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【業裏】 駅弁はなぜ新幹線時代に生き残れたのか

駅弁業者と鉄道会社の利権構造、そして「旅情」という付加価値が守った市場




はじめに


吾輩は弁当箱を開けるたびに、小さな感動を覚える。それがコンビニエンスストアで買った500円の弁当であろうと、駅のホームで買い求めた1500円の駅弁であろうと、蓋を開ける瞬間の期待感は似たようなものである。しかし、そのあとに訪れる感情はまるで異なる。コンビニ弁当は「腹が満たされる」という機能的な満足を与えてくれるが、駅弁はそれとは別の何か——旅の匂い、土地の記憶、自分がいまどこかへ向かっているという実感——を掻き立てる。


この「別の何か」こそが、駅弁を140年以上にわたって生き延びさせてきた本質である。しかし感情論だけで市場は維持されない。駅弁というものが現代においても命脈を保っているのは、旅情という詩的な要素だけでなく、鉄道会社と業者の間に築かれた強固な利権構造、そして業者たちの不断の自己革新があったからである。吾輩は本稿において、この三つの軸を解剖してみたいと思う。



1. 握り飯二個から始まった140年


駅弁の誕生については諸説あるが、現在の定説は1885年(明治18年)、宇都宮駅で地元の旅館「白木屋」が握り飯二個とたくあんを竹の皮に包んで売り出したというものである。価格は5銭。当時かけそば一杯が1銭ほどであったから、これはなかなかの高級品であった。


だが考えてみれば、これは合理的な商いであった。鉄道が開通したばかりの明治の世、列車は途中駅に長時間停車する習慣があった。乗客が用を足したり体を伸ばしたりするための「休憩停車」である。商機を嗅ぎつけた業者がホームに立ち、弁当を売り始めたのはいわば自然の成り行きであった。


その後、明治22年(1889年)に東海道本線が東京から神戸まで全通すると、駅弁は全国規模で普及していく。長距離の移動は数時間から半日以上に及ぶこともあり、車内での食事は実用的な必要性から生まれたものだった。つまり駅弁の出発点は、旅情などという文学的な概念とは縁遠い、純粋に「腹が減るから食べる」という生理的欲求への対応であった。


面白いのは、この時期の駅弁業者の主要顧客のひとつが軍隊であったという事実だ。戦前、各地の駐屯地に配置された陸軍部隊が鉄道で移動する際、沿線の大きな駅の業者が「軍弁」と呼ばれる大量の弁当を手配した。交通の要衝であった宇都宮などには複数の業者が競い合うように店を構えていた。戦争という悲劇が、皮肉なことに駅弁産業の基盤を強化した側面は否定できない。



2. 新幹線という「脅威」の登場


1964年(昭和39年)10月、東海道新幹線が開業した。東京から大阪まで、それまで特急列車で約6時間かかっていた距離を、新幹線は4時間ほどで結んだ(現在の「のぞみ」なら約2時間15分である)。


この「時間の圧縮」は、駅弁にとって根本的な脅威であった。在来線の長距離列車では、乗客が駅弁を一折悠然と食べ、お茶を飲み、車窓を眺め、また眠るという時間的余裕があった。しかし新幹線では、東京を出れば名古屋はあっという間だ。食事をする時間的必然性が薄れる。


さらに1980年代後半以降、コンビニエンスストアが急速に普及し始めると、駅構内にも店舗が進出してきた。均一に美味しく、安価で、品揃えも豊富なコンビニ弁当の台頭は、駅弁業者にとって直接的な競合であった。


では駅弁業界はいかにして生き延びたか。その答えは複数の要因が絡み合っているが、まず制度的な側面から見ていこう。



3. 見えない城壁——構内営業の利権構造


駅弁が単なる弁当ではなく、「駅弁」として特別な地位を与えられてきた背景には、制度的な保護構造がある。


戦後間もない1946年(昭和21年)、「日本鉄道構内営業中央会」(以下、中央会)が設立された。これはJR各社の駅構内で駅弁を販売する業者によって構成された会員組織であり、「駅弁マーク」という商標を管理している。駅弁マークを付けた弁当を販売するためには、まずJR各社から構内での販売許可を得なければならない。その後、中央会の入会審査を通過して初めて、あの四角いマークを弁当の包み紙に掲げることができる。


この仕組みは二重の門を持つ城壁に似ている。JRという第一の門、そして中央会という第二の門。新規参入者がこの両方を通過するのは容易ではなく、既存業者に対する参入障壁として機能してきた。


国鉄が分割民営化された1987年当時、中央会の会員業者数は349社にのぼっていた。しかしその後の長期にわたる業者の淘汰によって、現在では86社前後にまで減少している。数は三分の一以下になったわけで、これを「業界の衰退」と見るか「生き残れた業者の強靱さ」と見るかは論者によって異なる。


鉄道会社にとっても、この構造は利益のあるものであった。構内での販売を許可する代わりに、業者からは一定の場所代や手数料が入る。さらに駅弁は「駅に来る理由」のひとつにもなり、駅の集客力を高める。両者の利害は一致していた。まさに共生関係、あるいは悪く言えば「持ちつ持たれつ」の閉じた生態系である。



