古井戸のささやき
その古井戸は、千年も前からそこにありました。
苔むした石壁は森の記憶を吸い込み、底に溜まった水は、空の色を映す鏡となって。
ある夕暮れ、一人の娘が静かに膝をつきました。
何かを諦めたような、重い沈黙を連れて。
すると、水面が「ぷくり」と震え、穏やかな顔が浮かび上がったのです。
それは水そのものが形作った、不思議な貌でした。
『なにか こまったことは ないかい?』
娘は驚き、目を見開きました。
「あなたが……喋っているの?」
「喋るとも。私はこの土地の喉のようなものだからね。お前さんの溜息があまりに深くて、水底まで沈んできたものだから、つい声をかけてしまったよ」
古井戸は、ゆらゆらと顔を揺らしながら言いました。
「ねえ、井戸さん。私はもう、どこへ行けばいいのか分からないの。道が全部、消えてしまったみたいで」
娘の瞳から、一粒の涙が零れ落ち、水面の「顔」の頬を叩きました。
「おや、温かい雨だね。……いいかい、娘さん。私はここでずっと動かずにいるが、不思議と退屈はしない。空が流れ、鳥が渡り、お前さんのような旅人が訪れる。皆、自分の影を私の水に落としていくんだ」
古井戸は、慈しむように目を細めました。
「お前さんが『道が消えた』と思うのは、今、自分の足元しか見ていないからだよ。少し顔を上げてごらん。私の水面に、何が映っている?」
娘が言われるままに覗き込むと、そこには水面の顔の背景に、鮮やかな夕焼けと、今にも動き出しそうな一番星が映り込んでいました。
「……空だわ。とても広い、空」
「そう。道は地面にあるだけじゃない。鳥には鳥の道があり、風には風の通り道がある。そして星には、暗闇を導く光の筋があるんだ。お前さんが今日、ここに辿り着いたのも、一筋の導きがあったからじゃないのかい?」
古井戸がそう言うと、傍らに掲げられた木札の文字が、夕日に照らされて黄金色に輝きました。
『なにか こまったことは ないかい?』
「井戸さん、ありがとう。少しだけ、胸のつかえが取れた気がするわ」
「それはよかった。もしまた、心が泥で濁ってしまったら、いつでもおいで。私の水で、その影を洗ってあげよう。……私は動けないがね、待つことだけは得意なんだ」
古井戸は満足そうに口角を上げると、ふっと形を崩し、元の静かな水面へと戻っていきました。
娘が立ち上がった時、森を抜ける風が彼女の背中を優しく押しました。
足元には、先ほどまで見えていなかった、草を分ける細い道が、確かに続いていたのです。
古井戸の声は、深い洞窟の奥で響く鐘の音のように、娘の足元から響いてきました。

#3つのお題に空想のひらめきを
#片桐みかんさん企画
#話すことの出来る古い井戸
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