【小説】ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ 第8話
第8話 転勤族の引越し回数
突然ですが、皆さんは人生において今まで何回引っ越しをしたことがありますか? そして、これから先の人生であと何回引っ越しそうですか?
私、筑後川敦は転勤族であり、引越しのプロです。自分は、引っ越し業者より引っ越しに詳しいと感じることがあるくらい詳しいです。しかし、詳しくてもなんの得にもならないという事実が虚しいところであります。
私の仕事は3年毎に転勤があります。場合によっては事情により2年で転勤ということもあります。が、基本は3年で必ず転勤します。
因みに、私は今日までに十数回の引っ越しをしてきました。これからも定年退職するまで、転勤は続きます。そんなこと言って、定年間近になったら免除になって、希望の土地に住めるんじゃないの? と思う方もいるかもしれませんが、そんなおいしい、忖度的なことなど一切ありません。還暦直前の老体にも容赦なく転勤に伴う引っ越しという精神的・肉体的・金銭的負担は降りかかるのです。
なぜ今日このようなお話をしているかといいますと、とうとう、アレが決まってしまったからなのです。アレーーー。アレです、アレ。興味のない方が多いと思いますが……。ウイルス関連とオリンピック関連のニュースに隠れひっそりと(注:あくまでも筑後川敦の感受性によるものです)国家公務員定年延長の改正法が可決、成立したとネットに流れたのです。
とうとう、とうとう決まってしまった……。私はがっくりと床に膝をつく思いでしたが、部下達の前でそのような姿を見せるわけにはいきません。それに……、美花ちゃんの反応がこわかぁ……
私は駐屯地の門を通り家路を急ぎました。
私が帰宅しても予想に反して妻は料理に集中していて、定年延長のことを言ってきません。おかしいな、ネットはチェックするだろうから知らない筈はないんだが……
「あっちゃ、みかちゃ、みるみる、なぜなぜ」
きいちゃんが屈託なく言います。おーい。余計なことを言うなぁ。
「ほおら、きいちゃん、なでなで」
と言いながら、私はきいちゃんの小さな白いふわふわの頭を撫でました。
「もっともっと」
と調子にのるきいちゃんの頭をもう1回撫でてから、今度は先っぽだけ赤い嘴を、私の親指と人差し指でやんわり摘んでみます。ん? ん? ときいちゃんは黙ります。
基本ぬいぐるみなので動かないきいちゃん。喋るときも嘴は動きません。にも拘らず、上下の嘴を摘まんでやると喋れないとはどういうことだろうか? 嘴の内部に電気信号を送る構造が、…いやいや、今はそれを分析する時ではない。
私はきいちゃんの耳元(むむ、鳥の耳とはどの辺なのか?)へ口を寄せそっと囁きました。「きいちゃん、今日は大事なお話があるから、きいちゃんは黙ってること」
ーーその時です。私は背後に鋭い視線を感じ、ビクッと震えました。
振り返ると、美花が小さな体だけど、めちゃくちゃ姿勢正しく仁王立ちしているではありませんか。
「ちょっとぉ。何こそこそしてんのぉ⁈」
「わああっ!! びっくりするばいぃ」
「2人しかいないのに、びっくりしないでよぉ」
え? それちょっとおかしな理屈じゃないかと思いましたが、発言はしませんでした。もちろん。はい。
「きいちゃんもいるぅ~、きいちゃんもぉ~」
うっかり嘴から指を離していたので、きいちゃんは騒ぎ出します。やれやれ……。その時、
「テイネン エンチョー テイネン エンチョー」
口火を切ったのはきいちゃんでした。
「わわっ、き、きいちゃん、なぜ知ってる?」
「きいちゃん、ネットみた」
「お、おう、ネット見たのか、そうかぁ」
「テイネン エンチォー テイネン エンチョー」
きいちゃんが自分でパソコンをいじれるわけではないので、当然妻と一緒に見たということです。
いやはや……。きいちゃんは「テイネン テンチョー」を繰り返しています。何か楽しいイベントと勘違いしているのでしょう……
私の定年が60歳から65歳に延長されるということは、転勤が2回増える、つまり引っ越しが2回増えるということです。妻もきっと嘆いていることでしょう。
しかし妻は黙ったままです。さて、私はどんな言葉を発したらいいのか……。ここは、困ったときのきいちゃん頼み。アイコンタクトとしようと片目をつぶってみせようとしましたが、生まれてこのかたウインクなどという洒落た動作はしたことがないので、顔の筋肉をうまく動かすことができません。
きいちゃんはガラス玉のような目でじっと私を見つめます。なぜか、ピタリとお喋りをやめてしまったきいちゃん。おい、おーい……
すると妻が突然口を開きました。
「きいちゃん、あっちゃんに言いたいことがあるんじゃなかったっけ?」
妻は大袈裟にきいちゃんのガラス玉のような瞳を覗き込みます。すると、きいちゃんは嬉々としてこう言ったのです。
「あっちゃ、みかちゃ、きいちゃん、いっしょ、テンキン、いっしょ、エンチョー、いっしょ」
「き、きいちゃん……」
「3ニンいっしょ、テンキン エンチョー」
私は……、感動の渦に巻き込まれそうになりました。
「…きいちゃん、ありがとう、嬉しかぁ」
「あっちゃ、うれしか、よいよい」
「それを言うなら、よかよか、ばい」
「よかよか、ばいばい」
「あ、違う違う。よかよか、よかよか」
「よかよか、よかよか」
私が妻の方を見ますと、妻は弥生人のような静かな瞳でまっすぐに(実際の弥生人の瞳がどうだったかという検証など吹き飛ぶくらい)私を見つめているのです。わかってるばい。妻がきいちゃんに、3人一緒に定年延長のため増える転勤に伴う引っ越しを続けていくのだと、わかりやすく説明してくれたのでしょう。
「引っ越し2回分、古墳をいっぱい見れるって思うことにする」
「……」
「つき合ってね」
「よか」
その土地、その土地で、私達は付近の古墳を観てまわることになるでしょう。今現在は自粛生活が続いており、残念ながら実現できていませんが……
「せっかく西の都に住んでるのにぃ…」
と言いながら、『古墳女子』というガイドブックやこの土地の史跡案内等をよく眺めている妻なのでした。
(妻は元演劇人であり、今は古墳女子であるそうです)
転勤に帯同してくれるのなら、古墳見物につき合うくらいどうってことない、と思う転勤族であり引っ越しのプロ、筑後川敦なのでした。
