Spring Day
【あらすじ】
雪深い地域に住む、四人の少年たちの一冬の思い出。中学三年を迎える冬休み、たかしは相変わらずいつもの仲良し四人組とカラオケカジノで過ごす日々を送るのだが、たかしには誰にも言えない秘密がある。幼い日の事故により一時的な記憶喪失になって以来に生まれた記憶だ。それは人知れず彼の心を締め付ける。
ある日冬休みを利用し四人は電車で小旅行に出ることになる。雪国の田舎にあるたった一本の電車。それはただの電車ではなく過去を旅する電車だった…。
不思議な電車は四人それぞれの過去を巡り、それぞれの傷を癒してゆく。そしてたかしは自分の胸を締め付けるその記憶のありかにたどり着くが…。
小さな街に住む四人の少年たちの成長物語。
プロローグ
雪の音を聞く。そのためには雪の積もった地面に耳を付けなければならない。決して小さくはない体を丸めて、僕は冷えた右の耳たぶを地面につけた。
「冷たい」と思ったが、それほどではなかった。「冷たい」ということはそうする前から知っていたからかもしれない。すでに冷えた耳たぶがさらに冷やされてほとんど熱を持っているように痛む。
感覚というものは、冷えれば冷えるほどに研ぎ澄まされてゆくものだ、と思う。僕の閉じた瞼の裏から、うずくまって雪の上についた膝の先から、唇の奥から、鼻の先から冬が伝わってくるのだ。そして僕は一人、雪の音を聞く。じっと聞く。
耳を澄ませると遠くの方から汽笛の音と共に列車がこちらへと向かって走って来るような音が振動になって聞こえてくるような気がした。知らないはずなのに、とても懐かしい音。
がたんごとんがたんごとん
がたんごとんがたんごとん
列車は進む。あの子を乗せて。
「たかし」
誰かが僕の名前を呼ぶ。よく知った声。それで僕は現実に引き戻されるように意識を彼の方に向けた。
「ん」
「また変なことしてる」
この声は振り返るまでもなく、小次郎の声。僕はとりあえずのところ、耳たぶを地面から離して声のする方へ振り向いた。
小次郎は小学校からの友人の一人だ。僕と違ってよく気が付くし何せ優しいやつ。男らしいのに世話焼きで「お母さん」というあだ名まである。僕が道を外れたり、迷ったり、遠くに行ってしまわないようにいつもこうして見張っている。言葉を借りるなら、僕にはそういう「危さ」があるのだそうだ。小次郎は面倒見がよくて気が回るし明るいのでいわゆる「もてる」やつ。なのにぼうっとした僕にも飽きずにこうしてちょっかいをかけてくれる。
「ちょっと早く着いたもので」
「珍しい」
小次郎より僕が先に到着するのはたしかに珍しい。
「あ」
「よう」
今度は佐々木がやってきた。佐々木も幼馴染の一人。家が別方向なので普段は違う場所から合流するのだけど今日はこっちで用事があったらしい。
「行くか」
「うん」
佐々木の問いかけに小次郎が返事をする。小郎の声は比較的大きいので、佐々木のつぶやくような声が余計に小さく聞こえる。
佐々木は声も低くて小さいうえにぼそぼそと話すので一見クールな男に見えるのだけれど、本当は誰より情に熱いやつだ。それでいて背が少し小さくて全体的にこじんまりとしている。だからなのか、冷静な雰囲気と外見の可愛らしさのようなものがどうにもミスマッチなのだ。
でも僕はそれが佐々木の魅力ではないのだろうかと思うことが多々ある。例えば佐々木が眉を顰めたり、無口になったとしてもそれが佐々木の冷たさからくるものではないと教えてくれるのだ。ただ、彼は僕らよりずっと「考える」人であるだけなのだ。
僕はやっとのことで体を雪の地面から遠ざけるとそのまますっくと立ち上がった。
「おう」
「おう」
立った勢いで佐々木に軽く挨拶をすると佐々木も目線も合わせずにさっと片手をあげながら返事をした。
佐々木は別に、僕がどんなことをしていようと小次郎のように何か特別にそれを茶化したり、話題にしたりしない。クールな男だ。クールだけれど、冷たいわけではない。佐々木が言うには、「多様性」が大事なのだそうだ。
「行こう」
もう一度、小次郎が言う。
「ん」
その言葉に応えるようにして、僕らはやっとのことで歩き出すことにした。この寒い中では口を開けて話すだけでも堪える気がして、三人とも少し無口になる。
最近一気に寒くなった。吐く息が白くて踏み出すと雪の上に長靴がきゅっという音を立てて沈む。
冬は嫌いじゃないけれど、なぜか僕は冬になると「あの子」のことを思い出してしまう。普段、忘れているわけではないのだけれど、冬になると胸が痛んでどうにかなりそうになるのだ。だから冬は特別な季節でもある。だからと言ってこの季節が嫌いなわけじゃない。胸が痛むから、嫌いということにはならない。
痛みは恋しさ。それが悪であるはずがない。ただ、僕はどうしていいのかわからなくなる。「あの子」もきっと同じことなのだろうと思う。
僕の横を並んで歩く小次郎が僕の毛糸の帽子から耳にかけて垂れ下がった丸いボンボンを触っている。指で弾いたり握ったりして器用にいじるのだ。この寒さでは小次郎の細長くて骨ばった体のように長く伸びた関節めいた指も手袋に覆われてしまってよく見えない。
「これ、いいな」
小次郎が言った。
「うん、あったかいんだ」
――耳当てにもなるし。
僕が言うと、後ろの方で佐々木が「ふっ」と息を吐き出すように笑う。
遠くの空から僕ら三人が歩いているのを見たのなら、白い雪の道にぽつんと三つの人影が見えるだろう。誰もいな田舎道。世界から忘れ去られて取り残されたような場所。けれど僕らにとってはよく知ったふるさとだ。
もう少し、あと少し寒い道を歩き続けたなら、もうすぐ僕らの場所に辿り着く。
三〇五号室
「遅かったな」
カラオケ「カジノ」の扉を開けると賢二が左端の口角をきゅっと上げながらこちらを見て言った。これは賢二の昔からの癖なのだ。笑う時、片方の口角がきゅっと上がる。そしてそれは賢二を更に大人っぽく、知的に見せる。賢二は僕らの中で一番背が高くて一番頭がいい。学校にもきちんと通うしクラスでもいつも成績上位なのだ。「成績だけじゃなく人間的にも賢い子だわ」と母さんも言っていたし、僕もそう思う。
「ごめんごめん」
小次郎が言うと、
「まあそんなかりかりするなって」
と佐々木も続けた。佐々木と賢二の音楽の趣味はよく似ていてこの小さな田舎町のこれまた小さくて古びた個人経営のカラオケ店の一室では二人の趣味でよくレゲエやらヒップホップの音楽が流れている。賢二は優等生の秀才、佐々木は少々異端的で柄が悪いけれど、知識は豊富で自頭がいいから、二人はお互いに尊敬しあっている、という感じがする。
このカラオケ「カジノ」にはほとんど毎日僕らが集まるから、その一室を「カジノ」の店主の御園さんが僕らのために開けてくれている。それも随分と安い値段で。ここにも毎日客足が入るわけではないから、こうして毎日通う僕らのような客がいるというのは悪くない話なのかもしれないけれど、それにしてもありがたい話だと思う。
それが僕らのカラオケカジノの「三〇五号室」だ。誰かが「集まろう」というと、「どこで」と聞かなくても必ずここと決まっている。
「御園さんこんにちは」
僕が言うと、
「ああ」
と返事を返してはくれるけれど、それ以上御園さんがほかに言葉を発するのを僕はあまり聞いたことがない。御園さんはでっぷりと太った体にその顔には小さすぎるんじゃないかと思うような丸眼鏡をかけていつもレジ台のところに鎮座している。御園さんはいつも笑っているのか、それともこういう表情の人なのか、僕はいまだにわからない。ただ、とても優しい人だというのは確かだ。
ここには僕らのほかに、夜遅くに来るサラリーマンや学校終わりの学生なんかがちらほら入る。それでも、僕らにとっての居場所はカジノの三〇五号室。だから僕らは何かにつけて「集まろう、集まろう」と口をそろえて言うのである。
「今日もたかしが珍行動してたんだって」
賢二が言う。
「え」
「俺が言ったんだ」
「あんまり可笑しかったからさ」、と肩をすくめながら小次郎が続ける。
「いつものことだろ」
今度は佐々木が言った。佐々木の方は本当に至って興味がなさそうだ。僕に興味がないというより、みんなが「珍行動」と呼ぶことを別段「珍行動」と受け取らないのが佐々木らしい。どこか彼は達観しているようなところがある。それか、少し棘のあるようなこの年代特有の何かがそういう風に見せるのかもしれない。でも佐々木にはいつも佐々木なりの哲学があって決して誰かに迎合したりはしないのだ。
僕は少し戸惑った。みんなに理解してもらえるのかどうか、わからなかったのだ。僕が思っていることや感じていること、「あの子」のこと。それについてはまだ、誰にも話したことがない。
「・・・雪の音を聞いてた」
僕がどう返事をすればいいのかに迷ってそう言うと、三人ともどっとむせたように笑い出す。僕はこういう時、また自分だけ遠くにいるような気分になる。
嘘ではない、けれど全てをみんなに話すのはあまりに唐突で奇妙なことにも違いない。
「雪に音があるのか」
「相変わらずだなあ」
「雪の音を聞くなら降って来る雪の音を聞くべきだろ」
三者三様にそろって言うので、僕はどれにどう答えたらいいのかわからなくなった。
「あの子」のことを話したかった。ずっと誰かに。でもそれはとても難しいことだ。話すことも、理解されることも。だから僕はやっぱり口をつぐむ。
あれから、何度目の冬だろう。冬が来て、春が来る。冬にはいつも春の日が待ち遠しい。あたたかな光はいやでも僕らの心をほぐしてしまう。冷たい地面から芽吹くいのちは僕らの心をあたためる。
「待ってて」
僕はたしかに、そう言った。
「必ず、会いに行くから」
と。
僕が願うのはただ、あの子があの子のままでいてくれることだった。何も変わらずに、何もかもそのままで。
夢
「梅の花が好き」
あの子の短い髪がふわふわと揺れる。そしてこちらを振り向く。甘い匂いの風が吹く。甘くて、懐かしい匂い。あの子の匂い。
「僕も好きだよ」
「私の名前は」
「梅子だろう」
僕が言うと、あの子は笑う。屈託のない無邪気な笑顔で。真っ白な歯を見せながら。
あの子は冬の日に咲く梅だ。そして春の日に綻ぶつぼみだ。僕はあの子を待っている。あの子も僕だけを待っている。けれど、迎えにいかなければならないのは僕の方なのだ。それだけがひどくはっきりとしていて、時にそれはここにただとどまっていることしかできない僕の胸を締め付ける。
「あのときは驚いた」
小次郎が小次郎にしては少し控えめな声量で呟いた。
ついさっきまで「カジノ」でひとしきり歌を歌ったりお菓子を食べたりしていたのだけれど、もうすぐ日が暮れようというところで僕らは解散することにしたのだ。北国の昼は短くて夜は長い。雪の険しいこの街で僕らは夜遊びというものを知らない。
「あのときって」
僕と小次郎の家と佐々木と賢二の家は反対方向なのでこうして解散した後はいつも小次郎と一緒に家路につく。だからこうして二人で何がともなく言葉を交わしながら帰るのは毎度のことなのだ。
「ほら、あのとき。お前が突然前までのことを忘れちゃってさ」
少しだけ言いにくそうに、けれどきちんとした意思を持って小次郎が言う。これは小次郎が僕に向き合おうとするときのお気まりの切り出し方だ。そして小次郎は優しいのでこういう風にデリケートな問題には僕と二人きりの時にしか触れない。
「ああ」
「あれ以来、お前がぼうっとしてることが多いような気がしてさ」
「うん」
「今朝ももぼうっとしてただろ」
「心配してくれてるの」
「そりゃな」
僕はそう言う小次郎の脇腹を肘で突く。この人は本当に優しい、と思いながら。それも兄弟というよりはほとんど母親のような種類のあたたかさ。小次郎は僕と同い年なのにお姉さんがいるせいかとても繊細な感性と礼節をわきまえている。小次郎のお姉さんも、学校ではよくもてるので有名だ。美人でしっかりしていて優しい。目元と鼻の形が小次郎とそっくりだ。
とりあえず僕は、小次郎の心遣いのようなものがなにやらうれしくて照れくさくてそのままお道化たように小次郎の腰にぎゅっと抱き着いてやる。
「おいおい」
今度は小次郎の方が照れくさそうによろけながらバランスを崩す。
「歩きにくい」
「うん」
「おい」
「うん」
小次郎のセーターにはよく知らないローマ字と犬の顔がプリントしてあって、小次郎はその上にお決まりのキャメル色のダッフルコートにマフラーをしていた。これもお姉さんがいるからか、小次郎はおしゃれなのだ。四人の中だと、僕は小次郎と賢二がとくにおしゃれだと思う。佐々木はいつも黒い服を着ている。
「記憶を失うだなんて変だよね」
振り返ると、真っ白な雪道にゆらゆらとよろめいた二人の足跡が点々と続いている。
「んー」
小次郎が僕のために言葉を選んでいるのがわかる。優しい、というのはこういう時に慎重である、ということでもあるのかもしれない。
「たしかに、悲しいことだったのかもしれないけど」
また、少し考える。
「でもまあ、そういうこともあるんじゃないか」
考えるあまり、余りにも抽象的になってしまった言葉は時に佐々木や賢二を苦笑させる。けれど僕はそういう小次郎の優しさがとても恰好いいと思う。心地よいと思う。触れてほしくないことには触れないし、触れるときは誰よりも慎重なのだ。太陽みたいなのに繊細なやつ。
僕はこれまたこの友人が選ぶにふさわしい、ビビットな赤色の小次郎のニット帽を見遣った。
「おしゃれだね、相変わらず」
僕は僕自身が差し出した問いへの返事には触れずにただ、いつものように小次郎に話しかける。
「これはいつもかぶってるやつだけど」
小次郎はいいやつだ、と僕はまた思った。やっぱりいいやつ。小次郎だけじゃない。佐々木も賢二もあの時は学校も何もかもほっぽり出して僕のことを心配してくれていた。
あの頃の僕は思っていた以上に一人きりで、だから彼らの存在がなかったらこんな「今」を迎えられていたのかどうかわからないと思う。あの日からすっかり元に戻ったように健やかになった今でさえ、その影は時折僕に陰って、それは僕だけじゃなく周りの人々を不安にさせるのだろう。
きっかけは、「ポチ」だった。目の前で、ポチがトラックにひかれてしまったのだ。その瞬間のことも幸い僕の頭には残っていなくて、ただ、「どん」という鈍い音だけが頭にこびりついている。ポチは僕の飼っていた犬ではなかったし、実際僕がトラックにひかれたわけでもない。ポチは近所のおじさんが飼っていた犬で、僕はたまたまその時学校へ行こうとしてその現場に鉢合わせたのだ。
けれど、僕はそれからというもの、両親のこととこの小次郎、佐々木、賢二のこと以外の人や出来事についてをすっかり全て忘れてしまった。両親の顔も、小次郎や佐々木、健司のことも思い出せるけれどそれに伴う思い出のようなものも抜け落ちてしまって僕は長い間抜け殻のようになった。病院でも「外傷はなかったけれど、心の傷があるのではないか」と言われてしばらくの間は入院を余儀なくされた。
僕はまるで中身がすっぽりと抜けた人形になったような気分で、ただただ病院の白い壁やカーテンを眺めては一日を消費していたように思う。
それでも、毎日のように見舞いに来てくれたのは「三〇五号室」のみんなと、家族だったのだ。僕が眺めていた白い壁の中に小さな花が飾られたり、真っ白なシーツの上に読み古された少年雑誌が積まれたりした。「誰」というのはわかっても、「思い出」のようなものがないというのは不可思議な感覚だった。でも「思い出」はまた積み重なってゆくということを希望として与えてくれたのが彼らだった。
だから僕がこの人たちに愛されていたという事実が、僕の心の中に唯一根深く針を落として僕はその間もずっと一人ではあったけれど孤独ではなかったように思う。それはとても、幸いなことだ。恵まれたことだ。人は一番つらい時、寄り添ってくれた人のことを「大切」だと思うのだろう。
だからこそ、僕はそんな人たちに僕が抱いているすべてを打ち明けられないということが苦痛だった。
それからなのだ、時間さえあれば「あの子」について思いを馳せるようになったのは。記憶を失ってしまった僕に、そこにできた新たな空間に、新しい記憶が吹き込まれるように。
その新たな記憶は途切れ途切れに、それでも微かに僕の記憶の扉を叩くと鮮明な夢のように現れて僕の心をさらう。かと思えばふっと風のように消えてしまうのだ。そしてそれは抗えないこの世界の摂理や時間のように、僕をいつも揺り動かしてしまう。そのたびに僕は違う場所へとさらわれてしまう。
「じゃあな」
「うん、また明日」
「気を付けるんだぞ」
「またお母さんみたいだよ」
「うるさい」
小次郎と別れると、僕はいつも通り家に向かう。もうすっかりと暮れてゆく空はどんよりと曇って実に冬らしい。
家に近づくにつれて記憶が確かでなくても確実に幼いころから嗅いできたであろういい香りがしてきて僕は心底ほっとした。だから僕は感じることを大切にするのだ。感じることは嘘をつかない。
すうっと思い切りその香ばしい匂いを鼻から吸い込んだ。ほっとする、というのは幸福だ、ということだと思う。
この匂いについて問うと、「しょうゆとみりん、それにお砂糖とお酒の匂いよ。日本人の匂い」と母さんが教えてくれた。この時間に家に帰ると、その何とも言えない幸福の匂いが僕の鼻を通ってとたんにお腹を空かせてしまう。
僕は幸福で満ち足りていた。友達にも家族にも恵まれている。勉強はできないけど、学校も悪くない。それにいまは冬休みだ。ここの冬は長い。つまり冬休みもうんと長い。
幸福だ。幸福なのに僕はいつも何かが欠けているのを感じ取ってしまう。幸福だからこそ、欠けている何かに目ざとく気づいてしまう。そしてそれが僕の気分や機嫌によって左右されることのない動かぬ現実だということを思い知らされ続けてしまう。
けれどそれは、僕だけじゃない。「あの子」にとっても同じことなのだ。それは僕を安心させるようで痛めつける。だってあの子は同じどころか、もっと激しい喪失感や痛みを抱えて生きているのかもしれない。そう思うと胸が痛んで仕方がないのだ。悲しいことに僕はあの子の屈託のない笑顔をよく知っている。
「おかえりなさい」
「ただいまって言うのよ、あなたは」
「ああ、そっか」
「もう」
母さんがそう言いつつも嬉しそうに笑う。聞きなれた、少し癖のある母さんの笑い声。
「ただいま」
「おかえりなさい、たかし」
しょうゆとみりんとお酒の匂い。日本の匂い、幸福の匂い。僕は一人じゃない。だから、どうか、あの子も一人じゃないといい。
始まりは突然に
「今日、出られる」
朝、母さんの声で目を覚ますと何もわからないまま受話器を渡された。母さんは「賢二くんからよ」と短く言うと忙しいのか台所の方へ戻っていく。きっと手が離せない中僕の部屋まで受話器を届けに来たのだろう。母さんの朝は忙しいのだ。
僕は寝ぼけつつもこの電話に出ないという選択肢も与えられる間もなく、賢二からの電話を受けた。
「今日」
あまりに唐突なことで上手く言葉が出てこない。声もかすれているしまだ夢うつつなのだ。
「そう、今日」
「何時」
「十〇時に湊駅」
僕はまず、今日の集合場所が三〇五ではないことに驚く。
「みんなも来るの」
「もちろん」
「それで」
「なに」
「駅からどこへ行くの」
「行けるところまで」
賢二の冷静沈着で知的な声がおかしなことを言うので寝起きの僕の頭はとうとうしばらく動きを止めてしまった。
「おい、聞いてるか」
「行けるとこまでって」
「たかし、今日何かあるのか」
「いや、ないけど」
「じゃあ決まりだ」
賢二はそう言うと僕が何か言う前に受話器を切ってしまった。きっと次の誰か(小次郎だか佐々木だか)に電話をかけるのだろう。賢二は賢いのだけれど少々せっかちで向こう水なところがある。
プープープー
切れた受話器の先から聞こえる機械音に僕は突然森の中にでも迷い込んだような気持ちになる。けれど同時にその音のせいで僕の頭はだんだん冴えてきた。森の迷路は暗く重苦しいものではなく明るくて心躍る謎めいたものに変わり、少しずつ体中や手足指先に血が通ってゆくような感覚にぞくりとする。いつも「訳が分からないこと」は僕らを駆り立てて、わくわくさせるのだ。今回もどうやらそうなのかもしれなかった。
普段通り、台所からは白米の匂いと目玉焼きがじゅーじゅー焼かれる匂いが届く。僕の学校がないからまだ随分と余裕がある方なのではあると思うのだけれど、やっぱり今朝も母さんは忙しそうだ。そしてそんなことを考えている間にも、僕のお腹は案の定ぐう、と音を立てる。今日はしょうゆとみりん、砂糖にお酒の日本の匂いにではなく、香ばしい朝ごはん特有の匂いにお腹が減った。習慣というものはすごいものだ。それから匂いというのも。
「母さん」
僕は回らない頭と寝起きでかすれた声とで精いっぱい下の台所の方に叫んだ。
「僕ちょっと出かけなくちゃいけない」
ちゃんと伝わったのかどうかはわからないけれど下から微かに母さんの声のようなものが聞こえたような気がする。下に降りて行ってから言えばいいものを、なんとなく早急に伝えておきたいような気になったのだ。賢二に言わせると僕には合理性というものが欠けているのだそうだ。そして僕もそれはあながち間違いではないと思う。
今朝の電話と目玉焼きの匂いにつられて僕はとうとう重たい腰を上げてこのぬくぬくとした布団から足を抜いた。ここでの朝はつらい。僕ははだしのつま先をフローリングにつけると、その冷たさと朝のひんやりと刺すように凍った冬の空気の中で体をぶるりと震わせた。
下に行って朝食を食べながら今日の予定を話すと案の定母さんが渋い顔をした。さっき僕が上から叫んだ声も、「声」としては届いたけど何を言っているのかさっぱりだったらしい。
「上から叫ぶのはやめて、母さんのところに来てから話してっていつも言ってるのに」
「だって」
「だってもそってもない」
母さんは早速すねている僕に一瞬思わず頬を緩ませてくれたのだけど、賢二が提案したこの計画(というにはあまりにも詳細に欠けている)には両手を上げて賛成はしかねるようだった。
「大丈夫なの」とか、「行けるところまでって」とか、さっきから目を細くして僕の方を見るのだ。とにかく息子を行先不明の特急列車に乗せることが乗り気ではないらしい。
隣で目玉焼きの黄身にお箸を入れた父さんも心配していないわけではなさそうだけれど、母さんよりは随分余裕があるようで身を縮めている僕を見かねたのか、
「まあ、もうたかしも十五にもなるし」
と少しだけ肩を持ってくれる。目玉焼きの黄身が破れて黄色が真っ白なお皿の上にゆっくりと広がっていくのを阻止するように白身ごと畳み込むように包んで口の中に入れながら。
父さんはいつも僕の「やりたいこと」を最優先してくれる人だ。母さんがそうしてくれないわけじゃないけど、それよりもうんと心配の方が大きいらしい。我ながら自分自身の頼りのなさを思うと何とも言えないのだけれど。
僕は父さんに似てどちらかといえば冒険家で、つまり僕に血を分けた父さんは生粋の冒険家なのであって、僕の気持がよくわかるのだそうだ。小さい頃は自転車一つで隣の県境まで漕いでいったことだってあるのだと言っていた。
「まだ十八よ」
母さんは目玉焼きに続き白米を口に入れる父さんの方を少しばかり恨めし気に見ている。けれど父さんはそれも慣れたものとしてものともせずにもぐもぐと朝食を頬張り続ける。
「俺も心配じゃないわけじゃないよ」
やっとのことで口の中にある食べ物を飲み込んでしまったところで父さんが言った。
「でも、たかしがやりたいことをさせてやりたいとも思う」
そういう父さんの言葉に母さんはため息をつきつつも、
「そうね」
と言葉を濁す。
確かに父さんは僕のやりたいことを優先してはくれるけれど決して心配していないわけではない。どちらかといえば心配性だと思う。母さんも父さんにそう言われると返す言葉がないようで、台所の冷蔵庫の方へ牛乳を取りに行くのだと言ってに席を立ってしまった。
結局、朝の食卓を囲みながら話し合いは続き、父さんのさっきのささやかな説得に加えて僕が小次郎や佐々木、賢二もいつものようにぴったり一緒なのだということを伝えると母さんも渋々わかってくれたようだった。
この三人に対して、僕の母さんと父さんは異常なほどに信頼が厚い。僕が記憶を失った時、家族のようにそばにいてくれたのだからそれもごく自然なことであるように思う。僕のそばにいてくれたということはすなわち僕の母さんや父さんのそばにいてくれたという意味でもあるのだ。それは二人にとってもどんなに心強いことであったかわからない。
けれど僕が記憶を失ってからというもの、両親は前よりも僕に対して過保護になったらしい。「一人っ子なのだから仕方ないでしょ」と母さんは言うけれど、僕はもう子供じゃない。僕はもう高校三年生になるのだ。あの頃のように抜け殻ではなく、今はたくさんのぬくもりのある思い出だって持っている。それが人よりも少し少ないというだけだ。そしてその宝物の一つ一つの質量が正しく密度の濃いものならば多い少ないは問題ではない、と僕は思う。
朝食を食べ終えた後、小さなカバンに必要最低限のものを詰め込むとボンボンの付いた毛糸の帽子と厚手のセーター、ダウンコートにマフラーをぐるぐる巻きにして家を出る。いつも通りの服装だけれどこれは冒険をするのにもぴったりな装備であると思う。いつもと変わらないとも言えるけれど。
「気を付けるんだぞ」
「気を付けてね、たかし」
玄関を出た僕を見送る父さんの顔にも母さんのお顔にも「心配だ」と書いてあったけれど、それに反するように僕の心は浮足立っていた。二人には申し訳ないけれどそれが僕の冒険家たる所以であるので仕方がない。
「うん、気を付けるよちゃんと」
玄関で靴を履くとき、どうして人はこうもわくわくするのだろう。そういえばよく、カラオケ「カジノ」でも四人集まって話していたのだ。いつか、湊駅の電車に乗って行けるところまで行ってみたいというようなこと。僕らはそういうとりとめのない野望についてよく話した。長い冬休みは幸福だけれど僕らにはあまりにも退屈だ。
「いってくるね」
父さんや母さんが心配する気持ちもよくわかる。僕が僕の父親でも心配するに違いない。だから心配しないでとは言わないけれど、心配そうな二人の顔を見ているのは少し心が痛い。
「大丈夫だよ、すぐに帰って来るから」
「電話は持ったの」
「そうだ、前に忘れて行っただろ」
こういう時、父さんと母さんの顔は驚くほどよく似ている。「心配」の顔。それは僕のことが「大切」という意味なのだと僕はもう知っているので今はただただ申訳ない。
「持ったよ、大丈夫」
僕は念のためカバンの中を覗き込んできちんと携帯電話と財布が入っているのを確認するとぽんぽん、とカバンを叩いて見せた。今の時代、大抵のことは携帯と財布さえあればなんとかなってしまうのだ。この辺りはぞっとするほど寒いので、あとは防寒具。
「父さんも、たかしくらいの頃友達と行けるところまで行こうって話してたなあ」
