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ヘボ碁百景13 本因坊道知と屋良里之子~江戸中期の囲碁名局を並べる

目次  一、本因坊道知と屋良里之子
    二、「フジカワさん」
    三、「シュウメイ先生」と「シノギの早田」
    四、「妻は好敵手」
    五、由緒ありげな碁盤と道知の第一着
    六、S・ツヴァイクの『チェスの話』
    七、ヘボアマチュアびっくりの一手
    八、孤高の名人道知
    九、囲碁界の「アインシュタイン」本因坊道策
    十、本因坊道知と四世井上因碩(桑原道節)
    十一、「宝永の争碁」
    十二、梶原師の慧眼と争碁の結末
    十三、親雲上濱比賀
屋良里之子
    十四、「碁所」と免状発行
    十五、道知・因碩の七番碁ーーなぜ「七番」なのか
    十六、里之子、奮戦するも
    十七、囲碁を正規科目に
    十八、大団円
    十九、里之子の本当の年齢
    二十、本因坊秀策と幻庵因碩
     二十一、碁と「キックボクシング」
    二十二、本因坊屋敷跡と薩摩藩屋敷跡
    二十三、本因坊秀策記念館を訪ねて
    二十四、道策探訪
    二十五、エピローグ

一、本因坊道知と屋良里之子 

 空がほのかに明るくなった。
「キキキキキキ・・・・・」
 耳をつんざくようなヒグラシの大合唱が里山に響きわたった。
「ヒグラシはなぜこんなに朝早くから鳴き始めるのだろう」
 今朝も田坂はそんな思いを抱きながらベッドから起き上がった。ヒグラシの鳴き声も、田坂には「キキキキキキ・・・・・」と聞こえるだけで、他の人が聞いたらまったく別の音色に聞こえるかもしれない。それ程ヒグラシの鳴き声というのは玄妙である。  
 ただ、田坂の耳にはいつ聞いても、よく表記される「カナカナカナカナ・・・・・」とは少し違うような気がした。
 田坂にとって一番近いのは、やはり「キキキキキキ・・・・・」であろうか。  いや、それも少し違うような・・・・・。もっとも、田坂のそんな思いは、しばらくすると心の中から跡形もなく消え去り、また次の日の朝、同じ思いが輪廻のごとくよみがえるのであるが。

 年をとるにつれ、朝の目覚めは早くなるものである。それは決してヒグラシのせいではない。人間の性(サガ)のようなものである。しかしその分昼間眠くなる。田坂は、この年になって初めて、J・ヒルトンの名作『Good-bye, Mr. Chips』のチップス先生の気持ちが少しわかるような気がした。
 田坂が自分の部屋に入ると、やがて新聞配達の自転車が「キーッ」と音を立てて止まった。そして新聞を郵便ポストに入れて行く。田坂はその「ポトッ」という音を聞きながらおもむろに碁盤の覆いをとった。
 田坂昭夫の一日は、昔の碁の名手たちの打った碁を並べることから始まるのである。昔の碁は、「棋譜」という形で残っているのだ。
「さて、今日はどの棋譜にしようか」

 いつものように彼は、本棚にある江戸時代の碁打ちたちの打ち碁集を眺めた。元気な日は少し時間をかけて、初めての打ち碁を並べるのであるが、今日はあまり力がわいてこない。それで、こういう時によく並べる、「お気に入り」の一局を並べることにした。
 その一局は江戸時代の碁打ち、本因坊道知(ホンインボウドウチ)と屋良里之子(ヤラサトゥヌシ)の三子局であった。

 「一目置く」という、相手に敬意を表す表現は囲碁からきたものであるが、三子局というのは最初に「三目置く」わけであるから、これはもうかなりの実力差のあるハンディ戦である。    
 プロの最高峰である道知に、当時の琉球最高の打ち手(現代で言えば、強いアマ県代表クラス)で、数え年十五歳の屋良少年が、石を三つ置いて挑んだのである。もっとも力自慢の少年にとってはいささか不満な置き石の数であったろうが。

 田坂はこの碁が好きであった。「なぜ?」と聞かれると困るのだが、「美しいから」としか答えようがない。石を碁盤に並べて、そこに「美しさ」を感じるのは、アマチュアでもある程度の力量がないと無理だが、田坂はかろうじてその末席をけがしていた。

  本因坊道知 (三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇) 十二月一日
                            於薩摩藩上屋敷

193手完 白中押勝ち

二、「フジカワさん」 

 田坂の囲碁の実力は、「東洋棋院五段」、「秀明塾六段」である。「秀明塾」というのは、囲碁界において、「棋星」位七連覇など、華麗かつ重厚な棋風で、圧倒的な存在感を誇り、その天衣無縫・波乱万丈・酒池肉林(失礼!)の生涯でも知られる藤川秀明(フジカワヒデアキ)名誉棋星のいわば「私塾」であった。
 この秀明名誉棋星、通称「シュウメイ先生」が、囲碁の総本山である「東洋棋院」を一時離脱し、私塾名で免状を発行していたことがあったのである。すでに東洋棋院五段の免状を持っていた田坂は、そのシュウメイ先生から、破格の(?)値段で六段の免状をもらっていた。

 今でも田坂にとって強烈な思い出がある。ある晩、突然家に、「フジカワさん」という人から電話がかかってきたのである。

「フジカワさん?知らないなあ」
 電話を代わると、
「田坂さんですか」
と親しげな声
「どちら様ですか」
「フジカワです」
「どこのフジカワさんですか」
「シュウメイです。藤川シュウメイです」

 その瞬間、田坂は囲碁の藤川秀明名誉棋星と思い当たった。頭が真っ白になった。
  実は電話がかってくる一週間ほど前、田坂は自分の打ち碁の棋譜をつけて、アマ六段の免状を「秀明塾」に申請したばかりであった。
 しかし、まさかこんなに早くしかも「御本尊」その人から直接電話があるとは。うろたえていると、

「棋譜を見せてもらいましたよ。だけど六段はとてもありませんなあ」
とバッサリ
 ああやっぱり、である。お礼を言って、そそくさと電話と切ろうとすると、
「六段はないんだけれども、アマの方には夢も必要だから。六段をあげますよ」
とのご託宣。そして、
「そのかわり、勉強しなさいよ」

 かくて、シュウメイ先生の立派な署名入りの免状は今も田坂の部屋で燦然と輝く。隣にはやはりシュウメイ先生署名の東洋棋院五段の免状がお伴する。
 「天下のシュウメイ」が、どこの馬の骨ともわからないヘボ碁打ちの棋譜を並べてくれた上に、直々に電話までくれたのである。田坂にとっては天にも昇る思いであった。もっとも、その後、
「強くなるために、私のDVDを買いなさい」
と、シュウメイ先生が若手プロを指導するDVDを半ば「強制的」に買わされたことや、シュウメイ先生の向こうで、奥さんらしき人の、
「あなた、いい加減になさい」
という先生をたしなめる声が聞こえるなど、なかなかの?オチまでつくのであるが。
 しかし、ともかく、こうして彼はめでたく「秀明塾六段」となった。ただし、巷の碁会所や囲碁大会では東洋棋院五段で打っていた。「六段」を名乗っているのは家の中だけであった。
 シュウメイ先生に、「君はお情け六段だ」と言われているような気がして、六段を名乗るのは気がひけたからである。まあアマの囲碁大会に出場するには、段位や免状の有無などはほとんど関係ないので、段位などに拘泥するのはおかしいのだが。ただ、碁を知らない人から、
「何段ですか?」
と聞かれ、
「一応五段です」
なんて答えると、
「スゴ~イ」
などと尊敬?されるので、特に日頃あまり威張る機会のない「ひなびた」碁打ちにとって、段位の存在は大きいのである。
 もっとも、近年のアマの段位は「超インフレ」で、標準的なアマ五段はこれも標準的なプロ五段に、五子おいても勝てないくらいのレベルなのだから、そもそもプロから見れば、アマの段位などまったく意味をなさないものである。しかし、碁の素人にはアマもプロもわからない。とにかく「五段」ともなれば
「スゴ~イ」
のである。
     
三、「シュウメイ先生」と「シノギの早田」

 田坂が碁を覚えたのは社会人になってからである。ちょうど職場に碁の強い人がおり、その人に夜、酒を酌み交わしながら教わったのである。田坂は何でこんな面白いものを学生の頃からやらなかったのだろうかと後悔しながらも、一年程で初段になり、よしこのままいけば「師匠」にもすぐ追いつけるぞと、ますます研鑽にはげんだ。
 しかし、残念ながらその思いは実現しなかった。田坂の棋力が少し上がると、師匠の棋力も上がっており、なかなか追いつけないのである。
また、師匠の碁はシュウメイ先生ばりの、とても筋のいい本格派の碁であるのに、「弟子」である田坂の碁は、「薄いのに好戦的」という典型的な「自転車操業」の碁であり、田坂は師匠と打つたびに、なんで自分はこんな「ド~ン」と落ち着いた碁が打てないのだろうかという自己嫌悪感にいつも苛まれていた。
 ただ、師匠とはその後住む場所が遠く離れた関係で、もう十年以上対局はご無沙汰である。少しは追いつけただろうか。

 田坂は「フーッ」と一呼吸置き、いつもの通り、盤上に石を置こうとした。その時、ふと部屋に飾ってある「秀明塾六段」の免状が目に入った。「塾頭 藤川秀明」の豪快な筆が踊っていた。

 そういえば、田坂はこの免状の署名主の尊顔を生では一度も拝んだことがなかった。DVDではあれほどお目にかかっているにもかかわらずである。
 ただ、田坂はその代わりに(?)、この署名主と「最も仲が悪かった棋士」には出会ったことがあるのである。場所は近くの大きな温泉施設であった。
 相手をスパッと切る、「名刀の切れ味」と巧みな「シノギ」で有名なその棋士は、かつて大タイトルを幾つもとり、シュウメイ先生ともタイトル戦で幾度も戦った。その棋士こそ、年間三十勝二敗というとてつもない大記録を打ち立て、名句をもじって、
「降る雪や早田は遠くなりにけり」
と半ば呆れ気味に「揶揄」(?)された、早田富士男栄誉本因坊その人である。

 その早田夫妻をメインにした囲碁セミナーが開かれたのである。
 セミナーに師匠と参加した田坂は、この大棋士が醸し出すオーラに圧倒された。銀座を舞台に、文士たちとの華麗なる交流でも知られるこの棋士は歌もうまく、セミナーの最後に一曲披露してくれたのだが、カラオケの伴奏を一切無視して我が道を行くのである。田坂は村田英雄の『王将』を、「オレの歌についてこい」とばかりに、伴奏をまるで「子分のように」従えて歌う人物を初めて見た。

 シュウメイ先生は、かつて金で困っていた時に、東洋棋院のエレベーター前で早田に二万円ほど借り、
「オレもあいつに金を借りるようじゃおしまいだ」
と宣ったそうだが、田坂の誠に凡庸な感覚をもってしても、「この二人は絶対合うはずがない」と思ったことだった。しかし、実は田坂は早田の鋭い碁のファンでもあった。

 一図はシュウメイ先生と早田栄誉本因坊の一局である。
 今、右下の白が攻められ、白が苦しい状況であるが、ここで、白74とツケたのが、起死回生の妙手であった。こんな手、勿論田坂には思いもつかないが、おそらくこの局面で、こんな手を思いつくのはプロでも早田しかいないであろう。それほど凄い手であった。
 この手に対して、二図黒75のようにさえぎれば、76に切り、黒77にノビると白78とオサえ、黒79には白80のノゾキ一発で楽にシノいでしまう。もし、77ノビで三図77とかかえれば白78でこの白石の一団は外へ脱出してしまう。また、四図のように、白74に対して、右からオサえれば、白76アテ込みがいい手でこれも白が楽にシノいでいる。
 従って五図の実戦のように黒は75へノビるしかなく、黒83まで、結局右下スミを白が取り、下辺を黒が取る分かれとなった。これは、全体が危なかった白としては万々歳の結果である。

 このように、早田の碁は自分の石が危機に陥った時、常人には思いもつかない、「アッ」と言わせる鋭い手でシノいでしまう場合が多い。それが「名刀早田」、「シノギの早田」と言われる所以である。シュウメイ先生も、この早田の碁の切れ味の鋭さとシノギの鮮やかさには何度泣かされたことだろう。

     一図  藤川秀明(黒) 早田富士男(白) 74手まで

     

      二図  藤川秀明(黒) 早田富士男(白) 参考譜
      

      三図  藤川秀明(黒) 早田富士男(白) 参考譜      

      四図  藤川秀明(黒) 早田富士男(白) 参考譜 
 

 
      五図  藤川秀明(黒) 早田富士男(白) 83手まで
 

白1目勝ち

四、「妻は好敵手」

 さて、田坂にDVD購入と引きかえに(?)六段をくれたシュウメイ先生は、私生活がハチャメチャなことでも有名だった。

 酒と競輪・競馬に溺れ、酒は毎日ウィスキーボトル一~二本はざら、酔っ払うと放送禁止用語を連発する。テレビの囲碁解説で、相手の女性を、「それにしてもお嬢さんはベッピンだねえ~」とくどき始めたことも。
 競輪や競馬に収入のほとんどすべてをつぎこみ、お金がなくなるとあやしげな人から金を借りてまで続ける。碁会所経営や不動産業にも手を出し、すべて失敗、さらに大きな借金を重ねる。家にはまったくお金を入れないし、奥さんの他に別の奥さん(?)が二人おり、別宅を渡り歩いて家へは帰ってこない。外に子供が何人もできる。  
 やがて火だるま式にふくれあがった借金の方に家までとられてしまう。高利で借りた借金の取り立てに、その筋の人が毎日のようにやってくるが、本人はいないので、奥さんが立ち向かわざるを得ない。本人はたまに家に帰ってくるとグデングデンな上に、三人の男の子にからむので、子供たちは父親を徹底的にきらう。
 三男が、「ぶっ殺してやる」と父親に向かっていくのを、長男が羽交い絞めして必死でとめたこともあるし、次男が大学受験に失敗した時、「そんな野郎は飯食う価値もないから出ていけ」と言ったので、次男は本当に出ていってしまったという。 
 警察のやっかいになったことも数知れず、事情を知らない警察官が、グデングデンになってわめき散らしているシュウメイ先生を警察署につれてくると、「お前、この酔っ払いを誰だか知らないのか。署になんかつれてくるな」と署長から叱られたという。

