「弱者男性」という言葉に感じる小さな棘
「弱者男性」という言葉を聞くとき、私の心には小さな棘が刺さる。理解したい、助けが必要な存在だと分かっている。けれど、どこかで「怖い」と身構えてしまう自分もいる。
今回『弱者男性1500万人時代』を手に取ったのは、その恐怖の正体を知りたかったからかもしれない。
著者がトイアンナさんという女性だったことも興味を惹かれた理由だ。女性にとって、弱者男性とはどう考えていくのがよいのだろうか。
そもそも弱者とは何か?
この本では、弱者男性と呼ばれる人々の実態をデータから可視化している。アンケートなどを基に16の「弱者性カテゴリー」を作成し、そのうち一つでも当てはまると自認すれば「弱者男性」と定義するという方法だ。
主な項目には次のようなものがある。
・障がい者(精神・身体・発達障害を含む)
・引きこもり
・容姿にハンディのある人(身長などを含む)
・信者の家族(宗教2世を含む)
・介護者(ヤングケアラー含む)
・虐待サバイバー
・犯罪被害サバイバー
・多重債務者の家族
・貧困(相対的貧困など)
・性的マイノリティ
・境界知能
・非正規雇用・無職
・コミュニケーション弱者
・3K労働従事者
・在日外国人・民族的マイノリティ
・きょうだい児
著者は「一つしか当てはまらない人はむしろ少なく、多くの場合は複数の弱者性が重なっている」と指摘する。
自分を弱者男性だと自認する男性500人へのアンケートを基に、統計学者の協力を得て重複を考慮しながら推計した結果、日本には最大で約1500万人の弱者男性がいる可能性があるという。これは日本人男性の約4人に1人、男性の約24%にあたる。
この基準を見て「私も弱者女性だな」と思った。
1500万人という数字は多く感じるが、逆に言えばこの項目にひとつも当てはまらない男性が76%もいることの方に驚きを覚える。
女性と比べるとどうだろうか
もし女性で同じアンケートを取ったらどうなるだろう。貧困、介護、非正規雇用、犯罪被害などの項目では女性の比率が高くなりそうな気もする。
本の中では、発達障害と診断される男性が女性の約3倍というデータも弱者性の一つとして紹介されている。ただし診断基準は歴史的に男性の症状を基準に作られてきたため、女性の症状は見逃されやすいという指摘もある。実際の有病率は男女でそれほど差がない可能性もあるそうだ。
本書では女性の弱者性を同じ基準で詳しく比較することはあまりしていない。おそらく、弱者性を持つ男性だけに焦点を当てるためだろう。
容姿のハンディの問題
容姿のハンディについての性差はあるのだろうか。
私の印象では、女性は比較的みんな綺麗に見えることが多い。けれど、それは努力が当たり前になっているからかもしれない。化粧やファッション、ダイエットなど「容姿よく見せる努力」が女性には広く許容されている。
一方で男性は、同じように努力すると「必死すぎる」「女々しい」と見られることもある。
「男らしさ=自然体で努力しすぎない」という文化的規範が背景にあるのかもしれない。
もちろん最近ではメンズメイクや厚底ファッションも広がっている。男性ももう少し気軽に容姿の工夫ができるようになれば、容姿ハンディの感じ方も変わるのかもしれない。
個人的には、男性が努力をしてもいい世界というより、男女とも「自分の容姿への劣等感」を抱きにくい世界になって欲しい気はしている。
大事なのは、容姿より、健康的かどうか、機能性じゃないかと感じている。
社会における弱者男性の問題
この本を読んで感じた大きな問題は二つある。
一つは、男性は弱みを見せることが許されにくいこと。
もう一つは、男性だと明確な困難があっても見過ごされやすいことだ。
男性だから恵まれている、という単純な時代ではもうない。社会構造や文化が彼らの生きづらさを増幅している面もあるのだと感じた。
それでも私の中には、「理解したいけれど近寄るのは少し怖い」という複雑な感情が残る。
女性は、弱者男性とミソジニーを結びつけてしまうことがある。弱者と言われても「実際には力がある存在ではないか」という感覚がどこかにある。近づけば、傷つけられるのではないか、奪われるのではないか、という漠然とした不安が生まれる。
だからこそ、この本のようにデータや数字を通して心理的距離を保ちながら理解する視点は大切だと思った。
女性に対する不満の正体
ネットでは「弱者男性=女性叩きをする存在」というイメージが強く語られることがある。
これは女性が悪いというよりも、女性を優遇する現代社会の仕組みや、その結果として自分たちが不利になっていると感じる状況への不満が、女性という存在に向かってしまっているのかもしれない。