父さんは「心配」の顔はそのままに、僕が浮足立っているのを見かねてかそう言った。その表情の中には心配のほかにまだ見ぬ世界への羨望や興奮がみなぎっている。やっぱり、冒険家の血は父さんからだ、と僕は思う。
「そうなの」
「ああ」
「それで、行ってみたの」
父さんが深く頷く。
「行ったよ」
「それで」
「うん」
「どうだった」
僕は息をのんで突然現れた人生の大先輩に尋ねるような気持ちで父さんの返事を待った。けれど父さんは身を乗り出して答えを待つ僕をいなすように笑って、
「まあ、たかしもやってみなさい」
と言うだけだった。僕は少しばかりがっかりとして肩を落とす。だって父さんはこの冒険の先に何が待っているのか知っているのだ。それがどんな形のぬくもりになって心に残るのかも。聞いておきたい気持ちは好奇心になってダムみたいに僕の中にあふれていたけれど、父さんがネタ明かしのような野暮なことをしたりしないことも知っていた。
それでも明らかにがっかりとしている僕を見て父さんはまた笑う。
旅の終着点がどんなものであれ、父さんが僕のようにまだ幼いころ旅に出て得たものもきっと大きかったのに違いない。思い出は苦かったり、甘かったりするけれど振り返るとすべてちゃんと連なっていじらしく僕らの心をあたためてくれるのだ。
父さんはいつの間にかスーツを着ていて、もう少ししたら仕事に出るのかもしれない。あたり前だけれど、父さんと僕の間には驚くほどに大きな時間の波があることに気が付いて僕はほんの少し襟を正すような気持ちになった。スーツを身にまとっている父さんはもう立派な大人で、僕は「も高校生だ」とはいってもまだまだ子供なのだ。
こんな風にいつものやり取りを終えて、心配そうな母さんと「送っていこうか」という父さんに手を振ると僕は湊駅へと向かった。
途中通る公園では小次郎が待っていて、僕らは流れるように合流する。小次郎と一緒に歩いていきたいから、父さんの車に乗るのも断ったのだ。自分でもこの寒い中ばからしいとも思うけれど、この時間が好きなのだ。
「きたきた」
「おはよう」
「おはよ」
いつもと何ら変わらないあいさつ。いつもの会話。それなのに今日は規格に心臓がどきどきと高鳴っている。悪いことではないのに、悪いことをするような気がする。そういうそわそわした、わくわくした気持ち。どうして人はこういう善悪の境のようなところでこうも胸が高鳴ってしまうのだろう。それについて考えたことはあるけれど答えが出たことはまだ一度もない。
小次郎は僕と比べると少々怖がりなところがあるけれど、まんざらではないように見えた。今から始まる「何か」に心が躍る顔をしている。声をしている。いつもと変わらない会話から、いつもと変わらないからこそ僕は些細な違いをかぎ分けることができる。そしてきっと僕は小次郎以上にそうなのだろうと思う。そう思うとみんなにそれを悟られるのがなんとなく照れくさいような気がした。結局この得体のしれない旅の出発点にこうしてみんな集まってしまうのだから、僕らはやっぱりこういうとこでも気の合う四人であると言わざるを得ない。
湊駅まではそう離れていないはずなのだけれど、歩いているうちに体もほかほかと温まって首周りのマフラーや手袋が暑いような気がした。そうはいっても外したら外したできっと冷えるだろうからこのままにしておく。
今日は天気がいい。空が高いし太陽も出ている。ふとこういう何気ない景色が僕の頭に焼き付いていつまでも残ってゆくんだという気がした。
「おう」
「よう」
毎日顔を合わせすぎて僕らのあいさつは大体こんなものになってしまったけど、駅にはもうすでに佐々木も賢二も着いていて屋根の下の木のベンチに二人でゆったりと腰かけている。
「寒いから早く行こうぜ」
案の定、待ちくたびれたというように佐々木が言った。佐々木は本当に体力がない。色が白くて細身の体をいつも猫背気味に屈めているせいで余計に覇気がなく、疲れているように見える。実際こうしてすぐに座りたがったり体力を温存しようとするのだ。気怠げなのはいつものこととして、今日は賢二にいきなり呼び出されたからいつもに増して機嫌が悪いのかもしれない。
「佐々木はこういうの、あんまりだもんな」
ベンチから立ち上がってすぐそばの券売機まで歩く佐々木に小次郎が言うと、佐々木は、
「俺は現実的じゃないことは嫌い」
などと言いながらちゃっかり一番乗りで切符を買っている。
「そう言いながらちゃんと来るんだもんな」
僕が言うと、佐々木はばつが悪そうに、
「ほら、お前も早く買えよ」
と、券売機の前を退いた。
賢二は僕らの後ろで地図のようなものを広げ黙々と目を通している。
「言い出しっぺは賢二だろう」
と僕が言うと、
「まあ」
と賢二は集中しているかとてもあいまいに返事をした。
「おい!」
最後に小次郎がやっと券売機の操作を終えてこれで全員分の切手を買い終えたというところで佐々木が叫んだ。覇気のない佐々木にしては珍しく切羽詰まったような声をしている。
「どうした」
先に来て切符を買っていたらしい賢二もその切迫した声にとうとう難しい顔をして見ていた難しそうな地図から顔を上げた。
「早くいかないともう電車が来てる」
今度は佐々木が難しい顔をして賢二の方を見る。
「うそだろ」
「ほんとだよ、ほら見ろ」
たしかに佐々木が指差す先の、すぐ上のホームには確かにまだ遠くの方からではあるが小さく電車がこちらへ向かって走って来るのが見えた。
「いや、時刻表だと次の電車までまだ十五分あるぞ」
不審そうに眉をひそめた賢二が言う。
「でもほら、現に電車が来ているだろ」
「ここの駅、一時間に一本しか電車が来ないんだぞ」
「とりあえず急がないと」
僕らはとるものもとりあえず、さっき買い終えたばかりの切符を改札に通すと佐々木の声に急かされるままホームまで急いだ。田舎なので電車の本数は限られているし、もしもこれを逃すと大変なことになる。賢二が言いう通り電車がここの駅で停車して十五分後に出発するとしても僕らはこれに乗り込んでおかなければ不安だった。
「来た」
そうこうしている間にも、遠くに見えていた電車がどんどんこちらの方へ向かって走って来る。
がたんごとんがたんごとん
「田舎っていうのはこれだから嫌になる」
ぶつぶつと僕の隣でぼやいている賢二が持っていた時刻表と地図とを乱暴に近くにあったゴミ箱に捨てた。
がたんごとんがたんごとん
近づいてくるほど大きくなる電車の音。車輪と線路とが擦れて車体が揺れる音だ。いつもここで聞く電車の音とは違うような気がする。でもどこか聞きなれた音。何度も聞いたことのある懐かしいような気もする音。僕は電車がここまで来るのを待ちながら、目の前にはらりと落ちる雪の欠片に視線を奪われてはっとする。そうだ、これはまるで雪の音だ。僕が聞いた雪の音。雪の地面を伝って地響きのように聞こえる、列車の音。あの子を乗せた、列車の音。
「この電車か」
「これしかないだろう」
「ああ」
なんとか間に合ったというように四人で胸を撫で下ろしていると、その電車は僕らの目の前でプシューッという音を立てて大仰に停車した。
「なんか、古くないか、この電車」
佐々木が言う。
「田舎町だから仕方ないよ」
笑い上戸の小次郎が少し大きめの前歯を見せながら言うと、電車は再びプシューッという音を立てて、けれども今度は確かにどこか古びたアンティークのような重い扉を開けた。
「さあ、早く乗らないと」
賢二はそう言うと、颯爽と迷いなく電車に乗り込む。そしてその賢二を先頭にして、続いて小次郎、佐々木が中へ乗り込んで行く。
「ほら、お前も。早く」
佐々木が振り向いて言った。次は僕の番だ。わかっている。わかっているけど、どういうわけか足がすくんで動かない。地面に僕の足だけ縫い付けられているみたいだ。突然のことで頭が真っ白になっている僕のことを小次郎が電車の中から心配そうに見下ろしていた。
「どうかしたのか」
「・・・」
なぜだろうか。僕は不思議と、この電車に乗ることが躊躇われた。この電車が危険であるとか、父さんや母さんが言うように僕もこの行先のない旅について心配があるのだとか、そういうのじゃなく、ただただなんとなく、恐ろしかったのだ。
目前に新たな旅へのゲートが開かれているのになぜか遠くを見つめるような気持ちで、僕は目の前の電車とそれに乗り込む仲間たちを見ていた。
ブーーーーーーー
そんな僕を急かすように大きな汽笛のような音が鳴る。出発の合図なのかもしれない。
「早く!」
切羽詰まった顔をして小次郎が僕の方に手を伸ばした。小次郎の腕は細長くて手のひらは大きい。僕は真っ白の頭で何もわからないまま、ただその大きな手を握った。その瞬間、小次郎がぐっと僕の手を引く。そして電車の中へと引き寄せた。
プシューッ
僕が電車に乗り込んだのとほぼ同時に僕の目の前でその重苦しい扉が無遠慮に閉じられる。これでは僕の乗車を待っていたようだ。
原因不明の恐れと焦燥感、それから電車中によく効いている暖房のせいで僕はこの真冬の時期にも関わらずじんわりと額に汗をかくとさっき勢いよく引き寄せられた反動で小次郎と一緒に車内に大きな尻もちをついた。
「しっかりしろよ」
「大丈夫か」
と、僕にみんなが話しかける。けれどもその声さえ僕には靄がかかったように聞こえて、僕はやっぱりまだ遠くにいるような気分だった。そんな風に、遠いところから、「ああ、乗ってしまったのだ」と思った。
そういう僕の不穏な心境とは裏腹に、僕らを乗せた電車はゆっくりと動き出した。車輪が線路に擦れるキイッという音がしたかと思うとそれは徐々に規則性のあるものへと変わってゆく。
がたんごとんがたんごとん
がたんごとんがたんごとん
その音だけが僕の意識を連れ去ってしまう。あの子のところまで、連れて行ってしまう。
「ほら」
はっとした。その声で僕はまたきちんとではないけれど自分がいまいる場所まで引き戻される。正確には、その「声」であり「手」に。ほとんど放心状態の僕に手を差し伸べているのは、佐々木だ。
「大丈夫か」
「うん」
僕は佐々木の深爪でささくれだった、けれどもその細く白い体にはどこか見合わないごつごつとした男らしい手のひらに手を伸ばす。小次郎の細くて長い指とは全然違う手だ。佐々木は僕の手をしっかり取ると、そのまま腕に力を入れて尻もちをついた僕の体を起こしてくれた。
さっきから僕はいろんな人の手に救われている。種々様々な手のひら。僕を今までも掬い上げてきてくれた手のひら。このたった数分間の間にそれを濃縮した形で僕は見たような気持ちになった。どれも形は違うけれどとてもあたたかくてそれは今回も僕の心をやっとのことでここに引き戻す。
ふと隣を見ると同じように賢二が小次郎の体を起こすのを手伝っている。僕はその姿を見てこんなときにも関わらず、感慨深く、そうだ佐々木には「意外」という言葉がよく似合う、と思った。
賢二は見るからに紳士という感じがするのだけれど佐々木はクールに見えて「意外」に優しいやつなのだ。万が一の時に助けてくれるようなところがある。いままで一度も日に焼けたことがないみたいに白くて細くていつも猫背気味で覇気がないのに「意外」に男らしいやつ。冷たく見えて「意外」に実は一番熱いやつ。
ブーーーーーーー
ようやく四人そろって立ち上がったところで、更に電車は速度を上げた。それと同時にさっき僕が電車に乗り込む前に聞いたのと同じ、大きな汽笛のような音がする。あれは出発音かと思っていたのだけれど、そうでもないらしい。もしかすると車体の速度を上げるときにこの音は鳴っているのかもしれなかった。
「なんか、電車って感じじゃないよな、これ」
賢二が言う。
「船の汽笛みたいな音だよな」
小次郎も不思議そうに続いた。
たしかに、やっと落ち着いて見回してみるとここは僕らがよく知る電車の内装とも少し違っているようだった。普通、まっすぐに座席が一列ずつ向かい合って並んでいるはずなのに、この電車の中では通路を挟んで、後ろから前にかけて新幹線の座席のようにずらりと二席ずつ両側に設置されている。それも緑がかった座席のなんとなく廃れた感じから見て、やはりこの車体自体、とても新しいとはいえないように見えた。
「湊駅にこんな電車あったっけ」
僕が言うと、みんな首をかしげて黙ってしまう。誰もかれも、ぐるぐると考えはするけれどこの不思議な違和感の実態や核になるところが掴めない、そういう感じ。
「なあ」
そろって無口になった僕らの沈黙を破ったのは、賢二だった。
「なんだ」
佐々木が返事をしはしたけれど、僕も小次郎もやっとのことでこの違和感の出口が見つかるのではないかと期待の視線を賢二の方に向けた。もちろん、佐々木も賢二の方をじっと見つめている。
「・・・見ろよ」
けれど、賢二の視線は僕らのうちの誰にも向けられていなかった。それだけではない、どことなく、遠くの方に投げられている賢二の瞳の中の瞳孔とつぶやくように吐き出した声が震えるように揺れているような気がする。
「見ろって何を」
佐々木が言う。賢二はとうとうその問いにも答えずにただ、視線を後ろに向けたまま動かなくなってしまった。
こんな賢二を見るのは初めてだ。それほどに賢二はおびえているようだった。僕らはどこかすがるような気持ちで賢二の言葉を待っていたのだけれど、とうとうあきらめて今度は賢二の視線の方向へ顔を向ける。
そしてその途端、僕は目の前の光景にさっきやっとのことで床から上げたおしりを再び床についてしまいそうになる。
「なんだよあれ」
「そんな」
佐々木と小次郎が口々に、けれどさっきの賢二のようにほとんど吐き出すように小さな虫の声でつぶやく。僕も例外ではなかったけれど、僕の場合言葉がなにも出てこなかっただけだ。
いまの僕らはさっきの賢二ときっとほとんど同じ顔をしているのに違いないだろう。あまりの恐怖で動けなくなって、言葉だってもうほとんど紡ぐことができない。
僕らの見ている先はこの電車の走る真後ろだった。そこには目を疑うような光景が広がっていたのだ。
なんと僕らの乗ったこの電車に真っすぐ、すさまじいスピードで向かってくる別の電車がいまにもぶつかりそうな勢いで後ろに迫って来ていたのだ。まだ遠いながらも、それは間違いなく刻一刻とこちらのほうへ向かってくる。
「どうしよう、どうしよう」
小次郎はそう言うと、いてもたってもいられないのか、貧乏ゆすりを始めた。貧乏ゆすりは、小次郎の昔からの癖なのだ。そうして行き場を失った恐怖を共有するかのように僕の方へ身を寄せる。
さすがの賢二も途方に暮れた顔をしていた。本当ならばこのうちの誰かが叫び出してもいいような状況なのだけれどあまりにも大きな恐怖と現実とは思えない光景に誰もが混乱していた。
「どうしてこんな・・・」
このままでは衝突だ。僕の方も、どうすればいいのかわからなかった。スパイ映画の主人公のように前の電車を止める方法も、ここから三人を連れて脱出する方法も知りえなかったのだ。僕にはそういう桁外れた運動神経もなければ、脱出用パラシュートだって持ち合わせていない。
「こんなことありえないだろ」
とうとう低く佐々木が呟いた。それで、僕らももうだめだ、と思った。電車はもうそこまで来ているのだ。
この田舎町には線路が一本。電車も一時間に一本ほど。それなのにこんなことがあり得るはずがない。そういえば何もかもがおかしかったのだ、この電車は。
電車が目前まで近づいてくる。不思議なもので僕は今までの人生を走馬灯のように思い出していた。母さんの顔、父さんの声、四人で目一杯カジノで騒いだ日、ポチが車にはねられた「ドン」という鈍い音。――そしてあの子の笑顔。
後悔先に立たず、あとはぎゅっと目を閉じていまから起こる凄まじい衝撃を待ち構えたところで、僕は体の中に不思議な波のようなものを覚えた。それは想像していたような痛みや衝撃ではない、もっと、トンネルの中に突然入ったり、飛行機の中で耳がぐっと詰まるのに似た感覚。すさまじい衝撃であることには違いないのだけれど、もっと空間がゆがむような、ごおんとこもったような鈍い衝撃。
僕は、そして僕らはその振動のようなものの中でただどうすることもできずにしばらく漂ったのだけど、それはゆっくりと、浜辺から潮が引いていくように遠のいて行く。
「・・・」
僕はおそるおそる目を開けた。何が起こったのか、皆目見当もつかない。けれど幸いなことに、僕の横に小次郎や佐々木、賢二の気配を感じるのだ。
「・・・」
目を開けて見回すと、僕の横にはさっきまでと同じように僕の方へ身を寄せる小次郎と、前を向いて佇む賢二と佐々木、そして三人の荒い息遣いが聞こえてくる。つまり僕らは傷一つなく、何事もなかったかのようにそこに立っていたのだ。
「ねえ」
まだ目をぎゅっと閉じている小次郎の肩をゆすると、小次郎は僕のその小さなアクションにも驚いたのかびくりと肩を震わせた後、垂れ目気味の目を開けてくるりと辺りを見回した。それに続いて佐々木や賢二もきょろきょろと周りを見回している。どうやら僕らは無事みたいだ。それかもうすでにここが黄泉の国なのかもしれない。
「おい」
ぐるぐる考えている内に、今度は佐々木が電車の進行方向へと視線を移して青ざめた顔をした。嫌な予感がする。佐々木はさっきの賢二と同じようにおびえた顔をしているのだ。けれど僕らは目をそらすわけにもいかなかった。状況を飲み込むまで、この現実とは思えないような現実は僕らをどんどん追い込んでしまう。僕らは佐々木にならって後ろを振り返ると、また思考停止を余儀なくされた。そしていまとなっては佐々木と同じく、僕も小次郎も賢二もみんな顔を真っ青にしているのに違いなかった。
「うそだ・・・」
四人そろって視線をやったその先には、先程確かに僕らに向かって真っすぐ走ってきていたはずの電車があった。それは僕らの乗ったこの電車にぶつかることなく、しかし間違えなく僕らの前を走っている。
味わったことのないような死の恐怖で今でも瞼の裏に焼き付いている、こちらへすさまじい勢いで向かってきた電車が、今となっては僕らの目の前を走っているのだ。つまり、どう考えてみてもあの電車は僕らの体や僕らを乗せたこの電車ごと、すっかり通り抜けてしまったということになる。信じられないことだけど、それ以外に考えられない。
「あれ、俺らが乗りたかった電車だよな」
賢二がすっかり板についたように顔色を悪くしたまま言った。
「どういうこと」
小次郎も、恐怖でたんの絡んだような、かすれたような声を出して言う。
「あれ、いつも乗る電車だろう」
たしかに後ろに見える電車はこの町に住んでいる以上、誰もが見たことのあるはずの電車だった。この駅にはこの電車、というほど僕らは辺鄙な田舎町にいるのだ。
「たしか、賢二は十五分後に電車が来るって言ってたよな」
「今目の前を走ってるのが俺らが乗る予定だったた電車だよ。間違いない」
賢二のその言葉に、僕の心臓は知らぬ間にどきどきという音を立てる。
「じゃあ、今乗ってるこの電車は」
小次郎の声はほとんど裏返りそうな勢いだ。
「わからない」
賢二が冷静さを欠いているばかりに逆に冷静な声で答える。
「いまぶつかるところだったのに、どうして」
「わからない」
小次郎の言葉に、賢二が同じ言葉を繰り返した。
「この電車と僕らをすり抜けたんだよ」
すかさず僕が言う。それは信じがたいけれどもう疑うことのできない事実だったのだ。
「たしかに、そうかもしれない」
賢二が言う。誰もそれに対して、「そんなわけがない」と言う人はいなかった。ただ、受け入れがたい現実の中で四人一緒に沈み込んで行く。
「そうとしか考えられない」
「ああ」
僕らはまたしばらく沈黙した。そんな中でこの列車だけは顔色を変えずに平然と、さっきからと何も変わらない様子で、
がたんごとん
がたんごとん
という規則的な音を立てて前に進んで行く。この列車は一体どこへ行くんだろう。どうしてこの列車の音を僕は聞いたのだろう。そしてどうしてこの列車があの子を乗せているのだと思ったのだろう。考えれば考えるほど謎が謎を呼んでゆく。元々目的地のなかった旅がいまではきちんと「どこか」へたどり着くかどうかさえもわからなくなってしまった。
「そういえば、ばあちゃんの家でこういう電車の写真を見たことがある」
その沈黙を破るように、佐々木が言った。
「こういうって」
「いま、俺らが乗ってるような電車の写真」
「なんで」
「ばあちゃんが若かった頃の写真の後ろに映ってたのに似てるんだよ」
「電車じゃなくて、列車だよ」
僕が佐々木の声にかぶせるように言った。僕もどうしてこんなことを言ったのか、どうして今乗っているのが「電車」ではなく「列車」であると思うのか、わからなかった。みんなも驚いたように僕の方を見ている。なぜこんなにはっきりと断言できるのかわからなかった。それでもこれは間違いなく列車なのだ。
「これは列車だ」
僕は繰り返しそうつぶやいた。けれどそのあとは、誰も返事をしなかった。何度目かの静かな沈黙がこの車内の中に立ち込める。
知っていた。僕はこの汽笛の音も、この、車輪が線路を滑るときに鳴る規則正しい音も。雪が降る地面に根を生やし耳を澄まして幾度となく聞いた音。これは「列車」だ。そして僕らは今、もう後戻りできないところにいる。
かすみ峠
いつの間にかまた冷や汗をかいていた。僕らはその場に突っ立ってしばらく動けずにいて、その間も列車は僕らを乗せて線路の上を滑りながら進んでいる。あまりにも衝撃的なことが起きると、人間はどうしてよいのかわからなくなるのかもしれない。そう思うと僕らが実のところとてもちっぽけな存在なように思えてくる。大きくて不可思議な力の前で少なくとも僕ら四人はとてつもなく無力だった。
でも、一つだけいい意味での驚くべきことがあったとするとその中でも僕はまだ少しだけましだったということだ。小次郎、賢二、佐々木に比べて僕はまだ余裕があるように思えた。平気というわけではなかったけどパニックを起こしているというわけでもなかったのだ。これは昔一度、記憶をなくしたことがあるからかもしれない。それとこれとは全然違うけれど、あり得ないことや耐性のないことに直面するという点では僕がみんなよりほんのちょっと先輩であるのかもしれない。
僕は大抵、なにをするにもみんなよりワンテンポ遅れていて基本的には助けられてばかりいるのでなにかひとつでもみんなよりも秀でている点を見つけられたというのは案外、うれしいことだった。秀でている、というより、この件に関してはみんなのことを少しばかり助けることができるかもしれない、という根拠のない自信が胸の真ん中にぽつんと灯っていた。もしかすると、自分の身に起こった最悪だと思える出来事でさえ、百パーセント悪いばかりのことはないのかもしれない。
「とりあえず、座ろう」
僕が言うと、みんなそれぞれにはっと目を覚ましたような顔になって、それから同じように神妙な顔をして頷いた。
僕がみんなの前を歩いてこの車両の一番後ろに腰掛けるとその横に小次郎、向かいに並んで佐々木と賢二が腰かける。相変わらず、みんなの顔は青ざめている。
「これからどこへ行くんだろう」
小次郎がこちらを向いて言った。さっきよりはまだ落ち着いているように見える。
「本当だったら隣町へ行くんだろうけど」
賢二が言う。佐々木はというと、どこか浮かない顔をして窓の外を眺めていた。
「そうだよな」
僕はそう言ってみて、一人じゃなくてよかった、と思った。なにはどうあれ、比較的僕が落ち着いていられるのはこの三人が一緒だからだ。こうしてとりとめもなく会話をしているだけで僕らはなんとか正気でいられるのだ。場違いかもしれないと思いながらも、
「一人じゃなくてよかったよな」
と僕が言うと、ぎこちないものの相変わらずほっこり優しい顔で小次郎が笑った。もしかすると場違いだからこそ笑ったのかもしれない。この数分間だけのことなのに、小次郎が笑ったのが随分久しぶりのような気がして僕はなおさらほっとする。
「ほんとだな」
「いいこと言う」
と、賢二も笑う。
僕らは不安でたまらないのに、それだけで心強い気持になった。どうなるかはわからないけど、悪いことにはならないだろう、と思ったのだ。さっきの絶体絶命のところからなんとか今も生きている(おそらく)ことが僕らに得体のしれない勇気をくれたのかもしれない。
「携帯はどうだ」
しばらくして、佐々木が言った。いつものようにぼそぼそとつぶやくような声。その言葉にどうして今まで気が付かなかったのだろうと僕らは急いでそれぞれ鞄の奥やらポケットの中から携帯を取り出した。みんな一斉に携帯を開いて画面を見る。けれど、
「だめだ」
結果はちっとも思わしいものではなかった。賢二がこれ以上ないほど残念そうにつぶやく。僕のも、電源までは入ったのだけれど電波がつながらない。案の定、誰の携帯も役には立たないようだった。
「だめか」
ため息をつく佐々木に僕も困ったように首を振ることしかできない。なにより、ただでさえ僕のことを心配している父さんや母さんのことを思うと気がかりでならなかった。
「この時代遅れの列車の中だしな。最新の携帯がつながるわけもないか」
賢二の論理的であるのか、ハチャメチャであるのかわからないような理論に僕らも佐々木に続いてため息をつく。携帯電話というものは万能だと思っていたけれどこうなってしまえばもう今はただの重たい鉄の塊だ。
「この風景、見たことあるか」
すっかりあきらめてカバンの中に携帯をしまい込むと小次郎が言った。賢二のほうはまだどうにかなるのではないかと考えているのか、携帯をぽちぽちといじくっている。
「見たことない」
と僕が答えると、
「少なくとも、湊駅から普通に電車に乗ってたら見ない景色だな」
と携帯をいじる手を止めて賢二が言った。もう携帯を使うのは諦めたのかもしれない。
僕は賢二がそう言うのだから間違いないだろう、と思った。賢二は頭がいいだけでなく、昔から地理や地図には強いのだ。だから賢二がそう言うということはつまり、僕らが今どこか得体のしれない場所にいるのだということなのだ。
すると、
「ここさ」
とさっきからいつも以上に口数が少なくなっていた佐々木が不意に口を開いた。そしてそのまま、窓の外から視線を外さずに続ける。
「ここ、俺がよく知ってる街なんだ」
口調はいつも通りだけどなんとなく心細そうな話し方。
「そうなの」
小次郎がいかにも驚いた、という顔をして言う。確かに、佐々木が僕らの知らない町のことを知っているのは不思議だった。僕らはお互いの寝相の悪さまで知っていて、小さな頃から大抵のことは共有してきたのだ。なんにせよ、窓の外を見る佐々木の姿がさっきから哀愁を帯びているように見えたのは、どうやら列車の窓からのぞくこの街並みのせいみたいだった。
「友達がいたんだよ、ここに」
佐々木が続ける。
「昔、俺のばあちゃんがこっちに住んでて。よく遊びに来てたんだ」
そう言う佐々木はけれど、思い出を懐かしむでも、愛おしむでもない、浮かない顔をしていた。昔から、少し陰のあるところはあるけど今日この列車に乗ってからというもの、佐々木の目には愁いばかりが浮かんでいる。頬杖をついている横顔が佐々木の青白い肌とも相まってやけに寂しそうなのだ。