 こんなとんでもない男の一端が、当時近くに住んでいたらしい作家、開高健のエッセイ集で暖かく(?)紹介されている。

 夜ふけに起きて窓ぎわにすわっていると、十年前なら麦畑やキャベツ畑を威勢のいい男の歌声がわたってきたものである。そうでなければキキキーッと自動車のとまる軋りが消えたとたんに旺盛な歌声がころがりだしたものである。その声は一つではなく、幾人ものそれである。『昭和維新の歌』や『露営の歌』が多かった。
                《中略》
 年を追うにつれてキャベツ畑はつぶされて団地になり、喚声は一つずつ消えていつとはなく聞こえなくなり、若者は酒を飲まなくなり、時代はいよいよ萎びていき、小さくなっていく。いまだに健在な疾風怒濤のロマン派はただ一人で、その一つの声だけは放吟、叫喚、嘲罵を続けて法燈を守っている。あちらへよろよろ、こちらへフラフラしながら家に近づき、門口までくると、やにわに大声で
「やい、御〇〇、戸をあけろ!」
と一声、吠える。
 ときには、ただ
「御〇〇、御〇〇!」
と連呼なさる。
 こないだなどは
「やい、クロ〇〇、でてこい!」
とやっておられた。
 この雄々しいロマンの残党も、戸のあく音が聞えた瞬後にフッと声が消えてしまう。あれだけの怒濤を一瞬でとり鎮めてしまうのはよほどの怪物でなければならないだろう。まるで穴に水が吸い込まれるように声が消えてしまうのである。いつか私はその黒い怪物に出会ってみたいと思うのだけれど、その仲のいい御夫婦の家が隣近所のどれなのかわからないから迷っている。そしてひそかに、今年も、この、いまやたった一つとなった〈バンダの桜か襟の色〉の声が健在であることを、心にねがってやまないのである。
 頑張って下さいヨ。
 御主人。
                 開高健『開口閉口』(新潮文庫)より
          ※一部、引用者の余計な(?)判断で伏字にしました。

 しかし、奥さんの藤川サキさんはこんな「最低の」男と別れなかった。借金取りを撃退しながら、お金を入れないシュウメイ先生に代わって、茶道を教えたりしながら子供たちとの生活を維持した。
 たまに亭主が帰ってくれば何事もなかったかのように迎え、いなくなったらまた焼け野原になった家庭を修復し、何事もなかったかのように生活を続けた。後には京都まで通い、茶道の師範の資格まで取ったという。家が借金の方に取られるまではシュウメイ先生の実の母親の面倒までみた。
 また、シュウメイ先生は親分肌であったため、若手によく碁を教えただけでなく、彼らを時に家へ連れてきた。そんな時にはよく手料理をふるまった。特にお手製の「マッシュポテト」は絶品だったそうで、当時の若手棋士(今は老年?)たちは今でもサキさんのことを、「おかあちゃん」「おかあちゃん」と言ってしたう。

 そんなサキさんだが、一度だけ、あまりにつらくて北陸の実家へ帰ったことがあったという。
 その時、母親から、「おまえ、何のつもりで帰って来たんだい。あれほど行ってはだめだというところへ自分で行ったんだから、その責任は自分で取りなさい」と言われたそうである。それに対する意地もあったのだろうと思うが、それ以後十年ほどサキさんは実家に帰らなかったそうである。しかし、それにしても実の娘なのにそう言って追い返した親もすごい。いかにも昔の親という気がする。
 シュウメイ先生に鍛えられた若手たちは、その後次々とシュウメイ先生の前にたちはだかることになる。口さがない棋士たちは、「将来、自分の敵になる相手を鍛えるなんて、シュウメイはなんてバカなんだ」と陰口をたたいたが、シュウメイ先生はそんなけちくさい根性の持ち主ではなかった。シュウメイは碁という「芸」の海原を、真理を求めてつき進んでいたのである。

 さて、シュウメイ先生の借金はどうなったか。そこがシュウメイ先生のまたすごいところである。読切新聞が昭和五十二年に創設した賞金最高額の棋戦、「棋星戦」で六連覇し、何億という借金をほとんど返してしまったのである。
 当時は完全なアル中であったため、棋星戦の始まる数ヶ月前から壮絶な「酒絶ち」をし、天井からお化けが落ちてくるようなすさまじい状況の中で、斉藤良夫・呉海嶺・木谷英樹といった、かつての自分の教え子で、当時は日本碁界を代表する打ち手になっていた相手を次々と退けたのである。それほど碁にかけるエネルギーは凄まじいものがあった。それでも、「自分は碁のことを一〇〇のうち六くらいしかわかっちゃいない」と、謙虚な姿勢だけは崩さなかった。
 棋星七連覇をかけた戦いで、宋大勲に三連勝後の四連敗と大逆転負けを喫した後、病院の検査で胃ガンがみつかった。そしてその後も悪性リンパ腫、前立腺ガンと二度のガンにみまわれた。しかし、このガンとの闘いに三度とも勝ち、最後はガンはきれいに消えていたという。その話を聞いたある医師は、
「シュウメイ先生はガンも食えない奴なんだなあ」
とあきれたという。
 シュウメイ先生のすごいところは、ガンに苦しめられながら、自分の孫ほどの若手の育成につとめたことである。DVDでのシュウメイ先生の鬼気迫る姿を見ると、シュウメイ先生が若手の育成にいかに情熱を注いでいたかということがよくわかる。
 しかも、シュウメイ先生は、日本の若手のみならず、中国や韓国の若手もわけ隔てなく鍛えた。そして、日本が圧倒的な強さをほこった頃から、「中国の足音が聞こえる」と言って、躍進する中国や韓国の碁に警鐘をならし続け、実際、世界の囲碁界はシュウメイ先生の危惧する通りになった。

 そんな二人の老境に入った姿が、二〇〇六年のTNKテレビの「にんげんドキュメント 妻は好敵手」の中で放送され、大きな反響を呼んだ。またシュウメイ先生死去後には、同じTNKのFTV特集「碁打ち藤川秀明の迷走」が放映され、テレビを見た人の多くが、否応なしに「シュウメイ的生き方」について考えさせられることになった。
 テレビの中でインタビューされていた碁を打つある女性は、「どうですか、女性として藤川シュウメイみたいな男は」という問いに、
「いやです(笑)、そんな。女の人いっぱい作られて、生活費は入れてく れへんのやから、困るは~(笑)」
と言って笑いながら拒否(?)していたし、また、木谷英樹東洋棋院理事長は、「藤川秀明みたいな碁打ちはまた囲碁界に?」という問いに、
「いやあ、それはねえ、一代でいいですよ、ハタ迷惑だからね(笑)。いや、そりゃ、秀明先生はそりゃまあ、二度と出てこられちゃあ困るしさ(笑)。いやあそりゃ、あの、一代だからいいんでねえ、そりゃ困りますよ(笑)、そりゃそりゃ、まあ、笑ってないでさ、そりゃ困るよ。本当にいやあ、秀明先生はもう、非難するわけじゃないんだから、秀明先生は秀明先生、二度と出てこられちゃ困るし、対処できないもんね」
と何度も何度も苦笑されていた。

 奥さん以外では最も大きな「被害」を受けたと思われるサキさんの三人の男の子たちはどうか。長男の方がテレビで代表して語られたのだが、意外なことにシュウメイ先生の思い出を語る時、決して非難がましい口調ではないのである。自分たちにとっては、本当にとんでもない存在であり、いい思い出はまったくないが、囲碁界には必要な存在であったと思う、と。歳月はすべてを押し流してしまうものなのかもしれない。
 晩年にはお子さんたちの奥さんが、シュウメイ先生の秘書役をつとめたり、身の回りの世話をしていたという。瀬戸内海で行われたシュウメイ先生の散骨にも家族を含め、多くの関係者が参加した。

 最後に、最大の被害者、奥さんの藤川サキさんである。サキさんは、「どうして別れなかったんですか」と誰しもが思う問いに、「夫婦だと思っていなかったから」と答えておられたが、サキさんが著した『勝負師の妻―碁打ち藤川秀明との五十年』によってこの破天荒な棋士の生き様が人口に膾炙されるようになったことを考えると、もしかしたら「シュウメイVSサキ」の最後の戦い(?)はサキさんの「中押勝ち」かもしれない。

 確かにシュウメイ先生の「ハチャメチャ」な生き方は肯定されるべきものではない。しかし、「虎は死して皮を残す」というが、死してなおシュウメイ先生をとりまく、この「暖かな」空気は一体何だろうか。
 毎回毎回勝ち負けがはっきりと決まってしまう職業というのは辛いものである。また、ひと目で千手読むという数多の天才がうずまく世界で、勝ち抜いていくのは大変なことである。一日必死になって考えても、勝てばまだよいが、負けたらその一日は否定されてしまう。勝った時は高揚感があろうが、負けた時は絶望感や自己否定感しか残らない。
 そんな時の感情をコントロールするためには、ぎりぎりまで研ぎ澄まされた精神を開放し、次の対局へのエネルギーを充填する場と時間が必要だろう。
 純粋(?)で繊細(?)、そして小心(?)で正直者のシュウメイ先生にとって、それが酒であり競輪であったのではないか。そんな気がする。ただ、もともとシュウメイ先生には酒乱と物事にのめり込む気質があった上、鼻筋の通った「イケメン」であったため、女性にもてた。それが災い(?)したとも言える。

 やっていることは甚だ合理性を欠き、「最後の無頼派」とも呼ばれた。しかし、物静かなチップス先生同様、誰からも好かれ、愛され、尊敬され(?)、そして逝った。シュウメイ先生と犬猿の仲であった早田も、「シュウメイ先生お別れの会」に車椅子であらわれ、「シュウメイとの最後の別れだから」と、彼一流の節回しでシュウメイ先生との思い出をなつかしそうに語った。
 そんなシュウメイ先生と電話ではあるが、直接話ができた事は、田坂にとっては、映画ファンが高倉健と話すのと同等、あるいはそれ以上の思い出であった。Good-bye ,Mr. Shumei!!

五、由緒ありげな碁盤と道知の第一着

 Good-bye ,Mr. Shumei!!と呟きながら、田坂は愛用の碁盤におもむろに黒石を三個おいた。本因坊道知の第一着はアキ隅ではなく、星へのカカリであった。

 六図 本因坊道知 (三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇)第1手
   

 田坂が使っている碁盤は「天地柾目」の六寸の榧盤である。この碁盤は退職後、ある骨董店で偶然見つけたものだったが、古いものとはいえ木目が細かくとても立派なものだった。値段もそれほど高くはなかったのでその場で即決して購入したのである。購入した後、碁盤店で汚れを落としてもらったり、目盛直しをしてもらったりしたのだが、それによって盤は見違えるようになった。
 しかし田坂がこの碁盤を何よりも気に入ったのは、太くて芸術的なその足?にあった。碁盤の足にはその盤を作った碁盤師の実力が最もよくあらわれるというし、昨今の碁盤は、機械で足を彫った、いわゆる「機械彫」のものも多くなっている。しかし、「機械彫」の足はとてもきれいでスマートではあるが、何か単調で平面的であり、趣に欠ける。  
 これに対してこの盤の足は、いわば足そのものが自己主張しているような感じで、豪快な中にも繊細さがあり、一見して、高度な技を持った職人が自らの手で彫ったものであることがわかる。盤と足の接続方法も当然「大入れ式」である。

 そして、この碁盤には後日談がある。盤にはかなり「こげ茶色」に変色した年代ものの盤覆いがついてきたのだが、家へ帰ってその盤覆いを何気なくくるりとひっくり返してみると、そこには何やら文字が書かれていたのだった。
 「大正甲子仲夏 佐藤憲次郎 橋田正作」。署名である。大正甲子と言えば、甲子園球場のできた大正十三年、佐藤憲次郎・橋田正作と言えば、大正から昭和初期を代表する名棋士である。そして何よりもこの年の「仲夏」、七月には反目しあっていた各種の囲碁団体が合同し、東洋棋院が設立されていた。この盤覆いの署名はそのような「微妙な」時期のものだった。 
 骨董店の主人はこの盤覆いは碁盤が持ち込まれた時からついていたと言っていた。もし、盤覆いが、元からこの盤のものだとすると、この盤はとんでもない名盤かもしれない。まさか、森銑三の『物いう小箱』(講談社文芸文庫)に出てくる「吉原の唐糸の碁盤」ではあるまいな、などとあらぬ想像をめぐらせながら、田坂は少し興奮したのだった。

 田坂はこの盤を買った時の、そんな状況を反芻しながら、屋良少年の第一着を打ち下ろした。屋良少年の着手は空き隅の小目(コモク)、であった。続いて道知の第二着はかかった石への両ガカリ、黒のツケノビ、と碁はスラスラ進む。田坂はこの碁をもう何十回となく並べているので、着手はすべて暗記しているのである。

七図 本因坊道知 (三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇)8手まで
      

六、S・ツヴァイクの『チェスの話』

 『昨日の世界』や『マリー・アントワネット』などで有名なオーストリアの伝記作家、シュテファン・ツヴァイクに、『チェスの話』という佳品がある。この、『チェスの話』の片一方の主人公は、若くて教養がなく粗野ではあるが、天才的な才能を持ったチェスの名人。もう片一方の主人公は、ナチ支配下のオーストリアで、帝室や教会・修道院の財産をこっそり守っていたことがわかりそうになり、ゲシュタポにつかまって、何ヶ月にもわたりホテルの一室に監禁れ、“何もすることがなく、本さえも読めない”という精神的拷問を受けるに至った名門の家柄の弁護士である。
 
