、意味もなく、涙を流している。自分がどうして泣いているのか、どうして苦しいのか、わからない。ただ、こうなってしまったのはあの子がいなくなってしまってからだということだけが確かだ。


 そういえば、三日ほど前に、彼女がくれたメッセージを読み返した。

彼女が初めてくれたメッセージ、僕が唯一返事をしたメッセージ、彼女が毎日のように遣してくれたとても細やかな心の動きが書かれた僕への手紙。それらを節操もなく読み漁った。

それは相変わらずほとんど、日記のようなものだった。彼女はいつだって一人ぼっちなのに、いつだって毎日違うことを考えている。毎日なにかに気が付いたり、なにかに心を揺さぶられたり、なにを食べるかで頭を悩ませる。

 僕は、あの子を通して生きていた。あの子を通して息をしていた。そう思うと、また涙が出た。あの子に、会いたかった。


 ピーピーピー

 ピーピーピー

 ピーピーピー


 いつまでもコンピュータが警報音を鳴らすので眠ることが出来ない。僕は仕方なくとうとう無機質で白い清潔なシーツが張られたベッドを離れ、コンピュータに向かった。


 コンピュータの前に立つと、

 「3804故障 コードナナツメ」

 そう映し出されたパソコンの画面に、大きく僕がいつか彼女のために用意したはずのカセットプレーヤーが映し出されていた。

「・・・」

息を呑んだ。単に彼女の破片を見つけたというだけではない、彼女が出て行ったあの完璧な家の中でカセットプレーヤーが突然故障するのは考えにくいと思ったからだ。

 そうだ、あの家で突然故障するはずがない。彼女が家を出てから、あの家を僕が寸分狂わずそのままの状態で保管している。

ならばもしも彼女が家を出る際にカセットプレーヤーを持って行ったと考えれば。寧ろこの砂漠の中で機械が故障するのは自然なことではないか。

――ここから故障したこのカセットプレーヤーの位置を辿れば。

そうだ、そうすればもしかするとあの子の居場所がわかるかもしれない。できるかわからない。この推測が正しいのどうかもわからない。でも、やるしかない。

 僕は背中の方から不思議な力のようなものが湧き上がってくるのを感じた。あの子が出て行ってしまってから、一度もなかったことだ。あの子があの家にいた時、毎日のように漲っていたなにかだ。それは希望だ。

 期待してはいけない、絶対にいけない、そう思うのに期待することそのものを制御するのは思いの外とても難しい。

体が震えている。内側から。

 僕はデスクの前の椅子に深く座り直すと、コンピュータを蘇らせるように壊れたカセットテープの行方を追い始めた。

 「コードナナツメ」

 お願いだ。もう一度、あの子に会わせてくれ。会わせてください。

 それは願いを超えた、吐き出すような祈り。





ミッドナイト・アフターヌーンティー


疲れて、眠ってしまったみたい。砂漠の上でふて寝をした。二度目の死。私の宝物の。

 

喉の渇きが癒えたのも一瞬のことで、燦燦と照り付ける太陽の光で目が覚めると私はまたすぐに飢えて乾いた、元通りの私になった。  

変わったことといえば、あの、私を背中の方へ引っ張るくらいに重たかったリュックがとうとう空っぽになったこと。そして私がせっかく持ち運ぶのに苦労しない程軽くなったリュックを砂漠の真ん中に置いていくことにしたことくらいだ。

 雨は私にたくさんのものを与えて、だけど大切なものを壊してしまった。

 悲しいけれど、たくさん泣いたから少しだけ心が軽い。泣くのはとても、いいことだ。雨も「泣きなさい」と言った。

 涙にすると感情は形になるのだ。水分になって、目からあふれて外へこぼれ出る。それは形にしない時よりもずっと精神衛生上いいものなのだと私は思う。

 あの雨が少し恨めしい様であって、でも嫌いじゃなかった。恨めしいのと嫌いはいつも=じゃない。


 リュックは、あの家の納屋にあったときみたいにただの黒い塊りに戻ってしまった。納屋で埃をかぶっているよりいまの砂埃でよく汚れたリュックの方がいくらか誇らしげに見えるけれど。

あの日、ラジオが壊れてしまってあの家を出た時のことを思い出す。昨日のことのように。事実、あの時からそれほど長い時間は経っていないはず。それでもなぜだか随分と遠くに来てしまったような気がする。

私はとうとう、身一つになってしまった。カセットプレーヤーはリュックを置いてくるときに砂の中に埋めた。心ばかりの弔いだ。埋葬。

ただ、奏多くんが初めて私のメッセージを読んでくれた時のテープだけはどうしても埋めてしまう気にはなれなくて、ワンピースのプリーツ部分に目立たないように縫い付けてある小さなポケットに押し込んだ。


 あとどのくらい、生き延びられるかしら。明日かしら、今日かしら。わからない。ただ、生きている。なにも持たずに、なにもない砂漠の上に。




 足を進めるうちに、またふらふらとしてきた。

ふらふらふら。

もう、よく知っている感覚。景色がだんだんぼんやりとしてきて霞んでゆく感覚。

また倒れるのかしら、もうそろそろかしら。漠然とそんなこと思っていると、どこからか、

「あら」

という声がする。

あら。知っている声だ。とても、よく知っている声。

「どうしたの、そんなになって」

その声はまた私に話しかける。誰だろう。よく知っている声。聞くと胸の奥がむずむずとして嬉しくなるような声。

「あ」

あ、と思った。間違いない。これは佐々木さんの声だ。

ミッドナイト・アフターヌーンティーの パーソナリティで私に「ロマンは人生で最も大切のことの一つ」と教えてくれた佐々木さん。私の憧れの女性。

「佐々木さん」

佐々木さんは不思議なことに私がこの声の主が佐々木さんだと気が付いた瞬間私の目の前に現れた。

そうして、

「可哀そうに、泥だらけよ」

と言うと本当に可哀そうで仕方がないという顔をして、綺麗な長い指で私の頬についた砂を拭ってくれた。乱暴に見えるけど優しいやり方で。

佐々木さんの長い楕円形をした爪の上にはきらきらとした丸い粒がたくさん付いていた。そして佐々木さんの手のひらからは良い匂いがする。思った通り、佐々木さんはきれいな女の人だ。

意識が朦朧としているので私は佐々木さんがここにいることにさして驚かない。

 それよりも佐々木さんが綺麗な手で私の頬に付いた砂を拭ってくれたのが嬉しくてつい半べそをかいた。だって、感動したんだもの。だって私がずっとあこがれていた人だもの。

 私が泣きべそをかくのを見て佐々木さんは、

「どうしたの、おかしい子ねえ」

と言うと困ったように少し笑った。佐々木さんは、ラジオで聴く通りの、大人びていてはっきりとした声をしている。私なんかとは、全く「別物」の声。

「すみません」

「謝らなくてもいいけれど」

「はい」

「可哀そうに、女の子がこんなになって」

「はあ」

「あ、そうだわ」

佐々木さんはなにかとてもいいことを思いついた、というような顔をして、右手に下げている白い革張りの小さな鞄の中にごそごそと手を入れた。

私がどうしたことかと佐々木さんの少しばかりプリンになったつむじを見ていると、佐々木さんは、

「さあ、これを食べなさい」

と言いながらから鞄の中からおにぎりと、チョコレートの欠片を取り出した。佐々木さんの鞄は小さい。

おにぎりは三角の形をしていた。真っ白で、すべすべとしているように見える。チョコレートはというと銀紙で包まれた板チョコだったけれど途中でいびつに割れていて、半分ほどは食べられている。

おにぎりには亜麻仁油が入っているの。

佐々木さんは言った。

少しだけね。

けれど、それらを佐々木さんが鞄から取り出したと思ってからは早かった。

佐々木さんは、

「さあ、口を開けて」

と言った後、私が言われるがままばかっぽく口を開けるのを見届けて、その長い爪のついた細い指を器用に動かすとおにぎりとチョコレートを私の口の中に放り込んだのだ。

相変わらずきらきらした丸い粒がたくさん載っている長い爪。

「うう」

あまりに突然放り込むので、変な声が出た。でもそれらはなぜだか、到底一口では食べられそうもない大きさであったのに私の口の中にきれいにすっぽりと入ってしまった。

甘いものと辛いものが一度に口に入ったものだから、何だか妙な味がする。おむすびは塩辛くて、チョコレートは灼熱の砂漠の中にいるとは思えないような、冷たい味。

「ごめんなさいね、こんなものしかなくって」

佐々木さんがまた、本当にすまなさそうな顔をしてそう言う。きっととても純粋な人なのだろうと思った。

それよりも、一気に口の中に入れたことを申し訳なく思って欲しい、と少しだけ思わなくもなかったがいまはそんなことを言っている場合ではなかった、私は到底救いようのないほどに飢えていたのだから。