佐々木の目線の先の窓枠の外には僕らが住んでいるところよりも幾らも開けたような町が広がっているように見えた。人通りもあれば個人商店などが連なって建っている。ここも今は冬らしい。地面には雪が積もっていた。
開けている、といっても僕らの住んでいる場所は驚くほど何もない田舎なので、この景色がさほど都会というわけではなくとも僕の目にはそういう風に映ったのかもしれない。
僕はけれど、この景色を前に、違う町で僕らの知らない思い出を作っていた幼いころの佐々木について思いを馳せないわけにはいかなかった。
浮かない顔をする佐々木。遠くを見つめる佐々木。その横顔に向けて、「何かあったの」と尋ねるのは野暮だろうか。
迷って考えあぐねた結果、僕は結局何も言えなかった。
だんだんと窓の外の景色が過ぎてゆくのがゆっくりになってきた。それで徐々にではあるけれどゆっくりとこの列車が速度を緩めていくのがわかる。がたんごとん、と規則正しく鳴っていたいた音ががたん、ごとん、というように少し間隔を開けて聞こえるようになる。
「もうすぐ停車するのかな」
佐々木に何か声をかける代わりに、僕がそう言うと、小次郎が、
「そうかも」
と短く返事をした。今度は小次郎や賢二も食い入るように窓の外を見つめている。その間にも列車は更にスピードを落としていた。この列車に停車駅というものがあったということに僕らは少しほっとしているのかもしれない。到着点などない道をどこまでもどこまでもただ走り続けて行くのではないかという不安はきっと、ここにいるみんなにあったのに違いないのだ。僕らはそれくらい不安定な場所に立たされているのだということに僕は改めて唖然としてしまう。
そうして速度を緩める列車が最後には僕らが歩いているのと変わらないほどの速度になった。みんな、固唾をのんでその様子を見守っている。佐々木がよく知る街。通り過ぎるだけで佐々木をこんな顔にさせてしまう街波。そこに僕らはいま、たどり着こうとしているのだ。
キーーーッ
とうとう、鋭い音を立てて列車が停車した。
「・・・止まったみたいだな」
賢二が声を出すのも躊躇するようにそっとつぶやく。僕の横では小次郎が声もなく頷きながら今日何度目かの生唾を呑むのがわかった。
窓から外を見ると、そこにはささやかな停車駅があり、白い大きな看板の真ん中に「かすみ峠」と書かれている。
「かすみ峠」
僕が続いてそうつぶやくと、僕らは互いに顔を見合わせた。みんな一様にきょとんという顔をしている。けれどそんな中で、やっぱり佐々木だけは一人浮かない顔をしていた。「 浮かない」というよりも、眉間にしわを寄せて血の気が引いたような顔。さっきまでのなんとなく憂いが漂うような表情とは違っていまは驚いたような、すごく動揺しているというような表情をしているように見えた。
「・・・」
僕だけではなく、小次郎や賢二も佐々木の様子がおかしいことに気が付いているようだった。そういう切羽の詰まった臨場感のようなものが僕らを佐々木からどんどん遠ざけてゆくような気がする。
佐々木はそんな僕らのことに目もくれず、席から立ち上がるとまたプシューッという音を立てて列車の扉が空くのとほぼ同時に勢いよく外に出た。
僕らはまたもう一度三人で目を合わせると、急いで佐々木の後に続くようにして外に出る。佐々木があんまり躊躇なくこの列車の外に出てしまったので僕らも同じようにその後から続くしかなかったのだ。
けれど、佐々木が僕らよりも先に外に出てくれたことは幸いだったと思う。そういう何かの勢いがなければ僕らはこの列車から降りること一つとっても怖気づいてしまっていたかもしれない。普段なら佐々木がこういう時一番冷静でいて石橋を渡るように物事を進めてゆくタイプなのだけれど、いまの佐々木には少しの冷静さも余裕というものもないように見えた。
「どうしたんだろう」
やっと「かすみ峠」と書かれた大きな白い看板の前に出て、今こうしている間にもずんずんと前を進んで行く佐々木の背中を速足で追いかけながら、小次郎が言った。
「だよな」
僕もわからなかった。佐々木がどうしてあんんなに急いでいるのか。一体何に向かって歩いているのか。
「とりあえず、ついていくしかない」
賢二が静かな声で言った。そういう賢二はなんとなく頼もしく見える。僕らはいつの間にか次々に起こるおかしな事象に対応し、適応してきているのかもしれない。
いま僕らがなにを聞いても、佐々木はいそいそと先を歩いてゆくだけだろう。そんなことは付き合いの長い僕らにはもうよくわかっていた。だから僕らもその後にただ黙々とついて行くしかない。小次郎や賢二もそして佐々木だって、僕らは互いのことをいやというほどよくわかっているのだ。
佐々木は寒がりのくせに、僕らよりもずっと控えめな厚着をしている。ダウンジャケットは着ているけれど、その下は大抵薄めのセーターにジーンズなのだ。寒い雪道を歩きながら佐々木の白い耳はすっかり真っ赤に染まっていた。佐々木はそんなこともお構いなしに随分速足で雪の上を歩いてゆく。
この様子から見てもこの町のこと、「かすみ峠」のことをよく知っているらしい。けれどここはさっきまでのにぎわっていた街並みとは違い、僕らの住んでいる町のようにただ静かで白い銀世界が広がっているようなところだった。ところどころに寂れたような工場や小さなテナントが建っているから佐々木もそれを頼りに歩いているのかもしれない。いくら無口な佐々木といえども僕らに何も言わずにずんずんと歩いてゆくようなことはこれまで一度もなかった。それだけに、佐々木のやけにひっ迫したような表情や行動には何か並々ならぬ理由があるのに違いなかった。
かなり歩いたところで、佐々木は突然ざっ、という音を立てて足取りを止めた。佐々木の真っ赤な耳はそのままに、けれど佐々木も僕らもこの冬の外気に負けないほど体の中がほかほかと温まっていた。それほど速足でよく歩いたのだ。
佐々木の後をついて辿り着いたのはある小さな墓地だった。小次郎が怖がると思ったが、案外、小次郎は平気とまでは言わないが冷静な顔をしている。きっと怖がる以上に佐々木のことを心配しているのだろう。墓地は丘上に広がっていてとても静かなところだった。雪が降り積もっているのは同じなのにどこか温かみのある場所だ。
ここまで来ても僕らは誰も口を開いたり、佐々木に状況を尋ねたりはしなかった。けれど今回は佐々木のことを気遣ったり、何を言うかを迷っているからというよりは、なんとなく、この静かな空間で口を開くことのが躊躇われたからだった。あの不可思議な列車が導いたこの「かすみ峠」という場所が僕らを無口にさせたのだ。
ここはまるで夢の中の世界のようだった。見知らぬ街、見たことのない景色、空気、匂い。「かすみ峠」についてからというもの、どこかもやもやとする霧や靄めいたものが全体的に薄いヴェールのようにかかっていてそれが視界をなんとなくぼやけさせていた。そのせいでより景色が幻想的に見えているのかもしれない。
そんな場所である意味道標になったのは佐々木だ。この墓地が佐々木の中でどういう意味を持つのか予想もつかないけれど、なにより今はこうして何も言わずそばにいてやることしかできないという後ろ向きではない諦めが僕ら三人の中に言葉にならない共通言語としてくっきりと浮かんでいた。
ここにあるどの墓石にも雪がたっぷりと積もっている。やっぱり小次郎は僕の後ろの方にいつの間にか隠れるように歩いているけれど、昼間に見るお墓というものは思ったよりも平和で穏やかなものだった。春になればこの丘に緑が芽生え、鳥がさえずるかもしれない。そんな柔らかな空気がこの場所には満ち満ちている。
「ここに、もっと早く来なくちゃいけなかったんだ」
佐々木はある墓石の前に立つと、やっとのことでとてもとても小さな声を絞り出すように言った。それは佐々木なりの僕らへの気遣いなのだろう。本当は佐々木だって黙っていたかったのに違いない。だって僕らもそうなのだから。
それでもこの状況で僕らに何も告げないというのは躊躇われたのだろう。でも僕も、小次郎も、賢二も、そういう佐々木の背中になんて言ってあげればいいのかわからなかった。なにかを言ってあげなくては、と思うのだけれど、何を言うべきなのか皆目見当もつかなかった。
僕らはただ、やっとのことで言葉を紡ぎ出した佐々木の、立ち尽くすその小さな背中を眺めていた。
「けんかしたんだ」
佐々木は続けた。
「けんかをして別れたその日、こいつは事故に遭って死んじまった」
佐々木の言う「こいつ」はこの墓石の中に眠っている佐々木の友人なのだろうか。
「そうか」
僕が言うと、佐々木は「ああ」とだけ、短く答える。
僕は泣きそうになった。ポチのことを考えたのだ。僕の目の前で事故に遭って死んでしまったポチ。「事故」というのはなんて恐ろしくてなんて悲しいのだろう。それでまた、僕は何も言えなくなってしまった。小次郎も、賢二もただ立ちすくむ。四人でそうして棒のように立ちすくむ。
けれど僕が何も言えなくなってしまったのにはほかにも理由があった。驚いたのだ。佐々木のこの少し影のある雰囲気というものの中に、その心の中に、小さなその体の中に、そんな悲しみを宿していたことに。とても驚いた。僕らは長い間一緒にいて、心や体を寄せ合ってきたように思っていたけれど僕はまだ佐々木の何分の一も知らないような気がした。そしてなんとなくだけれど、今ここでそう思っているのは僕だけではないような気がした。
「ここが、その友達の墓なのか」
賢二がここに着いてから初めて口を開いた。佐々木はただ、それに対して首を縦に振る。
佐々木の前の、頭に雪の帽子をかぶっている墓石にはきれいな字で「遠藤和仁」と彫られていた。この丘に並ぶ小さな墓石一つ一つに誰かの命の欠片が、思い出があるのだと思うと叫び出したい思いがする。そしてこの場所はそういう気持ちのやりどころなのだと思った。この場所がそういう思いをすべて一挙に引き受けているのだ。だからここはどことなく僕らの心を凪いだものにさせるのだろう。
その時、佐々木がなにかに気が付いたように顔を上げた。それはとても反射的で驚いたような仕草だった。
僕らも佐々木の視線をたどるようにしてその方向へ目を遣るのだけれど、あまりに靄がかかったようなこの視界のせいで上手く佐々木が見ている「何か」をとらえることができない。けれどそんな僕らに反して佐々木だけはなぜかその「何か」を鮮明に捉えているようだった。
目を細めながらそれでも諦めずにいるとやっとのことでぼんやりではあるのだが遠くの方に小さな人影が見えた。本当に、小さくて小さくてよく目を凝らさなければ見えないようなものだったけれどそれはたしかにこちらの方へ近づいてくる。
この墓地の丘の一番上の方からその人はこちらへ降りてくるようだった。よく見ると丘のてっぺんには大きな木が立っている。僕は不思議とその木はこの寒い冬の中でも立派な緑を茂らせていているのに気が付いた。その人影は緑の木の茂る場所に立っている。
そしてその人影はぼんやりと白く発光しているように見えた。人影が歩くと、その周りがぱっと明るくなって草木が芽を出し萌えている。さっきの丘のてっぺんの木もあの人影があんな風に濃い緑を茂らせたのかもしれなかった。雪の中に春を呼ぶようなその靄のかかった人影はどこかあたたかな陽だまりのような雰囲気をまとっていた。
「かすみが丘」というだけあって、僕らにはその全てが霧に包まれているようによく見えないのだけれどよく見えないからこそ、人影がまとったぬくもりのある雰囲気が僕らの不安もまとめてまるごと包んで行くようだった。
佐々木は大きく目を見張って今にも泣きだしそうな顔でそちらの方を見ていた。佐々木にはその「人影」が「人影」として見えていないのかもしれない。僕はそう思った。佐々木には、佐々木にだけは「遠藤和仁」としてとても鮮明に、はっきりと、彼がこちらへ降りてくる様子が見えているのかもしれない。なぜだかわからないけれど、それが「遠藤和仁」であるということがはっきりと姿をとらえることができない僕にもよくわかった。
「あいつだ」
佐々木が言った。それをきっかけにして何かの糸が切れたように、
「あいつだ、あいつた」
と繰り返し言う。佐々木がこんなに取り乱しているところを僕らは一度も見たことがなかった。
「あいつが、金を盗んだんだ。それで俺、許せなくて」
佐々木の声が震えている、けれど僕にはその怒りが「あいつ」に向けられたものではなく、「佐々木自身」に向けられているように思われた。取り乱した佐々木は「あいつだ、あいつだ」と繰り返しながら首を大きく横に振ったり、顔を両手で覆ったりしている。
とうとう、その人影は佐々木の目の前まで来た。すると佐々木は取り乱すのをやめて顔を上げ、ただじっとその「人影」を見上げた。そしてそういう彼の瞳の中にはいま、ただひたすら「哀しみ」のようなものが溢れていた。それはまた佐々木にとってこの「遠藤和仁」という人が大切な友人であったという証なのに違いなかった。
結局、近づいても近づいても僕らには人影の白く発光しぼやけた輪郭しか見えない。
けれども、近づいてくると同時に、僕らはその「輪郭」が何かを抱えていることに気が付いた。
それは、よく見ると、何やら大きな花束のようだった。花束には無数の細かくて白い花の粒が咲き乱れていてそれは華やかさというより儚さからくる美しさのようなものをたたえている。
「カスミソウだ」
賢二が小さくささやくように言った。
――カスミソウ。
その人影はカスミソウの花束を両手に抱えて、佐々木の目の前に立った。そして、震えるようにただその人影を見つめて立ち尽くす佐々木に向かってその花束を差し出しながら、何か言わんとするのか唇を動かしている。唇を動かしている、ということだけが僕らにもわかる。
そしてどういう訳か、佐々木の指がそのカスミソウの花束に触れるとその瞬間、人影が何を話しているのかが頭の中心に流れるように聞こえてきた。
「お前のばあちゃんにこの花束を買ってやりたくて。ばあちゃんの誕生日だったろ。あの日」
人影の声は思っているよりも随分と大人びていた。てっきり、佐々木の小さな頃の友人だと思っていたからもっと幼い声で話すのだと思い込んでいたのだ。たしかに、近づいてみると輪郭だけでも人影の身長は僕らと同じか、それよりも大きいように見える。
「それでも盗むのはだめだろう」
佐々木が言った。その声も、思ったより落ち着いたものだった。佐々木は僕らが思うよりもっと弱くて、そして強い人間であるのかもしれない。それか人影の、「遠藤和仁」のあたたかくて落ち着いた声が佐々木をそういう風にさせたのかもしれない。
「俺にはいけないことと、そうでないことの分別が付かなかったんだよ。まだ」
人影が言った。佐々木は何も言わず目線を静かに落とした。人影がここに立っているので佐々木の足元はもちろん、僕らの周りにも緑が茂っていた。雪の地面からは草が生え、小さな野花も見える。
「すまなかった」
風が耳元をかすめた。佐々木はまだ、地面に茂る草花なのか、それとも自分の靴のつまさきなのか、をじっと見つめたまま顔を上げない。その間も人影はゆっくりと形になってぼやけた輪郭をはっきりとさせていた。僕らの目が慣れてきたのだろうか。いまだに実態はつかめないのだけれど、ただ白くぼやけていた人影の形がなんとなくはっきりくっきりとしてきたのだ。
「お前にはつらい思いをさせてしまった」
人影の言葉に、佐々木はまた返事をしなかった。佐々木は唇をぐっと噛みしめてあふれでる感情と闘っているように見える。あの列車に連れられて、佐々木は自身の深い傷や記憶と向き合っているのかもしれない。
「・・・許さない」
とうとう佐々木が低く呻くような声でつぶやいた。「許さない」。そう言った。
やっとのことで紡いだ言葉が「許さない」というのは佐々木らしい。けれどもそれが決して突き放すような意味ではないことをここにいる誰しもが理解することができた。もちろん、この人影も例外ではないのに違いないだろう。何とか絞り出した佐々木の声は、言葉は、そういう響きをしていた。あまのじゃくな佐々木の精一杯の歩み寄りであり和解のための言葉。
そしてその証拠に佐々木は差し出されていたカスミソウの花束をその胸の中に抱いた。その仕草が佐々木にしては随分と丁寧で、子供のように幼く、愛らしく見える。
僕は立派だ、と思った。言葉こそ素直ではないけれど佐々木はいま、この花束を抱きしめるように彼の過去や「遠藤和仁」と真摯に向き合いその種々様々な感情を受け入れているのだ。
そして佐々木が花束をしかと受け取るのと連動するように、不思議なことが起こった。僕らの目に映っていた人影の輪郭がとうとうはっきりとその人物を映し出したのだ。
それは僕から見てもとても大人びた、背の高い青年だった。肩幅がぐっと大きくて黒く澄んだ瞳をしている。年も僕らと同じくらいだろうか。もっと大きいようにも見える。
亡くなった後もその青年はまるで僕らと同じようにいまも成長を続けているようだった。こんなに寒いのに彼は白い綿のTシャツにジーンズという涼しい格好をしている。僕はやっぱり彼の周りにだけ、春が来ているようだと思った。
「そう言わず、許してくれ」
青年はお道化るように言うと、何も言わず花束を抱きしめる佐々木の前に向き合ったまま、少し困ったように笑った。青年も嬉しそうだと思った。佐々木に会えて、佐々木と話ができてとてもうれしそうに見えた。そうして微笑む青年の方が佐々木よりとても大人びているように見える。
青年は、今度は深く息をするようにして呼吸を整えると、
「事故に遭ったのは、お前のせいじゃない」
そう、とてもはっきりと言った。今度はさつきまでのように頭の真ん中に彼の声が聞こえてくるというよりはきちんとした「音」として僕らにも青年の声が聞き取れる。
青年がそう言うと、佐々木ははっとしたように顔を上げた。
「お前のせいじゃない」
青年はもう一度、佐々木の目を見てゆっくりとそう言葉を繰り替えす。まるで幼い子供にでも言うように。まるで子供をあやすように。それが二人にとってとても大事な言葉の交換になるということが僕らにもわかった。そんな風に、青年は丁寧に思いを込めてそう言ったのだ。
「違う」
けれどその言葉を丸きり受け取らないというように、佐々木が首を横に振りながら吐き出すように言った。これもまた、耳を澄まさなければ聞こえないような声だ。
「違わない」
遠藤和仁がその言葉尻にかぶせるように、さえぎるように佐々木の言葉を否定する。
「違う、俺のせいだ」
「お前のせいじゃない」
押し問答のようにそのやり取りが続く。幼い駄々っ子のようにも聞こえる佐々木の声と、青年の静かに、けれど確実な声。
「違う。・・・俺のせいなんだって!」
けれど、その問答は佐々木の叫び声で終わりを告げることになった。その青年の声を更に打ち消すような大きな声で、突然佐々木が叫んだのだ。僕らは突然のことに驚いて息を止める。それぐらい、佐々木の声は迫力のあるものだった。今まで喧嘩をしたとしても一度だって聞いたことのないような、佐々木の驚くほど悲痛な声。でも佐々木の前に立つ青年は、動じることなくただそう言う佐々木のことを真正面からじっと見守っていた。
「俺が、俺があのとき和兄なんて死んじまえって言ったから」
今度も佐々木は震えながらも大きく叫ぶ。赤くなった耳たぶと鼻の先をさらにこれ以上ないほど赤くして。そしてまた、念を押すように「俺のせいだ」と言った。その声は途方に暮れて、また消え入りそうに凍えている。
僕も、賢二も、小次郎も、泣きそうだった。そんな風に大きな哀しみを背負って生きてきた佐々木の声があんまり悲痛で、情けなくて、可哀そうで、泣きそうだった。
青年は佐々木がとうとう黙ってしまうのを待つと黒い澄んだ瞳で真っすぐ佐々木を見たままやはり首をゆっくりと横に振った。そして今度は白いTシャツの胸ポケットから何やら小さくまとめられた茶色くへしゃげたようなものを取り出した。
「これ」
それは小さな小さな花束だった。花束というにはあまりにもしなびていて、不格好な、おそらく野の花で作ったのかもしれないような代物。その根元をたこ糸のようなもので縛ってある。
「お前に渡そうと思ってたんだ」
佐々木は突っ伏したように頭を垂れていた顔を上げた。その顔があんまりぐしゃぐしゃで、悲しくて、だけど青年はやっぱりそのすべてを包み込むように笑う。そして、
「馬鹿らしいだろ」
と眉毛を下げた。青年の手に握られたそれは確かに小さな子供の作りそうな、とても不格好な花束だった。それでもその花束はどんなに美しくて完成された花束より人の心を打つ、真心そのもののように見える。だからそこには嘘も、偽りも存在しない。存在することができない、そう思わせるような。
「なんで」
佐々木が泣きはらしたような赤い目で言う。「なんでって。渡そうと思って。仲直りのしるしに」
平然と、青年は言った。
「結局自分の金でばあちゃんの花束買ったらもうお前には買えなくなって。こんなもんでも作るしかなくてさ」
彼の言葉にも、その小さな花束にも、嘘がないことは明白だった。遠藤和仁は結局、自分のお金で花束を買ったのだ。だから、バラやマーガレットのように華やかな花ではなく、カスミソウのような花を選んで自分の小遣いでまかなえるようにしたのかもしれない。つまり佐々木とけんかした後、彼は反省し、思い直し、佐々木に謝るために仲直りの花束まで作っていたのだ。
思考が停止したように青年の顔をじっと見つめながら話を聞いている佐々木に向かって、遠藤和仁は続ける。
「花束を持って歩いてたらたまたま車がこっちに向かってきて。たまたま歩道を歩いていた俺にぶつかっちまったんだ」
そして言う。
「だからお前のせいじゃない。むしろお前は俺が地獄行になるのを止めてくれたようなもんなんだよ、人様の金を盗んでさ」
佐々木は青年が何か言葉を発するたびに傷つき、そして癒されていくような表情を浮かべていた。佐々木はもう、「でも」とも「俺のせいだ」とも言わない。何も言わず聞いている。僕にはそれが、彼の言葉をあますことなく受け取り自分の中に落とし込み、沁み込ませてゆくよう佐々木が精一杯努力しているように見えた。偶然訪れた奇跡のようなこの瞬間を逃さないように。悲しみと喜びの中でもう二度とできないかもしれない友人との対話に全意識を集中させてゆくように。
「馬鹿だよ、ほんとに」
しばらくすると、佐々木は言った。そして青年の手のひらからその少しへしゃげた不格好な花束を受けとる。
「馬鹿らしくて、許す気になれないんだ」
涙なのか、鼻水なのかもわからなくなったものが混ざった顔で佐々木はわざとへらへらとした表情をつくって言った。佐々木の白い手。指先はささくれて赤い。そのごつごつとして大きな手に握られた花束は所在なさげにさらに小さく見えた。でもその花束は突然、佐々木の手のひらの中でぎゅうっと握られてかわいそうなほどに形を崩してしまった。そして、
「なんで死んだんだ」
と佐々木は悔しくて、苦しくてたまらない、というような顔で言った。手のひらの中の花束を握ったのと同じように今度はぎゅうっと瞼を閉じて再び涙を流しながら言った。息を殺して静かに、けれども最も大きな深い悲しみと叫びをたたえて吐き出すような声だった。
そして僕はそれを皮切りにして、いつも無表情な顔をこれほどかというほどに崩して泣いている佐々木を見ていた。佐々木は、我慢なんてしなかった。しなかったのではなく、できなかっただけかもしれない。青年の前で、佐々木はやはり子供みたいだった。子供みたいに泣いていた。ほっとして、苦しくて、悲しくて、たまらないのだろう。その体の中に、静かな表情の中に、佐々木は一人自分で造り上げた罪の意識を抱えて生きていたのだろう。
こんな風に肩を震わせて佐々木が泣くのを見るのは初めてだった。それはきっと賢二や小次郎も同じことだろう。僕の後ろの方で、小次郎が鼻をすする音が聞こえる。
僕にはわかった。なぜだか、よくわかった。佐々木はずっと「お前のせいじゃない」と言って欲しかったのだ。誰でもない、この「遠藤和仁」に。そしてなにより自分自身に。
青年は泣きじゃくる佐々木の前でばつが悪そうに頭をかくと、
「ごめん」
と言った。今度は、そう言う青年の瞳の中にも涙がきらりと滲んで見える。
「なあ」
そのまま、青年が佐々木に話しかける。佐々木は鼻をすすりながら、やっとのことでこちらも極まりが悪そうに青年の方を見上げた。
「なんだよ」
鼻が詰まっていて少しみっともなくこもった佐々木の声。
「俺と仲直りしてくれるか」
佐々木が顔を上げるのを見はからっって、とてもはっきりと「遠藤和仁」はそう言った。その黒くて濁りなく澄んだ瞳は何もごまかさず、佐々木の目をまっすぐにとらえている。佐々木は一瞬、時が止まったように目を大きくして驚いた。そしてその後すぐにまだ大粒の涙を流しているというのに、可笑しくて仕方がない、というように目を細めてくしゃっと笑う。「ふっ」という、いつもの佐々木の笑い方。噴き出すような、空気を含むような。眉毛を下げて笑う佐々木はでもやっぱり泣いていて、泣いているのに、笑っている。あの佐々木が、今日は随分と表情豊かだ、と僕はのんきなのだけれど、そう思った。そういう佐々木の表情を見られるのが僕は不思議とうれしかった。
「お前はほんとに」
佐々木は鼻声のままそうつぶやくと、花束を腕に抱えたままもう片方の腕で涙を乱暴に拭った。そして握りつぶしてさらにひしゃげたもう一つの花束を手のひらに握ったまま、今度はその手でグーの形を作って目の前にかかげて見せる。
「ほら」
仕方がないな、という表情をつくってはいるけれど、どこかうれしそうだ。それも、とても。
青年もそれを見てにっと笑う。そして同様にこぶしをグーの形にして佐々木の方へ差し出した。互い違いにかけちがえていたボタンのようだった二人の心が、言葉が、記憶が、パズルのように合ってゆく。二人の目と目がぴったりと合う。
「仲直り、だな」
そう言った「遠藤和仁」の言葉を合図にするみたいに、二人は目を合わせまままた笑う。微笑は溶け合って僕らの周りを囲む春の中で優しく写真のように切り取られ、心に刻み付けられてゆくみたいだった。
そうして二人はまるで夢のようなこの場所でそのこぶし同士をかちん、と合わせた。
いのちのありか
そうしてかちん、とこぶし同士をぶつけた瞬間、その青年は跡形もなく消えた。驚くほどに鮮やかに、きっぱりと。
そしてそれを目の前にした佐々木は片手にカスミソウの花束を抱えたまま崩れ落ちるように雪の地面に膝をつくと、また肩を震わせて泣いた。「遠藤和仁」が野の花で作った小さな花束も、佐々木の手のひらの中で震えているのかもしれない。たったいまこの青年がくれた小さな春の奇跡を祝福するように。
ひくひくと体を震わせ泣く佐々木に僕らは青年の代わりに膝を折り寄り添った。小次郎は佐々木の背中を優しくなで、賢二は声をかける。
僕は、「あの日、車にはねられたんだ」と吐き捨てるように言った青年の言葉を思い出した。