 この二人がニューヨークからブエノス・アイレスへの船上でチェスを戦うのである。 
 弁護士は、監禁中、看守の目を盗んで一冊のチェスの対局集を手に入れており、そこに出てくる百数十局の棋譜をすべて暗記している。まるで一冊の『升田幸三選集』をすべて暗記しているかのごとく。またそれだけではなく、手の意味もすべて頭の中で理解しており、後には自分の中に二人の人格を作り、頭の中のチェス盤で勝負さえしていたという。

        シュテファン・ツヴァイク『チェスの話』

        シュテファン・ツヴァイク『昨日の世界』

 勝敗の結果は、原作を読んでいただくとして、この例からもわかるように、チェスや将棋、そして囲碁などのゲームの棋譜というのは、集中すれば案外覚えられるものである。特に若い頃ほど覚えるのは速いし、忘れない。一流プロには江戸期のプロの棋譜をほとんど暗記している棋士がいるという。  

 田坂もほんのささやかではあるが、十局程度(情けない😂)は暗記していた。その中には、

・本因坊丈和対阿波の米蔵、米蔵二子での死闘(八図)
・安田秀策少年対太田雄蔵、黒秀策のブッツケの一局(九図)
・本因坊秀栄対田村保寿、白秀栄の流れるような名局(十図)
・小川泰対山本正太郎、その力では「ハエも殺せない」と言われた白の攻                         めの 名局(十一図)
・大竹実対木谷秀樹、二子の厚みの名局
・藤川秀明対斉藤良夫、大長考の末の大石撲殺の一局(十二図)
・TNK杯の小宮聡対永坂秀人、ツケ一閃の名局

などがあったが、彼がこれまでに最も多く並べ、最も遅滞なく並べられるのが、この道知・屋良戦であった。

八図 本因坊丈和 (二子)四宮米蔵 文政三年(一八二〇) 134手完  

黒中押勝ち

九図 安田秀策(先) 太田雄蔵 天保十三年(一八四二) 37手まで

黒5目勝ち

十図 本因坊秀栄 (先)田村保寿 明治三十一年(一八九八) 78手まで

持碁

      十一図 小川泰(白) 山本正太郎(黒) 68手まで

白3目半勝ち

      十二図 藤川秀明(黒) 斉藤良夫(白) 131手完      

黒中押勝ち

 道知・屋良戦は、結局道知の中押し勝ちに終わるのであるが、一介のアマチュアが見ても、ほれぼれするような名局である。屋良少年にいくつか疑問手があったとはいえ、無理なく置き石の効力を減じて行く道知の巧みな石運びはまさに「芸術」という名にふさわしかった。おそらく田坂がこの屋良と対局したら五子置いても勝てぬであろう。その屋良をまるで子供のように(事実十五歳の少年であるが)翻弄する。何度並べても田坂はその至芸に感動を覚えざるを得なかった。

七、ヘボアマチュアびっくりの一手                 

 道知・屋良戦は、十三図、黒の「ツケノビ」から白のスミへの「コスミ」、さらにもう一方のかかった白石への黒の「ツケ」と進行した。
 ここで黒12とハサんだ手が緩着であった。この手はハサむというよりむしろ右下隅からヒライた手であり、中途半端な手である。ハサむならQの11とより厳しくハサむのが自然である。黒がQの11とハサんだ場合、白はPの13へ出ざるを得ず、そこで黒Oの13「タタキ」、白Pの12「マガリ」となれば、白の形は「アキ三角」の愚形である。
 続いて15の「ボウシ」から19の「カド」に迫った手は、田坂がこの碁で最初に驚いた手である。解説書など読むと、白19は「サバキ」の手筋で、「プロなら当然」というような書き方をしてあるのだが、田坂のようなヘボアマチュアにはRの12の「カケツギ」くらいしか思い浮かばない。

十三図 本因坊道知(三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇)19手まで      

 十四図で黒30と白二子の抜きを許したのにもビックリである。二子を抜かせてその代償に白31で封鎖したように見えるが、結局黒32の「ツケコシ」で36に出られてしまったではないか―――。しかも黒40と大場にまわられ、これでは白は何を打ったかわからない―――。

 しかし、これこそアマチュアの暗愚な判断らしい。白二子はカス石で、二子を取っても黒は生きていない上に、黒36と頭を出す間にかえって白37まで白を固めている。実は白がうまく立ち回っているのである。
 ただ、少し打ち回されているとはいえ、黒に明らかな悪手はなく、それは屋良が並のアマチュアではないことを物語るものだった。多分三子が二子半くらいになった感じなのだろう。屋良少年、大したものである。白はまだまだ「仕事」をせねばなるまい。
 そして、その「仕事」の新たなる第一弾が白41である。この手など、田坂が何百万年かかかっても思い浮かばない手である。初めてこの手を見た時、誤植かと思ったくらいであった。攻撃対象を作っただけの手に見えたのである。

十四図 本因坊道知 (三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇)41手まで

      

 しかしよくよく考えてみれば、右上の黒の一団にまだ眼がないのだから、41をおとりにして39までの白石を中央に進出させれば、黒は封鎖され、隅で生きるしかなくなる。また、41は右辺の黒と右下の黒をさいている意味もある。実は、41はそこまで考えた、局面を紛れさせるための深慮遠謀の一手だったのである。
 田坂は溜息をついた。こんな人と打ったら九子置いても勝てないだろうなあ。そう思いつつ、この手を見るだけでも何だか嬉しかった。

八、孤高の名人道知    

 本因坊道知は孤高の名人である。三十七年の生涯に、同年代の好敵手に恵まれなかったため、真剣に打ったと思われる碁が少なく、「御城碁」も黒番の時は五目勝ち、白番の時は二目か三目負けと判で押したように決まっていた。
 道知がどこをどう操作して、このような結果に持っていったのか、最初、田坂にはさっぱりわからなかったが、道知の碁を並べているうちに、ある時はたと思い当たった。
 それは、一本立ちした後の御城碁における道知は、何らかの技をかける余地があるところでも、坦々と寄せていっているケースが多いのではないかということだ。つぶさないように細かい碁にもって行き、最後に勝ち負けと目数を調整しようとしているかのごとく。それは何かアマチュア相手のプロの指導碁を見ているようでもあり、四世安井仙角とのいわゆる「宝永の争碁」(→後述)や四世井上因碩(桑原道節)との番碁(→後述)そして屋良里之子との三子局(本作品で詳述)などとは明らかに異質のものである。

 師の本因坊道策亡きあと、道知を薫陶してくれた因碩(難解な詰碁集『発陽論』の著者としても知られる)が亡くなった後、なかなか道知の「名人碁所」就任を推挙しない井上・安井・林の囲碁三家に対して、業を煮やした道知が、「今年の御城碁は誰と当たっても本気で打ちますが、それでも宜しいか」と凄んだため、三家があわてて道知に詫びを入れ、三家のメンツもたてた上で、翌春の名人碁所就任を認めたという逸話は、道知の芸がいかに隔絶したものであったかを物語っている。 

 田坂はいつも考える。道知の骨太の碁はとても魅力的である。屋良里之子との三子局などは置き碁ながらほれぼれするような名局である。無理のない石運びで、いつの間にやら碁にしてしまい、最後は御用!まるでシンフォニーの名曲を聞いているかのようである。 
 元禄の世に生まれた道知がもし百年後に生まれ、本因坊丈和や秀和そして秀策や秀甫と戦ったら、いったいどんな碁を見せてくれただろうか。秀和や秀策は道知の力をうまくいなそうとするだろうし、丈和や秀甫とは全面戦争になるだろう。田坂は想像するだけでわくわくするのであった。

九、囲碁界の「アインシュタイン」本因坊道策

 徳川家康の手によって囲碁の家元制度が確立されて以来、囲碁の世界は、本因坊家、井上家、安井家、林家、の四家がしのぎを削ってきた。そのうちでも、京都寂光寺の本因坊という坊の僧、日海を祖とする本因坊家が最上位に位置していた。
 日海こと初代本因坊算砂は、織田信長や豊臣秀吉にも取り入ったその類まれな政治力で、徳川家康にも接近、囲碁のすべてを統括する名人碁所として、徳川時代の始まりと共に囲碁のステイタスを確立したのであった。
 算砂の三代後、本因坊家には、囲碁の世界に革命をもたらした道策という天才があらわれる。本因坊道策は、それまでの碁打ちと比べると、はるかに広い視野から碁盤を捉えており、その碁盤全体を使ったスケールの大きな碁で、ライバルたちを圧倒していった。
 
 田坂は、道策の碁を並べる時、いつも、

北冥に魚あり。其の名を鯤と為す。鯤の大いさ其の幾千里なるかを知らず。化して鳥と為るや、其の名を鵬と為す。鵬の背、其の幾千里なるかを知らず。怒して飛べば、其の翼は垂天の雲の若し。この鳥や、海の運くとき則ち将に南冥に徒らんとす。南冥とは天池なり。

という『荘子 内篇』冒頭の言葉を想起するのである。

 十五図は道策対二世安井算哲の一局である。普通、「ポン抜き三十目」と言い、特に序盤での中央付近のポン抜きは効果絶大なので、ポン抜かせてはいけないものとされる。しかし、道策は平気で黒37とポン抜かせている。白44押しも部分的には悪手である。ただ、よく見てみれば、白36切りから白38まで、右辺の白地が大きい上に、白52があり、ポン抜いた石がかえって白の攻撃対象になっている。また、白60までとなると、下辺の黒49までの黒三子もどことなく心もとない。左下の白44までの棒石と石の強弱という点ではいい勝負である。右下の黒ももう一手必要である。

十五図 安井算哲(黒)本因坊道策(白)天和二年(一六八二) 60手まで
     

白15目勝ち

 結局この碁は、37までのポン抜いた石と49までの石が、ただつながっただけの石になり、地は数目しかつかなかった。その間、白は右辺に三十数目の地をまとめ、左上隅を地にするなど、着々と地を増やした。白十五目勝ちという大差になったのもやむえないことだろう。要するに「芸が違う」のである。

 もう一局、十六図は道策と安井知哲との碁である。白22のツケが何とも道策らしい一手である。白2の一子を捨てて右上の黒を「凝り形」にし、自身は白28に悠々と進出、黒17を見事に孤立化させている。

十六図 安井知哲(黒)本因坊道策(白) 寛文十年(一六七〇)28手まで

白5目勝ち

 このように道策の碁は、局部的には、「こんな手打ったらダメだろう」とされる手が、大局的には「良い手」となっている場合が多い。このあたりが、道策の「碁聖」たる所以で、同時代の一流棋士より頭一つ高い所から碁盤を見つめているのである。経済学で言えばマルクスやケインズに、物理学で言えばアインシュタイン(A・Einstein)に比定されようか(アダム=スミスやニュートンにあたるのが本因坊算砂)。
 ちなみに「Ein Stein」というのはドイツ語で、英語では「one stone」、日本語では「一石」という意味である)。

 尚、二世安井算哲は、後に幕府の天文方となった江戸期を代表する天文学者渋川春海その人である。春海は、元代の中国で作られた「授時暦」を日本の経度に合わせた、「貞享暦」を作ったことでも知られる。
 
 算哲は、寛文十年(一六七〇)の道策との御城碁で、初手「天元」という、いかにも天文学者らしい一着を放っている。十七図がそれである。碁盤を宇宙に見立て、「森羅万象の中心」という意味で打ったのだろうが、道策相手では分が悪い。白56マガリで天元の黒石がぼかされ、すでに碁は非勢である。

十七図 安井算哲(黒)本因坊道策(白)寛文十年(一六七〇)56手まで  

白9目勝ち

 囲碁の歴史書『坐隠談叢(ザインダンソウ)』は、

是に於て春海は益々碁道の玄妙測る可ざるを嘆じ、再び天元を打たざりしと云ふ  

と述べている。碁と酒と宇宙が大好きな田坂は、算哲にもっともっと天元を打ってもらいたかった。
 算哲は道策と御城碁を含めて二十四戦するが、結局一局も勝てなかった(残っている棋譜に関する限りではあるが)。道策先で始まった碁が、最終的に算哲が先に打ち込まれている。
 算哲が碁の世界を離れ、幼い頃から親しんだ天文の道へと軌道修正したのは、「こんな天才と同じ土俵で戦っていても永遠に勝てない」と思ったためかもしれない。
 ただし、算哲の名誉のために言うと、算哲は決して弱い碁打ちではなかった。道策門下の俊英を除き、他の打ち手がすべて道策に二子以下に打ち込まれる中、算哲だけは何とか先に踏みとどまっているのだから。道策も算哲に「上手(ジョウズ)」=七段の力量を認めていた。

十、本因坊道知と四世井上因碩(桑原道節)

 碁打ちとしてのあらゆる名誉を手に入れた道策ではあるが、しかし、ただ一つ悩みがあった。
 それは後継者に恵まれなかったことである。いや正確には後継者には恵まれたのだが、その何れもが若死にしてしまったのである。たとえば、最初に本因坊跡目に遇せられた小川道的はわずか十三歳で六段の力があったといわれる「神童」である。
 この道的は、まだ二十歳前に、師道策と互先で二局対局し、お互いが先番で一目勝ちという、「一体どこまで強くなるんだ」と将来を嘱望された天才であるが、元禄三年(一六九〇)、惜しくも二十一歳で夭折している。
 この後も道策は、佐山策元を跡目に立てるが、策元も元禄十二年(一六九九)に二十五歳で病没した。道策の一歳年下の弟子で、晩成型の桑原道節はすでに道策の実弟の三世井上因碩(山崎道砂)が当主であった井上家を継ぎ、四世井上因碩を名乗っている。