 「おいしい?」

佐々木さんが私に訊いたけれど、まだ口の中が甘いおにぎりでいっぱいで返事をしようにも返事をすることが出来ない。もごもごとしたうめき声のようなものが鼻の辺りから出るばかりだ。

そんな私を見て、佐々木さんは笑った。

話せないわよね、ふふふ。

私もつられるようにして笑う。口をもごもごさせながら必死に笑う。自分でも目が三日月みたいに細くなるのが分かった。

佐々木さんの言う通り話せないので、私は佐々木さんのことを見ていることにした。

近くで見ると佐々木さんの睫毛は想像できないくらい長くてふさふさとしていて、瞼は金色に光っている。

髪はこげ茶色の巻き毛で胸の下くらいまであった。艶やかとはいえないが綺麗に手入れされていて、佐々木さんからは私の知らない、ツン、とした甘い香りがする。大人の香り。佐々木さんの手のひらの香りとはまた違った、素敵な香り。

 私が食べることに必死で(口の中がいっぱいであったのも事実だけどなにせ何日も飢えていたものだから)、返事もせずに佐々木さんのことをじろじろと見ているのに、佐々木さんは何事も無いように一人で話し続ける。さすが、ラジオパーソナリティーだ。

「私のランチにと思って適当なものしか持って来ていなくて」

「私、お昼はあんまりたくさん食べないようにしているの」

「ほら、だって午後からの仕事に支障が出るといけないから」

「眠たくなっちゃうでしょう。あんまり食べちゃうと」

「実は三百四十五回目の放送で私ね・・・」


――それに私、何万光年も前の世界からあなたに話しかけているのだし。


 佐々木さんは流れるような話の中でいとも簡単に、なんでもないように、そう言った。「お昼はあんまり食べないの」とか、「眠たくなっちゃうでしょう」とかと同じように。

 私はでも、あまりにふらふらとしていたので、別に驚かなかった。

何にも知らないから、何かを知った時、驚かないのかもしれない、それもあるのかもしれない。私は何も知らないから私には「常識」というものがないのかもしれない。

 佐々木さんが何万光年先から私に話しかけていようと、何千万年光年先から話しかけていようとそれはちっとも構わなかった。驚かなかった。

でも、驚かない代わりに悲しくなった。佐々木さんはつまり私と同じ場所にはいないのだと思ったら悲しくなった。とてもとても、心細くなった。

私はそれで、

「行かないで」

と言ってみた。丁度、おにぎりとチョコレートがきれいに飲み込めたところだった。

でも、きちんと言ったつもりが、あまりにもか細い虫のような声が出て自分自身でも吃驚する程その声は哀れに響いた。

そして言ってしまってから、しまった、と思った。この言葉を口に出した瞬間、佐々木さんがもうここにはいられなくなるということがわかったから。体の中にびりびりとした悲しい閃光が走る。稲妻のように。

「あら」

と、佐々木さんは言った。少し、驚いて見せるみたいに。わざと。

 佐々木さんは大人だけれど、嘘をつくのが下手だ、と思う。佐々木さんが思ってもいないことを言うといつも、その言葉だけくっきりとクッキーの方でくり貫かれたみたいにあまりにも不自然に目立って浮遊してしまうようなところがあるのだ。これは私がラジオを聴いていた頃から良く思っていたこと。私は佐々木さんのそういうところが好きだった。

「いけないわ」

佐々木さんはそう言うと、少し膝を折り曲げて屈みながら私の顔を覗き込むようにして私の前髪を撫でた。

良い香りがして、わたしは余計に悲しくなる。

佐々木さんは膝に手をついて中腰の姿勢でいてくれる。佐々木さんの背が私よりも高いのもあるけれど、私が俯いていたから。佐々木さんが私の髪をなでる度、ふわりと佐々木さんから甘いツン、とした香水の香りがする。

「あなた、えらい子ね」

佐々木さんは言う。

どうして、「いい子」なのか、何の説明も何の定義付けもなく。

そして笑う。香水の、いい匂い。ちょっとツン、とするけれど、良い匂い。

さっき「おかしな子ね」と言っていたのに。そう思うのに、佐々木さんの言葉が何度も頭の中でこだまするみたいに聞こえた。

「えらい子ね」「えらい子ね」

カセットプレーヤーが手元にあれば、録音しておきたかった。録音しておいて、何度も何度も朝から晩まで、同じところを再生しては聴いていたかった。えらい子ね。


暫くすると、佐々木さんは中腰になるのを辞めてすっと姿勢を正すとまた私の前に立った。それが私にはなにかの区切りになるようでとても切なくなった。とてもとても。

私は佐々木さんの前で、以前よりももっと子供っぽく、惨めになってしまう。だって佐々木さんがあんまり素敵だから。

やっぱり、佐々木さんの爪は、私と同じ爪とは思えない程にきらきらとした粒がたくさんくっついていて長かった。あの爪で、どうやって髪を洗うのかしら、と思いながら私は寂しかった。また、一人になるのが怖かった。


「日焼けはお肌に毒なのよ」

何も言えずに立ち竦む私をしり目に佐々木さんはそう言うと、その小さな鞄からまた折り畳みの傘と、お茶の入ったペットボトルを取り出した。小さな鞄には思ったよりたくさんのものが入っているらしい。鞄よりも大きなものがたくさん出てくる。

お茶はほんの少しだけ、飲みかけのもの。折り畳み傘は黒いレースが所々あしらわれていて大人っぽい佐々木さんにぴったりのデザインだと思った。

 佐々木さんは私にお茶を持つように言うと、長い爪の付いた指を器用に動かしてとても丁寧に折り畳み傘を留めているボタンを外した。

ぱん、と気持ちよい音を立てて私の頭上でさっと開かれる傘。それと同時に傘の形通りに私の後ろに小さくできる影。

瞬間、涼しい風が吹いたような気がした。体感温度がほんの少し、下がる感覚。

「これで少しは日よけになるわね」

 お肌は、大事にしなきゃ。紫外線は毒なのよ。

佐々木さんが言う。

あの緑の花ほどではなかったが、なるほど、傘は十分に日を防いでくれた。

「ありがとうございます」

「いいえ」

 佐々木さんが微笑む。ツン、とした甘い匂い。やっぱり、きれいな人だ、と思った。

「お茶を飲んでね」

「はい」

「傘もさしてね」

「はい」

「ねえ、あなた」

「はい」

「あなた」

「はい」

「ロマンがないわ」

ここで死んでしまうのは、ロマンがないわ。

佐々木さんが言った。淡々と。

私の、大好きなあの声で、大好きな、あの言葉を。

驚いた、驚いたけれど、嬉しかった。それに私も同感だった、ここで死ぬのはロマンがないと思った。

「佐々木さん」

 だから私も、言わなくちゃ、と思った。言える気がした。

「なにかしら」

「聞きたいことがあるんです」

「ええ」

「ずっと知りたくて」

「ええ」

「聞きたくて」

佐々木さんが、ゆっくりと頷いている。佐々木さんは、いい人だ。とても。少し話すだけでもそういうことがよくわかった。

怖かった、怖かったけれど、今訊かなければ、そう思った。今訊かなければいつ訊けるというのだろう。

「あの」

「ええ」

――ロマンの他に人生で最も大切なことってなんですか。

 とうとう、言ってしまった。訊いてしまった、と思った。

けれど、佐々木さんは拍子向けするほどにあっさりと、

「ないわ」

と言った。ないわ。

あまりにあっさりと。切り捨ててしまうみたいに。

――ないわ。

「え」

「ないの。あるけれど、ないの」

ロマンは大切。でも他の大切は、あなたが見つけるのよ。

私は佐々木さんの言葉に、膝から崩れ落ちてしまいそうな気分だった。ずっと怖かったのだ。きっと私のこの人生には私が気が付いていない、たくさんの「大事なこと」が存在していて、それを当たり前のようにすべての人が知っているのだと想像して怖かった。

