いま、レジー『ファスト教養』(集英社新書)を読む——「教養」の使われ方とか、人文主義とか
テーマは、ファスト教養。
拙著『スマホ時代の哲学』はモヤモヤを許容しないファスト教養だとか、谷川や令和人文主義は学問を破壊するだとか、厳密性の放棄だと言われています(!)
なので、ファスト教養のことを振り返っちゃいましょう。『ファスト教養』は話題になり、おそらく売れていますが、実際にはあまりちゃんと読まれていないように思います。下の方で詳しく説明していますが先回りして一応言うと、著者はファスト教養への違和感を表明しつつも、それを叩く立場をとらず(現実に知へのエントリーを担っている)、かといって旧来の「古き良き教養」への回帰も主張しない。むしろ、第三の道を模索するのが『ファスト教養』という本です。
しかし、「ファスト教養」という言葉は(まるで「令和人文主義」みたいに)独り歩きし、みんな『ファスト教養』を実際に読まずに適当に予想とまとめサイトで理解した気になり、人やコンテンツを叩く言葉として使われてしまっています。この無理解の構図自体が、「いまや誰もファスト教養からは逃れられないのだ」という感覚を真に迫ったものにしている気がします。今こそ読むと面白い本でした。
ファスト教養のこと
ファスト教養という概念を作った、レジーさんが2022年4月号の『中央公論』で、こういう問いを提示している。
「教養やリベラルアーツという、一聴すると高尚な言葉で語られる概念は、現代の日本において結局のところ、「個人の生存戦略に必要なツール」程度の扱いになりつつあるのではないか? まずはこんな仮説に基づいて論を進めていきたい。教養という言葉の持っていた様々な意味が剥ぎ取られた結果、「ビジネスの場で使える小ネタ」としての機能ばかりがフォーカスされ、そしてそこに多くの人たちが飛びついているのが2010年代から現在にかけての状況なのではないだろうか。
何かの知識が、結果としてビジネスに役立つことを禁止するのは妙な話だし、それ自体は良いも悪いもない。しかし、何かに役立てようというのが主目的で知識を身につけたり体験をしたりする人——「最近の上司世代は渋谷系が好きな人も多いと思うので、話を合わせるためにフリッパーズ・ギターもたしなみとして聴いています」——と出会ったら、「強烈な違和感を覚えるだろう」と著者は続けている。
面白いのが、ここで並べられているのが、田畑信太郎の『これからの会社員の教科書』(2019)と、晋平太の『教養としてのラップ』(2021)。どちらも、ビジネスシーンで具体的かつ直接的に役立つはずだという論理が語られている点で共通している。(そして、こういう態度を取らない傾向にあるものを「令和人文主義」と私は括ったのにすごく叩かれているのが納得できない。笑)
レジーさんが、ファストという言葉に託しているイメージは二つ。
①ファストフード。栄養バランスを多少損ねるのと引き換えに摂取しやすい。
②ダニエル・カーネマンの『ファスト&スロー』における二重過程理論。「直感的で速い思考」をシステム1(ファスト)と呼び、「論理的で遅い思考」をシステム2(スロー)と呼ぶ議論のこと。
このイメージから、「大雑把に全体を把握するために『表面的』な説明になることも厭わない」という特徴と、「熟慮せず『金を稼ぐことにつながるならば良いことに違いない』という考え方に沿って行動する態度」を導き出している(p.44)。
本の『ファスト教養』では、これが〈「人生」ではなく「財布」を豊かにすること〉と表現されていました(第一章)。うまいコピーですよね。教養概念そのものが、そういう変質を遂げていて、それは大学人や文筆家がどう思おうが、言語文化の変化として一定受け入れるしかないものではないかと思います。
(余談だが、その着想源の一つになっている二重過程理論については、色々微妙な論争もあるようで、たしかに関連論文を読んでいてこの単純で直感的にわかりすぎる理論を、最近参照しない方がいいのではないかと思っている。)
ファスト教養の特徴と、令和人文主義の活動を照らし合わせる
「大雑把に全体を把握するために『表面的』な説明になることも厭わない」という特徴と、「熟慮せず『金を稼ぐことにつながるならば良いことに違いない』という考え方に沿って行動する態度」を持つ、ファスト教養。
おそらく、これが令和人文主義だと思われているんですけど、「働いていると本が読めないんですけど!」「全身全霊じゃなくて、半身でいようね」と語る本(『なぜ働いていると本が読めなくなるのか』)とか、助詞の盛衰や意味論について1時間話す「ゆる言語学ラジオ」がこれになりますかね。