 碁においては無敵の道策もさすがにこればかりは「コウ」でしのぐことも出来ず、途方にくれたが、その道策最大のピンチを救ったのが神谷道知の出現である。
 道策は、道的が没した年に江戸で生まれたこの道知の才能を一目で見抜き、幼き道知を自ら薫陶すると共に、元禄十五年(一七〇二)の臨終に際しては、道知を本因坊跡目に据え、四世井上因碩(「道節因碩」と呼ばれることも)にこの至宝の後見を託したのである。
 このあたりの事情を『坐隠談叢』はこう語る。

道知の始めて坊門に入るや、道策一見池中の物に非ざるを知り、深く鍾愛し常に左右を放たず教授せり。是れ道策の意道的、策元夭折し未だ跡目なきにより、道知を之に凝し、只管碁品と年齢の進むを待てるなり。然るに、人生の測るべからざる事、浮雲朝露の譬喩に漏れず、道策耳順に達せず遂に歿するに臨み、道知を以て本因坊五世と定め、高弟井上因碩(道節)を後見とせり。因碩遺命を奉じ、専心道知の薫育に従ひしに、道策の先見違はず、道知の碁品秀抜にして、進歩の早き因碩も驚く許りなり。

 宝永三年(一七〇六)の道知・因碩の十番碁(道知の定先 道知三勝六敗一持碁)、同四年の七番碁(道知の先相先 棋譜は現存していない)を通じて、道知の技量が本因坊家当主として恥ずかしくない高みにまで到達したと見て取った因碩は、宝永五年(一七〇八)、道知の後見を解き、それまで起居していた本因坊家から井上家に帰った。道知が五世本因坊として一本立ちした瞬間である。
 そして、この年、因碩は周囲に推されて「名人」の地位に就いた。名人は唯一の九段でもある。

 因碩は、かつて道策が道的を本因坊跡目にした際、それに異を唱えたことがあり、道策が道節に自分の弟である三世井上因碩の跡を継がせたのは、自分と一歳しか違わない道節をこのまま本因坊家に置いておいたのでは、将来争いの種になりかねないとの道策の思いがあったからであった。 
 しかし、道知を将来の名人碁所に考えている道策の、「お前は決して碁所を望んではならぬ」という言いつけを守り、他家にありながら道知の後見をよく務めたことで、因碩の世評は大いに高まった。彼の名人就任はある意味その論功行賞という意味合いもあるのかもしれない。

十一、「宝永の争碁」

 道知と因碩の十番碁と相前後して、道知と四世安井仙角との間で、巷間、「宝永の争碁」(「争碁」は”そうご”又は”あらそいご”と読む)と言われる勝負碁が打たれている。
 これは、道知の後見人の因碩が、宝永二年(一七〇五)十月二日、四世安井仙角に、その年の道知との御城碁は互先で打ってほしいと申し入れたことに端を発する。
 因碩の言い分によれば、その二年前、すなわち元禄十六年(一七〇三)の御城碁では十四歳四段の道知が三十一歳六段の仙角に定先で五目勝ちしているし、その後の道知の上達ぶりはめざましく、現在は八段準名人の自分に定先の手合いとなっているからというものであった。

 しかし、仙角はこの因碩の申し入れに難色を示した。確かに二年前の御城碁で自分は道知に負けているが、あれは年少の道知に油断しただけで、しかも対局はまだその一局だけなのであるから、今年の御城碁も定先で執り行うべきだと。
 その後も、京都に隠居していた道策の師で当時七十歳!の三世本因坊道悦が出馬(?)して仙角と面談、互先を申し入れたりするものの、結局仙角は聞き入れず、その後も、仙角側、因碩側がお互い寺社奉行に自己の正当性を主張する願書を出すなどして盤外の戦いは続いた。
 そして、おそらく辟易したであろう幕府側が出した最終的結論は、両者の中間をとって、本年の御城碁は道知を先相先で、つまり道知を一段差の五段格として対局させるというものであった。
 かくして、宝永二年(一七〇五)十一月二十日、道知と仙角の間で御城碁の下打ちが将棋方の大橋宗桂宅で始まったのである。

 この時の一局は囲碁史に残るヨセの名局として知られる。実はこの碁が打たれた時、道知の体調ははなはだすぐれず、そのためもあってか序盤から形勢不利に陥った。中盤以降勝負手をはなち、必死で挽回をはかるも局面は好転せず、立会人として盤側にいた因碩は見るに忍びず帰宅してしまった。そして同じく帰宅した門弟と共に何とか挽回の余地はないかとあれこれ検討したのだが光明は見いだせず、因碩は暗澹たる気持ちで一夜を過ごしたのだった。
 しかし、翌早朝その因碩の耳に飛び込んできたのは「勝った、勝った」という家僕の叫び声であった。道知は、因碩がもはやどうしようもないとサジを投げた碁をヨセの妙手で逆転し、一目勝ちをおさめたのである。帰ってきた道知を待ち構えていた因碩と隠居道悦が、「あの碁を勝つとは、よくやった、大したものだ」と道知と抱き合って喜ぶ光景がまるで目に浮かぶようである(あくまで想像です)。

 十八図はその道知と仙角の一局である。この段階では道知がかなり盛り返したとはいえ、このまま寄せたのでは微差で足りない。そこで、道知がひねり出したのが黒225の切りである。何とこの切りによって、黒233、白234、黒235のヨセが先手になってしまったのである。白236をはぶくとこの隅はセキになるから白236は絶対に必要である。もし、黒225を打たないで、先に隅から寄せると十九図白10でこの隅は手にならない。要するに、道知は切り一発で後手二目のヨセを先手二目のヨセに変換?したわけである。かくて黒237の切り取りにまわり、碁は逆転である。

 日頃へボ碁ばかり打っていて、十目くらいは平気で損をする田坂にとって、一目程度は損をしたうちに入らないのだが(それでいて、半目負けたことは何度もある!)、一目(現代は六目半という「コミ」があるので半目)を争うプロの勝負とは本当にスゴイものである。

  十八図 本因坊道知(黒)安井仙角(白)宝永二年(一七〇五)御城碁

黒1目勝ち

十九図 本因坊道知(黒)安井仙角(白)宝永二年(一七〇五)参考譜

十二、梶原師の慧眼と争碁の結末
 
 ところで、この道知の一目勝ちには田坂の個人的な(?)後日談がある。今から何十年前か忘れたが、田坂が梶原武雄九段の通信講座を受講していた時(田坂は囲碁講座を受講するのが趣味だった😊)、中山典之四段執筆のその講座のテキストにこの一局のヨセの詳細な分析が載っていたのである。それによれば、ナナナント、この一局、道知がさらに一目得する手段があったというのである。 
 二十図、今右辺で道知が黒243と挟みつけたところである。ここで梶原師は二十一図黒1と置く手があったとおっしゃるのである。そしてそれによって実戦より黒は一目強得であると。 

二十図 本因坊道知(黒)安井仙角(白)宝永二年(一七〇五)御城碁

黒243手まで

二十一図 本因坊道知(黒)安井仙角(白)宝永二(一七〇五)参考譜

 こころみに、田坂は梶原師のおっしゃる黒1以降のヨセを自分なりに調べてみた。そうしたらピッタリ(?)黒の二目勝ちになったのである(二十二図)。いやプロとは恐ろしいものである。

二十二図 本因坊道知(黒)安井仙角(白)宝永二年(一七〇五)参考譜

 ところでこの碁が終局した後、仙角は三度作り直したと言われる。負けたのがよほど信じられなかったのだろうが、それにしても見苦しい態度である。
 この碁が実際に御城碁として江戸城で打たれたのは下打ちから四日後の十一月二十四日のことであるが、その翌日には、本因坊道知から、隠居道悦の口上書を添えて、仙角との争碁の願書が寺社奉行に出されている。そして、因碩との十番碁を間にはさんで宝永三年四月十七日にその第一局が打たれたのであるが、道知先番で十五目の大差勝ちとなった(二十三図)。仙角はこの際、寺社奉行から「二番目の碁は十五目負けで間違いありません」との証文を取られた(『因云棋話』)というが、これは御城碁での態度がよほど顰蹙をかっていたためだろう。

   二十三図 本因坊道知(黒)安井仙角(白)宝永三年(一七〇五)

黒15目勝ち

 こうなると流れはもはや圧倒的に道知側にある。六月二日に行われた第二局は、初めての道知白番で道知の三目勝ち(二十四図)。すっかり気落ちした仙角は翌日争碁の取り消しを出願、道知との互先を承認した。因碩はあくまで争碁の継続を主張したのだが、道知に対する失礼をひたすらわびる仙角を寺社奉行は不憫に思い、因碩に「もう許してやれ」と争碁を取り下げさせたのだった。
  
 尚、『因云棋話』『坐隠談叢』ら囲碁の歴史書は、この争碁の中に前年の道知一目勝ちの御城碁まで含めているが、これは本因坊算悦と二世安井算知との間で、正保二年(一六四六)の
御城碁を第一局として六局打たれた争碁と同じ認識を幕府が示していたことによるものであろう。

   二十四図 本因坊道知(白)安井仙角(黒)宝永三年(一七〇五)

白3目勝ち

十三、親雲上濱比賀屋良里之子

 宝永七年(一七一〇)、中山王(琉球王)尚貞の四男、美里王子朝禎の一行が、第六代将軍徳川家宣への御代替わりの慶賀使として江戸へ上った。
その際、「頗る囲碁を能く」(『坐隠談叢』)する十五歳の少年屋良里之子を随行し、宗主家の島津家を通じて本因坊との対局を申し入れた。
これは天和二年(一六八二)、やはり第五代将軍家綱への慶賀使の随行員の一人としてやってきた親雲上濱比賀(ペイチンハマヒカ)の一件に倣ったものである。この時、親雲上濱比賀は道知の師である本因坊道策と四子で二局打ち、最初は十四目負け、二局目は二目勝ちであった。  
 二十五図がその一局目、101手まで示したものである。

二十五図 本因坊道策(四子)親雲上濱比賀 天和二年(一六八二)101手まで

白14目勝ち

 黒は下辺の白の散石を補足する間に右辺に大きな白地を作られ、形勢はすでにかなり接近している。下辺の白石は黒に「取られた」のではなく、白にうまく「捨てられた」のである。それでもまだ黒の方が良いが、この後の左辺の折衝で白が抜き去り、最後は十四目の大差となった。濱比賀の要望で翌日打たれた二局目は濱比賀の二目勝ちとなったが、これは前日の対局で濱比賀の力を見てとった道策が濱比賀に花を持たせたものだろう。何れにしても四子で琉球一の打ち手を翻弄する。道策の素晴らしい「芸」である。道策と道知が戦ったら一体どちらが勝つだろうか。きっと名勝負がくり広げられるに違いない。

 この対局後、免状を所望する濱比賀に、名人碁所の道策は「上手に対して二子」の免状を与えている。上手は七段であるから、それに対して二子というのは三段を意味する。プロとアマの区別のない時代に三段ということは、きわめて高い力量を認めたことになる。

 しかし、道策亡き後は、囲碁に関するすべてを統括する「碁所」は置かれず、島津家が道知と屋良の対局を申し入れた頃には、宝永五年に「名人」の地位についた六十五歳の井上因碩が囲碁界の頂点に屹立していた。
 島津家は因碩に道知との対局を依頼し、同時に寺社奉行に対局を願い出た。その結果実現したのが、薩摩藩邸での道知と屋良の三子局である。
 当時、「上手」=七段であった道知に三子といえば初段を意味するが、すでに名人因碩と同等、あるいはそれ以上の力量を持っていたとされる道知が九段格で対局に臨んだとすれば、屋良も濱比賀と同じ三段格で対局したことになる。もっともその理屈でいえば、濱比賀と四子で対局した道策は十一段ということになってしまうのであるが(実際、道策は傑出した力の持ち主という意味で、「実力十三段」と言われた)。

 尚、昔の碁打ちの様々な逸話を集めた、『爛柯堂棋話(ランカドウキワ)』という本には、因碩が屋良との対局に関して、
「自分と打つなら四子だが、本因坊となら三子だ」
と述べた旨の記述があるが、もしそれが本当なら、明らかに道策・道知を意識した言葉として、非常に興味深いものがある。

 道知と屋良の対局は、宝永七年(一七一〇)十二月一日、薩摩藩上屋敷で行われた。結果は道知の中押し勝ち。十二月九日に行われた十三歳の相原可碩との対戦も可碩の白番二目勝ちであった。
 島津家に仕えていた道策門下六段の斉藤道暦や五段西保因悦に、二子でいい勝負をしていた屋良少年、

本因坊に對するも三子を置けば必勝なるべしと期し居たりしに、事實は豫想に反し、中押ノ嘆敗をとりて一度其非凡に驚きたるに、重ねて十三童可碩に先番を敗られ、實に遺憾の極みなりと聲を発するに至れり。

と『坐隠談叢』。
 
 道知のあまりの強さに驚くと共に、年少の少年にも敗れたショックが伝わってくるようであるが、可碩との碁も終盤まで形勢不明であり、二十六図の黒211ツギで白212の所に打っていれば屋良の勝ちだったという。上辺に手があるものと錯覚し、小さいツギを打ったため、スミにノビられ、逆転されてしまったのである。  
 相手は十三歳の少年とはいえ、後に七段=上手まで上り、御家人の立場で低迷期の囲碁界を支えた因碩門下の俊英である。その可碩相手にこれだけの碁が打てるのだから、屋良少年、何も恥じることはない。

   二十六図  屋良里之子(黒)相原可碩(白)宝永七年(一七一〇)
                            242手以下略

 