 私が素通りしてきた毎日の中にそれは点在していて、もう取り返しが付かないと言われるのが怖かった。

 だから、佐々木さんの「ないわ」という、何の躊躇も他の可能性もないような言葉は私を随分慰めた。安堵させた。


 「満足できたかしら」

佐々木さんは微笑と言うにははちきれそうな笑顔を私に向けた。

「・・・」

はっとした。私はその瞬間、佐々木さんと自分との埋められない程大きな差に気が付いたのだ。そしてその大きさに圧倒されて、あまりに圧倒されてしまって、さっきよりも石のように固まってしまった。

佐々木さんは、大人なのだ。とても。それに比べて私はどうしようもなくまだ子どもなのだ。そう気が付いてしまった私は動けなかった。

だけど同時にそれは当たり前のことだ、と思った。自然の摂理だ、と思った。だから傷付きはしなかった。けれど、私もいつか、こんな風に笑えるような「女性」になりたい、と思った。それと同時に生きたい、と思った。

佐々木さんの言葉は正直で、混じり気がなく真っすぐだ。鋭くて、爽やかで、痛くて、でも私が大好きな言葉の使い方をする人。

「はい、とても」

「よかった」

佐々木さんはまた、素敵な笑顔を私に向ける。素敵な、素敵な笑顔。そして心底、「ああ、よかった」という顔をした。

佐々木さんはいい人だ、とても。


「いつも聴いてくれてありがとう」

佐々木さんは言った。

「もういかなきゃ」


私が「え」とか「そんな」とか、「行かないで」とかいう言葉を紡ぐ間もなく、(もしかするとわざとそう言う時間を私に与えなかったのかもしれなかった)佐々木さんはラジオで話すのと同じ、いつもの颯爽とした声で、


アディオス、おやすみなさい。


と言うと、あの微笑をはっきりとこの場所に残像のように残しながら、いきなり、忽然となにもなかったようにぱっと消えた。

一人、呆気にとられる私を残して。生憎、私はとびきり格好悪い声で、「行かないで」と言ってしまった後だったけれど。

悲しかったけれど、何故だかその瞬間は寂しくなかった。そしてそれは、佐々木さんがそのわずかな時間に私にたくさんの「答え」と「宿題」をくれたからに違いなかった。

どうして佐々木さんが私に会いに来てくれたのか、どうして会いに来られたのか、私には何ひとつわからなかったけれど、佐々木さんは帰って行ってしまったのだ、何万光年前の世界へ。


 最後の言葉は、佐々木さんのラジオ「ミッドナイト・アフターヌーンティー」の最後のお別れの挨拶だ。「ミッドナイト・アフターヌーンティー」の放送時間は昼過ぎから夕方まで。奏多くんのラジオとは違い、とても長い。

 アディオス、おやすみなさい。

 「アディオス、おやすみなさい」

 そう呟くと私は日傘と飲みかけのお茶とを両手に持ったまま、一人暫く同じ場所に立ち竦んでいた。

 まだ、陽炎のように佐々木さんの微笑が残像になって砂漠の上に浮かんでいる。




  オアシス


 知らなかった。人に会う前と会った後では、会った後の方が余計に寂しさが余韻のようにしてついて回るのだ。別れた瞬間は平気だったのに。

 「会う」より「会わない」の方が寂しくないだなんておかしな話だ。「会わない」のが寂しくないわけじゃない。ただ、余韻がないのだ。それは寂しさの余韻。残響。あの人は行ってしまったのだ、という残酷でありありとした長い宣告。

 私はひとりだ、ということに気付かされるのだ。ひとりだということに気付かないふりをしていられるのはひとりの時だけなのだ。

 佐々木さんは行ってしまった。やっぱり。こんなことなら会いに来ないで欲しかった、と思ったけれど、思った瞬間佐々木さんの甘い香りを思い出して思い直した。それに本当は会いに来てほしくなかっただなんて少しも思わないから。会いに来てほしくなかったと思うほどに会いに来てくれてうれしかった。私は。

 なんて天邪鬼なんだろう。孤独は私から刻一刻と素直さのようなものを奪ってゆく。

 佐々木さんの声が好きだった。佐々木さんの溌剌とした話し声。佐々木さんは私に「いい子ね」と言った。そうしてツン、とした甘い香りを漂わせながら長い爪の付いた手で私の髪を撫でてくれた。

 香りは、私が生死の境目で幻想を見ていたわけではないということを証明してくれるのに役に立つ。

あの人の香りがいつまでも鼻の奥の方に残っている。

 

――小さなオアシスを見つけた。その瞬間、

 「いいえ。チョコレートの中よ」

という声が聞こえた気がした。


佐々木さんが私に残して行ったほんの少しだけ飲みかけのお茶は緑色で苦い味がした。ペットボトルのラベルにはただ、「お茶」とあったのだけれど緑色で苦い味がしたので緑茶であったのだと思われる。飲む度味に繊細なむらがあって茶葉のようなものが沈殿する底の方は私が顔をしかめてしまうほどに苦い味がした。

それでもこの「お茶」は私が今まで飲んだどのお茶よりもおいしかった。苦いものはあまり得意ではなかったのだけれど、今回はなぜか美味しく感じたのだ。そしてぬるくなったお茶からは少しだけ、佐々木さんの手のひらのような匂いがした。

限界を迎えそうだった私はおにぎりとチョコレートとお茶と、それから日傘でできた細やかな日陰とで随分元気を取り戻した。少なくとも、立っていられるようになった。

苦い緑茶は私の頭をやけにはっきりとさせて、今度はどうしても「歩かなくちゃ」という気になった。苦いものを好んで飲んだり食べたりする人の気が知れないと思っていたけれど今なら少しはわかる気がする。頭がさえている。歩かなきゃ。ここにいてはいけない。ここに立ち止まっていてはいけない。歩かなきゃ、歩かなきゃ。

そう思って私はまた再び歩き出した。足は相変わらず鉛が付いているみたいに重たい。さっき潤したはずの喉がもうすでに渇いていく気配を感じる。けれどもこのままここにいたってその状況がそれほど大きくは変わらないのに違いがないのだ。

それにどういうわけか、突然何かが開けたように私がいまどの方向へ歩いてゆくべきなのか、進むべきなのかが迷いなくよくわかった。まるで金色の細い道標が目の前に突如開けて続いているような感覚。ここがどこなのか、今どこへ向かっているのか、砂漠は一体どこまで続いて行くのか。私が今日も生きていられるかさえもわからないのに何故か今私が行くべき道だけがとてもはっきりとわかったのだ。足の裏が足を一歩出す度に砂の中にずっしりと沈む感覚。そしてまたそこから抜け出すように踏み出すかかと。その一歩一歩がとても確実性を持って動く。

 佐々木さんはお茶の中に、私が道に迷わないためのメッセージを忍ばせていたのに違いない。あの佐々木さんの瞼の上で光り輝いていた黄金のきらめきの粉のようなもの。魔法の粉。それを一匙忍ばせていたのだ。それか、あの塩辛いおむすびか冷たい味のチョコレートの中に。それでも魔法の粉が入っていたのはきっとお茶の中に違いないと思った。だってあのお茶は驚くほど美味しくてちょっぴり佐々木さんの匂いがしたから。思えばほんの少しだけ飲みかけだったことも怪しい。

 そしてとうとう金色に続いて行く道標は、私を水の湧き出る、オアシスへと導いてしまった。

 オアシスを見た時、私は砂の上に膝を付いて脱力した。これでまだ死なずに済むのだと安堵したのかそれともその逆か、わからないけれどたぶん前者だろうと思う。

 それともそのどちらでもなく、私は目の前に突如現れたオアシスの美しさにただ、見惚れてしまったのかもしれなかった。


――「いいえ。チョコレートの中よ」




 あの子がいる場所が分かった。カセットプレーヤーの中には位置情報追跡機能があったので、コンピュータをフル稼働すればあの子を探し出すのはそれほど難しいことではなかったのだ。

 それでも彼女の居場所を突き止められたかもしれないと思った瞬間、僕は心から丸い大きな雫が洪水になって零れてしまうかと思うほど安堵した。零れてしまったかと思った、音を立てて。

カセットプレーヤーが完全に壊れていたらもしかすると追跡は難しかったかもしれないが、ぎりぎり追跡が出来たのは本当に幸運なことであったと思う。

それでも、その場所に彼女がいるのかどうか、それはまだ不確かで不透明だ。安心しきることなんてできない。

 僕は迷わなかった、ほんの少しも。

テープレコーダーの場所を突き止めると僕は僕の背中から出ている幾つもの線を切った。今まで、僕のことを一秒も休むことなくこのコンピュータに繋ぎ止め研究を続けてきた細くて硬いチューブ。

