星の砂を君に 第6話 海へ還る記憶 私会社辞めます
星の砂を君に
第6話 海へ還る記憶 私会社辞めます
会社に行く足が、もう重くなっていた。
パソコンを開いても、文字はただの記号にしか見えない。
あの人がいない日常は、どこか現実ではないようだった。
笑っていた日々だけが、逆に鮮明に浮かんでくる。
その全部が、まだ部屋のどこかに残っている気がした。
◇
ある日、ふと思った。
もう、ここにいる意味がないのではないかと。
仕事も、人間関係も、すべてが薄くなっていく。
お局の声も、ただ遠くで鳴っている雑音のようだった。
私は退職届を書いた。
驚くほどあっさりと決まった。
いじめる方が残り、いじめられる方が去っていく。
そんな話は、きっとどこにでもあるのだろう。
こんなふうに、誰にも言えずに泣いている人は、
きっと私だけではないのだろう。
もう、踏みとどまる理由が自分の中に残っていなかった。
◇
彼が言っていた言葉が、何度も頭をよぎる。
「海、好きなんです」
「実家、沖縄なんです」
「疲れた時は、海を見るんですよ」
「魚が綺麗なんです」
「地中海料理の美味しいお店がある。今度一緒に行こう。」
それだけが、確かな手がかりだった。
私は沖縄行きの航空券を予約した。
理由は、それだけで十分だった。
◇
空港に降り立つと、空気が違っていた。
湿った風が肌に触れる。
どこか懐かしい気がしたのは、気のせいではなかった。
彼の記憶の中にあった場所へ、私は向かっていた。
◇
海沿いの町。
小さな商店街。
彼が話していた風景が、少しずつ現実になっていく。
ここに、彼は確かにいたのだと思った。
このお店だ。
地中海料理が美味しいお店
スマホ片手に公式ページで確認する。
カランカラン
「こちらにどうぞ」
女性はメニューをテーブルに置いた。
「オリジナル地中海パスタを」
彼が、連れて来たいと言っていた味を噛み締めた。
一緒に来る筈だった。
そう思うたびに、胸が苦しくなった。
一口食べて、息を呑んだ。
美味しさに感動した。

目が潤んだ。
目の奥が、じんと熱くなった。
海がぼんやりと輝いていた。
広い沖縄で、どこを訪ねれば良いのか分からなかった。
思い切って聞いてみる事にした。
「あの、大城俊明さんを探しています。聞いた事ありませんか?」
「私、沖縄来たばかりでわからないんです。オーナーに聞いてきます」
女性は、軽く会釈をすると席をはずした。
◇
オーナーは、俊明さんの同級生だった。
オーナーから貰った地図を頼りに
ご実家の場所へ向かった。
静かな住宅街。
白い壁の家。
そこに立った瞬間、足が止まった。
遠くから、年配の女性と、小さな子どもが見えた。
おばあさんと、孫のようだった。
その光景に、なぜか息が詰まる。
彼の姿は、そこにはなかった。
◇
一度その場を離れた。
近くのビジネスホテルに戻る。
窓の外には、ゆっくりと沈む夕日。
海が赤く染まっていた。
あの人もこんなふうな景色を見たことがあったのだろうか。
◇
一晩、眠れなかった。
翌朝、もう一度行くことを決めた。
答えを知りたいというより、
知らなければ終われない気がした。
◇
今度は、玄関の前に立つ。
インターホンを押す指が震えていた。
やがて扉が開く。
そこに立っていたのは、彼に似た目をした女性だった。
優しい目だった。
「……どなたですか」
その声に、私は言葉を失う。
少しの沈黙のあと、事情を伝えた。
喫茶店のこと。
名前のこと。
突然いなくなったこと。
◇
女性は静かに聞いていた。
そして、少しだけ目を伏せた。
「……あの子のことですね」
その一言で、すべてが変わった気がした。
◇
家の中に通された。
そこには、小さな子どもの写真があった。
笑っている顔。
無邪気な目。
そして、その隣に、彼がいた。
確かに、彼だった。
◇
「息子なんです」
女性は写真に視線を落とした。
「……突然だったんです」
その言葉のあとは、よく聞こえなかった。
◇
静かな廊下だった。
仏間に通された。
そこには、小さな位牌があった。
その隣に、大きな写真が飾られていた。
笑っている顔だった。
私は、その笑顔を見つめた。
ふと、お線香の香りがした。
おりんのかすかな光が揺れていた。
胸の奥が、静かに沈んだ。
世界が少しだけ音を失った。
呼吸の仕方を忘れたようだった。
◇
家を出たあと、気づけば海に来ていた。
波の音だけが、遠くから寄せては返している。
砂浜に膝をつく。
涙が止まらなかった。
◇
彼はいた。
確かに、いた。
カレーを食べた日も、笑った夜も、
すべて本物だった。
ただ、もうここにはいない。
◇
ポケットの中から、小さな瓶を取り出す。
星の砂。
彼がくれたもの。
手の中で、静かに揺れている。
私はそれを強く握りしめた。
◇
波が、足元をそっと洗っていく。
まるで、すべてを奪うかのように。
波は引いていく。
涙はまだ止まらない。
視界はぼやけていた。
◇
「……病気って」
あの人は、いた。
そして今も、どこかで生きている。
海の向こう側ではなく、
記憶の中でもなく、
確かに私の中に。
残ったのは、悲しみだけではない。
◇
星の砂が、夕陽の光を受けて小さく輝いた。
私はそれを、そっと胸に抱いた。
潮風が頬を撫でていく。
遠くで波の音だけが、静かに繰り返していた。

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