白2目勝ち

 実は、一局目が終わった後、屋良は道知との再戦を希望したのだが、因碩が、「道知の病気」を理由にこれを断り、代わりに可碩と対戦させたという。田坂は、可碩との碁もいい碁ではあるが、もう一局道知との碁を見てみたかった。道知も、屋良が一度も勝てずに帰国するのは忍びないので、

先頃自分三ツ置かせ勝ち、幼年の可碩、先置かせ勝ち候えば、この所にて日本の碁、相済み候。かの者も、なにとぞ一番勝ち申したく存ずべきことなり。さ候わば、いま一会相催し、なにとぞあの方へも一番勝ち候よう致したし。(『爛柯堂棋話』)

と再戦を希望したのだが、残念ながら実現しなかった。何ともはや惜しい限りである。

十四、「碁所」と免状発行

 連敗にやや傷心気味の屋良少年ではあったが、碁会の後の宴席で、屋良の書状を添えて、家老の島津帯刀から、屋良への免状を所望する書状が井上因碩あてに出された。これも親雲上濱比賀の例に倣ったのである。しかし、その時一つの問題が生じた。それは、「碁所」不在という問題である。

 官賜の「碁所」は免状の発行等囲碁に関するあらゆる権限を有する職責で、「名人」のみがその地位につくことができる。しかし、因碩は「名人」ではあるが、「碁所」ではない。本因坊道知は実力は名人級であるが、地位的には「上手」=七段であるし、まだ二十歳で若年である。
 そもそも正式な免状は、名印の肩に、「官賜碁所」と書くのが通例になっており、「碁所」というお墨付きがないと免状が発行できないわけではないが、重みがまったく違う。
 そこで因碩は次のような考えを囲碁四家の一つ林家に伝えた。今、碁所になれる資格があるのは「名人」の自分だけである。師の言いつけには背くことになるが、ここはいったん自分が碁所につき、免状発行という大事が終われば速やかに碁所を道知に譲るつもりであると。

 本因坊道知は、林家から伝えられた因碩のそのような思いを快く受け入れ、林家との連署をもって寺社奉行に因碩の碁所就任を願い出た。そして、それから僅か五日後、因碩の碁所就任が認められ、因碩の名で「上手に対して二子」の免状が屋良に対して与えられたのであった。
 しかし、いったん碁所の地位についた因碩は、約束を違え、その後十年、享保四年(一七一九)に没するまで碁所を返上しなかった。これには温厚な道知もさすがに腹に据えかねたようであるが、恩人たるが故に表だった非難はしなかった。しかし、因碩没後、享保六年(一七二一)に道知が名人碁所についた時、「十ヵ年余り碁所遅れし」(『爛柯堂棋話』)と言ったと伝えられ、この言葉は道知の気持ちをよく表している。

 ただ因碩にしてみれば、師の道策からは他の道策門下の俊英ほどには評価されていなかったとはいえ、自分は、もはや碁所を努める力量は十分持っているという自負心はあった。かつて道策から、お前は碁所を望んだりせず、道知が大成するまで後見せよ、と言われた時、涙をのんでその遺言を受け入れたのであった。今や道知を大成させるという師との約束を果たしたからには、せっかく就いた碁所の地位を簡単に手放す必要はないのではないか、そう考えても不思議ではない。『坐隠談叢』も、

名人碁所なるものは、只に本因坊家の独占物に非ず。何人と雖も、秀拔なる伎倆によりて、之を獲得し得るものなり。道策の跡目を自由にするや好し。而も、因碩に此碁所を望む可らずと遺言するに至りては、因碩の技に對し、以上上達す可らずと云うに同じ。道策碁に聖なりと雖も、又一片俗骨を止めて、懸念執着、到底算砂の清淨なるに及ばず。況んや道策の死後、専心孤托の命に背かざらんを期し、道知の敎育と坊門の發揚に、汲々乎として盡せし功績は、坊門還た夢寐に忘るべからずの徳行にして、此兩家は實に恩怨相半ばするものと云ふべきなり。又況んや碁所は國體上、已むを得ざるに出でしものにして、只速やかに職を去らざりし一事、多少非難を免れずと雖も、人誰か顯職を欲せざるものぞ。人情恕すべき點なきに非ず。之を因碩一生の汚點なりとして、世々相傳へ、酬いんとするに至りては、又酷に過ぐるものなるべし。

と、因碩に対して同情的である。

 道策の因碩に対する言いようのない「冷たさ」は、因碩の道策と一歳違いという年齢と、ある種政治性を帯びた因碩の性格に起因すると考えるのはうがちすぎであろうか。因碩を井上家の跡目とせず、もしもの時の本因坊家の跡目に、という選択肢もあったはずである。因碩もそれだけの実力を持っていたのだから。また、いくら才能を認めていたとはいえ、因碩に対する態度とあまりに対照的な道知に対する「身びいき」から、道知の「道策実子説」が囁かれることになる。

十五、道知・因碩の七番碁ーーなぜ「七番」なのか

 それにしてもである。道知・因碩十番碁の翌年の宝永四年(一七〇七)に打たれたという七番碁はなぜ「七番」なのだろうか。どう考えても中途半端な数字である。
 道知定先の十番碁とは異なり、七番碁は先相先の手合割、すなわち道知側から見て、黒黒白黒黒白黒の順で打たれたはずである。そして、思うにこの番碁は、前年の十番碁とは全く様相を異にし、おそらくは道知の全勝に近い形で進行したのではないか。もしかしたら道知が白番を入れた可能性もある。
 あまりに急速な芸の上達ぶりに驚いた因碩は、本来は十番碁であったはずの対局を七番で打ち切り、翌年後見を解いた一一一、それが事の真相ではなかろうか。

 ちなみに、この「七番碁」には次のような後日談がある。道知の弟子の鈴木知昌(後に石井恕信と改名)がある時道知の部屋へ入ったところ、対局者名を墨で消した四目勝と書かれた棋譜をみつけた。そして日にかざしてみると、「四目勝」の傍には薄く墨で「深」と書かれ、もう一方には「要」と書かれていたという。ちなみに、道知の法名は「日深」、因碩のそれは「日要」である。これによって、道知先の四目勝とわかったという。碁は最初から両者の気合がほとばしり、布石も何もない力戦だったそうな(鈴木知昌『因云棋話』による)。
 この七番碁の棋譜が秘匿?されたのは、因碩がまだ名人碁所の野望を捨てていなかったためであろう。もし公にすれば、道知を名人碁所にという流れが一気に加速化してしまいかねないから。 

 田坂は、十番碁ではその巧みなテクニックで道知を翻弄した感のある因碩は明らかに名人級だと思っている(事実、後に名人碁所になった)。たとえば二十七図である。この碁は十番碁の第七局目であるが、道知先でテクニシャン因碩が若い道知の力をうまくいなしている。白132のツケ一閃で完。この譜を見ても、因碩の力量が並々ならぬものであることがわかる。

二十七図 井上因碩 (先)本因坊道知 宝永三年(一七〇六) 132手完

白中押勝ち

 その因碩に僅かの期間で追いつき、圧倒しそうになったとしたら、これはとんでもない十八歳である。 
 道知は、因碩との碁や「宝永の争碁」などを除いて、本気で打った碁は少ないとされる。それだけに、田坂は、道知が囲碁人生をかけて打ったと思われる、この七番「勝負」の棋譜を是非見てみたいと思うのである。

十六、里之子、奮戦するも 

 さて、道知・里之子戦は二十八図白41ツケから新たな段階に入った。 改めて白41の意味を述べれば、この手は局面をより複雑化させる手であり、右上の白は眼がないが、二子ポン抜いたとはいえ、右上スミからの黒の一団も二眼ないよ、と主張している。 
 41ツケで右辺の黒を中央へ出させ、その力を利用して右上の白も中央へ進出する。右上黒は封鎖されれば隅で生きをはからざるを得ない。41以下の白は右下の黒にもたれて生きをはかる。これが一見無理のように見える白41の意味であった。
 
 何ともはや恐るべき構想力である。ヘボアマチュアの田坂に41はO7の一間トビくらいしか思いつかない。しかし、それでは硬便に右下を地にされ、三子も置かせていれば勝てる道理がない。 
 ただ一点、田坂には疑問があった。中央の黒68ツギでL10にズバっと切ったらどうなるのだろうかと思ったのである。黒は閉じ込められるが、白も閉じ込められて怖いのではないかと。
 
 しかし、T10ハネが先手なのでこの白は生きている。生きている石を切っても仕方がない。それよりも黒40の大場に先着していることでもあるから、ここはがっちり黒68につぎ、白69フクラミで黒が封鎖されたら70についで生きておく。 
 このあたりの判断は誠にあっぱれという他はない。屋良もまた並のアマチュアではないのである。ネットも何もない時代に、琉球という江戸から遠く離れた地にあって、十五歳の少年がどうしてここまで強くなれたのだろう。

二十八図 本因坊道知 (三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇)87手まで

 
 結局、白は41以下の折衝で自らの一団をうまくサバき、黒は右下隅に地を得た。しかし、黒がS5にハネておかなかったため、後にこの隅に手が生じることになる。
 ともあれ、白77のボウシまで、またまた白がうまく立ち回り、さらに差が縮まった。このあたりではもう二子くらいになっているのだろう。強い強い屋良少年を相手にジリジリと差をつめてゆく。

 道策・濱比賀戦は、四子置かせていることもあって、明らかに道策が濱比賀を「騙して」いる。それは田坂の棋力でもわかる。しかし、この一戦は、道知が無理なく、自然自然に相手との距離をつめていっている。その様はまさに「盤上の聖(ヒジリ)」(将棋もプロ高段者レベルであった道知を讃えた言葉)と呼ぶにふさわしい。

 そして白87、またまたツケである。きっと道知の手はしなっていたことだろう。田坂はこういう手を見ると嬉しくなってくる。
 白87のツケは右辺から中央にかけての黒の大石をにらんだ手である。白83下ツケから左下の黒をすでに固めているので、固い石をなお固めても惜しくはない。ここを黒がズラズラはってくれば、白は自然に中央が厚くなり、黒の大石の危険度は増す。

 勿論屋良もそんなことはわかっているので二十九図黒88と引く。すると一転白は89カカリをきかして91の一間トビ。あくまで中央をねらっているのである。黒92フクラミと用心すると白は93の大場へ。ここらあたりは心憎いまでの石運びである。
 黒94からは左上にカカった白を攻撃しながら、実は左下の白のウスみを狙っている。中央の黒石は92フクラミと96アテがきたので大丈夫とふんでいる。白は中央の黒石を脅かしつつ左下をうまく整形し、機会をとらえて左上スミにかかった白石を逃げ出そうとしている。

 そして両者、秘術を尽くした攻防はここでも道知に軍配があがる。手順中黒102が悪く、107に切りが入っては屋良少年は見事に一本取られた。以下113まで絵に描いたような道知の締め付けが決まった。
 黒112で並のアマチュアならF4へ出るのだろうが、その場合白にH7へ打たれ、黒の大石はまったく目がなくなる。守るべきところは守る里之子、やはりただ者ではない。しかし黒118まで、またまた差が縮まった。それでもまだ形勢は黒がいい。

二十九図 本因坊道知 (三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇)119手まで

       

十七、囲碁を正規科目に  

 ここまで棋譜を並べた頃、田坂は自分の現役時代の、碁にまつわるある出来事を思い出していた。
 
 実は田坂は長年、職業高校を中心に歴史の教師をつとめていた。教育学部出身ではない田坂が教師になったのは、特に理由があったわけではない。
 田坂は、本当は大学院へ進学し、研究者になりたかったのである。それをなぜ断念したかというと、もう一つ将来に自信がもてないからであった。とりあえず教師に「デモ」なり、また何年かしたら考えよう。そう思っていたのだが、いつの間にやら定年を迎えてしまったのである。

 そして、教師としての三十七年の間、田坂はいつも、教師ほど自分に向かない仕事はないと思い続けてきた。 
 多くの人は教師など、試験にさえ受かれば誰でも務められるもので、適性など関係ないと思っている。しかし実はそうではない。この人こそ教師が天職=BERUFだという人が実際にはいるのである。そういう人間性豊かな、「立派な人」に出会うたび、田坂は己の教師としての資質のなさに情けない思いを抱いてきた。田坂こそ昔よく言われた、「デモシカ」教師の典型なのである。

 しかしそんな田坂も教師として何度も危機的状況に出会う度に、田坂なりの努力と「技術革新」によって危機を乗り越えてきた。下手だった授業も、黒羽清隆氏(元静岡大学教授)の「15年戦争下の青春群像」という講演の講演録に啓発され、一時間一時間をストーリー性を持って完結させるという工夫をすることによって、何とか碁の免状と同じくアマ五・六段程度にはなった。
 
 生徒が騒いで授業をまったく聞いてくれなかったり、授業中に男子生徒二人が突然殴り合いの喧嘩を始めた時などは、教師としての自分の力量のなさにあきれ、もうやめようかと何度も思ったが、尊敬する「年下の」教師の親身なアドバイスに助けられたりして、何とか乗り切ることができた。二十一世紀になって俄然増加した、あまりに理不尽な「教師タタキ」にも何度か遭遇したが、「打たせて取る」ピッチングで何とかしのいできた。

 そんな、どちらかと言えば「受け身」で教師生活を送って来た田坂だが、一度だけ積極的に「攻撃」をしかけたことがあった。ある夜間定時制の高校にいた時、教育の正課(クラブ活動ではない!)に「日本の伝統文化」という題名で囲碁と将棋を導入しようとしたのである。

 定時制の生徒たちは人間的には皆素朴で可愛らしいのだが、一時間椅子に座って授業を聞くことが苦手な子が多かった。また昔ほどではないが、昼間働いている子もいて、疲れからか、授業の始めから終わりまで机につっぷして寝ているという場合も少なからずあった。こういう生徒たちに英語や数学ばかりたくさん教えても何の身にもつかない、もっと彼らにとって「タメになる」ものはないだろうか、そう考えてのことであった。

