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【小説】ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ 第16話

第16話 卵を守るカラス、N国を守る自E官を襲う

 今日は土曜日です。夫はちゃんと休むことができました。時々ですが、午前中だけとか自主的に出勤するときもあるんですよ。でも、今日明日はちゃんと休めるようです。
 それで、何をしようかということになるのですが、今は遠出も出来ないので、よし、運動不足を反省してウォーキングをしようということになりました。私も夫も、まるで今からスポーツジムに行きます、という恰好に着替えます。とにかく楽でいいのです。
「どこぉ? どこいく? きいちゃんもきいちゃんも」
 きいちゃんが喋り出します。察しがいいなぁ。
「あのね、あたしとあっちゃん、近所をウォーキングするだけなんだよ」
「きんじょ? うぉーきん?」
「すぐ帰ってくるから」
 行ってきますと口々に言い、2人して玄関へ向かうと、きいちゃんが、
「みかちゃ、あっちゃ、とぶとぶ、いいないいな、きいちゃんもきいちゃんも」
 とテーブルの上から一生懸命に言ってきます。
「きいちゃんもとぶ、バサッ、バサバサバサ。みかちゃ、あっちゃ、バサバサバササ」
 私と夫は思わず顔を見合わせます。
「ねえ、きいちゃん、あたし達が飛べると思ってない?」
「そーばい」
「一緒に行って、外で飛びたいんだね」
「できんばい。どうする?」
「うーん。連れてってみる? でも、あたし達もきいちゃんも飛べないのがわかったら、がっかりしちゃうかな?」
「現実を知るのは早い方がよか」
「じゃあ、連れてく?」
「うーん、今日はやめとこう」
「あれ? 言ってること矛盾してない? めんどーなんでしょ」
 こそこそと話し合う私達へ向かって、動けないきいちゃんは喋り続けています。
 ああ、もお! 
 私はずんずんと数歩で戻れる部屋へ戻り、ショルダーバッグに入れてあった財布やらプチタオルやらスマホやらをリュックへ移し替え、テーブルの上のきいちゃんに近づきました。夫は玄関から黙って私のやることを見ています。きいちゃんがとても小さな声で、
「みかちゃ?」
 と言います。
 私はきいちゃんの、トキのぬいぐるみの赤い2本の足の方からリュックへ入れます。きいちゃんは、初めてのことなので、うむうむと声にならない声を出して……。サイズがちょっとどうかな? と思ったのですが、きいちゃんのぬいぐるみの体はちゃんとリュックの中に納まり、白い頭、小さな赤い顔だけがひょっこりと出ています。クククッ。かわいい。
 きいちゃんはびっくりしているのか、ガラス玉のような目をそのままに、何も喋りません。
「きいちゃん、行くよ」
 私はきいちゃんを入れたリュックを体の前で抱え玄関へ行きます。