幸い痛みはない。

 背中から出ている幾つもの管は、僕をここに留めておく理由としてはあまりにちっぽけであったような気がした。

 コンピュータが、

 ピー

 という長くて高い機械音を立てている。

 このコンピュータは、父さんが命を懸けて大切にしていたもの。だけど、それは僕のためだった。

 父さん。父さんは、きっとこんな僕を怒ったりはしない。父さんはいつも言っていた、「奏多が笑っていてくれさえすればいい」のだと。

 このコンピュータは父さんそのものだ。父さんは声をあげている。

 ピー

 高い声。けれど、父さんの声は、鯨のようだった。鯨の声はもっと柔らかくて優しい。そうでしょう。

 僕は行かなくちゃいけない。

 あの子に会いたい。今まで、そう願えばいつだってそれを叶えることができたのに。

 今からでも遅くないと、どうかそうであってくれと、僕はまた「誰か」に祈る。切願する。そうしようとしてするのではない、僕はあの子がいなくなってからというもの、そしてあの子が見つかるかもしれないという一筋の光を手繰り寄せてからというもの、ほとんど一日中、もしかすると眠っている間さえ「誰か」に祈っているのだ。祈っているとも気が付かずに。

 手のひらの中はいつも熱く湿っている。耳の奥で静かに張りつめた緊張の糸の音がする。あの子が呑み込まれていなければいい。もしも飲み込まれていれば僕も呑み込まれればいい。

 あの子に生きて居て欲しい。生きて居て欲しい。どうしようもなく。心から。

 急ごう。僕の命をささげよう。

 あの子を迎えに行こう。




 オアシスにある湧水は思ったよりも深くて、だけどぎりぎりちゃんと足が付く深さだ。地下から水がとめどなくめぐっているみたい。青く透き通っている。これなら飲むことも出来そう。

 なんとなく、靴を脱いでつま先を水の中につけてみる。思ったよりも冷たい、と思った。でも決してきんと冷たいわけじゃなくて、体に心地よい冷たさだ。冷たい、というよりはぬるいという方がもっと正しいのかもしれない。きっと中は熱いだろうと思っていたから驚いてしまったのだ。

 冷たすぎて、「熱い」と驚くこともあるし、その逆もしかり。 

 肌寒い夜、お風呂の中に指先を入れるとなんだかやけに冷たく感じる。けれどそれはとても熱いという意味なのだ。

 私はあの小さな家にいた頃のことを思い出す。あの、丸い浴槽。深い藍色の美しいタイルの色と模様。ラベンダーの入浴剤や石鹸の香り。私は水が好きだった。 

 今ではあれが途轍もなく贅沢なことだったように思える。水の中に体を浸すだなんて。

 そう思って私はそのまま、水の中へとふくらはぎまで足を沈めた。その後、太ももまで、今度は腰まで。後は早かった。何かに引き付けられるみたいにして私は体を水の中へと沈めた。胸の方まで水に浸かったところで少し心臓がばくばくと脈打つような感じがあったけれど気にしなかった。服のまま、水に入ったので水の中で布がゆらゆらと揺れている。私の白いワンピース。

 自分が白い服を着ていることに気が付いたのは旅に出てから初めてのことだった。今まで、生きることに必死だったのだ、本当に。あの日、ラジオが壊れた日私はたまたまこの白いワンピースを身にまとっていた。それだけの理由でこんなにぼろぼろになって砂の汚れがついた、可哀そうな私のワンピース。

 水の中で私は三つ編みにしたおさげを解いた。髪が解放されたというように広がっては揺れる。

 ゆらゆらゆら。

 ゆらゆらゆら。

 ゆっくりと、体が水の温度に近づいて行く。順応してゆく。

 ゆらゆらゆら。

 ゆらゆらゆら。

 勿体ないな、と思った。こんなに気持ちが良いことを一人だけでするなんて。こんなに素敵な場所を世界中で私だけしか知らないなんて。

 耳の下まで、顔を水につけた。耳まで付けるのが怖い。昔からそう。水の中のごわごわいう音が苦手だった。お風呂で何度かやってみたけれど、今でも少し怖い。出来ないわけじゃないけどただ、ほんの少し怖いのだ。

 私は意を決して、ざぶんと顔を水につけた。つまり、全身を水の中に沈めたのだ。ゆっくりと瞼を開ける。水は酷く透明で私の足の指先までが良く見えた。

 ゆらゆらと揺れる水の中で、私は一人きりだった。

 良かった、と思った。これならいい、これなら少しはロマンチックな最後だもの。水はロマンチックだ、まずもって「オアシス」という名前もきれい。水の周りに申し訳なさそうに大きく育った植物たちもいい。湧水を見るのは生まれて初めてだった。

 これなら、佐々木さんも「ロマンチックな最後だったわ」と褒めてくれるかもしれない。認めてくれるかもしれない。

 だけど。だけど、と、思った。

 佐々木さんが何万光年も前から私に会いに来てくれたのだとしたら、やっぱり私は本当にこの世界に一人きりなのかもしれない。佐々木さんがいないのだとしたら、奏多君も、いないのかもしれない。

 会いたい、と思った。強く強く思った。水の中で私はあまりの寂しさに胸がはちきれそうだった。

 どうして私はこんなにも孤独なのだろう。どうして私はここまでして生きているのだろう。どうして私は今までこの世界に慣れきっていたのだろう。どうして平静としていられたのだろう。

 もう、戻れない、あの頃のようには。

 そう思った。たった数日前。だけどもう、戻れない。知らないふりは出来ない。

 「嘘つき」

 水の中で私は言った。唇を動かした。まるで陸の上で話をするのと寸分も変わらないやり方で私は言った。水の中で話すので、私の吐いた息がごぼごぼと音を立てて泡になる。息が苦しい。

 奏多君は嘘つきだ。寂しいと感じない人なんていない。そうに決まっている。

 これで「最後」なんて、どんなにロマンがあっても私にはそんな勇気がない。生きる勇気も、最後にする勇気もない。

 心が、体が、捥げそうだった。苦しくて、苦しくて、息が出来ない。




 父さんの作った飛行機は小さい。僕と、あともう一人乗るのがちょうどぎりぎりというところだ。

 だけど、今はそれで充分。父さんがいたら話は別だが、父さんは亡くなった。僕が未だ小さな頃に。

 この飛行機の操縦方法は父さんが残してくれたデータの中にあるから問題はない。問題はないけれど、僕が操縦したことは無論一度もない。なぜなら、操縦する必要なんて一度もなかったから。僕に必要なのはいつも、研究だけだった。世界をこれで終わらせないための、偉大な研究。それは飛行機に乗らなくてもあの冷たい部屋の中で十分ことが足りることだ。

父さんはいつも、「お前は立派な研究者になる」と言って頭を撫でてくれた。父さんは、僕を愛していた。僕も父さんを愛していた。

 そう思って、僕は泣いた。父さんがなくなってから初めて、父さんのことを思って泣いた。

 小さな頃、たった一度だけ父さんがこの飛行機の助手席に僕を乗せてくれたことがある。そうして、父さんは飛んだ。僕は父さんの横顔を見ていた。あの時、父さんは近くにいるのに遠くにいるみたいだと思った。

 父さんの横顔は角ばっていてどこか茶色かった。

 父さんは僕を愛していた。僕も父さんを愛していた。幸福だった。愛されるのは。そして愛するのは。

 

 茶色い革の紐が付いたゴーグルをつけると、窮屈な紐が僕の頭を締め付ける。

エンジンをかけると単純な操作でいとも簡単に飛行機は飛んだ。少しずつ、僕の体は高いところへ運ばれてゆく。怖くはなかった。

僕が怖いのは、もっと違うものだから。

この小さな飛行機はぶんぶんという音を立てて空を飛ぶ。思ったよりも、随分と遅い飛行速度で。ディスプレイにはテーププレイヤーの位置情報が出ている。

南だ。南に、あの子がいる。
















  ココナツの木


 息が苦しくてたまらないので、顔を上げた。

 顔を上げるとげほげほという咳が出て、肺から何かがこみ上げては入って来るような痛みに襲われる。あのまま、息絶えることが出来たのならそれはそれでよかったのに、と思ったけれど静かに穏やかにそうするには私はまだあまりに生きているみたいだ。