黒い道路に舞い散ったカスミソウの花びらや、彼の亡骸を思わずにはいられなかった。なにより、その光景を目の当たりにせずとも、喧嘩別れをした親友の死を初めて聞かされた幼い佐々木の胸の内を思わずにはいられなかった。
死んだ、と聞かされたとき、佐々木は訳もなく自分を責めたのだ。「死んでしまえばいい」なんて台詞を言ってしまった後ならばなおのことだ。正解のない想像の中で彼は苦しみ続けてきたのかもしれない。
佐々木はカスミソウの花束をこれ以上ないほど大事そうに胸に抱きながら、ただひたすらに泣いている。
僕は鼻の多くがツン、とするのを感じながらその佐々木の唇からもれる泣き声の形に広がる白い息がただ静かに浮かんでは消えていく様を見ていた。
トンネル
さっき歩いてきた道をたどるようにして戻ると、そこにはまだ僕らを待つように鎮座している列車があった。僕らはここに来るまで、何も話さなかった。佐々木はもう泣いたしなかったけど、みんなまだ頭の中がぼんやりとしていたのだ。
小次郎は佐々木の肩を抱いて歩いている。佐々木は少し歩きにくい、というような様子だけれど押し返さないところを見ると悪い気はしていないのだろう。
「かすみ峠」という大きな白い看板が停車駅の真ん中に見えたところで、また、
プシューーーーッ
という音を立てて列車の扉が重々しく開いた。僕らを乗せるという意味なのだろう。僕らには選択肢がなかった。この列車に乗る以外に、僕らがこの雪道にいて家までたどり着ける可能性はない。いや、もしかすると考えればほかにも道はあるのかもしれないけれど、ある意味でほかに道はないのだ。なぜなら僕らは悲しいことに僕らををどこへ、どこまで、どのように連れて行ってくれるのかわからないこの列車に飛び乗る勇気や有り余る好奇心を持ちあわせてしまっているのだから。
今度は僕、賢二、佐々木、小次郎の順番で列車に乗車する。四人が乗車したところで今度も待っていた、というように汽車の扉が閉まった。今度はどこへ行くのだろうか。わからない。それでも汽車はゆっくりと速度を上げてゆく。
「かすみ峠」と書かれた大きな看板を目の端で追うようになり、とうとう見えなくなってしまうまで佐々木は窓の外の景色をずっと眺めていた。その横顔にはさっきまでとは全く別物ではあるものの、やはり哀愁のようなものが滲んでいる。
「あのさ」
もう、かすみ峠の「か」の字も見えなくなってしまったようなところで佐々木が言う。窓の外に目をやると周りにはただ真っ白な雪景色と線路が続いているばかりで他には何もない。
「さっき行ったところはこの間の地震で土砂災害に遭ってもうないんだ」
佐々木の口から出た驚くべき言葉に僕らは息をのんだ。
「どういうことだ」
賢二が言う。
「もうないんだよ、かすみ峠なんて場所は」
僕らは沈黙した。佐々木の言葉がにわかにも信じられなかったのだ。僕らが今までいた場所が、今はもう存在しないだなんていうことを簡単に信じられるはずがない。
「だから言っただろう。もっと早く来なくちゃいけなかったって」
そうつぶやいた佐々木の声がやっぱり寂しそうで僕らはそれ以上「かすみ峠」のことについて触れることができなかった。信じられないことを信じられないまま、僕らはおのおのの胸のにしまいこむ。
佐々木の表情は「かすみ峠」に到着する以前よりももっと穏やかなものに変わっていた。穏やかで、きちんと悲しんでいる、そういう表情。とりとめもなく悲しむのではなく、きちんとだ。それがとても大事なのだ、きっと。
兄弟のように仲が良かったのだとしたら、土砂災害に遭っておそらく崩れてしまったあの丘の墓に参れたことは佐々木にとって大きなことだったのに違いない。その証拠に、佐々木は「遠藤和仁」から手渡されたカスミソウの花束をこの列車まで運んだ。今は彼の前の席二つを使って大事に横たえるように花束が置いてある。それが列車が揺れるたびにさわさわと小さな花びらを揺らしていた。
同じことを、小次郎や賢二も考えていたのかもしれない。列車の中にはまたしばらく沈黙が続いた。
「今度はどこに行くんだろう」
なんとなく重たい空気に耐え切れなくて僕が言うと、
「次は俺かもしれないな」
と賢二が言った。
「この景色に見覚えがあるの」
今度は小次郎が窓の外を見つめながら言う。すると賢二は、「いや」と言って列車の進行方向を指さした。
「ほら、見ろよ」
賢二の指さす先のこの車両の最前列の前には扉があり、賢二はさらにその上を指さしている。
「うわ」
そこには、小さく横に細長い緑の液晶画面のようなものがあった。驚いたのはそこに、大きな文字で「賢二行」と書かれていたことだ。
「なんだ、あれ・・・」
小次郎がいつものごとく、おびえたように言う。
「俺行きらしい」
賢二は小次郎のように表には出さないが少しおびえているように思えた。
「こうやって順番に僕らを旅するのかな」
僕が言う。
「僕らを旅って」
その表現が面白かったのか小次郎が噴き出した。小次郎が笑うとなんとなく、その場が和むようなところがある。それで僕はなんだか少しほっとした。
僕らは定位置のようにこの列車の後ろ側の席にさっきと同じように座っていて、左側の座席二つには僕と小次郎、右側には健司と佐々木が並んで座っている。
小次郎の笑い声で車内が和むと、がたんごとんと繰り返す規則的な揺れのせいなのか、さっき随分歩いたから疲れてしまったからなのか、
「眠たくなってきた」
と賢二が言った。僕の方も全く同感だった。さっきまではなんともなかったのに、突然得も知れぬ倦怠感と眠気が襲ってきたのだ。賢二や佐々木、小次郎もどうやら同じらしかった。
そして僕らが眠気に襲われたのと同時に、突然トンネルの中に入ったように窓の外が真っ暗になった。夜が来たのか、もしかすると本当にトンネルに入ったのかもしれない。この不可思議な列車の中で常識は通用しないのだから僕らには真相などわからないのだ。
列車の中には薄いオレンジ色の明かりが灯っているのだけれど外の世界が暗いことで頭が眠る時間だと認識したのかなんなのか、僕ら四人は同様に重い瞼を支えられなくなってきてしまった。どっというような疲れというよりはもっと静かで穏やかな疲れが体中にめぐっている。
そんな中で珍しいことに、一番右端で最初に寝息を立て始めたのは佐々木だった。僕らの中では普段一番寝つきが悪いのだからよほど疲れていたのに違いない。あれほど泣いてあれほど感情が揺れ動いたのだから当たり前だ。もしかすると僕にもこの先、そういう出来事が待っているのかもしれないと思うと少し臆病な気持ちになった。
そういうことを考えている内に重たい瞼がさらに重たくなってくる。気が付くと、横に座っている小次郎もすうすうと規則正しい寝息を立てていた。賢二ももう眠っているのだろう、わずかだけれど賢二特有のいびきの音が聞こえてくる。僕は彼らの眠りの中に自分も吸いこまれてゆくような気がした。
そうしてとうとう、なんとなく置き場のない頭を小次郎の肩に乗せると、僕もみんなと同じようにこの列車の中に充満した夜におちていった。
海の見える街
目を覚ますと、そこは海だった。窓から差し込む白い日の光の眩しさで重い瞼を開けた瞬間、きらきらと光る青い海が見える。見たことのないような、青すぎて、透明すぎて、緑色のようにも思える海。海は広く、この列車から見下ろすだけでも無限に広がっているように見える。
「ねえ」
僕はあんまり驚いたのとその感動とで急いで隣でまだ寝息を立てて散る小次郎の肩をゆすり起こした。
「なに」
寝起きでまだ頭が回らない小次郎に、
「ほら」
と勢いよく窓の外を指さす。
「・・・うわあ」
「すごいでしょ」
「これはすごいな」
むにゃむにゃとしゃべっていたかと思うのに窓の外に視線を移すや否や小次郎はすぐにきらきらと光を反射するように輝く海に目を輝かせる。そして感嘆の声は次第に大きくなって自然と賢二や佐々木のことを起こしてしまった。
「なんだなんだ」
佐々木が先に起こされたようだ。
「うるさいぞ朝から」
今度は賢二が起きてもいいようなものだけど、賢二はまだ瞼をぎゅっと閉じたまま顔をしかめている。寝起きが悪いのだ。それでも指で乱暴に瞼をこするとやっとのことで最後に賢二が目を覚ました。佐々木の方はもう目が覚めているのか窓の外を見て驚いている。今朝の佐々木はほとんどいつも通りの様子で僕は思わずほっとすると、同じように安心した表情の小次郎と目を合わせて微笑んだ。
「ここ日本なのか」
賢二が言う。
「日本じゃあないの」
小次郎が言うと、
「いや、日本じゃないだろ。屋根の色が全部赤いし、家も石造りっぽい」
と佐々木が続いた。相変わらず賢二と佐々木はうんちく王だと思いながら、僕もそう思って窓の外を見てみる。
たしかに、そういわれてみればここは日本ではないような気もする。どこが、というより見渡す限り景色そのものが全く知らない場所、という感じがするのだ。僕はまだ一度も海外旅行をしたことがないしもちろん飛行機にも乗ったことがない。もしもここが海外なのだとしたら列車に乗ってこんなところまで来られるのは予想外ではあるけれど案外いいものかもしれないと思ってみる。
起き抜けの睡眠が足りた頭というものは随分と楽観的で気楽なものなのかもしれない。それかこの新しい空と海の色、燦燦と照った太陽が僕をそういう気持ちにさせるのかもしれなかった。
「家の感じからするとイタリアとか、フランスとか」
「ヨーロッパっぽいよな」
また、うんちく王の二人が言った。列車は僕らが眠っている間にいつの間にか海外まで来てしまったのだろうか。
そうこうしている内に、また列車がスピードを落とし始めた。窓の外の景色が行くのが次第にゆっくりになる。僕は少しそれが残念であるような気がした。碧々としていて異国情緒のあるこの景色をこうして安全な列車の中からいつまでも見ていたいという気がしたのだ。安全、と言ってしまってもいいのかはわからないのだけれど。
そのとき速度を落としていく列車にふと前の方に視線を戻すとなにやら、小さな黒いものが前の席から覗いているのに気が付いた。それは列車が揺れるたびに席からはみ出てちらちらと頭を表す。僕は隣にいる小次郎を肘でつついた。
「あれ」
小声で話しかけると、
「うん」
と答える小次郎に向かってこっそりと前列に見えるものを指さす。「なんだろう」という表情で眉を上げる小次郎が今度は賢二と佐々木に小さな声でこそこそと「あれなに」と聞いた。博学であるはずの佐々木や賢二も「さあ」というように肩をすくめる。
ゆっくりと速度を緩めていた列車が、例のごとく、
キーーーーッ
という音を立てて止まると、その黒い物体はなんと、すっくと立ち上がった。
「あ」
小次郎が驚いたように僕の隣で目を丸くする。僕も同じようなものだった。
その「黒いかたまり」は、坊主の少年の後頭部だったのだ。少年は何も持たず、その小さくて細い体で立ち上がると同時に開く列車の扉へ向かって歩いて行く。少年はどんぐりのような丸い頭をして紺色のボーダーの半そでに半ズボンというやけに涼しい恰好をしていた。そして僕はそのどんぐり頭を見てなんとなく不思議な感覚を覚えた。なぜだか、僕にはこの少年に見覚えがあったのだ。
「なあ」
もやもやとした気持ちでこの違和感の正体を突き止めようと考えていると、佐々木が少年に悟られないよう小さな声で僕らに話しかけた。そして次に佐々木が発したその言葉に僕らは顔を見合わせてしまった。佐々木はこう言ったのだ。
「あれ、小さいころの賢二じゃないか」
と。
そう佐々木が言った瞬間、僕の中であの少年に対して生まれていた不思議な感覚は音を立ててすうっと消え去っていった。正体がわかった瞬間それは違和感ではなく愛しさのようなものに変わってしまう。そうだ、あれは賢二だ。丁度僕らが出会ったばかりくらいの頃だろうか。小学生くらいに見える。あのどんぐり頭のことはよく覚えているのだ。賢二は小学生のころなぜかずっと坊主頭をしていたから。
「後をつけてみようか」
この列車で次々と起こる不思議にそろそろ慣れてきたのか、小次郎がにやにやとしながら言った。僕もあの日の賢二が見れたことにうれしくなって、
「いいね、そうしよう」
と同調する。佐々木もまんざらでもないのか始終にやにやとしているが、賢二だけが小恥ずかしいのか乗り気ではない様子だった。そしてそれが僕らにはまた面白い。
「行こう」
意外にも積極的な佐々木が先頭だって立ち上がると横にいる健司の背中を無理やり押して列車の通路に出た。僕と佐々木もつられて通路に出るといそいそと列車の外に出る。
するとその瞬間、まずは列車から一番初めに出た賢二、佐々木、小次郎、そして僕の順番に驚くべきことが起きた。
「・・おいおい」
「なんだこれ」
服が変わったのだ。列車の外に出るとそこはまさに夏だというようなうだるような暑さで、僕らはそれに合わせるように半そでやノースリーブ、半ズボンにサンダルという姿になってしまった。真っ赤な太陽が差す外はまるでさっきまでの列車の中に漂っていた冬とは別世界のようだ。僕らはすっかりそれに驚いていたのだけれど、
「あ、あそこ」
その間に小さな賢二を見失わないように佐々木がめざとく少年のどんぐり頭に向かって指をさす。
いつの間にやら少年は僕らから随分離れたところまですたすたと歩いて行ってしまっていた。僕は賢二が今と変わらず、この頃から歩く速度が人よりも早いことに思わず噴き出しそうになる。後頭部のどんぐりのような形も、蟹股で歩く独特の歩き方もそのままだ。
「行こう」
佐々木が先頭に立つと、僕らは連れ立って少年の後を追った。幸い、列車が到着した街は人通りが多く僕らが後をつけていてもそう目立たない。
列車が着いた駅は閑散としていて大きなところだった。白い看板には大きくローマ字で「CANNES」と書かれている。
けれどもこの街について言及するよりも僕らには幼い賢二のことをつけることの方が今はよほど大事なことだった。駅を出ると突然人通りが多くなり、あの小さなどんぐり頭を見失わないためには結構な努力が必要だったのだ。
最初、賢二はとあるアイスクリーム屋さんのようなところに入っていった。このアイスクリーム屋さんも日本ではあまり見ないような派手な配色の看板に店構えである。
賢二少年は少しするとピンク色のアイスと白いアイスが二段になったものを買って出てきて早速口をつけながらまた歩き始める。この小さな体でもこうして自分ひとりで買い物ができるくらいには大人であるらしい。
僕らはこの暑さで、やけに二段に乗ったアイスクリームがうらやましく見えたのだけれど、どうすることもできないのでアイスクリームを食べながら歩く賢二の後姿を少々恨めしく追いかけることしかできなかった。
そのまま僕らは賢二の後をつけてゆくと、海が見える坂道にたどり着いた。このビーチはそれほど有名なところではないのか、さっきよりも人はまばらになったがそれでもここから見るだけでもビーチの上にはちらほらとくつろいでいる人々や海に出て浮き輪の上に浮かんだり海水浴をしている人が見える。
幼い賢二は海が見えたとたん、足取りがさらに軽くなったようだった。つい今しがた食べ終えたアイスクリームのおかげもあるのかもしれない。軽くなった足取りはさらに速度を増して最後にはとうとう走り出してしまった。
「おい、走るなよ」
佐々木がため息をつきながら少年を追いかけるためにしぶしぶという様子で走り出しつつ、横にいる賢二をおちょくるように言う。
「知らないよ」
大きくなった賢二も幼い自分の足の速さにたじたじの様子だ。僕らは必死になって彼の後ろを追いかける。
ビーチに着くと、少年は履いていたビーチサンダルのまま波の中に足を浸した。後先考えず、飛び込んでしまうところがやっぱり今の賢二に重なる。そして賢二少年はただただ寄せては返す波を蹴飛ばしたり、水の中に足を浸してされるがままになったりして遊んでいる。
「なにしてるんだろ」
ここまで来るのに疲れたのかつい今しがた迄息を切らしていた小次郎がやっとのことで落ち着きを取り戻して言った。
「たしかに」
僕も同感する。賢二はなにか目的があってここにきたのかと思ったが、そうでもないらしい。さっきから波の浅瀬で同じようなことを繰り返している。
「・・・なんか、寂しそうだな」
佐々木がそうつぶやいた。佐々木の言う通り賢二の後姿はなんだかとても寂しそうだった。独りぼっち、という感じがした。事実、小さな賢二は夕方になるまでそうして一人で過ごしていた。浅瀬で水遊びをしたり、砂浜にかがんでなにやら書いたり、作ったりしながら。
慣れた様子でそうしているのがまた、なんともいえず寂しそうだったのだ。昼から夕方に向かってゆく浜辺もその哀愁をさらに際立たせていたのかもしれない。
夕方になると、賢二は海辺を離れた。そして来た道を同じようにまた登ってゆく。僕らはこの少年にぴったりと、けれども感づかれないようにこっそりと付いていく。今度は突然走り出したりすることもなく、少年は静かに歩いていたのでさっきよりは随分と尾行が楽になったといえる。さすがに少し疲れているのかもしれない。
そしてそのままずんずんと坂道を登っていって、細い路地をいくつか曲がったところで道が開けると、突然そこにレンガ造りの立派な屋敷のようなものが現れた。
その間にも日は暮れてきてもう町はすっかり夜を迎えようとしている。少年はどうやらこの立派な屋敷の中に入るらしい。
僕らはついには小さな賢二と僕ら四人だけになってしまった道で気づかれないように息をひそめながら歩いていたのだけれど、ひとつ、気がかりなことがあった。
どういうわけかその屋敷が近づいてくるのにつれて僕らのそばにいる方の、大きくなった賢二の足取りが段々と重たくなっていったのだ。いつもは速足で先頭を歩いていくのが賢二というものなのに、いまではすっかり一番後ろの方をとぼとぼと歩いている。それは僕ら三人にもよくわかるほど顕著だった。当の賢二はどこか浮かない顔をしているようにも見える。
「どうかしたのか」
僕が少年に気づかれないようにこそこそと振り返りざまに言うと、賢二は「いや」とただ力なく首を振った。
とうとう、小さな賢二はその屋敷のドアの前に立つと、ドアに備え付けられた金属製のようなものでドンドンと扉を軽くノックするように叩いた。これがチャイム代わりになるのかもしれない。
すると、しばらくしてその扉がかすれたような音を出して開いた。そして扉の隙間からは賢二によく似た、けれどももっとずっと針のように細くて尖った鼻をした女性が現れた。この暑さなのに、長袖にショールをかけている。きれいな人だ、と思った。
「ただいま」
扉を開くと同時に賢二が大きな声であいさつをする。けれども、扉を開いたその女性は黙って賢二のことを見るだけで、すぐに身をひるがえして部屋の中へ行ってしまった。
「あれ、誰だよ」
屋敷の庭の木の隙間に隠れながら、佐々木が言う。すると、賢二は少しの沈黙の後、くぐもったような声で、
「さあ」
と言うだけだった。僕らはそれ以上、このなにか思いつめたような顔をしている賢二に言及するようなことをする気にはなれなかったけれど、僕にはどうも「さあ」という賢二の声が、表情が、ちっとも「さあ」と言っていないような気がしてならなかった。
あれは、賢二のお母さんではないだろうか、と僕は思った。けれど賢二のお母さんは賢二を生んだ時に亡くなったのだと聞いていたのだからもしそうだとするならばつじつまが合わないということになる。
死んだ、と聞いていた賢二のお母さん。いつか賢二の家に遊びに行ったとき、たしかに仏壇に女の人の写真が飾られていたのを見た。けれどその女性がさっきの人と同じかというところまでは思い出せなかった。
賢二は苦虫をつぶしたような顔をしている。僕らもどうしたらいいのかわからなかった。
夜が更けてきた。暑い夏とはいえ、ここでの夜はひんやりとしていて手足がなんとなく冷えてくる。なによりものどが渇いた。昼間から一口も水を口にしていない。それにお腹も減っている。いくら僕らが若くて頑丈な体があるとはいってもこの屋敷の庭で一晩を過ごすのはきつい。
「中へ入ってみるか」
月がちょうど見上げたところに浮かんだくらいのところで、そう提案したのは賢二だった。
「いいの」
僕も小次郎も佐々木も、賢二がそう言ったことに驚いた。実のところ、賢二ももうこの家や過去の自分にかかわりたくはないように見えたのだ。実際にそうであるのには賢二の様子を見ても間違いないだろう。
とどのつまり、僕らにひもじい思いをさせるのがかわいそうだと思っての提案なのに違いない。賢二は優しい男なのだ。
「ああ」
そう言うと、賢二は一人立ち上がって僕らを裏口のところまで案内した。「それは結構だよ」と賢二の申し出を断れるほどの余裕が僕ら三人にはなくそれがなんとなく申し訳がない。
「ここから入れたような記憶があるんだ」
そう言う賢二にすがるように僕らはついて行く。僕なんか、幼い賢二が今日食べていたアイスクリームのことばかりさっきから繰り返し思い出しているのだ。
賢二の後をついて行くとたしかに裏口らしきところまで着いた。そこにはたくさん苔のようなものが生えていて、大きな勝手口には古くてさびたようになった重たい南京錠がかかっていた。
賢二はそれを迷うことなく大きな手でがちゃがちゃと揺さぶってみたり細い木の棒でいじって開けようとする。僕らはそういう賢二の少しも躊躇のない動きにはらはらしてしまう。
「どう」
僕が言うと、
「うーん・・・」
と苦戦している。なにせ、賢二は頭は抜群にいいのだけれど、手先の方は少しばかり不器用なのだ。神様は平等だ、といいたくなるくらいには。さっきも小さな賢二が二段のアイスクリームを落とさずに最後まで食べられたのは奇跡だと思う。
そんなことを考えている間にも、賢二ががちゃがちゃと慣れない手つきで南京錠をいじくり回している。これではこのまま壊してしまうような勢いだ。
すると突然、
「誰」
と、どこからか声がした。「大変だ」と僕らははっと顔を見合わせる。賢二もさっきまであんなにがちゃがちゃと乱暴に動かしていた手をぴたりと止めた。
「誰かいるの」
声のありかを辿ると、勝手口の近くの一部屋に明かりが灯っていた。そこには大きな窓があって、そこからこちらを見下ろすように顔を出しているのは件の賢二少年だった。
そこに、どうしたものかと固まっている僕らと賢二少年の目が合う。
「あ」
「あ」
固まっていた僕らはもっと固まってしまった。
「泥棒なの」
少年は心細そうにきく。
「僕泥棒は夜に裏口から入って来るって聞いたよ」
返事に困っている僕らを前に、幼い賢二の問いに答えたのは大きく成長した賢二自身だった。
「違うよ。僕らは泥棒じゃない」
賢二の、案外堂々とした声。自分自身に話しかけているので、そうなのかもしれない。
「本当?」
「ああ、本当だ」
「じゃあ、なにをしていたの」
少年は少年で、肝が据わっている。
「たまたま道に迷っていたんだ。そしたらこの家を見つけて」
「入り口はあっちだよ」
「そうだったのか」
「うん、そうだよ」
「・・・なあ、ぼうや」
「なあに」
「じつは、頼みがあるんだ」
僕らは賢二の後ろでごぐりと生唾を飲む。
「僕らはすごくお腹を空かせてるんだ。なにか食べさせてくれないか。それに外は冷える」
賢二があまりに大胆なことを言うので僕らは目を見合わせてしまった。
「うーん、でも・・・」
少年の方も困っている様子だった。困っている、というよりも迷っている、という方が正確かもしれない。
「もしそうしてくれたら、一緒に遊んであげるよ」
「え・・・」
少年の心が少し揺れているのがわかる。
「それに大富豪の相手もしてやれる」
賢二がそう言うと、少年は一気に目を輝かせた。
「本当?」
そういう少年は満面の笑みを浮かべている。
「本当だよ」
賢二が言うと、少年はまだ少し迷っていたようだったけれど、
「いいよ」
と僕らの申し出を受け入れてしまった。こんなことでは逆に賢二少年のことが心配なくらいだ。たしかに、いまでも賢二はどこか危ういところがある。突拍子がないし、向こう見ずだ。
どうして大富豪の相手をするというだけでこんなにも喜ぶのかはわからないけど、それでも賢二と賢二少年のおかげで僕らが今日野宿をするというのは免れたのかもしれなかった。自分とどう交渉すればいいのかは自分が一番よくわかるのだろう。
「じゃあ、玄関の方に回って」
と言う少年に賢二は急いで、
「待って。僕らのことは同居人にばれないようにしてほしいんだ」
と言い加える。賢二はここでも「同居人」という言葉を使った。幼い賢二のは難しい言葉ではないか、と思うけれど賢二が賢二に言うのだから大丈夫なのだろう。
たしかに、たとえ高校生とはいえこんな夜中に突然押しかければ驚かれるに決まっている。それにどうしてここにいるのか僕らたちにもわからないのにそれを「同居人」に説明しようもない。
「どうして」
「うーん」
さすがの賢二もこの少年の問いには答えあぐねているようだった。それで、
「僕ら、魔法使いなんだ」
と、とっさに僕がうそをつく。あまりに幼稚だっただろうか、と不安に思ったのだけれど、
「そうなの」
と少年は純粋な瞳で目を見開くと、案外簡単に信じ込んでしまった。どうやらこの苦し紛れの嘘を受け入れてくれたらしい。
「そうだよ。だから大人にみられてはいけないんだ。わかるよね」
僕は「わかるよね」のところに少し力を入れて強調してみる。さながら、ミュージカル俳優のように。
「うん。ピーターパンと同じだね」
するとえらくまじめな表情で少年が言った。後ろでその表情を見た小次郎が必死で笑いをこらえているのだけれどこらえきれずに息が漏れている。この子がかわいいのと、今の賢二を知っているだけにこの純粋な顔をしたこの頃の賢二が可笑しくてたまらないのだろう。それは僕も同じだった。それでぐっと笑いそうになるのを、のどをぎゅっと閉めて我慢する。笑ってはいけないと思うほど可笑しくなってしまうのはなぜだろう。
「・・そう。わかってくれるかな」
ぎりぎりのところで笑いを抑え込みながら僕が言うと、賢二少年は神妙な顔でうなづいて、部屋の奥に引っ込んでしまった。きっと鍵を開けに行ってくれたのだろう。
案の定しばらくして、賢二少年は勝手口の内側から鍵を開けてくれた。賢二少年は手早く僕ら全員を中に入れるとそっと勝手口を閉める。周りを見回して抜き足差し足で自分の部屋まで案内する少年の方がまるで泥棒のようで僕らはまた噴き出しそうになるのをぐっと我慢した。
「ここで待ってて」
賢二少年は部屋に着くと今度はそう言い残して部屋を出た。
部屋は少年が一人で寝泊まりするにはあまりに大きくて閑散としている。だからなのか、ここもどこか寂しい場所であるように思えた。
「広いな」
「広いね」
一旦そう言ってから顔を見合わせると、僕と佐々木、小次郎はさっきまで我慢していたのが爆発して、声を抑えて笑った。
「賢二、かわいいよな」
「かわいい」
それでもやっぱり、賢二だけは少し浮かない顔をしている。
少年はあっという間にどこからか集めてきたお菓子やパン、チーズを部屋まで運んでくれた。なんだか得意げな表情で胸を張っているのがまた可愛らしい。こうして突然押しかけてきたのにも関わらず、にぎやかさをましたこの部屋の中で幼い賢二が昼間よりもうれしそうな顔をしているのはこの小さな少年にはあまりに静かで大きすぎる部屋のせいかもしれない。