 ちょうど定時制では「教務」を担当しており、また「定時制改革」で各定時制高校に目玉となる新規計画が求められていることもあって、田坂は勇んで計画をたて、学校を通じて地方自治体の教育会議へ提出したのであった。
 結果は無残な「撃沈」であった。教育会議からの文書には、いかにもお役人の文章らしい謹厳な文言が並んでいたが、要するに、「囲碁や将棋はギャンブルの一種でしょう。そんなものを学校教育の正課として認めるわけにはいきませんよ」というものであった。

 田坂は「そりゃあんまりだ」、と思ったので、次のような反論を教育会議に提出した。

 囲碁や将棋は、清少納言や紫式部も愛した「伝統文化としての側面」、論理的思考力を養う「頭脳のスポーツとしての側面」、二人で楽しく対局できる「ゲームとしての側面」、礼に始まって礼に終わる「礼儀や作法を教える道徳教育の場としての側面」、の四つを兼ね備えた奥深いアイテムで、決して「ギャンブル」ではありません。
 ここ数年、東洋棋院との連携のもと、東京大学や早稲田大学・慶應義塾大学などで、囲碁が講義科目として正式にとりあげられ、卒業単位にもなっていることもその一つの傍証になろうかと思います。
  高校でも、A県やB府の一部の高校で囲碁や将棋が正式な科目になっていますし、先月三十日付の某新聞の「この人」欄には、C県のある小学校の先生が、将棋の教育的効果をまとめた本を出版されたことが書かれていました。
 これほどまでにしっかりした理由はないのではないでしょうか。貴会議の、「教育上望ましいかどうか疑問である」「せいぜい部活動やクラブ活動の域を出ない」というお言葉には、当方といたしましてはかなりの違和感を覚えざるを得ません。
 もう一つ、私たちが勤務する学校は定時制高校であるということをご理解いただきたいと思います。現在の私たちの学校には、様々な事情をかかえた生徒が在籍しておりますが、それらの生徒に共通するのは、昼間の仕事の疲れなどもあり、座学ばかりで一時間(実際は四十五分ですが)持たすのはきわめて困難だということです。何度か「息つぎ」をいれないととても持たないのです。
 囲碁や将棋のように、「遊び心」が入った科目を設定したのは、このあたりの事情も考慮してのことです。ある程度ゲーム性もあり、楽しみながら歴史や文化そして礼儀や作法を学ばせることができ、論理的思考力も獲得させることができる、まさに一石四鳥の科目として設定したわけです。
 今、教育の世界には、「学力向上」「学力向上」の鐘の音が鳴り響きます。しかし、それが、学力が低い生徒も含めた、すべての生徒の学力を向上させるという、真の意味での「学力向上」ならわかるのですが、現実は「エリート教育」という意味での「学力向上」に偏してしまっています。
 しかしいくら「学力向上」をしたって皆が皆東大へ入れるわけではありませんし、そもそも「グローバル化」の時代には、日本の学歴なんて意味をなさなくなります。世界の大学ランキングを見ると、日本一の東大ですら三十何位かであるのですから。
 また、「学力向上」した生徒たちの多くは都会に住み着き、地方へは帰ってきません。人口減等で地方消滅がうわさされる中、これからの日本のことを考えたら、「学力向上」という一面的側面からだけではなく、もう少し広い視野から「教育」というものを捉えて行く必要があるのではないでしょうか。「教育」というのは「学力向上」だけが目的ではなく、「人間性の陶冶」というもう一つの重要な目的もあるのですし。
 教育とは「英語や数学等の学力だけだ」というタコツボのような偏狭な考えにとらわれていては、これからの日本に未来はないと思います。

 国をあげて、「学力向上」がまるで「お題目」のように唱えられ、それが「全国統一学力テスト」等における地方自治体同士の実に不毛な点数競争を引き起こしている、そういう教育のあり方への田坂の「教師生命をかけた?」「反論」もあって、結局、不完全ではあるが、囲碁・将棋は「日本の伝統文化という名で正式の科目として認められた。
 まあ、実際は、珍しく一生懸命やっているのだから、と学校側が教育会議に掛け合ったといううわさも流れたが。

十八、大団円

 そんな、徒労感ばかりが残った出来事を思い出しつつ、田坂は道知の白119を碁盤にパシッと打ちつけた。

 三十図白119の出によって、いよいよ道知・屋良の一戦も大団円をむかえる。この119は、黒94・100の二子を取りこんで、左辺を白地にしてしまおうという一着である。しかし、黒120と頭を押さえられると逆に白が取られていやしまいか。

 結論から言うと、やはりこの白は取られていたようである。黒126で三十一図のように黒C12とツイでおけば攻め合いは黒一手勝ちであった。しかし実戦は126が失着で、141に切りが入り、逆に黒が取られてしまった。
 黒140で白141のところに切ると三十二図のように白H15アテから黒ツギ、白J12で黒が取られてしまう。この失着で形勢は不明となった。さらに、黒146はG16かH16に打つしかなく、白155に抜かれてはかえって損をした。

 田坂は黒146をG16とした時のヨセをいろいろ調べたが持碁を間に挟んで白勝ちから黒勝ちまで様々なバリエーションがあった。もっとも、白勝ちでも黒勝ちでもその差は二~三目であったが。

 田坂の棋力レベルでは、どちらが勝ちとはっきり言えないのが悲しいところである。ただ、たとえば三十三図白159までのようになると、黒が勝つのは大変かもしれないが、実戦よりはるかに細かく、屋良少年としてはこれで勝負する他はなかっただろう。

 しかし、この時点に至ってはもはや少年に冷静な判断力は失われている。黒は玉砕へ向かってまっしぐらに突き進んで行く。三十四図黒156以下はいわゆる「最後のお願い」である。しかし、白159に置かれて、黒52の一子が先手で持っていかれ、白181に置かれて黒の眼は一眼しかなくなった。

 黒182でその横のJ2に打っておれば三十五図黒198までの「石の下」の筋で大石は無事だったようだが、それでは到底足りない。最後は黒の大石が死んだ。おそらく投了の瞬間、屋良の顔は青ざめていたことだろう。

三十図 本因坊道知 (三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇)155手まで      


三十一図 本因坊道知 (三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇) 参考譜
       


三十二図 本因坊道知 (三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇) 参考譜
       


三十三図 本因坊道知 (三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇)参考譜
       

三十四図 本因坊道知(三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇)193手完      

白中押勝ち

三十五図 本因坊道知 (三子)屋良里之子 宝永七年(一七一〇) 参考譜     

 それにしても道知の見事な芸であった。田坂は並べ終わった後、改めて盤面を眺めた。何て美しい「絵」なんだろう。道知一人ではこんな絵は描けない。相手の屋良少年があらん限りの力を振りしぼって道知に挑みかかったからこそこんな素晴らしい作品が生まれたのだ。田坂は屋良に「あっぱれ」という言葉を贈りたかった。
 いつの間にやらヒグラシの鳴き声はやんでいた。母親の田坂を呼ぶ声が聞こえた。

            道知対屋良里之子の棋譜

沖縄県史ビジュアル版8 近世②


十九、里之子の本当の年齢

 情報の伝達スピードが現代と比べると遥かに遅い、「江戸」という時代にあって、遠く離れた沖縄で、若くしてこんな素晴らしい碁が打てる実力を身につけた屋良里之子、田坂はその屋良のことがとても気になった。そこでこの「少年」のことを少し詳しく調べてみることにした。
 まず、「里之子」であるが、実はこれは琉球王国における士族の身分をあらわす「称号」であり、名前ではないのである。これに対して、「屋良」は名字であり、それは「采地」と呼ばれる、支配する領地の村の名前に由来するものであった。

 琉球王朝関係の歴史書によれば、琉球王国時代の身分は、大きくは王族・士族・平民から成り立っていた。そして、王族は王を頂点に、王子(オージ)と按司(アジ)で構成されていた。
 士族は士(サムレー)と呼ばれ、その最上級の地位をあらわす称号が「親方(ウェーカタ)」、そしてその下の地位をあらわす称号が「親雲上(ペークミー、ペーチン)」であった。親雲上の下にはさらに「里之子(サトゥヌシ)」と「筑登之(チクドゥン)」という身分があった。

 また朝鮮同様、琉球でも中国の王朝の位階制度である九品制を採用しており、士族には一品から九品までの位階があった。さらに、九品のそれぞれに正位と従位があった。つまり全部で十八の位階があったのである。
 そして、士族の一番上の親方は正一品から従二品まで、親雲上は正三品から従七品まで、里之子は正八品と従八品、筑登之は正九品と従九品という風にそれぞれの身分に対応する位階が決まっていた。

 士族の一番上の地位である親方は、采地として「一間切(マギリ)」(だいたい今の日本の一市町村に相当)が与えられ、「地頭」となったが、実際は土地の不足からそのなかの一村のみが与えられることが多かった(前者を「総地頭」、後者を「脇地頭」と呼ぶ)。親方は世襲ではなく、功績をあげた士がなったが、後には世襲も生まれた。親方は紫冠を戴いた。
 親雲上は「ペークミー」と「ペーチン」の二種類の呼び方があり、脇地頭として采地を一村持っている場合は「ペークミー」と呼ばれ、采地の「名」は持っているが、実際の采地を持っていない場合は「ペーチン」と呼ばれて区別された。
 実際の采地を持っているのは位階では正四品までであるので、正四品までの親雲上を「ペークミー」、従四品から下の親雲上を「ペーチン」と呼んだと言うこともできる。天和二年(一六八二)に本因坊道策に四子で挑んだ親雲上濱比賀は「ペーチン」であった。親方同様、親雲上も世襲ではなく、努力次第では親方になることもできた。親雲上は黄冠を戴いた。
 親雲上のさらに下の称号が里之子と筑登之である。

 一般に琉球の士族には、上位身分の「里之子筋目」と下位身分の「筑登之筋目」があり、里之子筋目に生まれた子が八品に叙せられると「里之子」を名乗り、筑登之筋目に生まれた子が九品に叙せられると「筑登之」を名乗った。里之子と筑登之は何れも赤冠を戴いた。
 また、里之子が七品に叙せられると親雲上となり、「里之子親雲上(サトゥヌシペーチン)」とも呼ばれた。そして、七品の里之子親雲上も、努力次第でさらに上の親雲上や親方になることができた。有力な親方はすべてこの「里之子筋目」であった。
 筑登之の場合もこれと同様で、筑登之が七品に叙せられると親雲上となり、「筑登之親雲上(チクドゥンペーチン)」とも呼ばれた。そして、「里之子筋目」ほどではないが、より上位の親雲上や親方への道が開かれていた。里之子や筑登之が親雲上になると、当然黄冠を戴いた。

 さてそこで「屋良里之子」である。
田坂は彼についてさらに詳しく調べてみるべく、ネットに「屋良里之子」と打ち込んでみた。そうすると、意外なところで「屋良里之子」がヒットした。
 それは中国語版エンサイクロペディアの「中華维基百科」である。ここに「屋良里之子」が道知との棋譜付きでかなり詳しく紹介されていたのである。勿論日本語版のエンサイクロペディアにはない。
「なぜ中国語版エンサイクロペディアなのかなあ?」
 田坂はそう思いながら、「屋良里之子」の項目を読んでみた。勿論すべて中国語で書かれているのであるが、基本は漢字であり、しかも碁の内容が多いので、何が書いてあるのかは半分くらいは理解できる。
 そして、この「中華维基百科」の内容が、『薛姓家譜屋嘉部家』という『家譜』(その家の代々の生没年や業績を記した記録)を資料としていることがわかったので、その家譜の写しを手に入れ、調べてみた。

 それによると、まず屋良は康煕十八年己未つまり一六七九年二月十五日に生まれ、雍正十二年つまり一七三四年八月十日に亡くなったことになっている。そしてその間、康熙四十五年すなわち一七〇六年七月十八日に従八品の里之子に叙され、屋良村地頭職についたことになっている。
 つまり、「屋良里之子」を名乗るようになったのは一七〇六年以降ということになる。ちなみに、「屋良村」はどうも現在の嘉手納町の米軍嘉手納基地の北の地域にあったらしい。

 さて、ここで問題になるのはその生年である。一六七九年生まれとすれば道知との対局時は三十歳を超えており、数え年十五歳の少年ではない。どちらが本当なのだろうか。
 屋良が十五歳と伝えているのは明治三十七年(一九〇四)発行の『坐隠談叢』で、その中に「屋良里之子は年僅かに十五歳にして、頗る碁を良くし、本國に在りて之に敵する者なし」という記述がある。今までこの記述から、屋良は十五歳の少年と思われてきた。
 しかし、『坐隠談叢』が種本としている鈴木知昌の『因伝棋話』や林元美の『爛柯堂棋話』には屋良が十五歳であるという記述はどこにもない。またこれらの書物に描かれている屋良の所作はとても大人びていて、数え年十五歳の少年とは思えないし、周囲の屋良に接する態度も子供に対するそれではない。とすればこの家譜の生年は正しい可能性が高まる。

 続いて「屋良里之子」の実際の名前であるが、これがまたややこしい。当時の琉球は、一六〇九年の島津氏の侵攻以来、表面的には清を宗主国としながら、実質的には薩摩の支配に属するという、いわゆる「両属」関係にあったため、士族の姓名も、唐名(中国名)と和名(琉球名)の両方があり、それに加えて幼名や身分をあらわす称号などもあったため、実に複雑なのである。そして屋良の場合、後に出家をしたため、法号まである。
 そこで、まず屋良の唐名であるが、『薛姓家譜屋嘉部家』には「薛以恭」という記載があった。「薛」が苗字で、「以恭」が名前である。そしてこの薛氏一族には本家の他に幾つもの分家があり、屋良はどこかの分家筋にあたるらしい。