何とか正義の概念を維持し、人類が会話する可能性を考え続ける本(『〈公正〉を乗りこなす』)とか、「モヤモヤ・難しさ・消化しきれなさとか普通に大事だけど、そう口にする私たち自身がなんか落ち着きなく調べもせずに何か断言してしまう問題、一緒にどうにかしましょう」と語る本(『スマホ時代の哲学』)がそんな話していますかね。
読んでない人向けに一応いうと、していないんですよね。むしろ反対。前者にも後者にも一定ブレーキをかける話をしています。令和人文主義=ファスト教養論は、桃太郎を愛の物語として読むくらい無理すぎる話だと思います(わかりやすいのかどうかいまいちわからない喩え)。
古い教養と、新しい何か
レジーさんの本では、こんな認識が示されています。
ファスト教養が流布している今の状況は批判的に捉えられるべきというのが筆者の基本的意見である。ただ、だからと言って、ビジネス系のインフルエンサーを見下し、「古き良き教養に戻れ」といったメッセージを出したところで何の役にも立たないこともよく理解しているつもりである。
私もこれには全く同意する。しかも、この本が書かれたと思われる2021年頃はまだ牧歌的だった生成AIが、めちゃくちゃ容易く文章を用意してくれる今、旧来の教養を振りかざすことの何にもならなさは、一層強まっていると言うほかない。
ちなみに、「古き良き教養」を語る人物も『ファスト教養』には出てきている。東京大学出版会から2005年に出た『教養のためのブックガイド』の教養観と、出口治明(ライフネット生命の元会長)の類似性を確認している箇所だ。
ここには大きく二つの切り口があるように思える。一つ目は……知識をじっくりと自分の中にしみこませることで生き方をのものを見直そうとするスタンス(ちなみに英語で「耕す」を表すcultivateには「才能・品性・習慣などを養う、磨く、洗練する」という意味もある)。二つ目は「役に立つから、利益があるから知識を得ようとする、のではない」、言い換えると、学びたいからこそ学ぶ」とでも言うべき考え方。
これらの考え方が、ファスト教養の特徴である「手早く大雑把に知りたい」「お金儲けの役に立つ知識がほしい」というスタンスとは真逆であることを著者は確認している。
その上で、こう問うている。
ファスト教養というものが登場した事実を受け入れたうえで、「役に立つ・立たないに関係なく学びの楽しさを味わう」「それが長い目で見て人生の豊かさにつながる」といった考え方をどうやって再構築するか。
一応パラフレーズしておくと、ファスト教養に著者は違和感を抱いているが、そういうものが出ていること、そういうものを見ている人を否定しないし、そういう「入口」があることを肯定的に書いている箇所も見当たる。しかし同時に、それがゴールや解答のようになってしまうこと、それが換金性(ビジネスに役立つ!)に短絡することは批判している。ただし、そのような状態を「教養」の高みに立って批判することもまた避けている。
端的に言えば、「ファスト教養 vs 古き良き教養」という構図を設定した上で、それを逃れようとしているのが、著者のレジーさんの立場の取り方で、私はこれが理に適っているし、大学現場で教えていて実感として理解できる。
ファストとスローのどちらかに立つという単純な構図そのものを脱したいのだと思う。このバランスのとれた姿勢を維持しながら、著者なりの「解毒法」を提示するのは第六章なのだが、その内容は実に地味だ(誉め言葉)。解決策はいつでも地味であるべきだという偏見を私は持っている。
その解毒法の一つとして、「トレンドを追わないこと」の重要性が語られている。実は、『ファスト教養』と『スマホ時代の哲学』は2022年に出た同期本。問題意識も共通していて、『スマホ時代の哲学』では同じことを「アテンションエコノミー/注意の分散に抵抗すること」と言い換えていた。この辺りの方向性は、まさに令和人文主義が目指していることだったと思う。
この地味な解毒方法、かなり面白いのでぜひ見てほしい。その方法を提示するために材料を集めてくる範囲に、結構個性が出ているというか。第六章以降、特に面白いです。
アテンションエコノミーに居ながら抗うとか
さて、令和人文主義は「ファスト教養」か。否。しかし、旧来の教養主義に立ち返ることもしない。
『スマホ時代の哲学』は、「モヤモヤ・難しさ・消化しきれなさが大事だというのスタート地点に置いて、でもスッキリ・簡単・消化しやすさを得意分野以外だと求めるのも人間だから、その先を考えよう」と書いた本だ。それに、令和人文主義の潮流として私が名前を挙げたほとんどの人は、研究者上がりだけど、それでも一般向けに(も)書く/話すことを選んだ人たち。なので、批判者が想像しているようなものは、ここにはない。