「ありがとう」
そう言いながら早速食べ物を口に詰め込みだしたのは僕だった。菓子パンの袋を開けて、今度は牛乳をぐいっと飲み干す。続いて佐々木、賢二、最後に小次郎。意外にもこういう時小次郎は遠慮してしまう性質なのだ。
「うまい」
「これ食べたことない」
「そりゃあ外国のだからな」
僕らがあれこれ言いながら食べているさまを少年は目を丸くさせて見ていた。小次郎の唇の端にクロワッサンのくずらしきものが付いている。
「そんなにおいしい」
小さな方の賢二が言った。
「おいしい」
今度は佐々木が答える。佐々木は幼い賢二の姿が可笑しくて仕方がないという様子だ。その様子に大きくなった賢二はなんとも言えない表情を浮かべている。面白くはないのかもしれないが、やはりそれが僕らには面白いのである。
大体のものを四人でぺろりと平らげてしまうと、今度は賢二が少年の方を向いて、
「じゃあ、大富豪をしようか」
と言った。僕らも「しようしよう」と迎合する。賢二が賢二に向かって「遊ぼう」と話しかけるのはとても不思議な光景で、でもそれは思っていたよりずっと素敵な光景だった。道徳的で、美しい光景だった。大きくなった賢二は小さな賢二をそんな風に案外とても自然に労わっている。賢二には年の離れた妹がいることもあって慣れているのかもしれない。
少年はとてもうれしそうに頷いたと思うと、とるものもとりあえず部屋の机の引き出しから急いでトランプを取り出した。こういうときのうれしくてたまらない、という笑顔はいまとちっとも変っていない。頭の回転が速くて成績もいい賢二がいつもどこか愛嬌があるのは幼い頃のこういう笑顔をそのまま残しているからかもしれない。
「こういうのをさ、したかったんだよな。誰かと」
僕はまた、大きくなった賢二が少年時代の自分自身の後姿に向かってそう小さくつぶやきながらふっと微笑んだのを見逃さなかった。
もう夜も深いのに、僕らはそれから明け方まで何度も何度も大富豪をした。「良い子は寝る時間だろう」とまた小次郎が小言を言ったけれど、小次郎自身も僕らも、実のところかまわないと思っていた。少年の腕前はなかなかのもので、時には少年が勝つこともあったほどだった。
幼い日の賢二は今と変わらず純粋で優しく、どんぐり頭をしている。今はもう坊主ではないけれど僕は大きな賢二の頭をわしゃわしゃと時折撫でてやりたい気持ちになった。
男同士の絆は、難しい会話ではなく、こういう名前のない時間の中で育まれるのだ。
さすがに遊び疲れて僕らがもう眠ろうと部屋にあるクッションやらをかき集めていると(幸い、賢二の部屋にはふかふかの大きな絨毯が敷かれていたので都合がよかった)幼い賢二も手伝ってクローゼットから薄くて大きな毛布を取り出したり、お菓子のごみを拾ったりしてくれた。
それで、さあこれから眠ろうと電気を消してみんなで寝ころんだ頃だっただろうか、しばらくの沈黙の後で、小さな賢二が心細そうな声で、
「・・・みんな、魔法使いなんかじゃないんでしょう」
と言った。僕らは暗闇の中でぎょっとする。そして息をのんだ。
「どうしてそう思うの」
恐る恐る、小次郎が優しく諭すように聞く。さすがは母親のような小次郎、こういうときの声の優しさは天下一品だ、と僕はまるで他人事のようにそう思った。
「だって、そんなはずないもの」
――魔法使いなんているはずないもの。
小さな賢二の声が部屋の中で響いて消えてゆく。賢い賢二の考えらしい返答だ。
そういえばいつか、賢二と二人でそういう話をしたことがあった気がする。
あの日も、雪の寒い日だった。真っ白な道を珍しく僕ら二人で歩いていると賢二がこう言ったのだ。
「本当に魔法使いがいたらさ。俺はもっとましなはずだろう」
「ましってなあに」
「ましはましだよ」
その日、どうしてそういう話になったのかわからないし思い出すこともできない。けれどそう言った賢二の声やうつむいた表情があまりに悲しくて僕の頭に焼き付いていたのだ。
あの時は賢二がどうしてこんなことを言うのか、わからなかった。その結論は理性的な賢二らしいとも思ったけれど、同じようにそんなことを言うのは賢二らしくないとも思った。
「でもじゃあ、どうして僕らを部屋の中に入れてくれたんだ」
佐々木が言った。
たしかに、僕らをこの家に入れる前の賢二のうれしそうな顔を思い出して僕は狐に包まれたような気分になった。少年をうまく丸め込んだ、と思っていた僕らはこの幼いころから聡明な賢二少年の手のひらでことがされていたのだ。けれどそんな思考も、賢二少年の次の言葉で簡単に砕け散ってしまった。
「・・・だって、僕、寂しいんだ」
賢二少年の声は、さっきにも増していまにも消え入りそうだ。
この小さな少年は「寂しい」と言ったのだ。見ず知らずの、僕らに。絞り出すように。この賢い子供が僕らのことを魔法使いでも何でもないのだとわかっていながらこの部屋に招き入れたことについて、僕は考えてみた。それほどに、この子は「寂し」かったのではないだろうか。僕らが想像するより、大きくなったこの賢二の顔を曇らせてしまうほどに、孤独だったのではないだろうか。そう思ったのだ。
「みんな明日には帰ってしまうんでしょう」
少年の言葉に僕らは今度も返事をすることができなかった。何かを言わなきゃと思うのだけれど、言葉にすればどれもこの小さくも純朴でまっすぐな賢二の前では陳腐であるような気がしたのだ。少年は僕らが思うよりもずっと利口で、大人で、けれどもまだ幼い子供だ。
「明日、もう一日いるよ」
沈黙を破ったのはまたもや、大きくなった賢二だった。まだ決めきられずに答えを迷っているような、それでも言葉が先に出てしまった、というような言い方で賢二は言った。けれども僕らも、賢二と同じ気持ちだった。この寂しい少年の夏のたった一日でもいい、豊かで幸せな思い出にしてやりたかったのだ。賢二だってそうなのに違いない。賢二は自分自身を慰めるのではなく、この目の前の小さな命を慰めたいのだろう。
「本当?」
さっきまでと同じような、弾むような声で少年が言った。
「もちろん」
大きくなった賢二は随分、頼もしいものだ。「ありがとう」
とつぶやいた少年は心底嬉しそうな、というより安心しているかのような声で僕らに礼を言って見せる。こんな風に押しかけて、野宿ではなくあたたかな絨毯の上で寝かせてもらえるのだから礼を言わなければならないのは僕らの方なのに。
少年のほっとしたような声に、僕はいたたまれない気持になった。明日は一人じゃないという安心。反対に一人で一日を持て余さなければならないという緊張をこの小さな体に毎日受け続けている彼のことを考えたのだ。
少年は夜更かしをして疲れたのか、しばらくするとすぐに幼い子供特有のすうすうという寝息を立て始めた。僕らも今日もたくさん動いて疲れていたので少年の後を追うようにすぐに瞼を閉じる。
少年を起こすまいとそれ以降誰も声を発しなかったけれど、その晩、きっと小次郎も佐々木も、そして賢二も僕と似たり寄ったりのことをそれぞれの心の中に抱きながら眠りについたのに違いなかった。
次の日、遠くの方で聞こえる物音で僕は目を覚ました。
がさごそ、とかどんどん、という音。普段生活していてよく耳にするような生活音だ。階段を人が降りてくる音のようなものもする。僕は急いでみんなを揺すり起こすと、続いて賢二少年の肩を軽くたたくようにして、三人に比べると心持優しく起こした。
「君のお母さんが起きてるのかも。ばれないうちに僕らは外に出ないと」
僕がそう言うと、この、まだ寝ぼけ眼が愛らしかった賢二少年は飛び起きて、
「うん。わかった」
と言う。いまの寝起きが悪い大人の賢二と比べると実に迅速な立ち居振る舞いだ。
小さな賢二はその生活音や足音が遠ざかり、どこかの部屋の扉がばたんと閉まる音を確認するまでじっと耳をそばだてた。そして音がしなくなると、一度廊下の方へ出て誰も出てこないかどうか確認してから、僕らを勝手口の方に逃がしてくれる。
僕らはというとまだ髪を振り乱し、寝ぼけているのでどうにもこうにもしゃきっとしない。けれどもここで失敗するわけにはいかないのでぐっと体に力を入れた。
「なにか食べ物を持っていくから、庭で待ってて」
そういう僕らに比べて、こそこそと、けれどもきっぱりきびきびと言葉を紡ぐ少年はさながらジェームズボンドのようである。
僕らが少年の言葉に無言で大きく頷くのを見て少年も「うん」というように上目遣いで大きく頷いて見せた。その様子が相変わらずとても愛らしいのと、なにやら僕らみんなでおままごとをしているようで笑ってしまいそうになる。それで僕は改めて、この目の前にいる賢二の幼さを痛感した。
けれども次の瞬間、僕は思わぬ賢二少年の姿を見ることになった。それでついさっきまでの微笑ましさのようなものは飛んで行ってしまった。
少年は勝手口の重い扉を閉める前に僕の目をしっかりと見て、唇を動かし秘密義に言葉を紡いだのだ。昨夜、眠りにつく前のような心細く小さな声で。そしてそれと同時に僕の目の前で重たい扉が音もなく閉めらる。
僕はたその言葉にただ、扉の前でまぬけに立ち尽くすしかなかった。少年はこう言ったのだ。
「・・あの人は僕の母親じゃないよ」
と。
「海に言って食べよう」
しばらくして少年が庭で待つ僕らにと持ってきた袋には山盛りの食べ物が詰め込まれていた。どれも手作りのようなものではなく買ってきたようなものばかりだったけれど、高級そうな品ばかりだ。
「うん」
賢二少年は嬉しそうだ。はじけるような笑顔が朝の光に照らされて僕らにはまぶしい。
僕はさっきの賢二少年の意味深な言葉を心の中で反芻するように思い出しながらも、そのはじけるような笑顔を見ていまは目の前にいるこの小さなあたたかい命に集中することにした。
海は昨日よりも人が多いように見えた。朝なのに、ビーチには数えきれないほど人がいる。今日はもしかするとここでは休日なのかもしれない。
僕らは汚れるのも気にせずまずは砂浜に座り込んで少年が持ってきたものを食べた。昨日たくさん食べて眠ったはずなのにもうお腹がすいているから不思議だ。
「昨日はよく眠れた」
小次郎が、また口の端にクロワッサンをつけながら言った。遠くの方から朝から昼にかけてこの海を照らそうとしている太陽がさんさんと僕らを照らして、小次郎の目はまぶしそうに細められている。
不思議だと思った。ここにいても、あの北国の寒い雪の上にいても同じように太陽は僕らを照らしていて僕らに向かってまぶしそうに話しかける小次郎の瞳の細め方も寸分違わず同じだ。
僕はそういうことが時々無性に不思議でならないと思うことがある。こうして毎日顔を合わせる人間が毎日同じであるということ。賢二の髪が次の日突然伸びたり、佐々木の声が突然変わったりしないということ。それは僕らをとても安心させてくれる。それこそ奇跡だと思う。けれども、それと同じように毎日ちゃんと少しずつ世界や物事は変わっていって、今ここにいる小さな賢二と大きくなった賢二はまるで別人みたいな顔をしているということ。それも同じように奇跡で安心できる現実の一つで、またとても切ないことでもある。僕らはだから、いまこの瞬間を安心しながらでも大切に、生きなければならないのだ。
「眠れたよ」
小次郎の問いに幼い賢二が答える。そして、
「ここ」
と言いながら、自分の口元を指さして、
「ついてる」
と言った。
「ええ」
「ふふふ」
賢二はかわいらしい子供だ。
「恥ずかしいな」
小次郎の方もそう言いながらやっとのことで口元のクロワッサンの欠片をぬぐいつつ、微笑ましそうな表情を作っている。
「今日出てくることはお母さんに言ったのか」
今度は佐々木が少年に向かって尋ねる。僕はさっき賢二少年があの重たい扉を閉めるとき、
僕に言った言葉を思い出して言葉に詰まった。
「・・・言ってないよ」
案の定、返事に困ったようにしばしの沈黙の後、賢二少年が答える。小次郎や佐々木には少年が何も言わずに出てきたことを後ろめたく感じて返事に困ったのだろうと受け取ったかもしれない。けれど僕には佐々木が言った「お母さん」というその言葉が彼の言葉を詰まらせたように思われた。僕が大きな賢二の方に目をやると、彼の方もなんとなく居心地の悪い顔をしている。
「大丈夫なのか」
「そうだよ、お母さんが心配するよ」
何も知らない二人はけしかけるようにそう言った。確かに、こんなに幼い坊主の男の子が親御さんになにも言わずにこうして外へ出てくるのは危険だろう。
「いまからでも帰ってお母さんに一言言いに行った方がいいんじゃないか」
心配した佐々木が言う。
「そうだよ、そうしよう」
小次郎も口をそろえていった。賢二と僕は浮かない顔をして黙り込んでしまう。僕もあのきれいな顔をした女の人が賢二のお母さんでなければ「誰」なのかがわからないのでうまく口添えすることができないのだ。
もう佐々木と小次郎がほとんど腰を上げようというところで、
「いいんだ」
ととうとう少年が叫んだ。その「いいんだ」は思っていたよりも大きな声で僕らはぎょっとしてしまう。周りで海水浴や日光浴をしている人たちも驚いたようにこちらを見てはこそこそと何か話してる。
「いいんだよ」
今度はさっきより少し小さな声で少年が言った。
「でも」
それでも、小次郎は心配そうに眉を八の字にさせる。
「心配させるぞ」
佐々木も続ける。
「あの人は心配したりしないよ」
賢二少年が言った。それと同時に、僕の後ろで賢二がぐっと拳を握り締めるのが視界をかすめる。
「今までも、いってきます、とか、夕方には帰ってくるから、とか言って出かけるようにしてたけどあの人は一度も返事をしないんだ」
少年が耐え切れなくなったように口を開いた。
「だから今日は何も言わずに出てきた。言っていたって返事はないし帰ったってドアのかぎを開けるだけなんだよあの人は」
少年が吐き出すように言う言葉にはひとつひとつに、見えない棘と悲しみとが見え隠れしている。
「でもお母さんだろう」
「血はつながっていたって、お母さんなんかじゃない」
少年の態度はいたってかたくなだ。それだけ傷ついたのだろう。
僕も自分だったらどうだろうと考えてみた。もしも母さんに話しかけても返事をしてもらえなかったら。それがたった一度ではなく何日も続いたなら。それは最初、「怒り」であるかもしれない。けれどもそれは次第に悲しみになり、最後には深い心の傷になってしまうだろう。そうしてもっと時間がたてばその傷があったことさえ忘れてしまうのかもしれない。慣れてしまうかもしれない。
でも僕は賢二のことを考えた。あの列車によってここまで連れてこられた僕らが坊主頭の小さな賢二を見つけて、この小さな賢二があの家の前に差し掛かろうという時しぼんだように生気や元気を失ってしまった賢二のこと。きっといまも彼の心の傷はそのまま野ざらしにされているのだろう。いろんな言い訳をつけてその傷をそのままにしているのだろう。絆創膏も消毒液も塗らずに。だって賢二も僕らも知っているのだ、傷を治すのにはいつも痛みが伴うということを。
結局、少年のかたくなな様子に圧倒されたのか、どうすればいいのかわからない僕らはその場のどんよりとした、なんとなく沈んだ空気を取り戻すように今この場所で味わえる喜びを追求することにした。あの列車はいつまであそこに停まっているのかわからないし、あまり長くはここに滞在でできないだろう。今日、賢二少年と遊ぶこの一日を引き延ばすので関の山だ。僕らには賢二少年の、そして賢二の心をどう癒せばいいのかわからなかった。僕らは賢二や賢二少年のようにまだ未熟なのだ。それでも、このたった一日を楽しく過ごす術なら知っている。
「さあ、行こう」
小次郎がさっきまでの重たい空気を払拭するようにさっと立ち上がると勢いよく白い文字に何やらよくわからないローマ字がプリントされたシャツを脱ぎ捨てた。そう思うと、海の方へこれ以上できないというほど思い切り足を動かして走ってゆく。そしてあっという間に浜辺にたどり着くとそのままの勢いを緩めることなく海の中へ入っていった。
その光景はあまりにも夏で、あまりにも青春で、あまりにもばかばかしい。けれど美しかった。
それに続き、僕、佐々木、そして賢二も小次郎の後に続くと賢二少年も走り出した。みんな、「わー」とか「あー」とかよくわからないことを口走りながら。
何をしているのか、どこへ向かっているのか、ここがどこなのかさえわからない。けれどなにもわからないことがいまの僕らには最高に楽しいことだった。いつもわかることばかりしているときっと人間はおかしくなってしまうのだ。みんなから見れば今の僕らの方がよほどおかしいのだろうけどきっと今の僕らの方がよほど正しくて健全なのだ。異国の青い海の冷たさとすぐに慣れてぬるく感じる自分の体を不思議に感じながら、僕はそんなことを思った。
そのあと、僕らは砂浜に落ちていたどこの誰のかもわからないビーチボールでバレーもどき(あくまでももどき。ルールはよくわからないしどちらでもよかったから)や、少年のお金で買ったジュースを飲んだりした(ありがたいことだ)。
みんな、夜眠るのが遅かったうえに朝も早かったから遊び疲れて少し日陰で休むことにした。ほとんど裸ん坊で浜辺に寝ころんでいると僕らはとても幸福であるような気がしてくる。
幸福はこうしてとてつもなく突拍子もないところでやってくるものだ、と思う。案外、用意周到に準備されたピクニックやレストランのように整っていなくて全然思わぬところからぴょんと飛び出てくる。
僕はこの、ヨーロッパのどこかの国の、どこかよく知らない浜辺の上に寝転がって知らない空を見上げた。知らない空。だけど知ってる空。青くて高くて白い雲が浮いている。よく知っているのに知らない空。
その後母さんのことを考えた。母さんは今頃何をしているだろうか。きっと心配しているのに違いない。泣いているのに違いない。もしかしたら気がおかしくなっているんじゃないだろうか。僕は母さんがいまもきっと安全なところにいていつもと同じ暮らしをしていることを知っているけれど母さんは僕が今どこにいてどんなふうに過ごしているのか知る由もないのだから。そう思うと途端に切ないような、心細いような気分になる。ここにいてはいけないような気分になって、さっきまで好きだった知らない町の知らない空のことが嫌いになりそうになる。
じゃあ、賢二の家にいた、あの「同居人」はどうなのだろう。紛いにもあの人は、あの女性は、賢二の「母親」ではないのだろうか。
「起きてるか」
そんなことを考えていると、僕の隣で寝ころぶ大きな賢二が言った。小さな坊主頭の賢二はもちろんのこと、小次郎も佐々木も疲れたのか口を開けて眠っている。足先や膝小僧が日陰から出てこの間もじりじりとみんなの皮膚を焼いているのもおかまいなしに。ここで起きているのはどうやら僕と賢二だけらしい。
「うん」
僕はみんなを起こしてしまわぬようにいつもよりも控えめな声で返事をした。
「どう思う」
賢二が言う。
「どう思うって」
「母さんじゃないってあいつが言ったこと」
賢二がここで言う「あいつ」はきっと幼い賢二のことだろう。自分のことを「あいつ」というのはへんてこりんだ。どんな気分なのだろう。
「うーん」
「うん」
「僕に今朝あの子がそう言ってたの、聞いてたの」
ここで僕が言う「あの子」ももちろん幼い賢二のこと。
「うん」
「そうだな」
「うん」
「まあ、最初はどういう意味かと思ったけど」
「うん」
「今はわかる気がするよ」
「そうか」
「うん」
少し、また沈黙が流れた。その間、僕はまたこの高くて青い空の上を左から右に流れる雲を見ていた。一つだけ大きくてもくもくとそびえたつ、入道雲が僕の目を引いたのだ。
「あれは母親じゃないんだ」
さっきと同じトーンで、賢二が言う。
「母親だけど、母親じゃない」
僕は賢二の方を見た。賢二はとても冷たい目をしていた。いままでに一度も見たことのないような目。怒りも悲しみも憎しみも、何も感じられない目。氷みたいに冷たい目。それが賢二の男らしい大きな体格や鋭い顎のせいでもっと冷ややかな雰囲気になっていた。
「この夏に一度、日本に住む父親のもとを離れて母親と夏を過ごした。あの人はいつもこっちにいたんだ。でもその間母親は俺と一度も言葉を交わしてくれなかった。いつも起きると食べ物がテーブルいっぱいに置いてあるだけで。結局最後に父さんが迎えに来てくれるまで一度も俺を抱きしめることもなかった」
賢二はただ、とても淡々と語った。まるで自分とは遠く離れた別の誰かのことを話すみたいに。
「でも父さんはいつも俺のそばにいてくれたし、愛してくれた。だからあの人のことはなんでもないんだ」
賢二がそう言い終わるころ、少しひんやりとした風がこの日陰に吹いた。そのせいか賢二少年が「ううん」と顔をしかめるようにして少し寝返りを打つように体を動かす。
どうしてだろう。この幼い賢二と今の賢二は同一人物であるのにどうにも全くの別人という感じがする。賢二はずっと、その心の中にこの幼い賢二のことを置いてけぼりにしているのかもしれない。僕は何となく、そう思った。
同時に僕の心の中にぽつん、と一筋の違和感のようなものが生まれたのを感じた。感じたのだけれど、これがどこからきてどこへ向かうべきものなのかがわからなかった。この空の上に浮かぶ、あの入道雲みたいに。
じんわりと空が赤く染まりだしたころ、誰からだったのかみんなこぞって体を起こすと、目をこすって互いの頬やら髪の毛にへばりついている砂を指さしあって笑った。僕も賢二もいつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「もったいないなあ」
幼い賢二が言う。
「なにが」
佐々木が言うと、今度は、
「眠ってしまったことだろう」
と小さな賢二ではなく大きな賢二が言った。それで小さな賢二が少し驚いたような顔でこくりと頷く。
「うん。だって・・・」
「みんなと眠っている時間にほかのこともできたかもしれないのに、って思うんだろう」
今度も小さな賢二の言葉に重ねるように大きな賢二が代わりに代弁してしまう。小さな賢二は「どうしてわかるの」という顔で目をぱちくりさせながら今度もこくりと頷いた。
僕らはそういう二人を見た後、今度は小次郎と佐々木と互いに目くばせをして噴き出してしまう。ここに来てからというもの、僕らはよく笑っているような気がする。それは間違えなくこの小さなどんぐり頭の少年とその少年にとても良く似た大きな僕らの友人のせいなのに違いない。
さっき小さな賢二と大きな賢二は全くの別人であるかのように思えたのだけれどやっぱり賢二は賢二なのだ。小さなころから何も変わっていない。多くのものが変わって形を変えたように思えるけれど本当は何も変わっていないのだ。坊主頭の後姿も、利発で不器用なところも。
「でも、こうやってみんなで並んで昼寝をする良さっていうのもあるんだぜ」
佐々木が幼い賢二と大きくなった賢二の頭を両手で同時に撫でた。また僕らはどっと笑う。
夕暮れに赤く染まる海が、今度は本当に全く知らないところに見えた。事実、全く知らないのだけれど、本当に目新しい景色だったのだ。北国で育つ僕にはこの、見るからにおおらかであたたかな海に沈みゆく大きな太陽が新鮮で、美しかった。もうすぐ、今日という一日が終わる。そうすればこの賢二少年とも別れなければならない。それは少しほっとすることで少し寂しいことだ。ものごとの大抵はいつもこうして二面性をはらんでいて僕らを混乱させてしまう。
少年をあの屋敷まで送っていこうか、とみんなで歩き始めたところで、遠くの方から、
「賢二」と呼ぶ声が聞こえたような気がした。気のせいかもしれない、と思うほど小さな声が風に乗って届いたのだ。それは小さな声になって僕の耳に届いたけれどそのおおもとになるような「声」は決して小さくはない、むしろ大きくて鋭い声であるような気がする、そういう音。
最初気のせいかと思っていたけれど、その声は次第に大きくなる。そう考えていたのはみんなも同じようで、僕らはまた目を合わせる。
「声、聞こえないか」
佐々木が言った。
「聞こえる」
小次郎が言う。
「賢二って呼んでるよな」
僕。
ふと横を見ると小さな賢二と大きな賢二が時が止まったように遠くを見て佇んでいた。
「賢二―!」
声はどんどん近づいてきた。
「賢二!賢二―!」
声は切羽詰まっている。もう少しも、誰も、小さな声だとは言えない声だ。聞くだけでそれを発している人の心がわかる。いまにも泣き出しそうな声だ。
「どこなのー!」
そして石のように固まって佇んでいる二人の賢二の視線は一人の、同じ人に向けられている。
「どこー!」
遠くからなにもかもをかなぐり捨てるように髪を乱して、整った顔をぐちゃぐちゃにして歩いてくる、見たことのある顔。細い体は今にも夕暮れの風に吹き飛ばされてしまいそうだ。
「賢二!賢二―!」
ビーチに残っている人はみんな、怪訝そうにその声の主を見ている。けれどもその人はそんなことなど全くおかまいなしだ。
「・・・母さん」
僕の隣で、賢二が呟くのを僕は聞き逃さなかった。それは小さいけれど、悲痛な叫びだった。賢二の、本当の叫びであり願いだった。救済だった。
「母さん、母さん」
今度は小さな方の賢二が言った。そしてその声はどんどん大きくなった。
「母さん、ここだよ!僕ここにいるよ!」
とうとう幼い賢二は走り出した。小さな坊主頭が揺れて、赤い夕陽に照らし出されている。その後姿が賢二の、たった一人のお母さんの方へ向かって走ってゆく。その光景はとても自然でいて美しい。まるで大きくなった賢二が小さな賢二に優しく話しかけるその光景のように。
「賢二!」
賢二のお母さんは目を大きく見開いて、賢二を見つけると、
「どこに行ってたの」
と叫んだ。ヒステリーでこの世のすべての怒りを込めたように恐ろしい声。この声は、僕が幼いころにも聞いたことがある、どこかなじみのある声。いつか僕が黙って家を出て公園に遊びに行ってしまったとき、母さんが僕をひどく心配して叱ってくれた声。
「何も言わずに家を出るなんてなにを考えているの」
賢二のお母さんの眉は吊り上がっていていかにも怒っている、という様子で僕らまで身を縮めてしまいそうになる。けれど、賢二少年は僕らよりもずっと強気だった。まだ、このお母さんにたいして言葉が返せるのだからすごいものだ。
「だって」
賢二少年は小さな声で始める。
「だって、僕が何を言っても答えないじゃないか」
賢二少年が言うと、目に見えて賢二のお母さんの顔がこわばるのがわかった。そしてぴたっと体の動きが止まる。
「なにも言わないじゃないか。ぼくが行ってきますっていってもただいまって言ってもなにも言わないじゃないか」
少年の声はどんどん大きくなった。
「そんな人に、どこへ行くかなんて言えるか!」
賢二のお母さんはさっきよりも目を大きく見開いた。そしてよく見ると賢二の眉にそっくりな眉山の高くて細い眉がどんどんと下がってゆく。