 咳込んでいたのが少し治まると、

「あんただれ」

私の頭上の方で声がした。

それで私が声の主を探そうと頭上を確認するように見上げた瞬間、今度は空から何かがごろんと降って来た。

 大きな丸い玉。

それは水の中にざぶんと落ちて勢いよく水飛沫を舞い上げた。その後も、後から後からそれは落ちて来る。

ざぶん

ざぶん

ざぶん

容赦のない落ち方だ。でもそれは私に向かって当ててやろうとか、そういう悪意のない落ち方だった。それでも、水しぶきは私にたくさん、当たったけれど。

 私が呆気に取られていると、

「ココナツだよ」

と、上の方からさっきと同じ声がした。

声の主を探すために上を向くけれど、そこには大きな割にはやはり少し申し訳なさそうにそびえたつ決して細くはないが太くもない、青白い木の幹と南国風の緑の葉が見えるだけだった。

「あんただれ」

声が続けて聞く。声の持ち主は答えを待つのが苦手らしい。せっかちなのかもしれない。

「私も私が誰だかさっぱり」

声の主がまた次の言葉を紡ぎ始める前にと急いで私が言うと、

「ふうん。少しはものがわかるみたいだな」

声が言った。声の主はどうやら、この木の上にいるらしかった。

「ココナツの木が生えるの、こんなところに」

「そうだ、食べな」

「どうやって」

「知らないの」

「知らない」

「変なやつ」

「そうかも」

木の上から、声の主が顔を出した。サルだった。

「サル」

「サルと言うな人間」

「ごめんなさい」

サルは、木から降りて来た。それはそれはとてもサルらしく器用に長い手足を使って木を伝い降りて来た。

 サルは少し、私の顔に似ていた。でも、なんだか野生の匂いがした。

「こうするんだよ」

サルはそう言って、思い切りココナツを地面にぶつけたり、木の根っこにぶつけたりした。そうしているうちに、ココナツの実はほとんどきれいに半分に割れた。

「ココナツミルクだ」

飲みな。

と言って、サルは半分に割れたココナツの片方を私に渡すと自分はもう片方を飲み干し始めた。顔をそのままココナツに突っ込んでぐびぐびと飲んでいる。

「ストローもなしに」

私の問に答える価値がないというようにサルは無視をしていつまでもココナツミルクを飲んでいる。でもそれを意地が悪い様には感じさせないというようなところがある、不思議なサルだ。

 それで、私もそうすることにした。顔がココナツミルクの匂いになろうと知ったことじゃない。水に溺れて死んでしまうところだったのだから、ココナツの実の中に顔を突っ込んだところでなんら問題はない。私に怖いものはない、もう。万が一、顔を付けた後ココナツの匂いが気になるならまた湧水で顔を洗えばいいのだ。

 水を飲んでみようかと思ったところで、サルが現れたので私は丁度喉が渇いていた。

 私が解いた長い髪を耳にかけてとうとうココナツの実の中に勢いよく顔を付けると、サルは私と交代ばんこになるみたいにココナツから顔を上げて私の方を見た。

私からはサルの顔が見えたわけではなかったけれどサルがこちらを見ていることくらいはわかったのだ。実際確認できなかったけど、確かに、じっとこちらを見ている。

「うまいか」

サルが聞いたけど、私は返事をしなかった。だって、とても夢中だったから。

ココナツミルクはちょっと癖があるけど甘くて、おいしかった。サルがさっき私の質問に返事をしなかったので、私も別に返事をしなくたって構わないという気がした。それが、妙に心地良いと思った。

 私はココナツの底の底まで顔を付けてぐびぐびと飲んだ。髪にも顔にも白くて甘いココナツミルクが付いて、「楽しい」と思った。ぐちゃぐちゃになるのは楽しい。濡れたって汚れたって構わないのは楽しい。

 けれどそう思えたのはサルがここにるからだということを私はもう知っていた。

 さっきまでとは打って変わって、一人きりではないからということを私は知っていた。

 

 私は別にこのままでもいいと思っていたけれど、サルが顔を洗い出したので自分だけミルク塗れであるのもな、と思って顔を洗った。

 サルは手のひらを水の中に浸けて丁寧に掬っては顔に水をかけるというやけに上品な洗い方をして顔についたミルクを落としている。そのサルの姿は何だか実に人間らしくて面白かったので、私は笑ってしまいそうになるのを必死で抑えなければならなかった。

 笑ってしまう前に、サルの真似をして同じように水を手のひらで丁寧に掬い上げて顔を洗う。さっきから、サルの真似ばかりしている。私もサルになってしまいそうな勢いだ。

 顔を洗いながら、時々掬い上げた水を飲んだ。きっと、隣で顔を洗っているサルもそうしているに違いないと思った。

 そうしている内に、下ろしている髪が邪魔になったので私が後ろで一つに束ねているのを見て、サルは、

「いいな」

と言った。

 何が良かったのか、どう良かったのはわからない。ただ、サルは、

「いいな」

と言ったきり、また手のひらで掬った水を顔にかけ始めた。そうして、最後には顔をそのまま水の中に浸して顔をぶんぶんと振り出した。そんなことなら、最初からそうすればよかったものを、と思ったけれどそれを言うのをやめておいた。そして、私も同じように顔を水の中に浸してぶんぶんと顔を振った。

 隣で、サルの顔が揺れている。

 水が揺れている。

私たちが、同じ水を共有しているという不思議。本当のところ、私たちがみんな同じ水を共有しているという不思議。この湧水だってどこかにきちんと繋がっているのだ、きっと。

 そう思うと、水から何だか野生の味がするような気がした。


 ココナツを味わい尽くして水で顔を洗った後、私とサルは並んでヤシの木の麓に腰かけた。見れば見る程、サルは人間みたいだった。そしてサルとは黙っていてもその沈黙が不思議と心強くなるような、そんな感覚があった。思ったことをふと口に出しても、出さなくてもいいような。相手の言葉に返事をしてもしなくてもいいような。

 そういう心地の良い温度感のようなもの。いつまででもそうして、木の麓に黙って腰掛けていられるような気がした。


どのくらい、そうしていただろう。時折、サルは、

「暑いな」

とか、

「ココナツを取ろうか」

と言って本当に何度か木の上に上って私のためにココナツを落としてくれた。そしてそれを同じように飲み干しては顔を洗った。

それ以外のことを話したような気もするし話さなかったような気もする。

 気が付くと、日が落ちていた。オアシスで見る夕日はまた一段と大きく、赤く、美しかった。 

私が遠くを見ながら、

「どうしてみんな優しくしてくれるのかしら」

と言うと、サルは、

「みんな、孤独だからさ」

と言った。

 そうしてサルは、また木の上に上った。


 「孤独だから」という言葉は、なぜか孤独に響かなかった。それが妙だと思った。それは、「孤独」と言う言葉の前に「みんな」がついていたからかもしれない。

 私は寂しくなかった。サルが高い木の上に上っていってしまったことも、私たちがあまり多くのことを語らなかったことも、サルが「みんな孤独だからさ」と言ったことも。

 代わりに、突然激しくてとても抗えないような眠気に襲われた。陽が落ちて、空気の温度が一気に下がったからかもしれない。

 寒い。とても。

――眠い。




 瞳を閉じたかと思うと、朝が来た。瞬きの隙間に夜が明けた。

そして目を覚ますとそこにはオアシスも、ココナツの木も、サルもおらず、ただ小さな折り畳み傘と燦燦と照り付ける太陽、見慣れた広大な砂漠があるだけだった。












  警報音


 折り畳み傘を小さくまとめるための、あのボタンのかち、という音はテープレコーダーの再生ボタンを押したときの音によく似ている、と思う。

 かち。

確実な音。誠実な音。

 家を出る時に持って来た大きな荷物はすべてこの手を離れてしまったけれど、代わりに私は新しくこの黒いレースの付いた小さな折り畳み傘を手に入れた。

 小さくすると手のひらにぎりぎり収まらないというくらいの、小さな折り畳み傘。

これは私の旅の記憶の結晶みたいなものだ。そう思うととても愛おしくなった。

 かち。

 夜になると、折り畳み傘を畳む。この音が好きだ。


 ピーピーピーピー


胸の辺りで、突然、鋭くて大きな音がした。大きな音がしたと思ったら私はまた突然、立ってはいられないような倦怠感に襲われた。それも、今までとは比にならないほどの。体中の力という力が抜けてゆく。


