見出し画像

【オーディオマニア】かつて軽蔑していた「音だけ聴く人」に、ぼくはなってしまったのか

ぼくはかつて、オーディオマニアという種族をどこかで軽蔑していた。

CDショップで働いていた頃、ぼくにとっての正義は「音楽」そのものにあった。メロディが、あるいは演奏者の衝動が、聴き手を感動させるかどうか。それが全てだった。 だから、高級なケーブルがどうとか、電源の極性がどうとか、音楽の本質とは関係のない「物理現象」に血道を上げる人々を、冷ややかな目で見ていた。「あの人たちは、音楽ではなく『音』を聴いているだけだ」と。

オーディオマニアになったら終わりだ。それは音楽ファンとしての死を意味する。 そう信じていたぼくが今、その「終わり」の淵に立っている。

最近、オーディオシステムを刷新した。 スピーカーを変え、インシュレーターを噛ませ、デジタルの上流を整えた。部屋の空気すら浄化するような、透明で美しい音が鳴った。ドナルド・フェイゲンの『ナイトフライ』を再生したとき、そこには今まで聴こえなかった微細なリバーブの減衰や、空間の広がりがあった。至福だった。

しかし、その代償はあまりにも大きかった。

システムが「高解像度の鏡」になったことで、ぼくの耳は「録音のアラ」を許容できなくなってしまったのだ。 かつては愛聴していた最近のヒットチャートや、音圧を極限まで高めたロックの音源を再生すると、ぼくの耳と脳は即座に拒絶反応を示す。「うるさい」「歪んでいる」「平面的だ」。音楽としての熱量を感じる前に、音響的な不快感が先に立ってしまう。

これは、味覚の変化に似ているかもしれない。 繊細な出汁の味を知ってしまった舌が、化学調味料たっぷりのジャンクフードを受け付けなくなるように。頭では「ジャンクな味もたまには美味い」とわかっているのに、身体が「化学の味がする」と悲鳴をあげる。

これは進化なのだろうか。
いや、退化だ。
再生装置の性能が上がるにつれて、聴ける音楽の幅が狭まっていくなんて、本末転倒もいいところだ。ぼくは音楽に対しては雑食でありたいと常に願っている。古楽からダブ、アンビエント、そしてポップスまで、貴賤なく愛したい。  
なのに、ぼくのオーディオシステムは、まるで厳格な検閲官のように「この音源は再生に値しない」と、ぼくの前から一定の音楽を遠ざけようとする。

「音がいいから」という理由で、特に好きでもない優秀録音盤を聴いてしまう瞬間がある。 「音が悪いから」という理由で、大好きなはずの名曲をスキップしてしまう瞬間がある。

そのたびに、かつての自分がぼくを指差して笑うのだ。「おい、お前がついになってしまったぞ。あんなに軽蔑していた『音だけ聴く人』に」と。

解決の糸口は見えない。 ぼくはこの、あまりにもクリアになりすぎた視界を持て余しながら、オーディオという名の深い沼の底で、音楽への愛を見失わないように必死でもがいている。 「音」の奴隷にはなりたくない。でも、もうあの団子のような音には戻れない。

オーディオとは、なんと残酷で、孤独な趣味なのだろうか。

いいなと思ったら応援しよう!