「そんな人、お母さんじゃない!僕はもう帰りたい、あんたなんて大嫌いだ!」
賢二がそこまで言ったところで、賢二のお母さんの瞳は大きくうるんで防波堤から水があふれるみたいにそこから涙がぼろぼろとこぼれた。それが赤い光に照らし出されてまるで海みたいだ、と思う。
賢二のお母さんはそのまま泣きながら、そんな風にかたくなで頑固で、けれどもまだまだ小さな賢二の体をいとも簡単に抱き寄せるとその小さなどんぐり頭の少年をすっぽりと包み込むように両手にぎゅっと抱いてうずくまった。
そして、何度も「ごめんなさい、ごめんなさい」とつぶやいた。僕は泣きだしそうだった。あんまりそれが胸を痛めるような言い方だったから。それがあんまり悲しい「ごめんなさい」だったから。
幼い賢二は何も言わずただ、そうされている。ただ、母の胸の中に顔をうずめている。
「お母さんね、もう、死んじゃうの」
賢二のお母さんは言った。泣きながら、きれいな顔をめいいっぱい崩して。
「だからずっと、あなたのことを大事にできなかったの」
つんと高くて整った形の、少し先がとがった鼻からは鼻水がずるずるとこぼれ出る。
「大事にしたら、もっと大事なものになるでしょう」
不思議なことに、それすらこの夕日の前ではきれいだ。
「ごめんね。お母さん、賢二のことが大好きなの。大事なの。大事すぎて、大事にできなかったの」
今度は、小さな賢二の小さな肩が小刻みに震えている。泣いているのだろう。
「僕のこと、好き?」
賢二が顔を上げ言った。やはり、少年の顔も涙と鼻水とでぐしゃぐしゃだ。
「大好きなんてものじゃない。愛してるの。あなたは私のすべてなの」
賢二のお母さんは泣いているけれど、賢二の目をまっすぐに見て言った。その人は僕らが昨日見た、線の細くて華奢な、冷たい目をした人とは同じ人とは思えないほど強い瞳をしていた。強い声をしていた。
「だからお願い。もうどこにも行かないで。お母さんを不安にさせないで」
うずくまる二人の影が、長く伸びている。賢二少年は、お母さんの目を同じようにうるんだ瞳で、そして確実な瞳で見つめ返して頷く。僕はその姿を見て、どうして胸につっかえたような違和感があったのか、わかったような気がした。
人は愛していない人のために、机いっぱいに食べものを用意するだろうか。袋いっぱいに詰め込まれた高級そうな食べ物たち。それを朝早くに起きて用意した賢二のお母さん。買いに行くのにも、一人で、ましてや病気の体で、買い物に行ったのだろうか。この子は何が好きだろう、と考えて、悩んで、思いのほかたくさんの重たい荷物を抱えてあの屋敷に帰ったのだろか。
なにより、賢二が帰ってきたとき玄関の扉を開けた時のなんともいえぬ表情。僕がよく知っている表情。全然知らないけれど、よく知っている表情。あれは母さんが僕に向ける表情と同じだった。
僕の後ろで大きくなった賢二も泣いていた。子供みたいに、泣いていた。
夕日が完全に海の底に落ちてしまうまでそうしていただろうか。やっとその美しい一組の親子が砂場から立ち上がると、手をつないで沈む砂浜の上を歩き始めた。
僕らがその後姿を見送っていると、数歩歩いたところで、坊主頭の少年がこちらを振り返って手を振った。それは少年から僕らへの精一杯の「さようなら」であるのだろう。その表情は昨日までのように心細そうでも、寂しそうでもなかった。そこには彼がきっと喉から手が出るほど欲しがっていた「安心」が滲んでいた。
僕らも大きく手を振り返す。何も言わずとも、僕らと幼い賢二にはこれですべてがわかるのだ。昨日大富豪をして夜を明かし、今日何もかも忘れて海で遊んだ僕らには。
すると、どういうわけか、少年につられたのか賢二のお母さんもこちらを振り返った。その瞬間、風が止まったように思えた。僕の後ろで賢二が息をのむのがわかる。
賢二のお母さんは不思議そうにこちらに眼をやりながら、軽く僕らの方へ頭を下げた。僕らもつられるみたいにとっさに頭を下げる。もちろん、賢二も一緒に。
賢二のお母さんはその後軽くぺこりと頭を下げてまた前を向いて歩き始める。
赤い夕陽が映った浜辺を歩く二人の背中。けれど数歩歩いたところで、なぜかまた、賢二のお母さんの足取りがぴたりと止まった。それにつられて少年の足取りも止まる。
そして賢二のお母さんはまたこちらを振り返った。でも今度はそのきれいな瞳に「僕ら」は映っていなかった。彼女は「賢二」を見た。そして、にっこりと笑ってみせたのだ。
それは幼い賢二を玄関の扉を開けて出迎えた時と全く同じ表情だった。人が愛おしくてたまらない存在にのみ向ける表情。
賢二はその場に立ち尽くしながら息を止めていた。それは、賢二が一番欲しかったものだったのだ。世界でただ一人の母親から「愛された」という記憶。賢二のお母さんがまた前を向いて歩きだしたのと同時に、賢二は砂の上に崩れ落ちるようにしてしゃがみ込むと声を殺して泣いた。そうして賢二は暮れてゆく空に抱かれていつまでも、いつまでも泣いていた。
真っ白な道
夕暮れから夜にかけては驚くほどの速度で時間が進んで行く。
賢二は子供のように泣いていて、僕らはそういう賢二が愛おしかった。友人にこんなことを言うのはとてもおかしなことだと思う。愛おしい、という感情はけれどもものすごい質量で僕らのもとに押し寄せてきた。賢二があの、小さなどんぐり頭の少年とまるきり重なって見えたのだ。
賢二はそういう風に泣いた。勉強ができて、体ががっしりと大きくて、リーダーシップのある賢二、ではなくただあの少年のように賢二は泣いたのだ。
僕らはその間、静かに賢二と海を見ていた。それから水平線の中に落ちてゆく真っ赤な太陽を眺めていた。
「行こう」
そう切り出したのは小次郎だった。小次郎は賢二の肩を抱いて顔を覗き込む。そしてあの、少年に話しかけるように、
「行こう」
と言った。優しく、語り掛けるように。
僕らはそれから、列車の待っているであろう駅まで急いだ。僕は来た道をからきし覚えていなかったけれど、賢二はきちんと覚えていたので助かった。本人がどう思っているのかわからないけれど、賢二にとってここで過ごした夏というのはきっと体や心に刻まれているのだろう。それは忘れたかった過去かもしれない。けれどいまはどうだろう。自分自身が「愛されていた」という思い出に塗り替わったのだろうか。全ては僕には計り知れないことだけれどここに来てよかったと賢二が思っていたらいい、と思う。過去に受けた傷を癒すには随分と長い時間がかかるかもしれない。けれど、その傷を滑らかにそっと癒すには今日見たこと、今日感じたことがとても大きな意味を成すのではないだろうか。
賢二はいつものように僕らの前をずんずんと歩く。さっきまで泣いていた少年はやはりこうしてみると頼もしい大柄の友人で、僕にはそのどちらの賢二もやっぱり愛おしかった。
そして僕は小さな賢二と大きな賢二がこうしてきちんと重なって本当に良かった、と思った。全く別々のように見えていた時よりも僕はずっと救われたような気持ちになった。僕も、賢二も、きっと小次郎や佐々木もみんな愛されてきたのだ、愛されてここにいるのだ。
駅に着くと、もうすっかり辺りは暗くなっていた。駅の中に灯る蛍光灯の電気が青白くあたりを照らしている。やっぱり、夜というものは思っているよりもあっという間にやってきてしまう。
「あれ」
佐々木が少し心細い声をあげる。
「列車が来てない」
僕らはその言葉に突然、不安になった。ぼうっとしていた意識が急に引き戻される感じ。ぐぐぐっというような不安が心臓のあたりに波のように押し寄せてくる。それはこの夜と青白くてさっきからついたり消えたりしているこの蛍光灯のせいもあるのかもしれない。
「そんな」
小次郎がひどく弱気な声で言う。小次郎はやっぱり怖がりだ。でも、そういう僕だっていまはとても怖い。もしも本当にあの列車が迎えに来なけれな僕らは異国の、言葉も文化も違う町の夜に四人でぽつんととり残されるのだから。
たしかに、今回はこの街にいた時間が長かったけれどその間にあの不思議な列車が行ってしまうなんてことは考えていなかった。ここへ来る前押し寄せてくる夜の中でもしかしたら、とも思ったけれど、まさか、と思い直したのだ。
「どうしよう」
小次郎が言う。けれどどうしようにも、どんなに佐々木や賢二が策を練ったとしても、あの列車をここに呼ぶことなんてできない。僕らは毎度の通り途方に暮れる。途方に暮れるときはいつも四人一緒なのだ。一緒に途方に暮れて一緒に立ちすくむ。
誰かのため息の声が漏れる。その時、ふと僕の耳の中にふっと聞きなれた音が聞こえた。
がたんごとんがたんごとん
「来る」
僕は気が付くとそう言っていた。
「大丈夫。もうすぐ来るよ」
みんな、目を丸くして僕の方を見ている。けれど僕にはそんな三人に「何が」「どうして」「どうやって」ここにやってくるかなんて説明することはできなかった。ただ、「来る」。僕にわかるのはそれだけ。
がたんごとんがたんごとん
――「ねえ、雪ってどうして解けるのかな」
あの子の声。
「雪?」
「そう、雪」
ふわふわと落ちるのはけれど雪ではない、あの子の花。梅の花。
「だって」
「なあに」
僕が言おうとする。あの子が僕の言葉を待っている。そうだ、あの子は僕を待っている。いつも、いつまでも。
唇を動かす。僕が言葉を紡ぐ度に、白い息が目の前を浮遊する。けれどその言葉は彼女に届かない。
ブーーーーーーーーーッ
という大きな汽笛の音が鳴った。それと同時にまた、
がたんごとんがたんごとん
と耳の奥にささやかに聞こえた音が大きくなって、確実になってこちらへ近づいてきた。
「春になるためだよ」
僕は、あの子にそう言いたかったんだ。春になるために雪は解けて、雪が解ければ僕は君に会いに行けるから。
「来た!」
「よかった」
口々にみんなが安堵の声を漏らしている。いまの僕にはみんなの声が遠くに聞こえるような気がした。けれど、遠ざかるのはこの夢の方だ。あの子の幻想。いつもそうなのだ。
「早く、たかしも乗って」
「うん」
そして僕はきちんとまた元の世界に戻ってくる。元の世界かどうかもあやふやになってしまった、このいびつな世界。でも僕を「ここ」に呼び戻してくれるのはいつもこの三人なのだ。
賢二や佐々木、小次郎に続いて少しの間僕らをひやりとさせた、なんとなく見慣れてきた古い列車の中に僕も乗り込む。
今度は一体どこへ行くのだろうか。僕は心の中であの子の名前を呼びながら、薄暗く窓の外に見えるこの街に小さく手を振った。
僕らの街
目を覚ますと、列車はまだがたんごとんという規則正しい音を立てながら線路の上を走っていた。
がたんごとんがたんごとん
どうやら今回も最初に目を覚ましたのは僕らしい。隣では小次郎がすやすやと眠っている。
僕は一人、佐々木、賢二ときて今度は僕か小次郎の番だろうと考えてみる。次の到着駅のこと。
小次郎が悲しまないといい。僕はこの「小次郎」という人がどれだけ健やかな青年なのかを知っている。みんなを努めて明るい方向へ持っていってくれるのも、朗らかな空気を作ってくれるのも、なぜだかわからないけれど僕らの世話をしきりに焼きたがるのもいつも小次郎なのだ。
人の手を握ることができるのは、自分自身が健やかな人間だけだと僕は思う。小次郎はそういう人だ。
佐々木にしても、賢二にしても、この列車が連れて行ってくれた先での出来事が二人の中に大切な意味を残したというのは間違いない。けれど、それでも僕にとっては二人があんな風に涙しているのを見るのはつらいものだった。
列車がゆっくりと速度を落としてゆく。もうすぐ次の到着駅に着くのだろう。みんな、眠っている。
僕は何となく上げた目線の先に、座席前方の緑の電光掲示板を見た。見るともなく見たつもりが、やはりそこに視線を移す瞬間僕の心臓はどきどきと音を立てる。そして緑の画面に描かれた文字を見て僕の心臓はさらに動きを速めた。そこにはこう書かれてあったのだ。
「カラオケカジノ行」
僕はつい、声を上げてしまいそうになった。ただの「カジノ」ではなく「カラオケカジノ」なのだ。ならばもうあそこしかない。僕らの場所、僕らの街。つまり次の停車駅は「湊駅」だ。元の場所に戻れるということだ。
たしかに窓の外に目をやると、見慣れた景色が広がっていた。さっきまでのヨーロピアンな景色とは大違いの一面銀世界。雪、雪、雪、だ。僕はその景色になんとなくほっとした。あんな風にすべてが新しくきらきら輝いている景色を見た後でこの見慣れた景色を美しいと思うのはおかしなことのようにも思える。でも、もしかすると、故郷というのはそういうものなのかもしれない。僕らが思うよりももっと強い力で僕らの心に懐かしい写真のように焼き付けられているものなのかもしれない。美しいと思うよりもっと美しいと思うようななにか。そういうものが窓の外に広がる世界には映されていた。
行き先不明のこの列車に乗ってから、このまま帰ってこられないのではないかもしれないと思っていた。だからなにより、こうしてここに戻ってこられたのだということがうれしい。
誰も目覚めないまま、僕とこの街を二人きりにしてしばらく列車は規則正しい音を立てて進んだ。
がたんごとん
がたんごとん
その間も静かに、僕は窓の外の雪を見つめていたのだけれど、どれくらい経った頃だろうか、列車は速度を落としはじめた。それに合わせて車内が揺れる音もゆっくりとしたものになる。
そしてついに、見慣れた湊駅のホームがここからでも見えるようになると、
キーッ
という鋭い音とともに列車が停車した。
「ほら、起きろよ」
僕はやっと小次郎の肩をたたくと、起こしてやることにする。けれど小次郎はまだ眠っていてなかなか目を覚まさない。今度は大きく肩をゆすってみる。すると、やっとのことで目を覚ましてごしごしと瞼をこすった。
僕は一瞬、小次郎がもう目を覚まさないのではないか、という一抹の不安に押しつぶされそうになっていたのでその瞬間心からほっとしてため息を漏らす。
「もう、起きないかと思ったよ」
「ん」
まだ寝起きなのか、短く返事をした声がのどにひっかかったように気だるげだ。
「佐々木と賢二も起こそう」
僕が言うと、まだ寝ぼけているものの小次郎が体を起こして隣にいる佐々木の肩をたたいた。
「もう着いたよ。賢二を起こして」
佐々木は睡眠中に起こされたので不機嫌そうな顔をして(もしかするともともとこういう顔なのかもしれないけれど)返事もせずに隣んで眠っている賢二の肩をたたいた。
賢二も「うーん」とか「ん」とか言いながら背伸びをしている。
僕はそういうみんなの姿に自然と頬がほころぶのを感じていた。もしかすると、この町がみんなをこんな風にしてしまうのかもしれない、安心させているのかもしれない、と思ったのだ。
「ほら、もう出ないと」
僕はそう言ったけれど、この列車が僕らを待たずに次の駅へ行ってしまうなんてことは考えられなかった。今までよりもずっと、この列車も僕らに馴染んできたようだ。下手をすると会話も交わせてしまうような気がする。
僕が立ち上がると、隣で少しずつ目を覚ましてきた小次郎も立ち上がって列車を降りようとする。
寝ぼけているのか、誰も、「ここはどこ」とまだ尋ねたりしなかった。僕は心なしわくわくとしている。僕らがまた僕らの街にたどり着いたことを早くみんなに知らせたくて驚かせたくてたまらないのだ。みんな驚くのに違いない。
いろんな場所を旅してきていま思うのは、「ふるさと」というものについて。「ふるさと」に着いた安心感。「ふるさと」のぬくもり。そういうもの。僕はまだ列車の外に出ないうちからそんなことを考えていた。
僕にとってのふるさとはここであり、この三人だ。だからみんなとここに戻ってこられたことがたまらなくうれしい気持ちだった。
「ここ」
「やっと気づいた」
「湊駅か」
賢二が白い息を吐きながら言う。寝起きながら、とても驚いた様子だ。
「たかし、お前知ってたのか」
「うん、まあついさっきだけど」
小次郎が僕の方を見て、目を丸くさせる。相変わらず、いつも僕が思っている反応をくれるやつだ。佐々木の方はまだまだ不機嫌な表情で眉をひそめていた。朝のひかりがまぶしいのかもしれない。それでも、みんなどことなく嬉しそうで、いい意味で「いつも通り」で安堵しているようだった。無事にここに戻って来られたのだから当然のことと言えば当然のことだろう。外気の冷たい空気に触れて頭がだんだんはっきりしてくると余計にいま置かれている状況にほっとしてどっと安心が波のように押し寄せてくる感じがする。
「でもこの列車は湊駅行きじゃないんだ」
僕が言うと、みんな一斉に僕の方を見た。
「ふふふ」
僕はみんなを驚かせたことがなんだかうれしくて笑ってしまう。
「どういうことだよ」
と佐々木。
「ここ湊駅だろ。じゃなきゃどこが目的地だって言うんだよ」
と賢二。
「わかった」
今度は小次郎が言う。
「カジノ行きだろう」
僕はまた首を振ろうとしていたところだったので小次郎の答えに思わず感嘆してしまいそうになる。
「なんでわかるの」
「そこしかないだろ」
そういう小次郎が、今度は得意げだ。
「まあ」
佐々木と賢二は「なんだそれ」という風に肩をすくめている。
「さあ、行こう」
小次郎が得意げな表情のままに言うと僕はなんとなく、小次郎に主導権を握られたようで納得がいかない。
けれど、小次郎はそんな僕の気も知らず先頭に立つとはつらつと歩いてゆく。もうしっかりと目も覚めたのだろう。僕は佐々木や賢二と目を合わせると、今度は三人で肩をすくめた。どうやら、このご機嫌な小次郎についていくしかなさそうだ。
でもこれから行くのは僕らの知らない場所じゃない。とてもよく知る場所。よく知る道。よく知る人々。僕らの前に、小次郎の大きな足跡が丸く造られてゆく。いつの間にか大きくなった小次郎の足跡。そして僕らの足跡。
カジノに着くと、相変わらず店主の御園さんが店番をしていた。
「よう」
僕らが店のドアを開けると、仏頂面のままこちらも向かずに手を上げる。これはいつものことだ。御園さんはいつもとほとんど同じなのだけれど今日はほんの少しだけかけている眼鏡のフレームの色が違う気がする。いつものより、もっと青みがかっている気がする。
僕らはまた四人で目を合わせて、にやにやと笑った。もちろん、御園さんはこちらを見てもいないのでそのことは知らないけれど。
うれしかったのだ。久しぶりに、この街の人に遭った。それも、眼鏡のフレーム以外にちっともいつもと変わらない様子の。
「あ」
その瞬間僕は、僕をこの街で待っているはずの母さんや父さんのことを思い出してはっとする。僕はとるものもとりあえず急いでカバンの中をまさぐるように手を入れると携帯を探した。母さんも父さんも心配しているのに違いない。僕が連絡を入れたらどんなに喜ぶことだろう。泣いて安心することだろう。僕だって二人に会いたいのだ。
「ああ」
僕のその様子を見て、小次郎、佐々木、賢二も同じようにカバンの中から携帯を取り出しはじめる。みんなあまりに長い時間、携帯から離れていたのでここについてから今まで思いつきもしなかったのだ。
けれど僕がみんなより一足先に携帯を手に取って、早々に画面を開いたところで驚くべきことが起きた。
「あれ」
「どうした」
僕は見間違いかと思って瞼をごしごしとこする。それでも、画面に映し出されている文字はちっとも変わる様子がない。
続いて佐々木が僕の次に携帯を開いた。
「なんだこれ」
佐々木も驚いたような声を上げる。携帯をカバンの奥から探し出せずにいる賢二は僕らの様子を奇妙しく思ったのか、不器用ゆえにぐちゃぐちゃと散らかったカバンの中から携帯を探し出すのをあきらめたのか、佐々木の携帯を覗き込む。
小次郎はというと、その間にやっと彼のカバンの底から探し出したであろう自分の携帯を放心したようにじっと見つめていた。僕と同じく驚いているのだろう。
この瞬間、僕も佐々木も、賢二も小次郎も、同じ顔をしているのに違いなかった。
「おい、これ」
賢二も驚きを隠せない様子で言う。
「うん」
僕は賢二の声に頷くと、改めて携帯の画面をじっと見つめた。みんなもこの様子だということは僕の見間違いではなかったようだ。
携帯の待ち受け画面には間違えなく、「十二月二十四日」と映し出されていた。この町を出たときは確か、冬休み中で元日を少し過ぎたころだったように思う。そうだ、たしか、一月十日だった。「雪国の冬休みはほんのちょっと長いから得をした気分になる」とみんなで話していたからよく覚えている。
それよりも、もっと不思議なことがあった。そして早くも僕らは携帯から視線を上げてなんとなくその違和感を解明しつつあった。
カジノの御園さんも、僕も、小次郎も佐々木も賢二もどことなくいつもと違うのだ。御園さんのメガネフレームがいつもより青いように思ったのもそのせいだろう。気のせいではなく、たしかに御園さんはいつもと同じようでいてほんの少し違う。そしてそれは御園さんだけに言えたことではなかった。
「あれ」
佐々木が御園さんが座っているレジの下に張り付けてあるカレンダーを指さす。カレンダーはいつも通り少し黄ばんでいて、一眼レフで撮ったような雪景色の写真の下に日付が並んでいる。でもそこには明らかにいつもと違うことがあった。驚くべきことに、そこには「二〇〇十八年」とあるのだ。僕らがあの列車に乗り込むとき、世界は間違えなく「二千二十四年の一月」であったはずだ。
つまり、信じがたいけれど僕らは五年ほど前にいるということになる。どういうわけか、五年前のクリスマスイブのカラオケカジノに僕らは今、立っているのだ。
「こういうことだろうと思ったよ」
佐々木があきれたように言った。
「こんな都合よく戻ってこられないか」
賢二も続く。けれど誰も、悲壮な顔をしている人はいない。僕なんか、もしかしたらにやにやしているかもしれない。僕らは携帯をまたカバンの中に放り込んで思い切り息を吸った。そして小次郎の方を向く。
普通、世間一般では十二月二十四日はクリスマスイブを意味する。けれど僕らにとってこの日は別の日を意味しているのだ。クリスマスより、もっと大事な日。もっと意味のある一日。
「せーのっ」
僕が指揮を執ってそう言うと、みんな一斉に声を合わせて、
「小次郎誕生日おめでとう!」
と叫んだ。誕生日を祝うクラッカーでも飛ばせたならもっとよかったのだろうけど、あいにくそんな用意はない。
小次郎はけれど、恥ずかしそうに、それでもやっぱり嬉しそうにはにかんで、
「サンキュ」
と笑った。
そうなのだ。今日はクリスマスイヴであり、僕らにとっては大事な小次郎の誕生日なのだ。そして僕らがこうして過去に戻ってきたのにも関わらずのんきにしているのには訳がある。本当のことを言うと、のんきでもないのだけど、ただ、この日のことは僕ら四人が特別に思っているのだ。特別で、磨き上げられた宝物みたいに大事にみんなの心の中にしまってある日。
五年前「僕らの場所」であるカジノで祝った小次郎の誕生日。だからのんきというよりは、この日に戻ってこられたことがうれしい、と言う方が正しい。うれしくて、自分たちの置かれた状況を一度横に置いておけるほどなのだ。もしかすると僕らは僕らが思うより馬鹿なのかもしれない。
だってこの日に戻って来られてうれしい理由は単純明快だ。ただ「楽しかったから」。時間も悩みも立場も何もかも忘れてしまえるくらいに。この日は本当に楽しかった。ただそれだけ。
そして今また、僕らは僕らの場所を忘れようとしている。でも僕はこう思う。誰にでもどうしても忘れられない一日と言うものが存在するのではないだろうか、と。それは悲しい日であったり、感動的な日であったり、さまざまだけど、「楽しかった」という思い出はきっと僕らが生きてゆくうえでいつも心のどこかにあって、きらりと輝きを放っているのではないだろうか。きっと、僕らがその記憶をしばし忘れている間でさえ。
二〇十八年のクリスマスイヴ。それが、僕らにとっての「そういう日」なのだと思う。
わいわいと受付前で騒ぐ僕らを見て、さすがの御園さんもほんの少しだけ口角を上げているように見える。この御園さんが今日はカジノの三〇五号室を朝から貸し切りにしてくれたのだ。
それは本当にすごいことだ。普段なら「コール」がある。これは御園さんからの「もう出ていけ」というコールなのだ。それは三〇五の壁掛けの古い受話器に繋がっていて電話をとっても御園さんは何も言わずに、「誰かが電話を取った」という事実だけを確認して電話を切る。そしてそのあとはすぐにこの「カジノ」を後にしなければならないのだ。これは御園さんと僕らの暗黙のルールのようなもの。特別にこの部屋を使わせてもらっている代わりに、そこのところはきちんと守る必要がある。その「コール」は日によってとても早いこともあるし遅いこともある。早い時は三〇五に入ってから一時間ほどで鳴ることもあるし、数時間たっても鳴らないこともある。この年の小次郎の誕生日にはけれどそんなことを気にせず、カジノが閉まるまでいつまでだっていてもよかったのだ。御園さんは仏頂面をしていてもやっぱり優しい。
「よし」
賢二がいつものように先頭だって歩き出す。僕は賢二がいつもの様子を取り戻してくれたことがうれしかった。賢二の背中は大きくて、頼もしくて、どんな時も僕らをわくわくとした気持ちにさせてくれる。
賢二の背中について僕らも歩くと、いつもの三〇五号室に向かう。心なしか、みんなの足取りがさっきよりも軽くて浮足立っているように思えるのは自分自身がそうだからなのかもしれなかった。
賢二が、こういう時でさえ少し不器用に、大雑把に扉のドアノブを握ると勢いよく扉を開ける。そしてその扉が開いて行くのを待ちきれないというばかりに、
「遊ぶぞ」
と佐々木が言った。
「もちろん」
と今度は小次郎が答える。
小次郎の誕生日。さすがの田舎町でもクリスマスには町中の学生がカラオケにやってくる。それでもこの年はたまたまなのか、御園さんの厚意なのか僕らのためにとても安くでこの一室を貸し出してくれた。
小次郎が、この日に戻りたいと願ったのだろうか。小次郎のために、列車は五年前のこの日に僕らを連れてきたのだろうか。
僕は三〇五の扉が開くと同時に、扉から漏れ出る安っぽいミラーボールの光が小次郎の横顔に映るのを見ながら思った。
そしてもしも小次郎がそんなにもこの日を恋しく思っていたのなら、なおのこと今日を楽しむべきだと思った。「楽しむべき」というのは不思議な言葉だと思う。けれど、僕はよく思うのだ。「頑張るべき」とか「やりぬくべき」とかと同じように「楽しむべき」ときがきっと毎日の中にたくさん転がっている。
「おお」
扉を開けたとたん、賢二が驚いたような声を上げた。
「すげえな」
今度は賢二のすぐ後ろにいた佐々木も言う。僕と小次郎も何だろうと三〇五の中を覗き込んで驚いた。そこにはあふれんばかりのスナック菓子や炭酸飲料にクリスマスチキン、雑に飾り付けられた壁に風船、クラッカー(本音を言うとさっきほしかったのだけど)に漫画雑誌などが所狭しと並べられていたのだ。
僕らは一瞬驚いて、みんなで唖然としていたけど、