 続いて和名であるが、これは「利忠」と記載されていた。この「利忠」の「利」がいわゆる「名乗頭(ナノリガシラ)」で、薛氏一族の男子の和名には本家、分家を問わず、必ず「利」の字が頭についたようだ。
 前述したように、沖縄の士族は采地が変わるたびに苗字(家名)が変わり、親子や兄弟でも苗字が異なる場合があった。また和名も変わることがあった。しかし、この「名乗頭」は変わらなかった。そのため、近世において家譜が作られる際には、中国名と共にこの「名乗頭」が重要な意味を持った。

 「屋良利忠」、従ってこれが道知との対局時点での屋良の「正式」(?)なフルネームである。ところが話はこれで終わらない。
 前記の資料によれば、屋良は康熙五十一年十月二十七日に「叙黄冠」とあるから、道知との対局後二年後の一七一二年(正徳二)に七品の「里之子親雲上」に叙せられ、さらに雍正三年(一七二五)には新川村地頭職に、雍正七年(一七二九)には屋嘉部村地頭職についている。その上、この間、康熙五十二年(一七一三)には剃髪し、「因祐」という号を名乗っている。また位階も最終的には従五品にまで上っている。
 従って屋良の最終的なフルネームは「屋嘉部利忠」ということになろうか。ただ、道知との対局時に「屋良里之子」と呼ばれていたことから考えれば、実際は「屋嘉部里之子親雲上」とか「屋嘉部親雲上」、あるいは「屋嘉部因祐」とか呼ばれていたであろうが。
 
 道知との対局時に十五歳とすれば、屋良が「里之子親雲上」になったのは十七歳、また「里之子」になったのは何と十一歳の時になる。そんなことは余程の家柄の生まれ以外にはまず考えられないので、やはり道知との対局時は三十歳を超えていた、というのが正しいのであろう。「中華维基百科」も、「対局時の十五歳という年齢は誤りの可能性がある」と記述している。

 島津家の江戸藩邸史料が残っていれば、この対局の状況や「屋良里之子」の人間像はもっと詳しくわかるのであろうが、残念ながら慶応三年(一八六七)十二月二十五日、庄内藩ら幕府側諸藩が薩摩藩上屋敷を焼き打ちした時に藩邸は全焼し、すべてが灰塵に帰した。誠に残念なことである。

              燃える薩摩藩邸

フランスの週刊誌「L'Illustration」のイラスト

 しかし、たとえ屋良が「少年」ではなく、「青年」であったとしても、この、道知と屋良が共同で作り上げた素晴らしい作品の値打ちはいささかも減ずるものではない。 
 それにしても『坐隠談叢』の「屋良十五歳説」は一体どこから来たものだろうか。

二十、本因坊秀策と幻庵因碩  

 道知と屋良との対局から四十年近く後の寛延元年(一七四八)、第九代将軍家重への慶賀使の随員として、三たび琉球の棋士が江戸へやってきた。田頭親雲上と与那覇里之子の二人である。そして先例に従って島津家を通じ、対局を願い出てきた。 
 ただし、この度は事情がだいぶ違っていた。前二回は本因坊道策、本因坊道知という絶対的王者がおり、しかも道知の時には力量は道知と同レベルの五世井上因碩が背後に控えていた。
  
 しかし、道知が享保十二年(一七二七)に死去した後の約三十年間、囲碁界は傑出した人材が出ず、不振をきわめた。特に碁界の牽引車たる本因坊家の状況が深刻で、十七歳で道知の後をついだ知伯は二十四歳で、その後をついだ秀伯も二十六歳で、何れも六段格で亡くなるなど、不幸があいついだ。 
 従って、寛延元年に琉球使節がやってきた当時、囲碁界のトップの層はきわめて薄く、第六世井上因碩、いわゆる春碩因碩の四十一歳七段が最高で、第八世本因坊伯元はまだ二十二歳五段であった。囲碁方・将棋方の序列筆頭の地位も将棋方に取られそうになるなど、十八世紀中葉は囲碁界にとってまさに「暗黒の時代」であったといえる。 

 屋良里之子と対局した時の道知は春碩因碩と同じ七段であったのだから、肩書では遜色はない。しかし、二十歳にしてその実力がすでに名人級であった道知と比べると、春碩因碩の実力は明らかに劣るというのが衆目の一致する所であったし、残された棋譜を見てもそれは一目瞭然である。また、本因坊伯元に至っては前年の延享四年(一七四七)の御城碁でその春碩因碩に先で十六目負している。
 
 囲碁四家の井上家を代表する打ち手と言えば、始祖とも言うべき中村道碩を別とすると、前述の五世道節因碩と十一世幻庵因碩が脳裏に浮かぶ。 
 名人碁所を務めた道節因碩の実力は言わずもがなだが、後に本因坊丈和と碁所をめぐって暗闘を繰り広げたことでも知られる幻庵因碩も、本因坊元丈・安井知得・本因坊秀和と並ぶ、「囲碁四哲」の一人に数えられる大変な実力者である。この二人の名人級の打ち手(事実道節は「名人」であるが)に対する歴史的評価は高い。同じ井上家の当主ながら、春碩因碩の比ではない。  

 ちなみに、その幻庵因碩に若くして追いついたのが、後の本因坊秀策こと安田秀策である。春碩・田頭親雲上戦から約百年後の弘化三年(一八四六)、当時十八歳四段であった秀策は、四十八歳で準名人八段であった幻庵因碩に先で全勝(一打ち掛け)しているのである。 
 その中の一局がかの有名な「耳赤の局」(三十六図参照)である。すでに第一線を退いていたとはいえ、かつて本因坊丈和と、名人碁所をめぐって暗闘を繰り広げた幻庵に、秀策は十八歳にしてすでに勝つ実力を身につけていたのである。
 
 田坂は、道節と幻庵、井上家を代表する個性溢れる二人のスターがもし相戦えば結果如何?という「色物的興味」(道節さん、幻庵さん、スマン)と、その両者を若くして「超えた」道知と秀策、この二人の天才に対する、「いったいどっちが強いんだ」という「妄想的問い」(?)をいつも抑えられなかった。

三十六図  幻庵因碩 (先)安田秀策 弘化三年(一八四六)黒127が「耳                              赤」の一手  

黒2目勝ち

 そんな囲碁史を代表するスターたちと比べられたら春碩もたまったものではないだろうが、とにかく彼は意気軒高であった。春碩にとって、この琉球棋士の来訪は家名を上げる、そして何よりも自分の実力を世間に認めさせるまたとないチャンスであったからである。
 寺社奉行の大岡忠相が心配して、「やめた方がいいのでは」と言ってくれたのだが、「大丈夫です。まかせて下さい」と、やる気満々で田頭親雲上との対局にのぞんだのである。「わしは、言われているほど弱くはないんだぞ」とばかりに。
 しかし、結果は無残な敗北であった。三十七図、中央が薄いのに白87とハネ出したのが打ち過ぎで、後は攻められる一方である。どちらが上手かわからないような碁で、勿論、道策や道知とは比較にもならない。同時に打たれた因碩の弟子の井上春達と与那覇里之子の四子局も与那覇の完勝であった。

 この後、当然のことながら田頭は春碩因碩に免状を要求してきた。しかも増長した田頭は「上手に対して定先」すなわち五段という無理な要求をしてきたのである。春碩因碩もさすがにこの要求だけは拒絶したが、碁に負けた負い目もあり、寺社奉行の稲葉丹後守に伺いをたてた上、「日本國大國手」の名で田頭に、「上手に対して先二」=四段の免状を与えたのであった。
 いかに当時の最高段位者とはいえ、碁には惨敗した上、名人碁所でもないのに、「大國手」の名で前例のない四段の免状を与えたわけであるから、日本の碁の威信が傷つくのは当然である。道策と道知の努力は一朝にして無に帰してしまったのである。
 しかも後に清に渡った与那覇に、清の一流の碁打ちは、「日本の道策にも劣らない」とまで公言されるに至っては何をか言わんやである。
 『欄柯堂棋話』はこう語る。

天和・宝永の両度ながら敗けを取りしが、このたび二人ながら勝ちしを「国の為に恥を雪ぎし」とも思いけるか。以後、毎度の来聘にも絶えて手合わせを望まざるなり。

三十七図 春碩因碩(三子)田頭親雲上 寛延元年(一七四八) 87手まで 

黒中押勝ち

 
二十一、碁と「キックボクシング」
 
 山々が色づき始めた錦秋のある日、田坂が何げなくテレビをつけると、「碁に魅せられて」という番組をやっていた。東京のど真ん中の歓楽街のビルの七階にある二十四時間営業の碁会所にカメラを据え、四十八時間、その様子を追ったドキュメンタリー番組である。

 そこにいるだけで周囲の人を幸せな気分にさせるという六十三歳の「マリア」さん(男性である)を始め、この碁会所にほとんど「住んでいる」人、会社を幾つもつぶした人、プロ棋士への夢があきらめきれない人、「困りました、困りました」を連発している来日三十年のイギリス人など、浮き世離れした人たちのオンパレードでとても面白かったが、田坂はある一人の人物がとても気になった。この人をどこかで見たことがあるのである。
 その人は今はバスの運転手をしているが、昔はスポーツ選手で何度もテレビに出たことがあるという。何のスポーツかという問いに、「キックボクシング」だという。田坂はハタと思いあたった。

 五十年近く前、田坂はテレビで「ゲゲゲの鬼太郎」や「エイトマン」そして「ローラーゲーム」などとならんでキックボクシングの番組をよく見ていた。そしてまさにこの人こそそのキックボクシングに出ていたボクサーの一人だったのである。勝つ時も負ける時も豪快なKOで終わる(負ける時の方が多かったような)このボクサーを田坂は好きだった。そのボクサーとの思いがけない会合に田坂は何か熱いものを覚えた。
「碁とキックボクシングとどっちが面白いですか」
というスタッフの問いに、
「碁の方が数段面白いでしょう。考え方が無限ですからね。どこへ打ってもいいしね」
と答える年輪を刻んだ人懐っこいその笑顔に、田坂は思わずテレビに向かって、
「一局お手合わせを」
と呟いてしまった。

 碁は、
「会社勤めがどうだったとか、地位がどうだったとかそんなもの一切関係がない」
「いかに上手に無駄な石を捨てるか、これが商売に通じる。助からない石をいつまでも追っていてもしょうがない」
などと宣う、この碁会所に入り浸る市井の碁打ちたちの一言一言に「我が意を得たり」とばかりに頷く田坂であった。

 囲碁は無限である。上はプロの最高峰から下は覚えたての初心者まで、それぞれのレベルに応じて楽しめる。その棋風も、地をとることが大好きで、一目でも勝てば良いというタイプから、戦って戦って戦い抜き、とにかく相手をKOしなければ気が済まないというタイプまで、まさに百人百様である。
 大泉学園駅近くの碁会所へよく通っていたという碁好きの作家、藤沢周平も、週刊誌の企画で、江崎誠致や富島健夫、そして近藤啓太郎や星新一ら錚々たる作家仲間と打った碁について、こう述べている。

 ずいぶん前に打ったそのときの碁が、いまだに記憶に残っているのは、対局した各氏の碁がそれぞれに個性的でおもしろかったせいだろうと思う。碁の理論は、せんじつめればひとつなのに、盤面に現われるものは打ち手によって異るところが、碁のおもしろさである。
 「碁の個性」藤沢周平(中野孝次編『日本の名随筆 別巻11 囲碁Ⅱ』)

 千変万化、碁には一局として同じものができることもない。碁の内容や勝ち負けなんか関係なく、純粋に相手とのコミュニケーションを楽しみたいという人もいる(それでもやっぱり負けると悔しいのだが・・・・・)。
 勝った時は「ガッツポーズ」なんかしないし(時にはする人もいるが・・・・・)、負けた時は「負けました」とか「ありません」と潔く負けを認める(時にはムスッとして何も言わない人もいるが・・・・・)。碁は「品格ある」紳士・淑女の「頭脳のスポーツ」であり、ある意味「科学」なのでもある(森銑三は『おらんだ正月』の中で、本因坊道策を、江戸期を代表する「科学者」の一人として取り上げている)。

 吉備真備、清少納言、紫式部、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、大久保利通・・・・・。日本の歴史に名を残す多くの有名人が碁を愛した。しかし今の日本の指導者層で碁を解する人は少ない。
 かつて、碁に“超”冷たかった石田三成は関ヶ原の戦いで敗れ、六条河原の露と消えた。信州上田城主真田昌幸は徳川秀忠の軍勢が真近に迫っても碁を打っていた。十五代将軍の徳川慶喜が大政奉還を決意したのは、「碁キチ」の慶喜が、「このまま打ち続けていても勝てない」と悟ったからだろう(想像である)。東条英機が碁を知っていたら日本はあんな無謀な戦争に突入することはなかったに違いない(これも想像である)。
 何か重要な局面に遭遇した時、日頃、碁という「小宇宙」で戦っている人とそうでない人にはその戦略や判断に大きな差が生まれるのではないか。

 ポール・サミュエルソン(その著『経済学』で巨万の富を得たという)の提唱した「新古典派総合」(ケインズ経済学+新古典派経済学)の全盛時代には際物扱いされていた、「マネタリスト」ミルトン・フリードマン。そのフリードマンの唱える市場原理主義(新自由主義)という「亡霊」が今や世界中を徘徊している。
 田坂はフリードマンの書いた『資本主義と自由』という本を学生時代に読んだことがあるのだが、鉄道や郵便制度、そして高速道路の建設や水道事業に至るまで、いわゆる「公共財」の供給は全て民間にまかせ、政府の役割を徹底的に縮小すべし、という主張に「バカ言ってんじゃネエヨ」と途中で放り投げた記憶がある。
 そのフリードマンがはびこった結果、今の日本社会はどうなったか。ゆとりがなくなり、寛容さが失われ、とにかく「勝てばいいんだ」、「目立てばいいんだ」、というガツガツした、非人間的なエートスが支配する殺伐とした社会になってしまった。
 「思いやり」とか「謙虚」とか「謙譲」などという古来からの日本の「美徳」はいったいどこへ行ってしまったのだろうか。