「これで行こ」
 すでに靴を履いて玄関で待っていた夫は、かすかに笑みを浮かべています。元々笑顔の苦手な夫ですが、微妙な表情の変化が私にはわかるようになっています。そう、今の夫の表情はちょっと困ったような笑みなのでした。
 私の言葉に「うん」と返事した夫は、おもむろに私からリュックを取り上げます。
 え? 
 何をするのかと思ったら、素早くリュックのフタをきいちゃんの頭に被せ、リュックを背負うと、そのまま勢いよく缶車のドアを開け階段を駆け下りていったのですよ。
 え? え?
 夫の動きが素早くて、私もきいちゃんも声を出す暇もありません。私は鍵を取り出すのももどかしく、やっと取り出すと、あわてて扉の鍵を閉め、夫を追いかけます。だけど3階から一気に駆け下りるなんて、体育の授業が苦手だった私にはきつ過ぎでーーー
 階段を全部降り、地上に着きますが夫の姿はありません。缶車の敷地を後にし、道路へ出てみますと、ちょっと先の方にリュックを背負ったまま立っている夫の姿がありました。
「あっちゃーん」
 と呼びながら、私が夫の方へ向かって走ろうとすると、夫は「ダメダメ」と右手を振ってNGを表現します。
 しまった! まだ缶車が近い。職場関係の人に、「ちゃん」付けで呼んでいるのを聞かれないように、と結婚当初から言われているのを、私はすぐ忘れてしまうのですよ。
 私と夫は10分ほど歩いて、缶車から離れました。家々が並び、その間にポツンポツンとある空き地や小さな畑。この辺は最寄りの駅から遠くのどかなところなので、私達以外人は歩いていません。夫はリュックを背中から降ろし体の前側にもってきて、フタをめくります。すると、きいちゃんの白い頭、赤い顔が現れ、
「ぷはあぁぁ」
 と大きく息をしました。
「きいちゃん、ごめん」と夫が言い、
「きいちゃん、大丈夫?」と私が言うのが同時でした。
「ここどこぉ?」
 動けないきいちゃんは、リュックから赤い顔をのぞかせたまま言います。好奇心に満ちたかわいらしい男児の声で。私はたまらなくなって、夫からリュックを受け取って背中ではなく前側にし、肩紐を両肩に掛けました。それから、足踏みしながら時計回りに360度回って、きいちゃんにまわりの景色を見せたのです。
「わわわーー、きいちゃん、とぶ? あっちゃ、みかちゃ、とぶとぶ?」
 大興奮のきいちゃん。キャッキャと喜ぶきいちゃんをリュックに入れたまま、歩き出します。
「きいちゃん、お散歩するんだよ」
「おさんぽ?」
「こうやって歩くの」
 1歩、2歩、3歩、4歩、5、6、7、8、と足取りも軽く進みます。
 夫が掛け声を始めました。
「イチッ、イチッ、イチニッ。イチッ、イチッ、イチニッ」
 これは、夫の職場で行進するときの掛け声らしいのです。
 イチッ、イチッ、イチニッ
 イチッ、イチッ、イチニッ
 車も来ないので、私達は避ける必要もなく、リズムよく歩き続けます。きいちゃんも嬉しそう。
 そのうちに黄色い蝶が飛んできて、私達の前をふわりふわりと横切っていきます。
「とぶとぶぅ~」
 きいちゃんが自分で動けるのなら、きっと蝶を追いかけたいでしょう。私はきいちゃんをリュックに入れたまま蝶を追います。もちろん夫も私に歩調を合わせついてきます。
 そのうち蝶は畑のなかへふわりふわりと入っていきました。菜っ葉の花が咲いているからです。
「バイバイだね」と私が言いますと、
「バイ…バイ…」ときいちゃんも口真似します。
 きいちゃんは今日、バイバイすることを覚えたのでした。
 イチッ、イチッ、イチニッ
 イチッ、イチッ、イチニッ
 掛け声をかけて歩いていたのも少しの間。そのうちに、のんびりとマイペースで歩きます。
 それにしても、なんてのどかな休日なのでしょう。夫の顔も平日とはまるきり違います。
 こうして散歩を続け、私達は駐屯地沿いの道まで来ていました。フェンスはずっと向こうまで続いていて、その中は駐屯地です。私達が立っているところから、大きな木が何本か見えています。その下は草が刈られているのですが、小道がありそこだけは土がむき出しになっています。そして、その小道はフェンスの形の沿うようにずっと続いているようです。
「あの木にカラスの巣があって、ランニングしてると襲ってくるらしい」
 と夫が指差しました。私は、フェンスの向こう、大木の生い茂った葉のあたりをじっと見てみます。だけど、濃淡のある緑のかたまりにカラスの巣があるかどうかは、ちょっとわかりません……
 その時です。木の下の小道のようになっていることろを、私服のスポーツウエアに身を包んだ若い自E官が2人走ってくるのが見えました。そういえば、夕方や休日に、駐屯地のフェンスのなかをランニングする自E官をよく見かけます。常に体を鍛えているらしいのです。夫がそう言っていました。
 カカカカカカカカカアァァァーーー
 突然、激しく恐ろしい鳴き声が響きました。おそらくカラスの声です。
 はっとしてフェンスの向こう、大木の方を見上げますと、大きなカラスが木の上の方、緑の茂みの中から翼を広げ飛び出てきたのです。
 あ。自E官がやられちゃう!
 と思った瞬間には、さすが日頃からいろいろ訓練している彼らは、突然の敵(?)の攻撃にも冷静に猛ダッシュをかけたのです。は、速い……
 私がそれまでテレビ(オリンピックとか)ではなくリアルで見たことがあるどんな走りよりも速く、若い2人の自E官は猛烈な勢いで走り小さくなって行きます。カラスは少しだけ追いましたが、あまり巣から離れたくないのでしょう。空をUターンしてきます。
 夫の方を見ると、
「話はほんとだったんだなぁ、ははは」
 なんて言っています。胸のリュックのなかのきいちゃんを覗き込みますと、太陽の光のせいでしょうか、ガラス玉のような瞳がランランと輝いているようです。
「おおきハト、かっこいい、バサバサバサッ」
「きいちゃん、あれはハトじゃないの。カラス。カラスだよ」
 夫がきいちゃんの小さな頭をチョンとつつき、「なんでも鳩だなー、きいちゃんは」と言ったその時です。
「カラスゥ、おかえりー、こっちこっちぃ」
 きいちゃんの言葉にはっとした私と夫は、今まさに駐屯地のカラスが私達めがけて飛んでくるのに気づいたのです。や、やばい! 人間はフェンスを越えられませんが、カラスは自由自在です。
 カカカカカカカカカアァァァーーー
「きゃあああ」
 と叫んだのは私でした。それから、今までの人生で一番一生懸命走りました。夫も私に合わせ走っています。揺れるリュックのなかできいちゃんは、キャーキャー喜んでいてーーー
 角を曲がったところで、夫が「もう追ってこない」と言ったので、ゼイゼイ言いながら走るのをやめ、自然とトロトロ歩きで進みます……。歩かなきゃ缶車に帰れませんから……
 それにしても、私と夫のスポーツジムへ行くような恰好が、初めて役立ったように思われた出来事でした。

 突然ですが、☆次回予告☆
 今日はよく歩いて、よく走ってよかねぇ~。きいちゃんも初めて外出してよかねぇ~。焼酎うまかぁ~。
 おっと、皆さん、筑後川敦です。次回の『ある技官、その妻とトキのぬいぐるみ』では、いよいよ缶車の国旗当番についてお話します。どうぞお楽しみに。


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