『ゴールド ―境界の国―』第8話「春の治療室」
『ゴールド ―境界の国―』
第8話「春の治療室」
その日、天衡舘には珍しく慌ただしい空気が流れていた。
普段は静かな廊下を、何人もの職員が行き来している。
記録板が次々と更新され、足音が絶えない。
ノアは立ち止まった。
「何かあったんですか」
近くにいた職員へ声をかける。
だが返事はない。
皆、どこか焦っていた。
その時だった。
廊下の向こうから、人が運ばれてくるのが見えた。
黒い衣。
見慣れた姿。
ノアは目を見開いた。
「……アトラス?」
思わず声が漏れる。
誰よりも崩れないと思っていた人だった。
そのアトラスが、静かに運ばれていく。
周囲のざわめきが耳に入る。
「過労らしい」
「ありえない……」
「天衡舘の管理者だぞ」
ノアはただ、その背中を見ていた。
初めてだった。
世界を支えている人が、人間に見えたのは。
均衡を守るために、感情を切り捨て続けた結果……。
アトラスは、自分自身を壊しかけていた。
春の風は、森の国だけ少し違っていた。
柔らかいのに、静かだった。

木々の間を抜ける風は葉を揺らし、小さな花びらを空へ運んでいく。
森の国には治療室がある。
身体だけでなく心も整える場所だった。
その日、森の国には珍しい来訪者がいた。
天衡舘管理者。
ゴールド保持者。
アトラス。
各国の均衡を管理する存在。
そんな人間が今は窓際に座っていた。
数日前。
各国巡回の途中で倒れた。
だが、アトラスは仕事を辞めなかった。
本人は認めていないが、誰が見ても過労だった。
「珍しいですね」
声がした。
薬草を抱えた女性が立っている。
ユリアだった。
「天衡舘の人が倒れるなんて」
「倒れたわけではない」
「過労です」
「違う」
「皆そう言います」
ユリアは笑った。
アトラスは黙った。
言い返せなかった。
「薬です」
小さなカップが置かれる。
「苦そうだ」
「苦いですよ」
「飲みたくない」
「子どもですか?」
「違う」
少しだけ笑い声が漏れる。
その笑い声に、アトラスは少しだけ驚いた。
いつから、自分はこうして誰かと話すようになったのだろう。
夜。
目を覚ますと、奥に明かりが見えた。
近づく。
ユリアが机に向かっていた。
薬草が並んでいる。
細い指先で薬を作っていた。
「まだ起きていたのか」
ユリアは顔を上げる。
「あ、ごめんなさい」
「あと少しだけなんです」
そう言って笑う。
アトラスは黙っていた。
指先が少し震えていた。
顔色も良くない。
笑っている。
でも疲れている。
その瞬間だった。
なぜか、視線が離れなかった。
無理をしている。
なぜか、そんな考えが浮かんだ。
自分でも少し驚いた。
国ではない。
制度でもない。
目の前の、この人が……。
「休め」
少し強く言っていた。
ユリアは驚いた顔をする。
「……優しいんですね」
アトラスは答えられなかった。
優しい。
そんな言葉を言われたことがなかった。

翌朝。
アトラスは治療室の外に立っていた。
腕を組み、何かを考えている。
ユリアは不思議そうに見る。
「どうしたんですか?」
アトラスは数秒考えた。
「もし、自由に住む場所を選べるなら……君はどこへ行く」
ユリアは少し驚いたあと、小さく笑った。
「急ですね」
少しだけ考える。
「水の国かな」
「どうしてだ」
「好きな人と、幸せに暮らしたいからです」
アトラスは黙る。
ユリアは笑った。
「暖かい家が欲しいんです」
「大きくなくていいから」
「帰った時に、おかえりって言える場所」
風が通り抜ける。
アトラスは静かに水面を見た。
その時、自分の胸の中で何かが少しだけ動いた気がした。
世界の均衡ならすぐ答えられる。
でも今は違う。
「……君は休みの日、何をしている」
「ふふふ」
ユリアは少し笑った。
「散歩とか、本を読んだりですかね」
「あと、水の国へ行ったり」
「好きなんです。あそこって、心まで静かになる感じがして」
アトラスは少し考えた。
そして言った。
「なら、行くか」
「……え?」
「君も療養中だろう」
「私も治療中だ」
「休息は必要だ」
「効率は悪くない」
沈黙。
数秒後。
ユリアは吹き出した。
「ふふ……」
「何だ」
「それって誘ってます?」
アトラスは止まった。
完全に止まった。
数秒。
さらに数秒。
「……そうなるのか?」
森の国に笑い声が響く。
数日後。
二人は水の国へ来ていた。

湖の上には長い橋が浮かび、水路の脇には小さな店が並んでいる。
風は静かで、川の音だけが聞こえていた。
人々も急いでいない。
誰も焦っていない。
ただ静かに時間を過ごしていた。
「不思議ですね」
ユリアが言う。
「何がだ」
「頑張り続けなくてもいい場所って」
アトラスは周囲を見る。
「皆、なぜそんなに急がないんだ」
ユリアは笑った。
「急がない時間を大切にしてるんですよ」
「何もしないことをしてるんですよ」
アトラスは理解できなかった。
水路の脇には、小さな灯りが水面に映っていた。
船は静かに流れていく。
この世界では、それが当たり前で不思議な心地よさがあった。
皆が急がない。
誰かと競わない。
ただ、ゆっくり時間を過ごしている。
まるで大人だけが、貴重な時間を満喫している国みたいだった。
ユリアは橋の手すりに触れながら、小さく笑った。
ユリアの耳には、イヤリングが揺れていた。
昼に見た彼女とは違う静けさが、その横顔にあった。
「時間が止まるような気がして、好きなんです」
「……なぜだ」
「水の国って穏やかで、時間もゆっくり流れている気がするから」
「頑張り続けなくても、少しだけ休んでいい気がするんです」
「立ち止まる時間も、悪くないって思えるんです」
アトラスは黙った。
隣を見た。
笑っていた。
春の風が髪を揺らしていた。
その顔を見て思った。
世界を守ることは知っている。
でも、この人の隣にいる時間だけは、どうしてこんなにも静かなんだろう。
守りたい。
理由はまだ、自分でも分からなかった。
なぜか、ユリアを放っておけなかった。
外では春の風が吹いている。
花びらが静かに舞っている。
その頃、遠く離れた場所でノアは各国巡回を続けていた。
誰もまだ知らない。
世界を動かしてきた男が。
たった一人の人間に、心を動かされていたことを。
春の風は、静かに誰かの世界を変え始めていた。
(第8話 終)

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noterゆらり(ゴールド|境界の国)
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