 そんな、「ダメ」のまったくない碁のようになってしまった日本社会に何か一石を投じたいと思う田坂であったが、その力は素粒子よりも小さい。せめて、小さな碁会所でも開いて、碁打ち仲間の自由闊達なサロンとしてでも提供しようか。本因坊秀策の永遠のライバル太田雄蔵ばりに、「一石庵」(Ein Stein Klause)とでも名前をつけて。

二十二、本因坊屋敷跡と薩摩藩屋敷跡
 
 木枯らしの吹く初冬の寒い朝、田坂は両国駅からほど近い、小さな公園の前にいた。この公園は、かつて「忠臣蔵」で有名な吉良上野介の邸があった場所の一角にある。
 公園といってもほんの数メートル四方の狭い場所で、そこに吉良上野介の象や、「討ち入り」の様子を描いたパネル類が飾られていた。本因坊屋敷はこの吉良邸正門のすぐ南側にあった。
 同年三月二十六日の道策死去後、本因坊宅で起居するようになっていた五世井上因碩とまだ十二歳の子供であった道知、この二人は目の前の邸でおこった惨劇をどんな思いで見つめたことだろう。

 その本因坊宅は現在は会社のビルになっている。「本因坊屋敷跡」というただ一枚の立て札以外には、ここが本因坊宅であったことを物語るものはない。  

                吉良邸跡


               本因坊屋敷跡

 時代小説が好きな田坂は、この本因坊屋敷があった「本所」一帯が、道知の時代から数十年後、「火付盗賊改方」として活躍した、「鬼平」こと長谷川平蔵のホームグラウンドであったことを知っている。しかし、池波正太郎のベストセラー、『鬼平犯科帳』には本因坊屋敷の名は出てこない。ただ、同じ池波の『剣客商売』には、碁好きの主人公秋山小兵衛と碁敵の医師、小川宗哲との碁にまつわる話がよく出てくる。たとえば、剣客商売二の『辻斬り』(新潮文庫)には次のようなシーンが登場する。   

 小兵衛は、堤の草の上へ腰をおろし、しばらく、法師蝉の鳴き声に聞き入っていた。
 陽ざしは強いが、大気には秋の気配がただよってい、汗も浮いてはこない。
 しばらくして小兵衛は、立ちあがった。
 それから大川の西岸を、ゆっくりと両国橋まで行き、橋をわたって本所へ入り、亀沢町の小川宗哲を訪ねた。
 宗哲老人は、ちょうど往診から帰ったところで、
「待ちかねていたよ、小兵衛さん」
 すぐさま、碁盤を持ち出して来た。
 もとより小兵衛は、そのつもりで訪問したのであるから、すぐさま碁石を手にとった。
 夕暮れまで、小川宗哲と碁をかこみ、時間をつぶすつもりなのだ。
 それから[鬼熊]へ行き、熊五郎の様子を、ぜひとも、(見たい)と、おもっている。

 だから、池波が碁に関心がなかったわけではないだろう。田坂は、池波が『鬼平犯科帳』か『剣客商売』の中で、本因坊屋敷の碁打ち衆の姿を少しでも描いていてくれたらなと、とても残念な気がするのだった。

 田坂はその後、芝公園近くの薩摩藩の上屋敷跡にも行ってみた。ここは道策や道知が琉球棋士と対局した場である。現在そこには日本を代表するエレクトロニクスメーカーの巨大なビルが建っており、ここにも「薩摩屋敷跡」という碑があるだけで、昔の面影など何もない。道知の時代からまだ「僅か」三百年、何という社会の変化であろうか。

              薩摩藩屋敷跡碑          


          薩摩藩屋敷跡付近の古地図(人文社)
 

 田坂は左手前に東京タワーを望みながら、地下鉄への道を急いだ。そういえばこの東京タワーの建っている場所には、かつて会員制の高級料亭「紅葉館」があったはずである。そして、そこで昭和十三年六月二十六日、本因坊秀哉名人と大竹七段との間で名人引退碁が始まったのだった。

二十三、本因坊秀策記念館を訪ねて 

 田坂が東京にいた理由である。それは年老いた両親の介護から自由になれる日が久しぶりに三日間取れたからであった。彼はその貴重な日々を、因島の秀策生誕の地の訪問と東京の本因坊関係の地の探索に使ったのだった。
 田坂がまず訪れたのは、現在は尾道市に属する因島の外浦という本因坊秀策生誕の地であった。秀策の生家があったという神社の前に佇みながら、田坂は不思議な感慨に襲われた。交通もひどく不便なこの半農半漁の小村に、どうして秀策のような囲碁の天才が現れたのだろうか。
 「本因坊秀策囲碁記念館」で話を聞くと、
    
「昔はこの辺りは碁くらいしか楽しみがなかったんですよ。本当に碁は盛んだったらしいですよ」
「それと、母親のカメさんが偉いですよ。彼女自身がとても賢い人だったんでしょうね」
「男親が教えてもなかなか子供は碁なんてしないもんですよ。最初は退屈ですからね。それを上手に教えたんですからね。そこにカメさんが秀策に教えた碁盤がありますよ」
「尾道の商家の旦那や宝泉寺の和尚そして三原の殿様、秀策は周りの人にも恵まれましたな」  
「もちろん、秀策に碁の才能があったことは言わずもがなですがね」
「それらがうまくブレンドされて秀策という天才が生まれたんでしょうな」

 秀策の母カメはいつも神社の祠の前で、遠く離れた息子の僥倖を願って手を合わせていたという。それが僅か九歳で別れた息子に対してできる唯一の「息子孝行」であった。自分の子供に碁をさせようとして失敗した経験を持つ田坂は、カメの偉大さがよくわかる。
 そのあまりの緻密さ故に、秀策の碁を並べるのをやや苦手にしていた田坂は、この旅行をきっかけに、頑張ってもう一度秀策に挑戦?してみようと思う。

 今回の旅は田坂にとってはとても充実した「囲碁旅行」だった。しかし、僅か三日の旅程なのに帰り着くともうグッタリ、寝転がったソファーから起き上がれないほどだった。やはり還暦を過ぎると若い頃のようにはいかない。そう言えば道知は三十七歳で、秀策は三十三歳で、何れも早世したのだった。田坂の年まで生きていれば一体どれほどの素晴らしい棋譜を残してくれただろうか。彼らなら、驚異的な進化をとげるAI(人工知能)にも勝てるのではあるまいか。
 徒に馬齢を重ねただけの田坂は申し訳ない気持ちで一杯だった。

            本因坊秀策囲碁記念館

    本因坊秀策と母カメが打った碁盤(本因坊秀策囲碁記念館) 

  
 今日も田坂は、盤上の芸術家たちの残した綺羅星のごとき棋譜を営々と並べる。道策や道知や秀策を、そして早田富士男や藤川秀明を。

      左から道的・道知・秀策の墓 右は道策(巣鴨 本妙寺)
 

二十四、道策探訪

 田坂が本因坊道知と屋良里之子の一戦に心を奪われてから数年たった。その間、「コロナ禍」を間に挟んで、介護していた両親は相次いで他界、心にポッカリと空いた穴を埋めるかのように、田坂はその後もいっそう碁の研鑽にはげんだ。『道策全集』全153局や『道的・道節・道知 元禄三名人打碁集』を並び返したり、島根県の石見銀山近くの道策生誕地へ「聖地巡礼」に行ったりして。秀策の碁を並べていて、道知がもし互先で本気を出せばかくやあらん、という名局も発見?した。

  本因坊秀策(黒) 太田雄蔵(白) 嘉永六年(一八五三) 三月七日
                            三十番碁第八局

123手完 黒中押勝ち

 道策の生家近く、「鳴き砂」で有名な「琴ヶ浜」を見下ろす高台には道策の顕彰碑が建っている。この顕彰碑から手作り(多分)の急な石段を降り、道策の生家(現在はどなたもおられない)付近をめぐって琴ヶ浜に出てみる。四〇〇年近くの昔、三次郎少年(道策の幼名)がまさにここに”居た”のだと思うと、田坂は不思議な感覚にとらわれた。

          本因坊道策顕彰碑(平成十四年建立) 

             本因坊道策生家付近

 そう言えば、道策の生家山崎家は石見銀山開発の有力者の家系であり、幕府直轄地となったその石見銀山の銀は十七世紀以降、陸路、商船で賑わう尾道港へ運ばれ、そこから京や江戸へ輸送されたのだった。これはおそらく、幼くして石見銀山関係者に碁の才能を見出されたであろう道策の本因坊へのルートでもある。そして言うまでもなく尾道と言えば本因坊秀策の生誕地である。
 
 本因坊秀策は、跡目となった嘉永三年(一八五〇)、三度目の帰郷の際に大森(石見銀山のある地籍)出身の兄弟子岸本左一郎五段(囲碁の手筋本『活碁新評』で知られる)に案内されて、この道策の故地へやって来ている。当然道策の生家も訪れたことだろう(山崎家からは道策の他に、三世井上道砂因碩、十世井上因砂因碩が出ている)。
 
 道策の母ハマと秀策の母カメ、母親が幼い二人に碁を教え、薫陶したことも両者に共通するし、もしかしたら道策の家系と海産物や雑貨類を扱う商家の家系であった秀策の家系はどこかで繋がっているのではないか一一一、そして何よりも、もし道知が道策の実子であるとしたら一一一、田坂はあらぬ空想をめぐらせながら、道策の故郷を後にしたのだった。

 それにしても、中国自動車道を経由して、往復一五〇〇キロ近い距離を車で走った「道策探訪」は、古稀を迎えた田坂にはとてもこたえた😂。疲れた老体を癒してくれたのは、宿泊地の三瓶(さんべ)温泉の心地良いお湯だった。

二十五、エピローグ

 道策、道知、秀策一一一、江戸時代の囲碁名人たちの打ち碁を並べることで「棋力向上」のための「修行」を懈怠なく(?)行った結果、田坂は碁盤の盤面が以前のような「戦いの場」としてではなく、「風景」のように見えるようになっているのに気付いた。そして、碁をいわば、「絵を描くように」打つようになっている自分にも。

 しかし、恐るべきことにそれに反比例?するかのように、囲碁大会ではまったく勝てなくなってしまった。何もわからずひたすら相手の石を取りに行っていた時の方がはるかに成績は上がっていたのだ。免状も東洋棋院五段、秀明塾六段のままである。何でだろう?ヘボは努力するとかえって下がるものなのか😿。田坂の悩みはつきないのである。

 それに加えてこの数年間で、碁のパラダイムそのものも大きく変化した。AI(人工知能)の進化で、田坂が昔プロの方から、「そんな基本を無視した手を打っちゃダメですよ」と言われた手を今やAIは平気で打つし、プロもそれに追随するようになったのである。
 もう、何が何だかわからない。今さら「ダイレクト三々」などと言われても田坂にはとても打てないし、コスミつけて「二立三析」を許したりすることもできない。囲碁大会で相手にすぐに両三々へ入られ、「ぶん殴ってやろうか」(過激な表現でスマン)と思ったこともある。

 学習して身につけた「昔の常識」を捨て去ることのできない田坂は、結局、碁を覚えたての頃に自分が、「本能で打ってた手の方がよほど正しかったじゃないか」、などとブツブツつぶやきながら、おそらく死ぬまでヘボ碁を打ち続けるであろう。しかし、なんともはや複雑な心境である😢。

 藤井聡太七冠の出現により活況?を呈している将棋界とは対照的に、囲碁人口はこの十年でますます減り、特に田舎に住んでいる田坂の周辺では、碁を打つ人の姿は稀にしか見なくなってしまった。昔は近所のお爺さんと縁側で碁を打ったり、近傍の旅館を借りて碁会をやったりしていたのに、何という違いだろう。「一石庵」(Ein Stein Klause)構想も、駅前がシャッター通りと化し、人がほとんど歩いていない状況では実現するはずもない。

 コロナ前には、北海道から沖縄まで全国各地で月一回程度催されていたアマチュア向けの大規模な囲碁大会も結局なくなってしまった。「自由」になったら「囲碁」をダシに、全国各地を飛び回ろうと思っていた田坂にとっては大きな目算違いである。
 ネットでやれるだろうと言われるかもしれないが、ネット碁と人間同士が直接対峙する生(なま)の碁では、感覚的に別物と言っていいほど違う。
 
 結局、行き場を失った?田坂は、毎月のように電車に一時間半揺られながら、某大都市で開催される囲碁大会に通う。碁をやるにも結構お金と時間がかかるようになったのだ。難儀なことである。

 それでも田坂は碁を止めない。碁とはそれほど奥深く魅力的で、ヘボはヘボなりに楽しめるものだからである。田坂から碁をとったら、それはアイデンティティの喪失を意味する(大げさである)。

 夏はヒグラシの鳴き声に包まれながら、今も毎日のように、田坂は江戸時代の碁を並べる。そして、ある「確信」がますます強くなっている。それは本因坊道策や道知や秀策らが、芸の面では現代の超一流棋士と比べてまったく遜色がない、いやむしろ上を行っているのではないかということだ(ヘボアマチュアの感想です)。

            少年時代の道策を育んだ琴ヶ浜
     (岬の向こう側に石見銀山の初期の積出港、鞆ヶ浦がある)

波打ち際の砂を踏むと、「キュッキュッキュッ」と音が鳴る


※棋譜管理には、『MultiGo4』を使用しました。
※操作に不慣れなため、ほとんど同じ内容のファイルを二つ作ってしまい  ました。今さら片一方を消せません。それでこちらを、「ヘボ碁百景1  3 本因坊道知と屋良里之子~ヘボアマチュア、江戸中期の囲碁名局を  並べる」という名前に変えました。

#創作大賞2025 #オールカテゴリ部門

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