4. 旅情という付加価値——経済学が苦手な感情


制度的保護が駅弁の存続を下支えしてきたとすれば、その生命を吹き込んできたのは「旅情」という、きわめて日本的な感情の付加価値である。


考えてみれば、駅弁は合理的な選択ではない。同等の内容量であればコンビニ弁当のほうが安い。品質管理も均一だ。それでも旅人が駅弁を手に取るのは、「この弁当を買うという行為」が旅の一部だからである。列車に乗る前にホームで選び、座席に着いて包みを解く。この一連の動作が「旅に出た」という事実を身体に刻み込む儀式として機能している。


駅弁業者はこの心理を巧みに利用してきた。容器にも徹底的にこだわった。群馬県横川駅の「峠の釜めし」は、陶器の釜を模した容器で知られ、食べ終わった後もその器を持ち帰る人が続出した。兵庫県西明石駅の「ひっぱりだこ飯」はタコ壺を模した陶器入りで、容器のコレクター(!)まで生んでいる。包み紙(掛け紙)もまた、その土地の風景や名所を描いた旅の案内図として機能し、歴史的資料としての価値まで備えるようになった。


これは単なる食品の販売ではない。土地の文化、風景、記憶を「持ち運べる形」に凝縮したものである。そういう意味では、駅弁は弁当という形をした観光業の一形態でもある。



5. 百貨店という意外な救済者


駅弁が現代に生き残った理由として、もうひとつ見逃せない存在がある。百貨店である。


1953年、大阪の高島屋が日本初の「駅弁大会」を開催した。そして1966年、京王百貨店新宿店がこれを継承・発展させる形で「元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」を始めた。以来、この催事は2025年で60回目を迎えるに至っている。


この大会の規模は驚くべきものだ。売り上げは約6億円とも伝えられ、会期中の土日の来店客数が、百貨店最大の稼ぎ時であるはずの正月初売りを上回ることもあるという。コンビニやネットショッピングに顧客を奪われ続けてきた百貨店にとっても、駅弁大会は年間最大級の集客イベントとして機能している。


この現象は何を意味するか。人々は「駅弁を食べたい」のではなく、「駅弁大会に行くという体験をしたい」のである。会場の喧騒、実演販売の熱気、各地の旗が並ぶ会場を歩き回る楽しさ。これはもはや弁当の消費ではなく、疑似的な旅の体験である。「行けない旅先の味が、ここに来た」という逆転の発想が、駅弁を駅の外へと連れ出し、より広い市場へと解き放った。


駅弁は「駅でしか買えない」という制約から解放されることで、逆説的に、より多くの人に届くようになったのである。



6. 廃業と革新のはざまで


楽観論だけで締めくくるのは誠実ではない。駅弁業界が苦境にあることは事実である。


1987年に349社あった中央会加盟業者は現在86社前後。山口県と埼玉県では地元業者がすべて撤退し、徳島県に至っては駅弁が全滅している。コロナ禍は旅客数を激減させ、多くの業者が大打撃を受けた。新幹線の車内販売も、かつてのような食堂車やビュッフェは姿を消し、ワゴン販売も縮小傾向にある。


しかし生き残っている業者は、ただ手をこまねいているわけではない。通販による全国発送、工場見学の受け入れ、SNSを使ったブランディング。「駅に来られないなら、こちらから行く」という発想の転換が各所で起きている。容器の工夫や季節限定メニューの投入も続いており、観光列車との連携商品も増えている。


老舗業者が廃業した駅では、まったく異なる業種の新規参入者が駅弁を引き継ぐという事例も出てきた。水戸駅では居酒屋経営者が駅弁業界に参入し、常陸牛を使った弁当で全国的な注目を集めるに至っている。業界の「血の入れ替え」は静かに、しかし確実に進行している。



おわりに


駅弁はなぜ新幹線時代に生き残れたのか。


吾輩の答えはこうである。制度的な参入障壁が市場を守り、百貨店という意外な同盟者が需要を広げ、そして何より「旅情」という、経済合理性では測れない人間の感情が、駅弁というカテゴリーそのものに特別な地位を与え続けてきた。


考えてみれば、これは駅弁だけの話ではないかもしれない。人は常に、機能だけでは満足しない。価格が多少高くても、利便性が多少劣っても、「これを選ぶことで自分が何者であるか」を感じられるものに手を伸ばす。駅弁を買う旅人は、弁当を買っているのではなく、旅に出た自分を買っているのである。


新幹線がいくら速くなっても、人はまだ窓の外を眺めながら弁当を食べたい。そしてその箱を開けるとき、遠い土地の空気をほんの少し、吸い込みたいと思っている。駅弁が生き延びたのは、つまるところ、人間というものが合理だけでは生きられない存在だからである。


それで結構。吾輩は次の旅でも、少々割高であることを承知のうえで、ホームの売店に足を向けるつもりでいる。



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