もっと軽はずみに「哲学」と出会う世界にしたい、という話
あちこちオードリー、神田伯山さんも三宅さんも胸熱なこと言ってたな…
頑張ってるんですよ…!!!!!笑#あちこちオードリー pic.twitter.com/L48RNSyNNY
— 三宅香帆/新刊『考察する若者たち』 (@m3_myk) December 3, 2025
二人とも講談や批評に感動し、それを背負っているんだと。そのために打てる手をうち、そして自分がやる仕事の精度を淡々とあげる。もちろん個別に言いたいことはあるかも知れないけど、神田伯山さんの語りにも熱があったし、三宅さんの文筆への思いを聞いて正直胸が熱くなった。
三宅さんからそういう話を聞いたことはあるので、テレビでそんなに熱っぽく話しているという状況込みでじんときたのかも。とにかく二人にはめっちゃエールを送りたいし、私も哲学というジャンルにおいて、二人みたいなことをやりたいと改めて思った。
私も地方では出会う機会のなかった哲学や古典に大学でたまたま出会って心動かされた。(地元の話を下のリンクで少ししてる。)
でもそう感じた頃には、もう大学や研究はずっと正当性を疑われる危機の状態で、所属学部がなくなるかもって騒動もあった。ポストトゥルースであることに人類みなが普通に同意できる時代に生き、予算も人口も減る中で大学という場に楽観できる要素はない。長らく人文知の裾野広げ、支えてきた出版もそう。
他方で、怪しげなインフルエンサーがたくさんにいて、引用元もわからないし、何の裏づけもない危険なことを断言していて、一般にはそっちはほんとによく知られている。ビジネス書の中にもほんとに全然勉強も何もしてないものがあって、それが喜ばれている現状があるなら、哲学研究している自分たちがやった方がいいですよね、絶対に。その仕事を研究者が奪えるなら奪った方がいい。
上の世代からすると、この問いそのものがよくわからないかもしれないけど、論文を書くだけでないやり方が必要だと思っていたり、活動や手法、語り方の多様性が重要だと思っていたりする理由は、この辺りにある。誰も関心なんてない、居場所もジリジリ減っている。謎のインフルエンサーや、研究への尊敬もない書き手がその位置を占めている。これってマズいでしょう。
人文知の現場は、いまどこにあると考えるべきなのか。届いていてもいいのに、届かなかった人は誰なのか。自分にはなぜ届いて、隣の同級生は違い、あの友人は道を変えざるを得なかったのか。学生の頃から、いつもそんなことを考えていた。たぶん、モデルケースとして私が持っているのは、哲学や人文知、あるいはそもそも勉強に出会わなかった私であり、私の同級生たちだから、こういう問いに憑かれている。
哲学や文学なんて視界にもない人たちにも届くようなやり方と言葉、場所を狙ってアウトリーチしたいし、そうできる機会が巡ってきているなら、打てる手は全部打ちたい。地元には書店はほとんどなくて、今は小さなものが一つ。齋藤孝はギリ届くし、東野圭吾は届くが、そもそも本を読むというカルチャーがほとんど届いていない。でも、そういう場所にもたまたま届くことはあって、私はそういう機会が何度もあったおかげでここにいる。
これが私の活動の背景で、自分が勉強したいと思ったことの、哲学や人文知に感動したことの偶然性を知ってて、だからこそこれからの人には出会いの確率をあげたい。
私のやり方として、できるだけ哲学を軽はずみにし、哲学が語られるメディアやトーンを多様にしたいと思っている(研究論文は別として一般向けには)。哲学をもっと軽薄にしたい。名言集ほどくだかない。でも届く言い方を探す。そういう線引きを細かくしながら軽薄にしたい。哲学を軽はずみにやっていいものにしたい。軽はずみに出会っていいものにしたい。そうする役割だか責任を勝手に感じている。何だその責任はと思いながら、私が世間に消費されるか何かするまでは、その役割で踊ろうと思う。(もちろん、「軽はずみ」にすることは、「わかりやすく」することと同じではない。)
だって、SNSを使って研究者のやることが仄めかしや印象論をぶちまけること、レスバをすることなわけない。それよりは、もっと楽しいものとして哲学や人文知を届けたいし、軽はずみに出会った人文知がその人の視野を広げるとすれば、それはとてもいいことだと思う。もちろん違った届け方はあってもいい。でも私は軽薄にするという配役で演じる。
哲学のよさを失わない範囲で軽はずみにして誰かに届けることで、哲学が人文知がほんとに面白いってことを、少しでも多くに体感してほしい。批判すべきものや議論はあるけれど、ごきげんな姿を見せる人もいていいし、怒りの伝え方だって色々あっていい。
実存をかけて軽薄をやりたいし、そこには重要な線引きがあるのだということを私は博論や翌年に出した『鶴見俊輔の言葉と倫理』で学んだ。私のジャンクな活動方法は、博論本や、その翌年に書いた『鶴見俊輔の言葉と倫理』が背景にあるから、この軽薄は単なる軽薄ではない、と私としては思っている。
アウトリーチはもちろん、研究者としてやれることはぜんぶやってきた。大学院やポスドクのとき大量に論文を書いたし、ときには分野を超えた。英語で発表して国際業績も積んだ、当時からすでにアウトリーチや一般向けの書籍も出した。専門書も2冊出したし翻訳もやった。院生の互助組織を仲間と立ち上げたし、学内改革のための調査報告書まで研究仲間と作った。どれもやるべきことだったと思う。
哲学に軽はずみに触れられる世界をつくるために、やれる手は全部打ってきた。その手の中の重要な一部として、わざわざ軽薄さを身につけてきた。だから、「軽薄な書き手を批判する」というポジションをとる人の言葉は何も痛くない。私の特定の配役を批判しても何にもならないことをその人は知らないし、私が軽さを捨ててしまえば、代わりに何の愛着も知識もないインフルエンサーがこの位置を占めて哲学の伝道師をするだろうことに気づいていない。もちろん、私の戦略がうまく行っているのかどうかはわからないんだけど。
熱っぽく述べてきたけど、私はずっとそうするかはわからないし、他のやり方もあると思うし、そうでないと困るけど、私は今の私に打てる手として軽薄さを選択する。軽はずみに哲学に出会う世界を作るためにできることをやりたい。その中にはもちろん研究も含まれているが、軽さを引き受けること、軽はずみに出会える世界を作ることは私の配役だと思う。おわり。
ちょっと似た話を下記でもしてます。
韓国で60万部突破した、カン・ヨンスさんの哲学本が翻訳され、推薦コメントを寄せた。そのとき知ったのがTEXT HIPいうことば。
— 谷川嘉浩『スマホ時代の哲学 増補改訂版』 (@houkago_kitsune) December 2, 2025
韓国の若者がこぞって本を読むようになったという動向が、そう呼ばれるらしい…
めっちゃ本を読む日常はどう生まれたのか、あれこれ話しました!https://t.co/86F62XcuYD
あと、私のような危機感ではないのかもだけど、ダウの蓮見翔さんが似たことを言っていて、規模違うしジャンルも違うけど見習いてぇ、と思いました。
以下ではちょっと余談を書きます。取材のところで話していた地元のことと、京都の話を少し。めっちゃ日記みたいな話(買うほどでもない)。
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