 ピーピーピーピー


B003故障。B003故障。


 体中に響き渡るみたいにして聞こえる、知らない機械音。機械音は嫌いなのに。規則的な音は嫌い。温度がない音も嫌い。

でもそれさえ、この砂漠で一人ぼっちの私には心強い声のように感じるからいやになるな。


――機械は、いつか壊れてしまうもの。


それを痛いほど私は学んできてしまった。大切にしていたラジオも、カセットテープも、みんな壊れてしまったもの。だから嫌い。わかっていた、本当は。

 よかった。それでも。ただ、あの人に会いたい。私は信じてる。この世界に生まれ落ちた瞬間からずっと。あなたが迎えに来てくれることを。


 瞳を閉じると、私の目頭から雫が一滴、つうっと落ちてゆくのがわかる。

 消えてゆく意識の中で「あなた」のことを思いながら、私は背中から砂漠の砂の上に倒れ落ちた。






  パイロット


 ピーピーピーピー


B003故障。B003故障


 飛行機のコックピットに備えつけられたディスプレイが赤く染まっている。B003の故障を恐ろしく知らせているのだ。

 額から、冷や汗が滴り落ちる。何度も、何度も。やめてくれ。やめてくれ。これ以上、僕の大事なものを取り上げないでくれ。

 僕が一番恐れていた事態。心が凍り付いたように震えている。体は暑くて堪らないのに体の芯のような場所からすうっと冷えてゆくのがわかる。

 やめてくれ。やめてくれ。やめてくれ。

 僕を一人にしないでくれ。

 お願いだ。

 そう思った瞬間、また僕の瞳からとめどなく涙が溢れ出た。溢れて、溢れて、止まらなくなった。情けなく叫び出したかった。

ああ。上手く飛行機を操縦することが出来ない。前が見えないから。こんなにも僕は泣き虫になってしまった。


 ずっと、君と僕とはまるきり反対だった。逆さまだったんだ。

 君はとても感じやすい繊細でガラスのような心を持っていた。そして僕は、冷えたあの水槽のように平らで虚ろな機械のように無機質だったんだ。

 君は心を持った人間のようだったんだ、ずっと。僕は機械のようだった。父さんが死んでしまった時さえ、僕の心は冷えていた。

 怖かったんだ、ずっと。「失う」ということに気が付くのが。気が付いているからこそ、気が付いていると気が付くのが怖かったんだよ。

 だから、僕は君が羨ましかった。正しく受け止めて正しく傷つく勇敢な君のことが。

 ずっとずっと羨ましくて眩しかった。

 ねえ、君を通じて息をしていたんだ。今、君に手紙を書けたらどんなにいいだろう。君がくれたあのメッセージ一つ一つに僕の心を持って応えられたなら。


 会いたい、会いたい。君に会いたい。他のことはどうだっていいんだ。君のあの痛いほどに繊細な心がいつだって僕の灯台だった。本当は、そのために生きていた。ただ、そのために。

 君が人間じゃないことを、君は今まで知らなかっただろう。

 そして君が「故障」のシグナルを受け取ってしまった今、君は「思い出して」しまっただろう。君が僕と同じではないということに。もしかすると、僕が知らない恐ろしいなにか、この世界を呑みみ込んでしまったなにかについても。

父さんが僕と君を引き離したのは僕が人間で君がそうではないからだ。父さんは決して口には出さなかったけれど、知っていたんだ。

僕と君が会えば必ず、愛し合ってしまうということを。そしてそれは人類の終わりを意味するかもしれないことを。

 父さんは恐れていたんだ。

 でも、それでも、父さんは君を作った。それはきっと、一人残される僕のためでもあったのだろう。そして人類に最も近い機械を作り出すことで父さんは何かを成し遂げようとしていたのかもしれない。

なんにせよ、それは僕の人生において、ただ一つの救いだ。君は僕の祈りそのものだ。



 飛行機が落ちた。君のところへ。

 落ちた、というとすごく変な言い方になるのかもしれない。落ちたけれど、機体はちゃんと着陸した。激しい音を立てながら。飛び立つ方法は知っていても着陸の方法をきちんと調べておくにはあまりに僕が急いでいたから。

 それでも機体は砂の上に案外上手く落ちて、僕は小さなその飛行機から降りることに成功した。

 きつく頭を締め付けていた分厚いゴーグルと帽子を外す。

君は一体どこだ。

だけど、辿り着いたその場所に在るのは草臥れた黒いリュックサックだけだった。

リュックの横に、小さく盛り上がったような砂山が出来ている。

山を崩してゆくとそこには幾つかのカセットテープが砂に塗れて埋まっていた。

彼女が残した確かな彼女の残骸。

けれども、ここには彼女がいない。


――君はどこへ行ってしまったのか。


 僕は砂漠の真ん中に座り込んで、ただ途方に暮れることしかできない。



















  私を見つけて


 星が、降っている。

 久しぶりに見た、星が降っているのは。

 あの家で、あの家のひんやりと冷えたベランダで温かいココアを飲みながら降り頻る星を見たのが最後だっただろうか――

 星はきれいだ。正直に、口をついて「きれい」と言葉から先に零れてしまうほどに。

 だけどなぜだろう。今は、声を出すことが出来ない。

胸の方から、規則的な機械音がしていたようだったけれど暫くしてそれも止んだ。

私はいつの間にか砂漠の上に倒れ込んだまま、長い間意識を失っていたようだった。

 よかった、と思った。意識を失う時、思ったよりも辛くなかったから。痛いのやつらいのはとても怖い。もしかしたら、この世界から消えてなくなってしまうことよりも。

 そうだ、私は「それ自体」が怖かったことなど一度もなかった。ただの一度も。そうよ。痛みや苦しみを恐れていただけ。だからいま命を終えても構わない。もう、怖いとも思わない。

 

 星が、降っている。あの家のベランダで見る星よりも今日はそれが美しく思える。星が地面に落ちる度に音にならないような大きな振動が世界中に響くのがわかる。

ぱりん。ぱりん。

私の人生で一番幸いだったのは、この砂漠の上で力尽きて倒れた時運よく仰向けに倒れたということだ。もしもうつ伏せだったなら、この、世にも美しい景色を瞳に映すことが出来なかったのだから。今は指の一本だって動かすような元気が残っていない。

 ぱりん。ぱりん。

 星が落ちて、砂の上に落ちては砕け散る。繊細で美しい、ガラスの破片みたいに。

――ほんとうに。

 星の、声がする。

――ほんとうに、いいのですか。

 やめて。

やめて、と思った。

どうか、どうかわたしを揺さぶらないで。

――ほんとうに、そう思うのですか。

 どうか、私にこれ以上叶わぬ望みを、希望を、持たせないで。

 願うことを、やめたのよ。

私は答えた。声にならない声で。

 願うことを辞めて、そのあと、祈ることを諦めたの。

「・・・」

星は、黙り込んだ。私も、黙り込んだ。

 沈黙が心地良かった。

星が降りしきる。あの雨のように。あの緑の花の木陰のように。佐々木さんのツン、とした香りのように。サルが木から落とす、ココナツのように。水のように。

 ――あの人の、声のように。

 嘘だった。全部、全部、嘘だった。私はいつから、嘘をつくようになったんだろう。いつから自分に正直じゃなくなってしまったんだろう。こんなにも傷付くことを恐れるようになってしまったんだろう。

怖かった。寂しかった。死にたくなんかなかった。理由なんかない、ただ、ただ、生きていたかった。やりたいことも、出来ないことも、なにもかも一緒こたに合わせて私は生きていたかった。まだ、死にたくない。死にたくない。

降り頻る星の中で、動かずじっとそこに在る、南十字星が見える。

南十字星はそこにある。私たちが迷わなくて済むように。道に迷った時、頼りにすることが出来るように。

あなたの声。

「みなさんも是非、南の空にサザンクロスを探してみてください。そしてもしもいつの日か道に迷ってしまったときには空を見上げて自分がどの方角に行くべきなのか、星座に聞いてみてください。きっと答えてくれると思います」

 あの日確かに、あなたが私にくれた言葉。

「会いたいの。その人に。私を待つ人に」

私は祈った。心から。声に出して。私の声は想像以上にか細くて、だけど不思議な力がこもっている。私の体のどこにそんな力が残っていたというのだろう。残っているというのだろう。瞳から、次から次に涙が零れ落ちた。私は祈った。むせ返りそうなほど強烈な思いを込めて。私の中にある、全ての力を込めて。