「これ誰がしたんだよ」
という小次郎の声で一斉に噴き出した。
「誰って俺らだろ」
と佐々木が言うとまたそろってどっと笑う。
そうなのだ、これはすべて五年前の今日を生きていた僕らが用意したものなのだ。めったにできない一日カジノを貸切って小次郎の誕生日を祝うとなるとこれくらいの準備は当たり前だろう。どんなふうに、どういう過程で僕らがこの部屋を飾り付けたのか、誰がどのお菓子を買ってきたのかまで鮮明に思い出せる。それさえも楽しかったのだ、とても。
「あ」
今度は僕があることを思い出した。それで、どうしても含みを持つように笑ってしまうのを抑えながら、
「なあ、あれやろう」
と言った。最初はみんなきょとんとしていたのだが、すぐに、「ああ」と腑に落ちた顔になる。
「やろう」
「やろう」
佐々木と賢二がおかしくてたまらないというように笑って僕の意見に賛成する。
「やだよ、やめようぜ」
小次郎だけは反対しているのだけれど、やっぱり頬が緩むのを止められないようだった。
僕らは三〇五に入ると、部屋の真ん中に小次郎を立たせる。小次郎は最初あれこれと言っていたけど、最後にはあきらめたようだった。
「こういうのはサプライズでするもんだろう」
小次郎はそれでもまだ未練がましくそんなことを言っている。
僕らはそう言う小次郎を置いて部屋を出ると、すでに肩を揺らして笑う佐々木が筆頭になって三〇五号室の前の小さなロッカーの前に立った。そして三人で目を合わせると、ロッカーの中を開ける。
「うわ」
「やっぱり」
そこには、真っ白なショートケーキが入っていた。五年前、僕らで一緒にお金を出し合って買った小さいながらもきちんとしたホールのケーキだ。
「じゃあ行くか」
佐々木がケーキをロッカーから慎重に取り出すと、にいっと笑った。僕も賢二も笑いながら頷く。
そして、今度は僕がさっきの賢二以上に勢いよく三〇五の扉を再び開けると、佐々木がケーキを持って部屋の中で待つ小次郎の顔に思い切りその真っ白なクリームのついたショートケーキをぶつけた。小次郎はもうわかっていることなのに、新鮮に驚いてぎゅっと目を閉じている。同時に、賢二がさっきいつの間にか拾っていたクラッカーを鳴らして「パン」という小気味のいい音ともに嗅ぎなれた煙の臭いが部屋中に充満する。
小次郎は案の定ケーキのクリームまみれだ。この後部屋の掃除もしなければならないし、なにもいいことはない。
それでも、僕らは笑った。小次郎もふくめて、みんなでお腹を抱えて笑った。五年前と全く同じことをしたというのも面白かったし、やっぱりクリームまみれの小次郎の顔もうんと面白い。
僕らは変わらない。五年も経って、もうずいぶんと大人になったような気持ちでいたのに。
満足するまでよく笑って一通り小次郎の顔を見てから、僕らはやっと腰を下ろした。
佐々木や賢二も椅子の奥の方に腰掛けると真ん中の席に小次郎を座らせる。僕は小次郎の横に座ると三人で主役を挟んだような形になる。
「ちょっと」
「まあまあ、主役は誕生席に座らないと」
なんだかんだ言いながら、小次郎もうれしそうだ。念入りに拭いたつもりがおでこの髪の生え際のところにまだクリームが付いているのが可笑しくて僕はまた笑った。
そういえば、小次郎と出会った頃、僕らはもうすでに仲が良かった。「僕ら」というのは佐々木と賢二と僕の四人組。この二人とはどういうわけで仲良くなったのか、今となってはいまいちよく思い出せないのだけれどいつの間にか一緒にいた、という印象だった。小さな田舎町の学校で顔を合わせるうちに僕らはすぐに仲良くなった。
ではどうして小次郎とはそうではなかったのか、というと、小次郎は僕らが小学校に上がって少ししてから隣町の学校から転入してきたのだ。そういえば最初、小次郎はずっと一人だったような気がする。いまでは想像もできないけれど、小次郎はどちらかというと大人しいような子供だった。
僕が初めて、小次郎に話しかけた日のことを、小次郎も覚えているだろうか。僕は昨日のことのように思い出せる。あれも冬の日だった。小次郎と僕は帰り道の方向が一緒だったから賢二や佐々木と別れた後も二人で同じ道を歩いて帰っていたのだ。
そうはいっても、そんな日はもう何日も続いていて、初めてのことではなかった。それなのに二人きりの道で長いこと、僕も小次郎も自分から声をかけることはなかったのだ。
その日、突然小次郎は道の途中で立ち往生して動かなくなった。小次郎はほんの少しだけ僕より前を歩いていてだから止まってしまった小次郎につられて僕も足取りを止めた。
あの時、もしもなにもなく立ち止まった小次郎を追い越して行ってしまっていたのならばもしかするといまこうして仲良くしている未来はなかったかもしれない、と考えてみる。でも、きっと小次郎となら違うタイミングであっても仲良くなっていただろう、とすぐに思い直した。
立ち止まる小次郎に、僕は、
「どうしたの」
と月並みな言葉をかけた。小次郎は、
「うん」
と少し戸惑った顔で僕を見て、その黒目がちなたれ目が揺れたのを僕はすごくよく、とてもはっきりと、覚えている。リスのようだと思った。そのとき、僕とほとんど身長も変わらない小次郎のことをとてもとても小さな存在のように思ったのだ。
「鍵を家に忘れたみたい」
小次郎が言った。
「鍵」
「うん」
「じゃあどうやって鍵を閉めて出てきたの」
「もう一つのカギをお母さんが持ってるから」
「そう」
「そう」
そんな風に、自然に僕らは言葉を交わした。ごくごく自然に。今まで一度も話したことがないことなどものともせずに。
小次郎はそうして二言三言話してみると思っていたよりずっと話しやすくて、思っていたよりずっと穏やかで朗らかな雰囲気を持った少年だった。あんまりしゃべったことがなかったので僕の中でなんとなく、彼は静かでまじめなイメージだったのだ。今思うと、転校してきたばかりでまだ人見知りしていたのかもしれないし、そういう毎日に緊張していたのかもしれない。静かというのは間違えだったけれど小次郎はやっぱり、とてもまじめな人間だから。
「じゃあ、お母さんが帰ってくるまで僕の家で待ってる」
僕がそう言うと、初めて、小次郎が驚いたような顔をした。僕が話しかけた時もリスみたに瞳を揺らすだけでこんな風じゃなかったのに。でもそのあとすぐに、小次郎は顔をくしゃっとさせて大きな笑顔を作ると、
「いいの」
と言った。今度は僕が驚いた。だって誰が見ても「うれしい」とわかる表情だったから。あんまり健やかな笑顔だったから。僕の方も、思わず笑ってしまうような表情。
「いいよ」
僕は驚きつつも、小次郎の笑顔にこたえなければと思って短く返事をした。いいのに決まっている。でも決まっていない、というように目の前の少年はびっくりした顔で喜んだ。
その時、空から雪がじゃんじゃん降ってきた。さっきまではじゃんじゃん、というよりちらほら、というように降っていただけだったのに。
「降ってきたね」
と、小次郎は肩をすくめてまた笑った。僕はよく笑うやつだ、と思ったような気がする。
「降ってきた」
「うん」
「寒いな」
「寒い」
「早く帰ろう」
「うん」
そんな風に、僕らは友人になった。
ちらほら、じゃなくてじゃんじゃん降り注ぐ丸くて白い粒が降り注ぐ中で僕が言った「早く帰ろう」という言葉はその灰色の空と雪景色の中に白く溶けて思ったより優しく響いたような気がする。
「ピアスを開けたいんだ」
カラオケカジノで一通り歌を歌った後、佐々木が急にまじめな顔をして言った。笑い疲れたのと歌い疲れたので僕らはどことなくぐったりとしていて声だって枯れていた。なのに佐々木はビッグバンの「バンバンバン」を歌った後、そんなことを言い出したのだ。
「なんでまた」
「前から開けたかったんだけど」
佐々木は体勢を変えるとソファに浅く腰かけて今度は小次郎の方を見る。
「なんか嫌な予感がするんだけど」
小次郎はというと、佐々木の方も見ずにまっすぐ前を向いて言う。
「お前、今日誕生日だろ」
「だから」
「だからさ」
小次郎はまだ佐々木の方を向かない。
「記念にピアスを開けてくれ」
小次郎はいやな予感が当たったとでもいうように「はあ」という深いため息をついた。
「いやだ」
その後、きっぱりと断りをいれる。けれど、佐々木は負けじとまっすぐにそんな小次郎を見ている。これは大変なことになった、と僕も小次郎の身になって苦笑した。佐々木は時々こういう突拍子もなくて恐ろしいことを言うからいけない。
よりによって今回の申し出は小次郎にはあまりにも荷が重い。こんなにきっぱりと小次郎が断るのも珍しいのだけど、それもそのはず小次郎は僕らの中でも特に臆病なのだ。優しい小次郎は思ったより繊細で怖がりで、ホラーやスリラー、血といったものを受け付けない。ちなみにいうと絶叫マシーンなんかも全くダメ。それに彼は「ピアス」という柄でもない。佐々木は「ビッグバン」を歌っても小次郎は「スピッツ」を歌うのだ。
「お願いだよ」
「いやだって」
「なあ」
「誕生日になんでわざわざそんな怖いことしないといけないんだよ」
小次郎は断固として嫌がってはいるけど、こうなってしまえば佐々木は本当に頑固なのだ。僕は心の中でかわいそうな小次郎に手を合わせた。
「でも、俺らは五年前にいるんだぞ。そんな年でピアスなんか開けたら」
「いいんだよ。怒られなれてるから」
「そういう問題かよ」
佐々木は一歩もゆずらない。
「それに欧米では生まれたときにピアスを開けてるところもある」
「まあ、それはそうだな」
そこに賢二が佐々木に参戦した。賢二のことだ、本人は参戦したつもりはなくてただ、「知識」として発言しただけなのに違いないのだろうけど。それでもその「知識」のせいで小次郎はさらに劣勢に追いやられている。
小次郎は僕に助けを求めるように視線をやるのだけど、こうなったからにはどうしてやることもできない。僕は首を横に振ってまた再び苦笑いを浮かべることしかできなかった。佐々木との長い付き合いで僕も何度もいまの小次郎と同じ立場に立たされたことがあるけれどどのみち、どれもこちらが折れるしかなかったのだ。
「わかった、わかったよ」
とうとう小次郎は観念したように両手を上げた。
僕と賢二は佐々木と小次郎を囲んで座った。そして二人をじっと見つめる。しんとした空気にある種の神聖さを感じて何かの儀式が始まるみたいだ、と思ったけれど一応これも儀式であるのかもしれない。
佐々木は御園さんから安全ピンを借りてきて、僕らはきんきんに冷たい氷水を用意する。こんなものでいいのだろうか、と思うけれどこんなものしか用意できないのだから仕方がない。
「本当にしなきゃいけない」
そう言う小次郎の声は震えて、どこからか冷や汗のようなものも吹き出ている。僕は誕生日なのにこんな顔をさせられる小次郎が哀れなのだけれど少し面白おかしくて賢二と目を合わせて秘密裡に笑った。こういう時、僕らは本当に性質が悪い。
「もうここまでしてるんだから、つべこべ言うな」
佐々木の断固とした態度に小次郎もついに断念したようだ。
「わかった」
小次郎は深く息を吸い込むと、今度は細く吐き出した。それで佐々木はさっきまで氷水できんきんに冷やしていた耳たぶからコップを離す。
小次郎は安全ピンのとっかかりからピンを取り出していつの間にか黒くマジックで点が書かれた耳たぶを目印に針を近づける。
僕らも緊張してきた。ごくり、と誰かが唾をのむ音が聞こえる。さすがの佐々木も緊張しているらしい。
小次郎の持つ針が佐々木の耳たぶに触れる。小次郎はもうほとんど半泣きだ。
「・・いっ」
小次郎が針を佐々木の耳たぶに落とすと、佐々木が声を漏らした。同時にぐっと体に力を入れて痛みに顔をゆがめる。一回ではうまくいかなかったらしく、小次郎はまたぐっと力を込めた。
その瞬間、佐々木の耳たぶにピンが貫通する。僕らは急いでまた氷水の入ったコップとティッシュを佐々木の耳に当てた。
「いってえ・・・」
しばらくして佐々木は耳たぶを抑えたままそう言って小次郎の肩にもたれかかった。佐々木にかぎってそんな風に誰かにもたれかかるなんてことはめったにないだけに、僕は本人も案外怖かったのかもしれない、と思った。小次郎はというとほとんど放心状態だ。こっちは間違いなく相当頑張ったのに違いない。虚空を見つめて魂が抜けたようにぐったりとしている。
そういう僕も賢二もあまり度胸がある方ではないので二人と同じようにぐったりと安っぽい偽レザーのソファにもたれかかった。
四人とも、そんな風にして、しばらく何も話さなかった。カラオケ用の分厚くて古いテレビがこの部屋をぼんやりと映している。テレビの中には何十回と見た、使い古された映像と知らない俳優の横顔が流れていた。
何もせずに、その画面をみんなで見るともなく見ていた。くるくると回るミラーボール。部屋中に効いたかび臭いエアコンのあたたかで乾燥した風。
どれくらい経った頃だろうか、佐々木が表情一つ動かさずに、
「ケーキを食おう」
と言った。
僕らはその言葉を合図にするみたいにさっき、小次郎の顔に思い切りぶつけたせいですっかり形を悪くした、可哀そうなショートケーキを見る。
「これのこと」
「そう、これのこと」
佐々木がそう言うと、僕らはまたぷっと噴き出した。そして目の前に置かれた、あまりに不格好なショートケーキは今の僕らみたいだと思った。そのケーキはなかなか、悪くないと思った。
ケーキにろうそくを並べると、賢二がライターで火をつけた。そしてその瞬間から溶け始めるろうそくのろうを、男四人でぼんやりと見るともなく見つめた。「ハッピーバースデー」の歌も歌わずに、僕らは誰からともなくケーキを突き始める。
「うまい」
と、小次郎が言う。
僕はなんとなくうれしくなってケーキの端のクリームを小次郎の鼻に擦り付けてやる。案の定、小次郎は驚いたように目を見開いて怒った。
「おい」
それでも僕の襲撃は止まらない。今度はほっぺたにクリームをつける。すると今度は賢二が小次郎のもう片方のほっぺたにクリームをつけた。次は佐々木が小次郎の口の中にイチゴを放り込む。みるみるうちに小次郎はショートケーキまみれになったしまった。さっきと同じように。
小次郎は半ばあきらめて僕らの攻撃を受けていたけれど、突然すくっと立ち上がって残ったショートケーキを両手に持つとろうそくの火を思い切り吹き消して僕らの方を見る。膨らんだほっぺたも相まってまるで小さなリスの攻撃態勢。僕らは目を合わせて「これはいけない」と立ち上がった。小次郎は逃げ出す僕らを逃がすまいと追いかけまわる。三〇五号室はものすごく騒がしい。いつの間にか、誰も彼もがクリームまみれになる。
けれども、僕にはそのすべてがスローモーションみたいに思えた。小次郎の笑う顔、佐々木の腫れた耳たぶ、賢二のふざけたような叫び声。五年前のこの日、僕らは小次郎の誕生日祝いをした。この日はケーキを食べてカラオケをして、あとはよく覚えていない。ピアスを開けたり、ケーキを顔に塗りたくったりはしなかったけどその日もとても楽しかった。けれど今日はもっと楽しい。楽しいというより、もっと「特別だ」という気がする。なぜだかはわからない。
今回の旅はきっと小次郎のためにある。けれどそれは僕らのためでもある。小次郎が四人の中で共通理解の「一番楽しかった日」に戻りたかった理由はあるのだろうか。それとも理由なんてないのだろうか。「楽しい」ことに理由がないように。そう思ってみたけど考え始めるとすぐに頭がぼんやりとして、結局僕にはわからなかった。
その時、ケーキやジュースが散乱した「カラオケカジノ」の一室にとうとう電話の音が鳴った。
「ありがとうございましたあ」
四人で「カラオケカジノ」を出るといつもの、ドアについているチイプなベルのようなものがちゃりんちゃりん、と鳴る音がした。
外はもうすっかり暗い。この街にかろうじてある街灯がぎりぎり僕らの足元を照らしている。
「これって、やっぱりいまからあの列車に乗らなきゃいけないのか」
佐々木が言った。
「まあ、じゃなきゃずっと五年前にいないといけないことになるだろうな」
賢二が言う。
「それはそれで悪くない」
僕が言うと、みんな何も言わずに微笑んだり頷いたりしている。それでも僕らは知っている。ここにいてはいけない。だから僕らは確かめ合うこともなく自然に湊駅に向かう。
「またこの街に帰ってこられるかな」
僕が言う。なんとなく、不安だった。
「来られるよ」
珍しく、小次郎が堂々と言った。
「俺にはわかるんだ」
街灯のちょうど真下のところで、小次郎がそう言いながら足取りを止める。僕はあの日のことを思い出した。唐突に僕の目の前で止まった小次郎の足取り。幼い僕と、小次郎のこと。
小次郎は足を止めた後、雪道の中一つだけぽつんと立った街灯の根元に背中をもたせかけた。僕らはいつの間にかまた元通り冬服になった自分のコートやらマフラーをぐるぐる巻きにして小次郎の方を見る。外は寒い。
「あのさ」
小次郎が口を開くと、いまにも凍ってしまいそうな白い息が三人の目に映った。
「俺、また引っ越すんだ」
小次郎の言葉に、僕らはまた瞳孔を開く。もしかするといま、あの列車に乗って今日五年前のこの場所に戻ってきたことよりももっと驚いているかもしれなかった。
「どういうこと」
僕が言う。突然のことにそれ以外の言葉が見つからない。
「今回は、親の都合じゃない」
「じゃあ」
「高校。行きたいとこができたんだ」
僕が言う言葉を遮るみたいにして、小次郎が言った。佐々木も、賢二も、僕もなんの迷いもなくこの辺りの学生が行く近くの公立高校に行くつもりだった。小次郎はいつの間にそんなことを決めていたのだろうか。わからない。わからないけれど、小次郎の話し方や表情を見ればふざけているのではないということがよくわかる。そしてそれが小次郎自身が決めたことだということが痛いほどよくわかった。
「そうか」
佐々木が言う。賢二も何も言わずにうなずいた。でも、僕はというと、なかなかそういう気分にはなれなかった。困ったことに。二人みたいに何か声をかけるとか、頷いてみせたりすることができなかった。
僕は小次郎の立つ街灯の下に近づいて小次郎の顔を見た。歩く度、聞きなれたさく、さく、という雪の上を歩く僕の足音が聞こえる。小次郎がこの街を出てゆく。僕らの知らない町。そこにはこんな風に歩く度音を立てる雪は積もるのだろうか。それとも暖かな気候が茶色い地面を形作って小次郎のことを待っているのだろうか。辺りは驚くほどしんとしていて僕らの心まで凍えそうだった。小次郎の顔は白い街灯の下でいつもより青白く見える。心細そうに見える。
「だから、この日に戻ってきたの」
僕が言う。その声がどこか恨めしそうにも、優しくも響いて僕は僕自身の声に驚いてしまう。
「わからない」
小次郎が言った。誠実な小次郎らしい答えだと思った。でもいつもの小次郎みたいに優しいがあまりなにかを煙に巻いたような言い方をしなかった。
「わからないけど、そうかもしれない」
真っすぐな目。僕は何も言えずにただ、小次郎の頭をぐしゃぐしゃと撫でた。短くて、すぐにつんつんと上に向かって浮いてしまう、小次郎の髪。
小次郎の目にも、いまこの白い街灯の光の下に映された僕の顔が映っているのだろうか。その僕はどんな風なのだろうか。意地悪だろうか。寂しそうだろうか。
小次郎も少しばかり潤んだ目で僕を見ている。小次郎の気持がわからなかった。なぜいま、この街を去ると言ったのか。なぜいままで言わなかったのか。
でもこれだけはわかった。寂しいのだ。僕も、小次郎も。寂しいのだ。
「今日、楽しかったな」
言葉に迷って結局僕が言ったのはあまりにありきたりの台詞だった。脈絡もなければ、あたりまえの。でもそう言ってみて、それは正しい選択であったように思った。正しい言葉の選択であるように思った。
小次郎と、僕と、二人の影が街灯の後ろに続いている。あの日、あの雪の日、僕が小次郎に初めて声をかけた。あのときの小次郎のうれしそうな顔。人懐っこい笑顔。だけどいつの間にか僕の方が小次郎に助けられていたのだと、僕はこのときはじめて気が付いた。
終着点
僕らはまた湊駅に戻ると、見慣れた駅のホームから列車の中に乗り込んだ。もしかするとまた列車が来ないんじゃないかと心配もしたけれど列車はまるで僕らを大人しく待っていたかのようにきちんと今朝あった場所に停まっていて、僕らが扉の前に立つといつものように、
プシューッ
という音を立てて扉を開けた。列車の上には雪が積もっている。もしかすると、今回はずっとここにいて待っていたのかもしれない。そう思うと何となく、この物言わぬ古い列車のことが少し愛おしいような気がしてくる。
不思議な気分だった。僕らはもう僕らの街まで帰って来ていて、だけどどういうわけかまたこの街を出なければいけない。「愛しい」という気持ちさえ湧いてくるほどこの列車とも親しくなってしまった。僕は列車に乗り込んですっかり定位置になってしまった僕の席に座ると窓の外から暗い夜のふるさとを眺めた。
離れてみれば思っていたよりも恋しいふるさと。まるで初恋のような景色。今までそこに立っていたのにまた旅立たなければならないということは思いのほか僕の胸を締め付けた。でも五年前にいる僕らは、今の僕らとちっとも変っていなくて、それでいて、何もかも別物なのだ。
本当のところ、僕は泣いていた。そしてそれは小次郎も同じことだった。瞳が潤んだせいで、外気に触れて冷えた鼻の頭はいつもよりもつんと痛んだような気がする。白い街灯の下で僕らは自分の表情を隠す術がなかった。だからこそ、お互いに気付いていながらそれ以上何も言わなかった。僕らはそうして静かに悲しんだ。静かに傷ついた。
ときどき思うことがある。もしも僕が世界に独りぼっちなら、こうして傷つくことなんてないのだろうと。人はきっと独りぼっちじゃなくなった瞬間から傷つき始めるのだろうと。そんな風に思ってしまうほどに僕はいつもずたずたに傷ついてしまう。傷つけてしまう。おかしなことに、それでも僕は「誰か」といることを選ぶのだ。選んでしまうのだ。
小次郎がこの街を出ていく。僕はこれからしばらくの間小次郎に会えなくなることよりも小次郎が僕の手の届く場所からいなくなってしまうたことが寂しい、と思った。毎日言葉を交わさなくても、会えなくても、小次郎が近くにいるということが僕にはとても大切なことだった。だからいまはただ、小次郎という人そのものの「存在」が遠ざかってゆくようで心細かった。不安だった。
小次郎が今度はほかの誰でもなく自分の意志でこの街を出るのだと思うと、それは決して悲しいことではないということもわかっている。聞き分けのよい言動をすべきなことも。目に見えない、そういう些細な分別がついてしまうくらいには僕はもう大人になってしまっていて、だからこそそれがまた悲しいのだ。もしかすると、それがなによりも悲しいのかもしれない。そしてそれは僕がまだ中途半端なせいであるのかもしれなかった。大人でも、子供でもない、中途半端なせいなのかもしれなかった。
「たかし」
うっすらと、けれども重たい眠りのヴェールが僕らの真上に降りてくる寸前、小次郎が小さくて静かな声で僕の名前を呼んだ。
がたんごとん
がたんごとん
と、相変わらず列車は規則正しい音を立てている。賢二はもう眠ってしまっているのか聞きなれたいびきをかいていて、佐々木は黙っていて眠っているのか起きているのかわからなかった。
「うん」
小次郎は賢二や佐々木を起こさないように声を潜めているらしかったので、僕もそうして小さく息で返事をする。本当はいまも小次郎のことを考えていたのに、そんなそぶりは少しも見せない自分が可愛くないと思いながら。
「本当は今日決めたんだ」
小次郎が言った。僕の心臓は突然核心に触れたようなことを言う小次郎の言葉にきゅっと音を立てて縮む。
「迷ってたのは本当だけど、今日、決めたんだ。この町を出てくこと」
小次郎が僕にそう言うのは彼の優しさからくるものだということを僕は知っていた。いままで僕らに話さなかったのはどうするべきか迷っていたからで、今日僕らに「この町を出る」と言ったのはたったいま、迷っていた答えの決断ができたからなのだということ。それに何よりこうして一言僕に告げるだけでもきっとたくさん考えたのだろうということを僕は知っていた。そんなこと、聞かなくてもわかっていた。僕らが一緒に過ごしてきた時間はそういうものだった。でも、それでも、だからこそ。
「相談してほしかった」
これが本音だった。黙って悩みを抱え込むのは小次郎らしいけど僕ららしくない。
「だよな。ごめんな」
あまりにあっさりと小次郎が言った。今度も小さな声で、でもちゃんと心のこもった「ごめん」。
いつもそうなのだ。自分が悪いのだと思えば簡単に謝ってしまうやつ。簡単、というのは悪い意味ではない、簡単だ。やみくもに目をつぶって謝ったりするわけでもない、心が、器が広いからできる素直な謝罪。だから僕も自然と簡単に許してやりたい気になる。
けれど、それ以前に僕はその時気が付いてしまった。はっとした。「ごめん」と言った小次郎の声に、はじめて僕ではなく小次郎の心を見たのだ。そこには思っていたよりずっと等身大の小次郎がいた。心もとなくて骨々しい肩。不安げに揺れている瞳は僕よりももっと本当はこれからやってくる新しい環境を、未来を、恐れていることをそのまま物語っている。
「いいんだ」
僕は言った。
「いいんだ」
もう一度。やっと僕がとらえた小次郎の瞳は震えている。何度でも言ってやりたい気持ちになった。
僕は今度も許してしまう。小次郎が謝るのと同じくらい簡単に。僕の簡単、も悪い意味のじゃないといい。僕の言葉に、小次郎の表情が和らいだような気がして、いい意味かは分からないけれど少なくとも悪い意味じゃないんだろうと思った。
僕はそれでもやっぱりまだ心細い小次郎の肩に頭をもたせ掛けた。こういう時は、言葉なんかより温度の方がずっと役に立つ。
それと同時に待っていた、というように僕らの頭上で息をひそめていた眠りの入り口が僕らをそっと覆ってゆく。眠たい。とても。でも、そのまどろみの中で僕の心はどこかあたたかく心地よくて、そしてやっぱり静かに傷ついていた。
深い眠り。凍るような雪の夜からあたたかくて相変わらずオレンジ色の暖色の電気が点灯する列車の中に入るとそれだけで体がほっと包み込まれるような気分になる。この列車に慣れてきたというのもあるけれど、いつでも冬の中にあるありふれたぬくもりは僕らが思っている以上に幸せをもたらしてくれるものなのかもしれない。それに遊び疲れて、ケーキやお菓子で不健康に大きくなった僕らのお腹は同時に僕らの瞼を重たくさせる。
でもそれだけが僕らをこの不可思議な深い眠りの世界に連れて行ってしまう原因であるとは思えなかった、
僕はどさくさに紛れてもたれかかった小次郎の肩の上で眠りにつきながらまだどこかに残っている意識の中で考えた。決して大きくはないけど、骨ばっていて、こうしてみると思っているより随分しっかりとした肩。小次郎も僕が知らないうちにちゃんと大人になっている。そう思って、僕らがいつの間にかまた五年前ではなく「いま」の僕らに戻っていることに気が付いて胸をなでおろす。みんなにも報告してやりたいけどあいにくみんなも僕と同じように夢うつつなのだ。またはもう深い眠りの中にいる。でもきっと気づいているだろう、と思った。小次郎も、佐々木も、賢二も、気づいているだろうと思った。