実際、若い男性ほど「フェミニストが嫌い」「女性活躍施策に抵抗を感じる」と答える割合が高いという調査もある。
それは、高齢男性は影響が少なく済んだからだろう。
ネット上では文句を言える。
しかし、多くの場合その感情を突き詰めていくと、最終的には「自分の努力が足りなかったのではないか」という自責に戻っていく。社会や構造への不満があったとしても、最後に自分を責めてしまう。
その感覚は、弱者女性である私にも覚えがある。
男女平等なはずの時代に「強者女性」になれなかった努力不足、能力不足を責める気持ちや、フェミニズムの「もっと男性と戦い、勝ち続けろ」といわれるような苦しさと、どこか重なる。
本書によると、弱者男性の75%は「自分が悪い」と自責的に考えているという。アンケートでも、女性を悪く思っている人は3.6%しかいなかった。
それでもネットでは「弱者男性=危険」「無敵の人」というイメージが広がりやすい。目立つ過激な声が、全体像を歪めているのかもしれない。
実際には、多くの人がただ孤立し、自分を責め続けているだけなのだろう。
女性が感じる距離の難しさ
それでも、女性が距離を取ってしまう理由もあると思う。
弱っている男性を見ると、私は優しくしたくなる。
「大丈夫だよ」と声をかけたり、少しでも楽になればと思って何かしてあげたくなる。
けれど、その優しさが相手にとっては「特別な好意」や「愛情」として受け取られることもある。
もし相手が「優しさ=愛情表現」と強く結びつけて考える人だった場合、関係の意味はさらに大きく変わる。
女性にとっては親切心のつもりでも、相手にとっては「自分を受け入れてくれた特別な存在」になることがある。
そして女性がその期待に応えられないとき、「弄ばれた」「裏切られた」と感じられてしまうこともある。
女性側からすると、最初はただ気になって優しくしただけなのに、最後には恐怖を感じて距離を取ることになる。
このズレが怖くて、弱っている男性には最初から近づかない方が安全だと考えてしまう女性も多いのではないだろうか。
男らしさの規範と孤立
男性には「強くあるべき」という規範が強い。弱さを見せると「負け犬」「甘え」と言われてしまうこともある。
その結果、支援を求めにくくなり、孤立が深まり、さらにコミュニケーションが苦手になるという悪循環が起きる。
女性同士なら弱さを共有し助け合うことは比較的自然だが、男性を助けることには女性側にも限界がある。
強い男性は、弱い男性に関わろうとはあまり思わない。弱者男性同士でもプライドの衝突で助け合えない。
結果として、弱者男性は女性からも男性からも距離を置かれ、孤立が深まってしまうのかもしれない。
弱さの多層性
本書では、経済的には裕福でも心理的、身体的に家庭内暴力を受けている男性の例も紹介されている。
男性は被害を訴えにくく、離婚も簡単ではない。DVを受けた男性の別離成功率は女性より大幅に低く、相談できた人も少ないというデータもある。
つまり、弱さは単純なものではなく、多層的に存在している。
弱者性は生まれつきのものだけではない。人生の途中で、誰もが弱者の側に回る可能性がある。
格差の拡大、高齢化や少子化、AIの進展、株安や円安、物価高や原油高など、不確実性は増している。
今の生活がいつまで続けられるのかも分からない。
そう考えたら、可能性という意味では「一億総弱者時代」と言えるのかもしれない。
弱くても楽になっていい
男性も女性も、もっと弱さを認めてもいい社会になればいいと思う。
困っていて、支援を受けられるなら、受けることが当たり前になり、孤立が少しでも減っていけばいい。
この問題に対して、私たちができることは、分断を作らないことなのかもしれない。
そして、自分自身の弱さにも少し優しくなること。
現代の浅い繋がりの中で、私たちは成功が見え過ぎている。
隣の芝生は青いどころか、自分だけが雑草も生えていない砂地で、周り中が花畑みたいに見える世界だ。
どうしても欲しい花が手に入らなければ、やっぱり辛いかもしれない。
でも、その花を掴んだら棘が刺さることだってあるはずだ。
そこからどう動くか、少しずつ探っていけたらいい。
庭のことさえ気にしなければ、家にはそれなりの食べ物も水も、何でもできるスマートフォンもあるのだ。
弱者の悩みはあっても、自分なりの幸せも探せばたくさん持っている。
男性も女性も、弱くても強くても。
誰もがまあまあ楽でいられる社会であってほしいと願っている。