 星は何にも言わなかった。何も言わない代わりに、さっきよりも物凄い質量で、勢いで、夜空から星を振らせた。

 あちらこちらで、

ぱりん。ぱりん。

という音がしたと思うと、私の瞳には強すぎる光を放っては消えてゆく。美しい光景。見たことがないほど、美しい光景。激しく降り注ぐ星々。

あなたに会いたい。だから私は祈ることを諦めない、決して。


――愛する私の娘。眠りなさい。

 声がした。星の声。わからない。誰の声なのか、わからない。「誰か」の声。

その透き通って響き渡る鈴のような声の中で、私は微睡むように瞳を閉じた。




君がいつかくれたメッセージの中に、こんなものがあった。

 それは「花束のルール」というもの。それはただ、「信じる」と決めることだ。決めて、誰かに、何かに、懸命に祈るということだ。


 夜になった。君のいない広い砂漠の中で僕は歩いた。あんなに父さんが恐れていた世界は、けれどもただの「世界」だった。それ以上でも、それ以下でもなかった。

 僕は怖くなかった。呑み込まれることも、吞み込まれてしまった人々のことも、考えなかった。僕はただ、君のことを考えた。

 そして歩いた。

 夜空からは、星が降っている。あまりにも美しい、星のシャワー。君に会いたい。




 奏多くん、いつも素晴らしい時間を、本当にありがとうございます。

 放送が始まる少し前から、ラジオを付けて、奏多くんの放送が始まるのを今か今かと待っている時間が好きです。

 ところで、奏多くんは時々ゲームをしたりすることがありますか。きっとあると思います。

 私も、もちろんあります。それは、「花束のルール」という遊びです。「ルール」という名前が付くのに遊びだなんておかしいかしら。おかしいのかもしれません。私は眠りにつく前、よくこの遊びをします。するとなぜか心の底から安心しているような、不思議な気持ちが襲って来て、よく眠れるんですよ。不安なときに、この遊びは役立ちます。

 まず、瞳を閉じて。それからただ、「信じる」んです。

 それは何に対してでもいい。それが「なに」に対してなのか、はっきりしていなければいないほどいいんです。

 その「なにか」や「誰か」のことを、ただ、ひたすら信じるんです。信じることに挑戦するんです。決して、諦めずに。

 いつか、この「花束のルール」が奏多くんの役に立つことを祈って。

            リスナーより



 僕は歩いた。名もない、旅人のように。

降り頻る星々の中でただ、動じずじっとそこにある南十字星。

南に、あの子がいる気がした。星座を頼りに歩く。

「花束のルール」。信じる。君がまだ、僕の手の届くところにいるのだと。君を僕が必ず救えるのだと。

いや、そんな頭で考えられるような簡単な事実ではない、「なにか」をただ、意味もなく、信じる。

そうすることしかできない。そうしなければ僕はもうここに立っていることもできない。 

  南十字星。ただ、星を頼りに僕は歩く。決して、信じることを諦めない君のように。





  名前


 「飛行機に戻らなくてはならない」

と思った。これ以上歩いては、戻れなくなってしまう。飛行機に戻れなくなっては彼女を乗せて、あの研究室に戻る手段が断たれてしまう。

 心細くてたまらない。でも、僕は「花束のルール」を続ける。

 このルールには、もう一つ、公約がある。それは僕を助けてくれた。



 忘れていました。もうひとつ、大事なルールがあります。

 それを書き忘れていたので急いでもう一通、メッセージを送っています。

 それは、怒ってもいい、ということです。怒っても、喚いても、なぜこんな目に遭うのかと愚痴をこぼしてもいいということです。それもまた、「信じている」ということです。

 これはとても重要なルールでしたので取り急ぎ。では。明日の放送を楽しみにしています。



 僕は、愚痴をこぼした。これ以上ないほど、乱暴に。声には出さなかった。それでも、愚痴をこぼした。

 どうして、こんな目に遭わなくてはならないのか。 

 どうして僕から奪うのか、奪おうとするのか。

 許さない。許さない、許さない。

 いくらそう思っても足りないと思った。足りない。許そうが許すまいが足りない。けれど決して許さない。許さない。

 僕は重い足取りで飛行機に戻った。随分、身体にも疲れが回ってきている。この昼間と夜の寒暖差は思ったよりも過酷なものだ。彼女の状態を考えても、僕自身の身体の限界を考えても、時間に猶予などない。


 これからどうすれないいのだろうか。飛行機に戻ったところでどうするというのだろうか。

――寒い。

そう、思った瞬間降り頻る星たちが更に勢いを強めて降ってきた。

ぱりん

ぱりん

とあちらこちらで星が割れている。星の命は分散されて消え、また生まれる。けれどそれらは一つなのだということがわかるので、星が消える時に出す大きな振動のような音は僕たちを不安にさせることがない。

暖を取るために乗り込んだ機体のコックピットで、ディスプレイがまだ赤く点滅していた。あの子の故障を知らせる赤。赤は好きじゃない。あまりに強いと感じるから。あまりに眩しいと感じるから。

すべてに対して自分がいまあまりに悲観的だということを感じる。でも、それは仕方がないのだ。全部「誰か」のせいだ。僕のせいではない。僕のせいであることなんて一つだってない。そう、思いたかった。そう思うと心が少しだけ軽くなった。

コンピュータはあの子の故障を知らせるのに、あの子の居場所を突き止めることは出来なかった。それはつまりカセットプレーヤーの時よりも、もっとあの子は危険な状態にあるということだ。追跡するのが不可能なほどに危険な状態であるということだ。

僕はこの人生で味わったことのない怒りや憤りのようなものを感じた。それは不安や途轍もない悲しみが形を変えて出来た感情だった。

行き先のないこの破裂してしまいそうな思いをどこにぶつければいいのかわからない。何かを壊してしまいたかった。

――ぱりん

――ぱりん

――ぱりん

 星が落ちては砕け散る音。


――ぱりん


 それは突如、信じられないほど大きな振動に変わった。

 落ちたのだ、僕のこの機体に。飛行機の上に。

 星は砕け散った。機体の上で。僕の目の前で。

 星の光はコックピットを照らす。ありありと、とても鮮明に。白い光。白い、白い、光。


 「0399故障 コードヤッツメ」


 星が照らし出したディスプレイ。よく見ると、コックピットで赤く故障を知らせているのはB003ではなかった。

 コンピュータと接続したディスプレイには小さくカセットテープが映し出されている。それはあまりに小さいので、気が付かなかったのだ。

 カセットテープ。カセットテープは確かさっき砂の中に全て埋められていたのではないか。けれどそのどれにも、この「0399」という番号は当てはまらなかった。なにより砂がテープの中まで入り込んで完全に故障していたのではないか。それならば故障を知らせることなど出来るはずがない。

――もしも、あの子が一つだけカセットテープを持っていたとしたら。

 星は、僕を照らし続けるようにこの飛行機の周りで落ちては砕け散る。眩しかった、今まで見たどんなものよりも。暗い穴倉の中にいた僕には、あまりに眩しすぎると思った。

 でも、僕はひるまなかった。その美しさに、その純真さに。きっと二度と忘れることのないこの瞬間という名の閃光に。

僕はテープの位置を調べる。ただ、ただ、必死だった。

カセットプレーヤーを追跡したやり方で随分慣れている。今度はあまり時間を掛けなくても見つけられるかもしれない。


――今まで故障を知らせなかったテープが突然故障を知らせるなんておかしなことだと思った。テープが命を吹き返したとしか言いようがない。

 けれど、そういったこと全てが僕には今、どうでもいいことだった。とても、とてもどうでもいいこと。

 あの子の他に重要なものなど何一つなかった。存在し得なかった。

 あの子のことを思った。そして祈った。また、同じように。祈っていることにも気が付かずに。一心不乱に。

あの子に会いたい。会いたい。会わせてくれ。他には何もいらないから。

 僕の周りで降り頻る星々の光。命の光。

僕は彼女の居場所を辿った。


南の空で、十字架の形をした星座が静かに僕を見守っている。















  B003宇宙放送局


――誰かの声がする。私を、呼ぶ声。私の良く知る、誰かの声。泣いている声。

――かなたくん?