大きくなった肩。大きくなった背中。変わるものもあれば変わらないものだってもちろんたくさんある。あたりまえのこと。たとえば僕の知らない小次郎だってあって、彼なりに考えたり悩んだりして生きている。それもあたりまえのこと。だから僕らは全てを共有することはできなくて、でもだからこそ時々でも何かをその一瞬共有できたことが宝物になるのかもしれない。この列車に乗って僕は三人の心の中の知らない場所に触れてそう思った。そしてそれは僕もそうだ。僕にだってみんなに見せていない部分がたくさんある。でもそれはみんなを遠ざける理由にはならない。
そんなとりとめのない時間の隅で僕はみんなと同じように、またはもっと遠くて深い眠りに落ちた。そしてその瞼の裏側で僕は夢を見た。
あの子の夢。悲しい時、僕の夢にはよくこうしてあの子が出てくる。そしてその度に僕は閉じた瞼の裏から静かに冷たい液体が自分の頬の上を滑り落ちてゆくのを感じる。あの子は僕を癒しているのか、悲しませているのかわからない、と思う時もある。けれどあの子のことなのだ、答えは前者に決まっている。
あの子は僕の悲しみを「悲しみ」としてちゃんと掬い上げる。目をそらしたりしない。それから、悲しみで悲しみを洗うのだ。洗い流してくれるのだ。だから僕はその瞬間とても悲しくてとても心地よいのだ。そしてそれが終わると、あの子はまたいつものように僕に笑いかける。もう何年も同じように笑うので僕には見ていなくてもこれからあの子がどうやって僕に笑いかけるかが手に取るようにわかってしまうのだ。
梅の花。雪の粒。あの子の髪の匂い。
――恋しい。
と僕は思う。叫びそうになる。
――「たかしくん」
その夢は、今日も僕のもとへ降ってくる。あの子の声。あの子の笑顔。でもそれは決して届かない、僕の言葉になって僕自身を傷つける。僕を真っ白な雪道の中に一人取り残してしまう。
――「たかしくん」
あの子は一体、どこにいるのだろう。
春の日
涙で乾いた頬の感触を思い出すように僕は目を覚ました。
目を開けた瞬間、いま僕が置かれた状況を一瞬思い出せなくなって戸惑う。なぜだかわからない、まだうっすらとした意識の中で僕はこの場所にただ一人ぼっちだというような気がしたのだ。
けれど、周りを見回してみてすぐに胸をなでおろす。僕の視界にはいつものように小次郎や佐々木、賢二の姿が映っていたのだ。どうやら今回この列車の中で目を覚ましたのは僕が最後のようで、もう僕以外のみんなが目を覚ましていたようだった。
やっぱり、一人じゃないというのはとてもすごいことだ、と僕は思う。大きくて意味のあることだ。きっとこの世で一番。
小次郎や佐々木、賢二は三人でなにか話しているようで、今しがたやっとのことで目を覚ました僕のことに気が付かないのか、気づいているのか、とにかくこちらのことは全く気にも留めずに話を続けていた。
僕は特に変わらない様子の三人の姿に心に光を取り入れたような気になって、健やかさとか穏やかさといったようなものを取り戻すと、次にふと列車の窓の外へ目をやった。そしてその瞬間、「あ」と思った。
それは例えば休みの日に窓を開けて「今日はいい日になりそうだ」とか、星空を見上げて「懐かしい」と思うのとよく似ていた。説明のできない、でもとても明確な気持ち。予感。
僕はその瞬間わかってしまったのだ。なぜだか説明しろと言われても、わからない。
でも僕にはわかった。どうしようもなく、わかった。
これから向かう場所には「あの子」がいる。
ブーーーーーーッ
列車が速度を上げる。汽笛のような音。胸の奥から何か、特別な波のようなものが押し上げられては打ち上げられる。
それは僕の知らない感覚だった。体の真ん中が焦げるように痛む。痛い。痛い。痛い。でも僕は窓の外から目を仰向けることができない、どうしても。
「おい」
誰かが僕の肩に手を置いた。それで僕ははっとして振り向く。
「大丈夫か」
そこには少し心配そうな顔をして眉を八の字に下げている小次郎が立っていた。賢二と佐々木も、僕の方を見ている。みんなの存在が、やっぱり僕をこの場所に戻す。
「大丈夫」
僕が言うと、小次郎は深く言及することもなくただ、
「そうか」
と言ってまた、ぼくの隣の席に腰掛けた。
胸の奥が痛む。でもそれは、ただの痛みじゃない。
いつまでも感じていたいような、いままで感じたことのないような、甘い痛みだ。
なぜだかわからない。それまでみんな言葉を交わしていたのに、それ以降誰も、言葉を使わなくなった。
でもその瞳の奥に、冬枯れの地面から芽吹く若葉のようなぬくもりを宿している。春だ、と思った。みんなの瞳には春が映っている。僕は一人じゃなかった。みんな、僕のことを知らない。僕のすべてを知らない。でも、三人の瞳は知っていた。何もかも、僕のすべて。
列車がゆっくりと速度を落としてゆく。
がたんごとんがたんごとん
停車駅はなかった。ただ、どこまでも続いて行く線路の途中で、列車は停車した。僕らはまた目線を交わしながら、席を立つ。
列車を降りると僕はふう、と両手に息を吹きかけた。やっぱり外はまだ冷える。季節というものは不思議だ。まだしっかりと気温も景色も変わらずそこにいるのに、どうしたって次の季節の予感を匂わせる。
外はまだわずかに雪が積もっているけれど冬の匂いよりもっと濃い春の匂いが乾燥した空気に乗って僕らのところに届いた。風が吹いている。やっぱりまだ冷たくて、でも次の季節を運んでくる風。
怖くはなかった。凝り固まった緊張感も、恐れも、なにもなかった。
どうしてだろう。あの子の存在が近くにあるとわかって、体中の神経が開ききっているのに、胸がぎりぎりと痛むのに、心は凪いだ海のように穏やかなのだ。
ただ僕は「ここにはあの子がいる」という、深い夜に灯った灯りのような確信を胸に抱きしめて薄い雪の積もった地面に立っていた。今この瞬間も静かに、強く、甘い痛みが僕の心を焦がす。
ところどころ、雪が解けて緑のようなものがのぞいているようにも見える。
列車を降りて目に飛び込んできたのは広大な大地だった。ただ、見渡す限りの広い大地がどこまでも広がっている。向こうの地平線までずっとずっと。
僕はこんなに広い世界の中で自分がとてもちっぽけな存在に思えた。そしてその感覚に途方もなく安心する。
こんなに大きな大地の中で、僕が記憶をなくしたことも、小次郎が街を出ることも、なにもかもがとても些細で小さなことであるような気がしたのだ。
「あ」
僕は声を出した。それなのに僕の声よりも吐く息がもっと濃く深く空気に触れて白く発色する。
僕は見たのだ。白い雪の大地にそびえ立つ、
大きな梅の木を。それは思ったよりも近くて、思ったよりも遠いところに立っている。
――「梅の花はね」
あの子は何と言っていたのだろう。そうだ、思い出した。
――春一番に咲くの。
そうだ、春が来たのだ。そう、僕は悟った。まだまだ寒い空気の中で、まだまだ深い氷の中で、それでも春は芽吹いたのだ。とうとう、その時が来たのだ。列車がここへ目的地を変えたその瞬間に、三人の目に春が宿ったその時に。
梅の花が咲いたら、春が来る。僕は何も言わず、何も持たずに歩いた。頭より体が先に出る、ここに来てからずっとそういう感じがしていた。
歩くたび、足を前に一歩ずつ踏み出すたび、僕はいろんな景色を見た。記憶の景色。僕が失ったけれど決して失わなかったもの。でも何もかも涙でぼやけたようになって朧げに浮かんでは消えた。それでもよかった。それらの記憶のカケラたちが鮮明であるかどうかは今の僕にとってはちっとも重要なことではなかったのだ。
今の僕にはもっともっと重要なことがある。大切なことがある。
「春がきたら会いにゆく」
そう思うのに、僕はずっと、寒い冬の中にいた。夏でも、秋でも、僕はずっと冬の中にいた。それでも君を諦めなかったのは、僕が知っていたからなのだ、それでも必ず春はやってくるということを。
僕の頭の中にまるで走馬灯のように蘇る記憶。母さんが僕を抱き上げた時のこと。父さんとキャッチボールをした時のこと。小次郎や佐々木、健二と馬鹿騒ぎをした時のこと。どれも覚えていなくたって別に構わないような些細な思い出ばかりだ。でもどれも僕を作る上で欠かせない宝物なのだ。それは愛だ。それらの記憶は僕の心に愛を育てて芽吹かせる。まるで、この広い大地に咲き誇る梅の花のように。
一歩一歩、近づく度、僕はまだ夢の中にいるのだと思うようになった。夢の中であの子に会っている感覚と、ここでいま僕が歩いている感覚と、どちらもとてもよく似ている。本当はここに何度も来たことがあるのだ、と思った。でも僕は怖かったのだ。向き合うことが。そしてそれに関わる何もかもが。
それぞれに少し離れて歩いている口数の少ない友人たちも、冬の中に咲いた春も、僕のそばにいた。僕は一人じゃなかった。それは決して今だけのことじゃない。これまで生きてきた、どの瞬間においても僕が本当の意味で一人だった瞬間なんて、一度もなかったのだ。
冷たい風が僕の帽子にぶら下がった毛糸のボンボンを揺らしている。
そして少しずつ、僕らはその大きな木の方に近づいていく。それは見事な梅の木だった。思わず見とれてしまうほどに。涙でぼやける視界の中でも微笑みや感嘆を漏らしてしまうほどに。これから何時間でもただ、見惚れていたいと思った。見惚れていられると思った。
その梅の木は僕ら四人合わせても足りないくらいに立派で太い幹をしていて、冬の寒さの中でも満開に、絵のように素晴らしい桃色の梅の花を咲かせている。
そしてあたり一面には甘酸っぱい香りが充満していた。僕は思い切り息を吸い込んでみる。風が吹くたびにその香りをたずさえて梅の花びらがこぼれ落ちる。こんなに儚いから、こんなに美しいのだ、きっと。
みんなも、笑っている。それぞれに微笑みを湛えて静かに笑っている。僕のことを見守っている。こんな冬の道に、桃色の梅の花が咲き誇っているのは誰が見ても美しい景色であるのに違いがなかったのだ。
やっぱり僕は長い夢を見ているのかもしれない、そう思った。でもそれでも構わなかった。どちらにせよ、僕は今、ここに立っているのだ。とても自由な心で。そして旅に出る前よりもほんの少し大きくなった自分で。
「きれいだ」
小次郎が言った。
「ああ」
と、賢二や佐々木も後に続く。
僕はその時やっとわかった。この梅の木は、あの子そのものなのだ。あの子はこの木で、この木はあの子なのだ。あの子はいつもこうして花を咲かせて僕を待っていたのだ。
僕は涙を乱暴に拭いながら、その梅の木の下に向かって歩いた。
景色とは伴わず、その梅の木までは随分と距離があった。もうすぐそこまで近づいていると思うのに、歩いても歩いてもまだ届かない。それでも僕らは歩いた。ただ、ただ、歩いた。その度に風が僕の帽子のボンボンをいたずらに揺らす。
あの子の後ろ姿を見た時、だから僕は驚かなかった。なぜならそれはいつもの夢と同じ後ろ姿で、もしかしたら何十回、何百回も見たものだったから。
でも、いつもと違うのは、僕が今、僕自身の体や心を自由にできるということだ。僕は僕の言葉をこの、目の前のよく知った少女に届けられるということだ。それは信じられないほど幸福なことだと思った。伝えられることは信じられないほど幸福な、僕らに許された自由だ、行為だ。
僕は君を見つけた。君はいた。君はこちらに気が付かないようだった。それで、ずっと梅の木の一番てっぺんの方を見上げていた。だから君の短くてふわふわの髪が肩に当たって揺れていた。
「梅子」
と、僕は言った。そう言うのにふさわしいところまで僕はもう近づいていた。「梅子」と呼んだのがあまり自然に響いて僕は驚いてしまう。
みんなはなんとなく、僕よりももっと後ろで僕らを見守るようにさっきまでのように少し散り散りになって立っていていた。
梅子は僕の声ではっとしたように振り返った。梅子は決して僕の声を聞き逃したりしなかったのだ。そして、その瞬間、すべてを理解したように、梅子はそのまん丸な黒目に一杯涙をためた。
「きてくれたのね」
それで梅子はそう言った。「きてくれたのね」と言ったその言葉の中に全く不安がないと言えば嘘になる、そんな声だった。梅子は僕を待っていたのだ。とてもとても長い間。信じることは迷うことだ。迷いの中でそれでも信じるということだ。
梅子がそう言った瞬間、彼女の瞳から大きな雨粒のような涙がボロボロと音を立ててこぼれてその薄桃色の唇を濡らした。
ああ、会いたかった。そう思った。会いたかった。僕はこの少女に。会いたかった。とても、とても、とても。
――来てくれるって、知っていたの。だから待っていたの。
梅子の瞳は濡れていて、そこに梅の木の隙間から差し込む白い日の光が反射してきらきらと光っている。梅子は変わらない、ちっとも変わらない。それは僕が何より望んでいたことだった。唯一望んでいたことだった。
僕は、梅子のそばまで歩いた。こんなにもしっかりとした足取りで歩くのは、僕が記憶を失ったあの日以来、初めてであるような気がする。そんな風に、僕は歩いた。
僕は思い出したのだ。梅子と僕の間にあったすべてのことを。
僕はあの日、ポチを事故で失ってしまったあの日、一人の少女を救おうとした。少女はトラックの前で動けなくなっていた。ポチを助けようとして間に入ったのだ。
僕は彼女とポチを助けようとしたけれど、その少女を助けるには少し間に合わなかった。その少女の顔。まだあどけない少女の表情。
それが、梅子だった。それなのに僕は、すっかり、忘れていた。忘れていたのではない、忘れることにしたのだ。
僕は弱かった。そして僕は僕自身を憎み、嫌っていた。
その日、あまりのショックにすっかりと意識をうしなった病院の寝床で夢を見た。それは梅子の夢。梅子はいつも僕に何かを伝えようとしている。梅子の唇が何かを告げようと動いている。
けれども、肝心なところでいつも言葉を受け取ることができないのだ。僕も、梅子も。
言葉を交わそうとするのに、伝えたい言葉を紡ごうとするのに、思えば思うほどただ、唇と吐く息の白い形が空洞みたいに重なって終わる。そして僕の夢はまるで薄明のように消えてしまう。何かするべきだ、何か伝えるべきだ、それだけはわかるのに、それが「何」であるのかがわからないのだ。
でも、今は違った。梅子は僕を見た。そして僕も梅子を見た。梅子の、薄桃色の唇が動く。そしてそれはとうとう、僕に、僕の心に、彼女がずっと伝えようとしていたたった五文字の言葉を届けた。
それは思っていたより単純で、明快で、そしてあまりにもありきたりな言葉だった。それは僕を驚かせた。自分のことを嫌って、あの日起きた出来事全てから目を背けていた僕を、驚かせた。梅子はこう言ったのだ。
「ありがとう」
と。「助けてくれてありがとう」と。
僕の胸ははちきれてしまいそうだった。ずっと、僕は彼女を救えなかったのだと、自分のことを許せずにいた。僕の目の前で傷ついた命。そのかけがえのない命の前で無力だった自分自身。その恐ろしい光景。何より自分自身にさえ向き合うことのできない、弱い僕の心。
けれど彼女はその全てを知って、僕に、あの優しい、あの日からちっとも変わらない陽だまりのような瞳をそっと柔らかく細めて「ありがとう」と言って見せたのだ。
「助けられなかった」
と、思った。そして口に出そうとした。でもそうしようとして僕は口をつぐんだ。そう言うのはずっとここで僕のことを待っていた梅子に対しても、あの日精一杯小さな少女の命を守ろうとした自分にも、場違いな台詞であるように思えたのだ。
そう思えたのは、彼女が僕にくれた「ありがとう」という五文字のおかげだった。梅子の言葉は僕の心を癒すのに十分だった。
僕らは一緒に泣いていた。そして僕らは互いの気持ちをよく理解していた。
僕は梅子の手を取った。その手はふわふわとしていて、白くて、思っていたよりもずっと小さな手だ。
「冷たい」
僕が言うと、梅子は赤い目をして微笑んだ。
「だってずっとここで待っていたんだもの」
梅子の柔らかな髪がふわふわと揺れている。まるで春の日に咲く、満開の梅の花のように。
だから僕は目を細める。眩しいのだ、とても。
「帰ろう」
ためらわずに、そう言った。だって僕は今、君の手をとっている。冷たくて白い、柔らかな手のひら。だから帰るのだ。帰ろう。僕らの町に。
終着点
また、僕らは列車へと向かう。今度は梅子も一緒に。空から見ればこの真っ白な雪の道には小さな足跡がたくさんついているのに違いない。僕はそれで、「カラオケカジノ」へ行くまでの道のことを思い出した。僕らがよく知る真っ白な道にも、朝になるとこうして僕らだけの足跡が付いた。
夢のように、僕らは歩いた。誰も、何も言わずに。僕らはどういうわけか、痛いほどに知っていたのだ。ここがあの列車で辿り着くことのできる最終地点なのだということを。梅子の冷たい手は、僕の手のひらの中で少しずつ温もりを取り戻してきているようだった。
さっきの線路脇まで戻ると、今度はいつの間にか進行方向と逆方向を向いた列車が僕らを待っていた。最終地点がここならば、僕らがこれから向かうべき場所はもう決まっている。みんながおのおの乗り込む中、雪のついたブーツを梅子は線路脇でとんとん、とならすようにして雪をはらって列車に乗り込んだ。
すると、またプシューッという音を立てて扉が閉まる。
僕は相変わらず梅子の手をぎゅっと握っている。僕らはとうとう元来た道を帰るのだ。みんな一緒に。
列車に乗り込むと、今度は小次郎が気を使ったのだろうか、賢二と佐々木の前の、花束が置いてある席の隣に腰かけた。小次郎は僕の方を見て少し肩をすくめている。
僕は梅子と隣同士で腰かけた。なぜだか、ずっとこんな風であったように僕らは隣同士でいるのがとても自然なことのように思える。
列車は今まで通り、
がたんごとんがたんごとん
という規則正しいリズムで音を立てているのに、今度は誰も眠ったりしなかった。
気が付くと、前の座席の方に映し出されている緑色の電光掲示板には「湊駅」と映し出されてある。今度は五年前でも、五年先でもなく、きちんと僕らのいた時間に戻るのだ。列車の窓から、夢に見たこの場所が遠ざかってゆく。でも怖くはなかった。僕が本当に探していたのはこの場所ではないのだ。
湊駅に着くころにはもう何時間も何日も過ぎているという感じがしたのに、まだ空は夕暮れ前の薄い明るさを湛えていた。駅にかかった電子時計が日付と時間を告げている。一月十日の夕方。出発したその日に僕らはきちんと戻ってきたのだ。
列車は僕らを湊駅の停車駅に降ろすと、とても冷静に扉を閉める。僕らの方が少し寂しくなってしまうほどに。名残惜しくなってしまうほどに。
そうして、
ブーーーッ
という汽笛の音が鳴ったかと思うと、列車はゆっくりと車輪を前に滑らせた。
行ってしまうのだ、また、どこかの誰かのところへ。そんな風に思った。そしてそれはきっと間違いないだろう。
僕らは黙ってその列車の後ろ姿を見送った。思えば、この列車の後ろ姿を見たことがなかった。この列車は無愛想だけれど、いつも僕らを迎えに来て、そして何も言わず待っていてくれたのだ。
がたんごとんがたんごとん
という聞き慣れた車輪の音がすっかり遠ざかってゆくまで僕らはこの列車を見守っていた。
僕らにたくさんの贈り物をくれた、不思議な列車。新しいけれど今この瞬間も遠ざかってゆく僕らの旅。今という名の過去。
その後ろ姿が見えなくなってしまうと、一気にこの「湊駅」は静けさを取り戻した。まるで何もなかったかのように佇む、今までと何ら変わりのないホーム。
僕はその潔さがこの列車らしいと思った。夕暮れの中で列車の後ろ姿はそんな風に案外凛々しかったのだ。誰も手を振ったりしなかった。でも心の中でちゃんとそれぞれに見送った。
この列車はきっと次の「誰か」を迎えに行く。僕らのようにまた知らない誰かが記憶を旅する。僕はふと、父さんのことを思い出した。意味深な父さんの表情のこと。もしかすると父さんもこの旅を終えた一人なのかもしれない。
僕らはホームを降りて外に出ると、「また明日」会うことを約束してそれぞれ家に帰ることにした。みんな何となく、静かで、落ち着いていて、どこかまだ心が追い付いていないような感じがする。
それでもまだ日が暮れてないとはいえ、雪国の夜はやっぱり早い。みんな家族のことが恋しいのに違いないし、それは僕も同じだった。
「じゃあ」
僕らはまるでいつもと同じように手を振って別れる。
佐々木は、両手にカスミソウの花束を抱えていて、今は入院中だという「ばあちゃんに渡す」のだそうだ。賢二の方は今晩終わらせなければいけない課題があると言っている。こんなときでも優等生というものは忙しいらしい。
小次郎はいつも僕と同じ道を歩いて帰るのだけれど、梅子と僕がまだ手をつないでいるのを見てまた肩をすくめると、
「お先に」
とおどけたように言い残して先に帰って行ってしまった。
なにやらにやにやとしているのでからかっているつもりなのだろうが、そこにも優しさが透けて見えるので僕はちっともからかわれたような気がしない。
僕らはこの街にまた無事に帰ってこられたというのに、それに対して喜んだり、騒いだりしなかった。まるで隣町から帰ってきたようにごく当たり前にそれぞれ分かれてまた明日会う約束をした。いつもと何ら変わらないように。
やっぱり僕らはいつまでも変わらなくて、いつまでも変わってゆくのだと、僕はなんとなくぼうっとした頭で考える。こうして当たり前にあいさつを交わすことができる人が大切なのだと思った。大切なのだと忘れてしまうほど当たり前であればあるほど大切なのだ。だから僕らは時々思い出す必要があるのかもしれない。
あの列車のようにあっけなくそれぞれに家路に着くみんなに手を振ると、今度は僕の隣にいるもう一つの「大切」な存在に目を向ける。
梅子は僕らがそうして挨拶を交わす間も、そのふわふわとした髪を揺らしながらただ僕の隣にいた。何も言わずにじっと立っている梅子はどこか、さっきまでよりも深刻な顔をしているようにも見える。
僕はそんな梅子に応えるようにして、やっと元の通りに動くようになった携帯電話で母さんと父さんに一通だけ、メールを送った。それはこういうもの。
「お母さん、お父さん。僕は行かなければならないところがあります。少し帰りが遅くなると思いますが待っていてください」
我ながら簡潔でいて丁寧だ。少しは心配をかけるかもしれないけれど、僕の旅はまだ、終わっていないのだ。そしてもう少しで終わる。その瞬間はもうここまで来ていて、きっとその瞬間を迎えたのならちゃんと僕の人生はまた一から回りだすのだ。
僕は送信ボタンを押すと、携帯電話をカバンの中にしまった。そうしてまた、梅子の手を握る。ぎゅっと握る。
君の瞳の中に、僕がいる。だから僕は逃げずにいられるのだ。
「そこまで連れて行って」
僕のその言葉に、梅子は小さく肩を震わせた。それでも深く頷いてみせる。
僕らは一緒に向かうのだ。二人で。そうすれば怖くはない。何も。
そこに着くころには丁度、日が沈んだ頃だった。けれどまだ沈んだばかりで空の向こうの方がうっすらとオレンジ色に染まっている。
「トワイライトっていうのよね」
梅子が言った。僕はただ、その梅子の横顔がとても悲しくて、美しいと思った。空が昼と夜との狭間にいる時間。どちらともつかない時間。
僕らはそのまま、病院の中に入った。梅子はどこから入ればいいのかをよく知っているようで、誰にもわからないような裏道から入ることができた。
この時間の病院はすっかりと静まっていて、僕の足音だけが聞こえる。雪の水分を吸った、濡れた僕のブーツの音。
そうして、僕らはとうとうその部屋の前に来た。
「ここだよ」
梅子の声に僕は視線を上げる。夕暮れの病院の廊下のオレンジ色に薄暗く切ない匂い。
三〇五号室。長谷川梅子。
そこにはそう、書かれていた。
部屋に入ると、その子は眠っていた。
真っ白の肌は弱弱しく、今にも消えてしまいそうだ。いま僕の隣にいる梅子はピンク色の頬をしているのに。梅子はぎゅっと手を握り返した。隣に目をやると、桃色の頬をした梅子が横たわる自分自身の姿を僕と同じように見下ろしている。そしてその瞳には、梅の木の下にいたときと同じように丸い涙がたまっている。
「ごめんね」
梅子は消えてしまいそうな声で言った。
「あなたにたくさん悲しい思いをさせてごめんなさい」
梅子は悲しんでいた。でもそれは決して、自分の運命にではなかった。梅子は、僕のことを思って泣いたのだ。僕のことを思って、あの梅の木の下に立ち続けたのだ。
僕の隣に立つ梅子は、少しずつ、色を失っていた。この街についたその瞬間から。そして僕がそれに気が付かないわけがなかった。
僕は大きく首を横に振った。違う。違う。そうじゃない。僕は、僕にとっては、梅子の存在が希望だった。光だった。支えだった。ずっと。
「違うんだ」
僕は言った。消えてゆく、梅子の手をそれでも強く握りながら。そして僕は、はっきりとその大きくてつぶらな瞳を見た。彼女に向かい合った。怖かった。足がすくんだ。それでも言わなければならない、と思った。ずっと、言いたかったこと。長い冬が終わって、雪解けの春が来た。君は僕を待っていて僕は君を迎えに来たのだ。
「君が好きだ」
僕が言うと、もういまにも消えてしまいそうな君がふっと笑ったように見えた。そうして、君は消えた。病室の地面の上に大きな涙の粒が一粒、君の桃の頬の上を滑って落ちた。
すると突然、病室の中の大きなコンピュータのようなものが音を立て始めた。
ピッピッピッ
とても規則正しく。人の心臓の音みたいにコンピュータの中の一本船が脈打ち始めたのだ。
僕の心は激しく脈打った。僕の命が君の命になればいいと思った。
ピッピッピッピッ
君の弱弱しい肌。けれど桃色の唇。その規則正しい機械音はあの穏やかな夢の中で、きっとあまりに耳障りだろう。
ピッピッピッピッ
好きだった。君の些細な仕草。きっと僕が生まれる前から君は僕の女神だったんだ。僕の瞳からも冷たいものが流れて僕の頬を濡らす。そして眠っている、やせた、それなのに桃色の唇をしたこの子の頬に雨粒のように落ちた。
ピッピッピッ
あの、列車の車輪の音のように規則正しい音。遠くから誰かが走ってくるような音がする。
その瞬間、僕は聞いた。君の声。君が僕を呼ぶ声。そして鼻先に蘇った、甘くて酸っぱい梅の匂い。君の髪の香り。
そうだ、君は待っていてくれた。そのままの君で。何一つ、変わらずに。
――たかしくん。
病室で横たわる、もう一人のあの子の桃色の唇が動いた。誰かが病室の扉を激しく開ける。でも僕にはその誰かの存在なんか、少しも気にならない。聞こえない。僕に聞こえるのは君のその声だけなのだ、いつだって。
そして君はすぐ、僕の目を見た。とても、まっすぐに。とても、優しく。そしてこう言ったのだ。
――ありがとう。
と。