さらに、私は「教養」概念の有害性を避けつつ、専門性を届けるためにライトに振り切りすぎないバランスがあることが重要だと思っているので、そこを重視している新しいトレンドに、「令和人文主義」という名前をつけた。その一部には研究者がいて、しかも研究者でない人たちも、研究者と連携しつつ、語りの厳密性を失わないラインで表現することを重視している。
「親しみやすい語り」と「教養主義ではない」の二点のみを引き継いで、原曲の残らないアレンジを出した飲茶さんの記事が最も読まれた令和人文主義論になった。みんなそれをベースに話すので、私としては戸惑うほかないイメージが流通したのだと思います。「これがトレンド、これが認知戦、これがアテンションエコノミー!」というのを現場で体感しました。
飲茶さんが書いている令和人文主義論は、一切名前を挙げた人たちのテクストや活動に基づかない適当な推測にすぎないと私は思っています。名前を挙げた人たちの文献や、活動(動画や音声)から具体的にテクストを引っ張りながら語ることが何一つできていませんし、証拠立てることもなく断言しているにすぎないように見えます。それは特徴づけとしてとても危ういものです。
令和人文主義とか、人文主義の話
なぜ人文主義なのか。下記の「追記」に詳しくまとめているが、一部だけ再掲しますね。
14世紀の人文主義者であるペトラルカが、知の条理を追うだけでなく、「古典古代が達成したもの」を「個人が美学レベルで実体験する」姿勢を自分は持っていると語った。15世紀のロレンツォ・ヴァッラ(ヴァラ)も、特定・具体的な状況における「話(oratio)」にこそ言葉の意味があると考え、民衆的で具体的な言い回しに富む古代の表現を掘り起こすことを重視した。
この口語性や具体的な場を重視した言語感覚は、自身が書くだけでなく、声・耳のメディアに注目し、そこでの話し方から影響を受けた文体を構築し、文章を書きながらも、音声や動画などメディアにこだわらずに動いている現代の著者たちとも重なっていると思います。
(余談ですが、上記の本今なぜかすごく割引が始まっていて、めっちゃ安いのでぜひ。)
この体験的な言語観と、古い本たちからも栄養を得つつも、古いメディアで新たな言葉遣いを模索する姿勢。この構図が私は現代とダブっていると思うところです。
加えて、人文主義の代表格といえばエラスムス。彼はまさに、「新しい弁舌」を打ち出す必要性を痛感していて、この「レトリックの伝統」の復活の中に、何か過去とつながるところがあるのではないかと思っています。
エラスムスによると、「弁舌は精神の外形」である。党派的に宗教が分裂した状況にあって、あたかも医者が外側から見える兆候によって内側の病気を察するように、人々の精神の健康を癒す「新しい弁舌」(noua lingua)を打ち出す必要があると彼は考えた。
何か特定の党派に回収されない、新たな弁舌を生み出すことの重要性。これを「政治性のなさ」と言うこともできると思いますが、それは単に「別の政治性」と言うべきではないでしょうか。それに、政治性がSNSで確認できなければならないとか、自分のジェンダーやマイノリティ性を表明しなければならないとも思いません。
ちなみに、レジーさんの本でも触れられていた、下記インタビューがこの類似を別のところから確認してくれているなと思いました。
1つには、音声メディアは結論や正解を回避することができるんです。そもそも批評の役割というのは、正解を提示することでオーディエンスに安心や慰めを与えることではなく、彼らの主体性を掻き立てることだと思うんです。〔…〕むしろ言語というのは受け手の主体性をくすぐったり、思考や感情を刺激したりすることに向いている。
なんだか「おっ」って思う話だなと。
『ファスト教養』論は、令和人文主義論の入口とするべき本だったんだなと、改めて読み返して思いました。
以下では、余談的にファスト映画の話をしておきます。その前に告知。こういう話をまさに考えたいよ、みたいな会です。各部60人ずつくらい集まって、ギリギリ赤字にならないくらいの感じなので、興味ある方はぜひ…!
1/11(日)開場13:30-開演14:00
— 大阪Loft PlusOne West (@PLUSONEWEST) November 26, 2025
いま人文知の現場はどこにあるのか?「2020年代の時代精神」を模索する一日。
第一部(14:00~)
「人文知のユーザー:いつ/どこで人文知は求められるのか? 知が『使われる』瞬間を探る」
登壇者:工藤郁子、中路隼輔、三宅香帆、山本ぽてと、朱喜哲(モデレーター) pic.twitter.com/uh8t8xoJrK
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