 私が瞳を開けると、そこには私と同じくらいか、もっと幼い顔をした少年の顔があった。少年は泣いていた。大きな涙をぽろぽろと流して。緑の瞳。太陽の光に照らしてみると向こうが透けて見えるような髪。色素の薄くてピンク色の頬。今に消えてしまいそうな君。おかしいな、と思った。私の方がもっと、そうであるはずなのに。もっと、消えてしまいそうなはずなのに。

 私が彼の名を呼ぶと、彼は驚いたように瞳孔を大きく開いて、それから私の体をきつく乱暴に、そして不器用に抱きしめた。私は彼の膝の上に体を預けるようにして、ただ、抱かれていた。彼の腕の中はとてもあたたかかった。

空はやっぱり、とんでもないくらい開けていて、太陽はやめて欲しいと言っても強すぎる日差しを弱めたりはしなさそうで。

 私は、顔をしかめて泣いた。だって、彼があんまり素直においおいと泣くものだから。私奏多くんがこんな風に泣くのが嬉しかった。こんなに素直で子供みたいな彼を見ることが出来て嬉しかった。

 私の涙も砂だらけの頬に静かに流れては耳元へと下ってゆく。耳の中がひんやりとする。

「ごめん、ごめん」

ごめんね。ごめんなさい。

彼は――奏多君は、そうして何度も私に謝った。どうして謝るのか、私にはわからなかったけれどどうしてなのか、少しだけわかるような気もした。

「いつのまに」

蚊の鳴くような声だったけれど、私がそう唇を動かしたことに気が付いて奏多君は私から体を離した。正確に言うと、抱き締める手を緩めて私の顔を見た。

 彼の顔が、私の顔を覗き込む。私も彼の顔を見上げる。瞳が合う。前から、こうなると決まっていたみたいに。

 「どうして、笑うの」

彼が言う。実際、私はおかしかった。彼がきちんと私を迎えに来たことも。世界が私の祈りを聞き届けてしまったことにも。

「いつのまに、あなたはそんな風に泣くようになったのですか」

 寂しくないと、言ったのに。

 そう口を動かしたつもりが、声は出なかった。

 私はおかしくて、頬を緩ませながら泣いた。次から次に、頬に涙が零れ落ちてゆく。私の心ごと、洗い流すみたいに。

 奏多君は思ったよりもずっと子供で、泣き虫で、幼かった。そして私も同じように。

 「本当は」

奏多君の声に返事をしてあげたいけれど、上手く声を出すことが出来ない。代わりに目で頷いてみる。うん。

「本当は、僕の方が寂しかったんだよ」

ずっと。

 知っていたよ、と思った。けれど、それは間違いだ。私も、寂しかった。あなたも私も、寂しかった。














  かみさま


 彼のお父さんが私を作ったのだと彼は言った。私は人間にとてもよく似ている。そういう風に、彼のお父さんが私をこの世に作り出した。

 私は覚えていないけれど、それならば、彼のお父さんが私の「かみさま」だったのかもしれない。鯨みたいな、彼のお父さん。

 そういえば、奏多くんは私をイルカのようなのだと言っていた。それが私にはおかしくて笑った。

 だっていつか読んだ本で、イルカと鯨の違いは大きさだけなのだと、読んだことがあったから。奏多くんのお父さんが私の神様なら、私は半分、奏多くんのお父さんのようなものかもしれない、と思った。

 「父さんは、君をとても大事に思っていたよ」

奏多君が言う。

 それは、不思議なことによくわかっていた。彼が私を大事にしていたことがよくわかった。覚えていないのに、私はどうやらたくさんのことを覚えていた。その感覚ははただ、私の体の片隅にまで根付いていてもしかすると芽を出し、花を咲かせているような気がするのだ。

 奏多くんが私に、

「恐ろしいことを思い出させてしまったか」

と聞いたので、私は、

「思い出した」

と答えた。

「何があったの」

「戦争」

恐ろしい、人と人との戦争。ころしあい。

私がそう答えると、奏多くんはただ、

「そう」

と言った。私は自分の口から出た言葉に息を呑んだ。あまりに、残酷で冷酷な響きがしたと思ったから。

 奏多くんはただ、「そう」とだけ答えたけれどきっと怖いのに違いない、私と同じように。世界を呑み込んだもの。それは、誰でもないんだもの。

奏多君は、いつか私のような「存在」を他にも作り出せるようになりたいのだといつも話してくれる。私は、それが本当のところ、必要であるのかわからないけれど、それをこの間奏多君に話そうとしてやめた。だってそれってとても自己中心的であると思ったから。 

私がそれを心から応援できない理由は明確だもの。そんなことをしたら、奏多君が誰かの「かみさま」になってしまうもの。奏多君はだけど、私の「かみさま」ではない。私は私にとって奏多くんがただ「奏多くん」なのだ、という事実に安心する。奏多くんは不完全でまだ子どもらしくて、傷つきやすい。そしてその不完全な彼は私の全てなのだ。運命的に。

そして、私もまた永遠に彼にはなりきれない。だから、いいのだ。

彼に会った瞬間にそれがわかった。今まで心の中にあった小さな違和感のようなもの。小さなしこりのようなもの。それは彼に会って簡単に消えた。まるで、砂の上できれいに砕け散る星の欠片みたいに。

――この人を待っていた。この人が迎えに来てくれると、信じていた。ずっと。


「私ね、信じたの」

奏多君の壊れかけの飛行機でここまで帰って来て、私の故障をすっかり直してもらってから私はやっと落ち着いて彼に向き合うとそう言った。

 奏多くんは、私を直しながら「こうして君を直せるのだから、今までしてきたことは無駄ではなかったんだね」と言った。

 私も、「あなたと会えたんだから、この旅は無駄じゃなかったのね」と思った。

 奏多くんの住む、この灰色の冷たい部屋の中には熱帯魚がいる水槽とあまりに白いシーツが張られたベッドがある。

 これはいただけない、と思った。もっと素敵にしなくてはいけない。こんな部屋では幸せになるものもなれないわ。


 「私ね、信じたの」

彼はただ、頷いて私の手を握る。握るというよりも、握り締める、と言う方が適切かもしれない。彼はそんな風に大切そうに、私の手を握る。

「最後にただ一度だけ、心から信じたの」

彼の手のぬくもり。

「あなたに、会わせてくれるって」

彼は、「なにに」とも、「そう」とも言わなかった。ただ、

「ありがとう」

と言った。とても、とても澄んだ瞳で。

「ありがとう。信じていてくれて」

優しい声。よく知った声。会うのは初めてだけれど私は彼についてたくさんのことを知っている。

 例えば、彼の好きな食べ物。これは唯一彼がラジオで読んでくれたメッセージで聞いたもの。嫌いな食べ物。得意なこと、不得意なこと。怖いもの。好きな音楽。よく見る夢。彼が生き生きと、だけど少し寂しげに私だけに語った愛おしい言葉たち。

 「ラジオは続けて欲しい」という私のお願いに応えて彼は今でもラジオ放送をしてくれる。

 私はそれで奏多君について、たくさん知ることが出来る。もう会って、向き合って話すことも出来るのに私はラジオを通してまだまだ知らない奏多君を知ることが出来る。

 そしてそれは、もちろんラジオを通してだけではない。奏多君のふとしたしぐさ、言葉、表情を通しても私は彼についてこれからも無限に知ってゆく。終わりなんてないのだ。それは私を嬉しくさせる。



 

 みなさん、こんにちは。B003の時間です。今日は相変わらず暑いですね。僕は今朝、西瓜ジュースを飲みました。美味しいものがたくさんあるのだということを、僕は日々教わっているようです。その代償に体重は少し増えてしまいましたが。

 あなたに、愛する人はいますか。僕にはいます。みなさんがご存知の通り、亡くなった父。そして、僕のかわいい恋人。

 それから一つ、訂正があります。僕が寂しいと感じない、というような話をしたことについて。

 これについてお詫びと訂正です。僕は寂しい。そして近頃、よく泣くようになりました。僕の感情は、僕の愛する人がくれたものです。泣くことも、恐れることも、ありますがそれはどれもいいものですね。

僕は毎日、透き通った星空を見て祈ります。どうか、どうか僕と僕の愛する人が末永く一緒にいられますように、と。

 信じることは難しい。ゆだねることは難しい。だけどそれをしてみるということは価値があることのように思うんです。


 私は彼に頼んで、名前を付けてもらった。いつか奏多君が私に名前がないことを知って私に名前を尋ねたのは意地悪だったと思いながら。

 奏多君は私の髪を愛しそうになでながら、とても満ち満ちた声で、私の名前を呼んだ。











 

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